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柏木葉都子〈始〉



 冬の朝は気だるくて仕方ない。

 いくら寝ても寝覚めが悪い。寒さのせいか朝日が遠いせいかは知らないけれど。

 毎朝毎朝眠気と格闘する日々が続く。

 早く。

 冬休みがくれば良いのに。

 もういくつ寝ると。

 冬休み?

 そんなぼやけたことを考えている内にまた微睡んでしまう。

 あと五分はいけるだろうか。

 時計を確認するのもしんどい。体が動かない。動かすのが面倒くさい。動けばこの心地好さが苦痛に変わる。

 それは。

 嫌だ。

 いつまでも微睡んでいたい。ぬくもりがあたしを抱いている。己の体温に包まれたこの布団の中で一生を終えてもいい。

 絶対的な安らぎ。

 新たな母胎。

 あたしは布団の中で赤子に還る。

 膝を抱えて丸まって。息を殺して気配を消して。あたしはあたしを溶かす。

 暗闇。

 何も見えない瞼の裏の宇宙。

 あたしはあたしの中のあたしという宇宙をさ迷う。

 暗くて昏くて暖かい。

 大いなる闇。

 死ぬっていうのはこんな感じだろうか。

 ただただ暗くて。ただただ暖かい。意識は徐々に薄れて、果てのない闇に溶けていく。あたしという個体が闇になる。

 そうなら。

 とても心地好いものだ。

 死んだことがないから。

 知らないけれど。

 完全に、微睡んだ。

 夢を見た。

 胎児になる前。形がない時のあたしの夢。

 形のないあたしは液体のようにぐにゃりぐにゃりと姿を変えて伸びたり縮んだりする。時には膨らみ時には球形になり、ただただふわりと浮いていた。

 どこを浮いていたのかはわからない。白い空間だった気もするし黒い空間だった気もする。はたまた宇宙かそれとも海か。

 わからないけど。

 あたしはどことも知れぬ場所でふわりふわりと浮いていた。浮遊だか遊泳だか知らないけど、とにかく。

 心地好かった。

 生きているのか死んでいるのかもわからない。ただ生まれる前のことだ、という認識だけはある。

 ならば死んでいるのか。

 いや死ぬにはまず生きなければならないから、死んでいるという状態ではないのかも知れない。ならば。

 無、だろうか。

 何もない。生も死も。父も母もいない。あたしもいない。世界にいない。

 そんな時なのかも知れない。

 そう思えば思うほど視界が曇っていった。暗いわけじゃない。ぼやけているわけでもない。それでも徐々に。

 徐々に見えなくなる。

 嫌だ、と思った。本当は叫びたかったけど、まだ声帯もないあたしには思うことだけで精一杯だ。

 嫌だ嫌だ嫌だ、と。思えば思うほど、また曇っていく。あたしの意識なんてものもあるはずないのに。

 ただ、ぐにゃりぐにゃりとうねる感触はあった。気持ちが悪いとか不気味だとかは思わない。むしろ心地好い。よくわからない空間でひたすらに動いた。本当に動いているのかはわからないけど。

