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喫茶店で見た夢

 「もし君が笑っているなら」

 とそいつは言う。そこは喫茶店だ。僕はさっきからそいつの無駄話に付き合っていた。

 「それは君が嘘をついている時だ」

 そいつは、この暑い中、黒いコートを着て喫茶店の端の席に座ってた。僕は最初、その事をそいつに指摘したらそいつは「僕はちょっと感覚器官がおかしくてね」と言っていた。しかし、それが本当かどうかだってわからない。

 「そうは思わないけどね」

 と僕は返した。僕はそいつと、そんなつまらない話を一時間以上もしていた。馬鹿げた話だ。

 「例えば、笑いというのが精神にとっての新陳代謝となる事はありうる。君もそう思うだろう? 人間にとって笑いというのは涙と同じくらい必要だ」

 「ほう…」

 とそいつーー名前は七尾ーー七尾は言った。七尾はもうすっかり空になったコーヒーカップに入ったスプーンをこれみよがしにぐるぐるかき混ぜてみせた。それはなんというか、演劇的な仕草だった。僕は、嫌な気持ちがした。

 「ところで、君は泣いた事があるのか?」

 と七尾は言う。僕はそいつの風貌なんかにグロテスクな、何かしら嫌なものを感じてきたが、その感覚はそいつが喋るたびによりはっきりとしてくるような印象を持った。

 「泣いた事が? …ふざけるな。いつだって僕は泣いている。いつだって泣いているんだよ、僕は。人は僕の事を冷血漢だと思っているらしいけど」

 「ふうん? どうして人は君を冷血漢だと思うんだ?」

 「だって、それは…」

 そこで僕は行き詰まる。こいつに本当の事を言っていいのだろうか? そんな問いが頭の中によぎったが、僕はすぐに、ええい、もう言ってしまえ、という気分になった。

 「つまり、それはこういう事さ。例えば、僕が怒っている表情をすれば人は僕が怒りっぽい人間だと捉える。あるいは僕がセンチメンタルな感情を吐露すれば、実際人は僕をセンチメンタルな人間だと思う。要するに、世界の中の何もかもが演技として、演劇として成り立っている。だから、この世界ではうまく演技をした奴が一等賞を取る事になっている。そうではないだろうか? …あるいは、そうではないかもしれない。しかしね、僕には自信があるよ。もし、僕が本気で演技をし始めれば、全てのものを手に入れる事ができる。そういう自信がある。本当にその時、僕はこの世の何もかもを手に入れる事ができるだろう。金、名誉、女、なんでもごされだ」

 「ふうん」

 と七尾は言う。その言葉は僕の言葉に全く反応していないみたいだ。

 「だったら、君はどうしてそれをしないんだ?」

 と七尾は言った。まあ、それは、もっともな質問だろう、と僕は考えた。だから、

 「たしかにな」

 と僕は言った。そしてしばしの沈黙。そいでまた、僕は口を開いた。

 「だからさ、僕が人々から冷血漢だと思われているのも、そこらに原因があるのさ。つまり、演技をする事が、怒っている振りをする事が本当に怒っているという事になるのなら、こんな芝居バカバカしくてやっていられないなと思ったからさ。世界の中で演技する事に僕はもう随分と疲れたし、疲労物質がかなりたまっている」

 「君の話はわかりにくいな」

 七尾は天井の空調を見ながら言った。……どうも。

 「そんなんじゃ、人とコミュニケーションが取りづらいだろう?」

 「コミュニケーション? そんなものはありはしない。誰も彼もが、あまりにも自分の世界に閉じこもっているので、コミュニケーションなんてものが成り立っていると思い込んでいるだけさ。もし本当に人とコミュニケーションを取りたいと思い始めたら、その時、全ての人間は自室に閉じこもって自分の膝を見つめる事になるだろう」

 「そうかもしれないな」

 と七尾はぽつりと言った。それは自分の言葉の感触を確かめるかのようだった。

 「…そうかもしれない。だけど、君は大切な事を忘れているようだな。もし、この世界が演技だとしても、一体どこに、演技の外側、つまり本質なんてものがあるのかね? 君はその事を常に勘違いしている。あるいは、勘違いしてきた。君はチューリングテストという発想をしているか?」

 「知っているよ」

 と僕は答えた。実際には半分くらいしか知らなかったけど。

 「チューリングテストというのはつまり一言で言うと…この世界に本質なんてものはないという事だ。僕の言葉で言えばね。君が、本質だと思い込んでいるのは、人々が事実と思い込んでいるもののもう少し奥にある別の形での事実にすぎない。…君は自分が賢いとうぬぼれているのか?」

