柏木葉都子〈終〉
「久遠寺朋花のことよ」
なつきは面倒くさそうにそう言うと、あたしが最後まで取っておいたウィンナーを掠め取り、ひょいと自分の口に放り込んだ。
「やりやがったな」
楽しみにしていたのに。
「あんたがとっとと食べないのが悪い。大事なもんってのはね、自分の懐に入れた方が一番守れんのよ」
「あんたが入れたのは懐じゃなくて胃でしょ! 吐けよ、おい吐けよ」
最後のウィンナーだったのに、となつきの胸元を掴み激しく揺らしてやった。
「や、やめろ、本当にゲロる」
「やかましい、親の仇じゃ!」
そのまま一分ほど揺さぶってやった。でもウィンナーは帰ってこなかった。
「ほ、本気で吐かせようとするな。恐ろしい女だよ」
食い物の恨み怖いのじゃ。よう覚えとけ。
「……んで朋花がどうしたって?」
「だから、あんた友達なんでしょう」
友達だ。確かに。まだまだ短い付き合いだけど、気は合う。クラスは違うが部活は一緒だ。文芸部。
そこで仲良くなった。
まあ。
あんまり喋ることはないのだけれど。
「仲が良いのに喋んないのかい」
「仲の良さを決めるのは喋った回数じゃないよ」
「でも気が合うんでしょ。喋んないのに気はわかるの?」
「わかる。気ってのは目で見るものじゃない。耳で聴くものでもない」
「じゃあどうすんのよ」
肌で。
「そう、肌で感ずるものなのさ!」
馬鹿が、と吐き捨てられた。
「まあ気だか空気だか知らないけどね、それは置いといて、あんたが久遠寺さんの友達なら知っているでしょう」
怪我のこと――となつきは真剣な表情で言う。
怪我。
怪我って何だ。
「知らない」
そう答えた。
何の話かわからない。
「知らないって。嘘でしょう、あんた本当に知らないの?」
「本当に知らないよ。何、朋花怪我したの?」
なつきは何だか唖然としている。そんなに意外なことだっただろうか。
怪我、か。
「怪我って何よ。朋花どうしたの? どっかを怪我したの?」
「だからさっきからそう言ってるじゃん。本当に知らなかったのね。呆れた」
呆れられても困るけど、まあ本当に知らなかったのだ。
「友達失格ね」
本当に。
でも正直。
どうでも良いことにも思った。
「……どこ怪我したの」
「左腕とあばら骨二本にヒビよ」
「大怪我じゃん」
「大怪我よ」
知らなかった。
「でも昨日会ったけど、そんな様子じゃなかったよ」
昨日は部活で会った。でもその時の朋花の様子はいつもと同じように見えた。大人しく控えめで、陰の薄い朋花。昨日はほとんど喋っていないけど、でも昨日は――。
「怪我したのは冬休み中よ」
冬休み、か。
一月以上経つ。
ならばもう傷は癒えているのかも知れない。
そっか、と答えた。冬休みは朋花とは会っていない。普段から連絡を取り合うこともしないから、朋花がどこで何をしているのかなんて知らない。
「それだけなの?」
なつきは何だか不服そうである。
「それだけって、何?」
「何、じゃないよ。あんた友達なんでしょう?」
そう。
確かに友達だ。
「友達が大怪我したっていうのに、あんた重要なところは聞かないの?」
「重要なところ――」
とは何だろう。思い付かない。何か他にこの話を続ける意味があっただろうか。
わからない。
何だか視界がぼやけてきた。
昼の喧騒。談笑する音。笑顔が並ぶ教室。
なつきの声。なつきの顔。
みんな。
ぼやけて――。
ああ。
この感覚はいつぞや見た夢と同じだ。
ぐにゃぐにゃしたあの夢と。
何だろう。目眩だろうか。そう言えばここのところ貧血気味なのだ。
ぐにゃり、ぐにゃりと。
体が溶ける奇妙な感覚。神経が麻痺して、どこが腕だか足だかわからなくなる。
「あんた」
なつきの冷たい声に覚まされる。目眩は治まり視界も元に戻る。
「友達なら、まずは心配しなさいよ。もう傷は確かに癒えているけど、それでも心配してあげなさいよ。昨日は善くても今日は悪くなるかも知れないじゃない。まだ痛いかも知れない。何か不自由があるかも知れない。困っているかも知れない。だから自分が何か出来ることはないか。友達ならね、まずはそういうことを考えなさい」
なつきの口調はひどく厳しい。
「それにね。そういうことを考えたあとは」
一体“何があったのか”を尋ねるもんでしょう――。
「何が――」
あったかなんて。
聞く必要なんてない。
だってあたしは――。
「まあプライベートなことだし、あんまり聞いちゃいけないことだってあるけどさ。友達なら」
――みんなひっくるめて心配してあげなよ。
あたしは。
「まあ良いわ。本当は色々聞きたいことがあったけど、自分で何とかするわ」
「何とかって、どうするの」
「うるさい。もうあんたは深く考えないでいい」
なつきはそう言うと広げたお弁当箱を畳んで席を立つ。
「……やっぱり面倒なことが起きたわね」
面倒なこと、か。そうなのだろうか。よくわからない。
――どうでも良い。
あたしはもうあたしじゃないから。
あたしは。
あの、ぐにゃぐにゃとした。
形のない。
悪魔の子供〈リリン〉らしいから。
なつきは立ち去り際に、
「バカヤロウ」
と吐き捨てて、そして、ごちそうさまとつけ加えた。
お粗末さまでした。
あたしはお弁当箱もしまわずに。
そのまま眠りに落ちた。