 「うぬぼれている? 僕にとって、それは事実として存在している」

 「だとすると、君は人々より『賢い』のか?」

 「僕は人々より賢いのではない。人々よりももう一段奥に自分というものがある。それを自分で感じているだけだ」

 「だとすると、それは『賢い』と言うのではないか?」

 「…そうかもしれない」

 僕と七尾の言葉をそこで途切れた。僕はだんだんと、自分がふざけた、嫌らしい、にやけた人物になっているような気がしてきていた。あるいは実際にそうだったかもしれない。

 「…例えば」

 と僕はまた話を切り出した。喫茶店の外では、人々が何かの用事に向かって忙しそうに足を動かしていた。皆、どこへいくのやら。

 「僕が世界から冷血漢だと思われている事について、一体、君はどう思う? …僕はもう自殺しようと思っているよ。こんな世界にうんざりしているからね」

 「どの世界だ?」

 と七尾は言う。

 「君はどの世界の事を言っている? この世界には、この世界以外存在しない。君はあの世を信じているのか? それとも前世があるとでも。あるいは宇宙の果てのその外側にまた別の世界があるのだと? 君…わかるか? この世界に生きている僕達にとって、この世界以外の何もないという事がどういう事か。それは、この世界の『この』を特定できないという事なのだ。何故なら全てが『この』世界だからだ」

 「ウィトゲンシュタインか?」

 と僕は言った。そんな話をウィトゲンシュタイン関連で聞いた事がある気がしたからだ。

 「そんな哲学なんて今はどうでもいいんだよ。論理学なんてくそくらえだ。僕は今生きている自分について語っているんだよ。僕はこの世界に全くもってうんざりしている。だから、カントの真空の鳩みたいに、世界の外に飛び立って…ああ、くそ! また哲学だ! 哲学なんてくそくらえなのに」

 僕はそう言うと、椅子の背もたれにどっと体をもたせかけた。七尾との会話にはかなり神経を使うらしい。話している内に、かなり疲労を感じてきた。

 「あのねえ、もう哲学なんてくそくらえなんだよ。ブッダだかだれかが、死ねば、その人をその人を認識する基準そのものが失われると言っていたらしいが、確かに、それは間違いない。二千年以上前の賢者がそういう正しい事を言ってるのは確かに認める。しかし、だからと言って、そういう真理が僕が「死にたい」と思うその形式をなだめすかし、納得させるかどうかとは別の事だ。正しいかどうかなんて、そんな事は皆が言うほどに大した問題じゃないと僕は思うね。…そうだよ。ウィトゲンシュタインなら、「死は人生のできごとではない」と言っただろうけどね。もちろん、それも正しい事実だ。しかしね、だからと言って、それが僕がもう何もかもにうんざりしているという気持ちをなだめすかすかどうかとは…」

 「ウィトゲンシュタインは」 

 と七尾は割り込んで喋ってきた。…ったく。

 「ウィトゲンシュタインは自殺願望があったな。兄弟が三人くらい自殺で死んでいる。あの人は大変な人だよ。君なんかよりも、はるかに強い自殺願望を持っていた。それについてはどう思う?」

 「それはウィトゲンシュタインの勝手で…それは僕の自殺願望とは違うし…そうだ、それに関してはウィトゲンシュタイン自身が言っている。それぞれの論理空間はお互いに抵触する事はない。つまり、独我論は正しいって事だ。どいつもこいつも、自分の井戸の底で眠りこけているんだよ。いつ目覚める事やら」

 僕はそう言うと、また窓の外を見た。窓の外はどうやら、暗くなってきているようだった。人の数も少し減っていた。

 「…はあ」

 と七尾は呆れたように言った。そして、次のように言った。

 「それが君の限界だな。君には想像力がない。もっとも、君は中途半端な想像力を持っているから不幸なのかもしれん。君には過剰な虚栄心がある。それ自体はそれほど悪い事ではない。だが、君は自分が他人に認められていないと思っている。これは由々しき事態だ。何故って、人は、永遠に君が思っているように君を認めるという事がないからだ。なぜなら、人は誰かを認める事を基本的にしない。信仰の対象にしたり、愛情の対象にしたり、軽蔑の対象にしたりはする。尊敬の対象にもするかもしれない。だがな、君を、君が思っているように認めくれる他人などどこにもいない。君は結局、もう一人の自分自身を世界の中に繁茂させ、そいつらに自分を認めてもらいたがっている。しかしね、君のあまのじゃくではそれも無理な事だろう。なぜって、君は、君が認められた瞬間に『自分はこれじゃない! 本当の自分はこれじゃない!』と叫んでどこかに逃げ出すからだ。それが君の本性、君の本体だ。君はこの先、自殺する事はないだろうし、生に満足する事もないだろう。君は死と生の狭間に立たされて、永遠に、不満と不屈の中でうろうろとしている事だろう。それが君の本質だ。そして君は自分が真に満足できそうなもの、異性とか、芸術とか、なんでもいい…そういうものに出会うと、君はとたんに、それに全てを支配される事を恐れて、それから逃げ出すだろう。君の過去はそういうものではなかったか?

 だから、僕は予言しておくよ。君はこの先も、「自殺したい、うんざりする」とうめきつつも、ずっと変わらないってね。君の中では時間というものはない。君の意識はずっとこのままだ。君がぞっとするほどの老齢になったとしてもね。まあ、そんなところが君の現状だよ。ところで、僕はもう行くよ。…もちろん、お代はここに置いておく。君はケチだからね。ほうら、僕が端数の金を出しといてやるよ。これで君は四十二円分『得』をしただろう? それじゃあな。僕はもう行くよ。では、また会う日まで」

 そう言うと七尾はさっと立ち上がって出て行った。僕は呆然としながら、そいつの後ろ姿を見送った。なんだろう、こいつは言いたい事ばかり言いやがって…。なんて野郎だ…。

 七尾は喫茶店のドアをカランカランと開けて出て行った。しかし何故かそのカランカランという音は妙な具合に僕の耳に響いた。その音は何かしら、人工的な偽物臭い音に聞こえた。その時、僕はふいに自分の存在、というか、あり方に疑問を持った。これは本当だろうか?…なぜだかそんな気がした。

 そして丁度その時、誰かが僕に声をかけるのを聞いた。「お客様、お客様…」それは誰かの声だった。僕は体がゆさぶられるのを感じて、目を覚ました。

 僕は目を覚ました。そこは夢の中の喫茶店と全く同じ場所だった。目の前には若い男の店員がいた。店員は僕の目を見て

 「お客様。申し訳ありませんが、あと五分で閉店ですので…。このままお休みになられると困るので、起こししました。当店、閉店時間は九時までですので、お会計の方をお願いします」

 そう言うと店員は、また奥の方に戻っていった。僕はテーブルから上半身を起こし、回りを見た。店内には僕一人しかいなかった。窓の外はもうすっかり暗くなっていた。テーブルには、僕の分のコーヒーカップしかなかった。七尾なんて男は存在しなかったのだ。

 僕は眠い目をこすりながら立ち上がり、レジの所に行き、コーヒー代を払った。店員に一応あやまったが、店員は「お気になさらず」と言っただけだった。僕は外に出た。外に出ると、街は存在していた。この世界は、不思議な事に存在していた。あるいは、それは不思議な事でもなんでもないのかもしれないが。

 僕は駅までの道を歩きながら、七尾という男について考えていた。(自分の中のどこからあんな男が出てきたのだろう?) 僕はその答えを見つけられなかった。知り合いの中にはあんな人間はいない。僕は夢の中のそいつが、僕のどこから出てきたのかわからなかった。

 自分のアパートの最寄り駅まで電車に揺られてつくと、僕は駅を降りて帰路をたどりはじめた。そしてその時、丁度雨が降ってきた。雨は次第に強く降ってきて、傘を持たない僕をずぶ濡れにした。

 しかし、その雨は僕に現実とは何かを思い出させてくれたようだった。僕は雨に打たれながら、「ああ、これが現実だ、この感覚が」なんて事をひとりでつぶやいていた。傘を持った行き交う人々は、ずぶ濡れの僕をちらりと見ると、すぐ目線を逸らした。しかし、僕は傘の下では永遠に出会えない現実に、雨に濡れるという行為によって直に接触できたような気がした。


 しかし、そんな事を思っていたのもその時だけの事だった。僕は翌日には風邪を引いた。僕は大学の授業を休み、家で横になって寝ていた。僕は熱のある体で、熱がある時によく見る嫌な夢を見た。

 そしてその夢から覚めた時、僕は、夢に七尾が出てこなかった事を少しさみしく思った。そして自分の深層ではああいう話し相手を欲している事に気づいた。現実にはあんな事が話せる相手は僕にはいない。

 やがて風邪は癒えて、僕はまた大学に普段通り顔を出すようになった。体が治るにつれて、七尾の事は忘れていった。しかし、僕は学校では空虚な話ばかりしている。…だとすると、いや、もうこれ以上やめておこう。

 あの人物は夢の中で僕に偉そうな説教ばかりしていた。だから、あいつは嫌な奴だ。今はもうそう思う事にしている。そして僕は現実の中に戻っていった。

 しかし、現実もやはり夢と同じで、朦朧としていた。人々にはその朦朧さが見えないようだったが、僕にはその朦朧さがはっきりと見て取れるような気がした。しかし、あの日、喫茶店で見た夢をその後、僕が思い出す事はなかった。夢は現実に溶け込んだ。そうして、全ては現実となった。奇跡は、神秘は、夢は存在しない。

 

 そういうことだ。…おそらく、そういうことなのだろう。今日も僕は、いつも通り学校へ行く。仲間達と空虚なおしゃべりをしに。

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