 もう見えない。

 何も見えない。

 ただぐにゃりと動く。ただただ動く。浮遊する。遊泳する。ずっとずっと。このまま――。

 あたしは世界になる。

 どこか知らない世界に融合する。

 溶けるように蕩けるように。


「起きなさい」


 その柔らかな声に呼び覚まされた。

 目を開く。

 まだ何も見えない。

 闇だ。

 真っ黒な闇。

 その闇が。

 一瞬で払われる。

 闇の世界にいっぱいの光が注ぐ。眩しいほどに。

 そして冷たい空気が体を痛め付けた。

 布団がなかった。


「起きなさい。遅刻する」


 母が見えた。

 あたしは一気に覚醒する。


「今何時!」


「八時」


 やってしまった。寝坊も寝坊である。勢いをつけて飛び起きた。母の溜め息が耳を掠める。構っちゃいられない。どうせ次の句は小言だ。もう聞き飽きた。

 ベッドから下りようとした瞬間。

 ――ダメだ足がない。

 なぜかそう思って体勢を崩した。床に転がる。


「落ち着きなさい」


 母がたしなめる。

 だって。

 あたしには足が。


「足がないんだもん」


 確認する。足は確り二つついていた。腕もある。胴も頭も目だってある。

 当然だ。

 あれは夢なのだから。

 途端に恥ずかしくなった。

 ――もう十六なのに。

 何をやっているんだ。

 母は床に転がり呆けているあたしに一瞥くれて、


「朝ごはん食べてる時間はないよ」


 と冷たい言葉を残し部屋を後にした。

 そのようですね。

 またやらかした。

 高校生になって何度目の寝坊だろう。すでに数えきれない。

 あたしは取り合えず急いで制服に着替え洗面所へ向かった。

 顔を洗う。

 もう眠気はない。

 鏡には浮腫んだ顔のいつものあたしが映っている。

 あたしはあたしである。あんなぐにゃぐにゃしたものじゃない。

 でも不思議な夢だと思う。

 あれは何だったのだろうか。本当に生まれる前のあたしなのか。

 馬鹿馬鹿しい、とは思う。

 だけど。

 あの夢で感じた心地好さがまだ感覚として残っている気がして、気分は悪くはなかった。

 帯を整える。

 見慣れたあたし。

 もしあれが生まれる前ならば。

 あたしは二度目の生を授かったのだろうか。

 ――馬鹿馬鹿しい。本当に。

 鞄とお弁当を持ってそそくさと家を出た。走らないと間に合わない。髪が乱れようが着衣は乱れようが構わない。というかそんなこと言っている場合じゃない。

 駆ける。

 寒い。

 冬だ。

 無情な冷気がびしばしと頬を叩く。

 でもとりあえず駆ける。遅刻常習犯のレッテルは貼られたくない。いやもう貼られてると思うけども。

 見慣れた景色が過ぎる。

 見慣れない光景が見えた。


「あれ、なつき?」


 あたしの少し前方をあたしと同じ制服を着てあたしと同じく駆ける人影一つ。

 あれは。

 渥美〈あつみ〉なつきだ。

 追い付く。なつきは一生懸命走っているつもりだろうけど、遅い。というか絶対走り慣れていない。


「おおい、なつき! あたしだ、わかるか!」


「黙れ遅刻魔。わたしゃ急いでるんだよ。話し掛けんな」


 なつきは振り向きもせずに全力疾走を続ける。

 でも遅い。追い越す。


「珍しいじゃない、あんたが遅刻ってのもさ!」


 ピタリと止まってくるりと反転する。無視されると思ったが、意外にもなつきは足を止めていた。

 いや。

 息切れしている。足を止め俯き、ぜえぜえと苦しそうな吐息をアスファルトに落としている。


「運動不足」


「……うるさい。てか運動部でもないあんたのスタミナに負けるなんて……」


 ぜえぜえ。

 ちなみにあたしは文芸部である。そういうと大抵の人間が意外そうな顔をする。

 スポーツマンに見えるだろうか。

 いや。

 がさつに思われているだけなのかも知れない。


「なつきも運動部じゃないじゃん。何、自信あったの?」


「自信は――ええ、あったよ。あったわよ」


「どっから来たの、その自信。てか慢心。あんた運動神経もないじゃん」


 ――黙れ、と一喝。なつきは顔を上げる。その表情に余裕は見えない。


「わたしはプライベートが忙しいのよ」


「関係あるの?」


「大有り。大忙しよ。あんた見たいに毎日毎日ぐうたらしていないの。昨日だってあの女〈ひと〉に散々振り回されて――」


 なつきはそこで言葉を切って頭を振った。


「何でもないわ。とにかく最近は寝る暇もないくらい駆け回っているの」


「大変そうだね。何してるか知らないど。それで今日は遅刻?」


 そうよ――となつきは面倒くさそうに返す。そしてその場で深呼吸すると至極気だるそうに歩き始める。もう走る体力は残っていないらしい。

 あたしもなつきに合わせる。


「……遅刻するよ」


「良いや、今日はもう」


 何だか面倒になった。規則を守ったり常識を考えたりすることが。

 あたしは。

 自由なぐにゃぐにゃなのだ。

 そういうとなつきは不思議そうな顔をした。だけど追求することはない。他人の事情に深入りしたがらない性質なのだ。

 随分前から。

 そうだ。

 小さな時はどうだっただろう。なつきとは物心がついた時にはもう――多分――友人だったし、まあそれ以前のことは知らないけど、でも小学生の時分はそういう性格ではなかった。なかった気がする。

 なら。

 中学以降だろうか。

 よくわからない。

 幼馴染みだけど、よくわからない。知っているけど知らない。

 そんな、関係だ。


「……あんた、学校以外では何しているの?」


 初めて聞いたかも知れない。その部分は、その部分だけは、聞いてはいけない気がしていたから。

 なつきは黙っていた。黙って歩く。もはや遅刻は確定だろう。

 どうでも、良いや。

 校門が見えた。さすがに誰もいない。閑寂な空気。

 いや冷たい冬の。

 空気。

 冬は気だるい。眠い。まだ眠っていたい。

 ぐにゃりとしたあの夢を。

 ずっとずっと見ていたい。

 校門を潜る瞬間、なつきがピタリと足を止めた。

 ゆっくりと振り返る。


「……あんたはあんまり深く考えない方が良い。深く考えれば考えるほど」


 ――夜闇に魅入られる。

 なつきの表情は今まで見たことがないほど険しかった。

 いや哀しそうなのか。


「まあ、あんたは単純だから心配要らないだろうけど。でも、あんたが良くても」


 なつきはそこで校舎に向き直る。

 閑寂。静寂。

 でもあの箱の内側には沢山の鼓動がひしめき合っている。

 うるさいほどに。


「途方もないわ。幽かな心配りも麻痺しちゃうくらいに。まあ、わたしごときがいくら心身削ってもどうしようもないことではあるけどね。でも――でもさ、願わくは」


 ――あの女が“断たなければいけないほどの罪”が発露しませんように。

 なつきは誰に言うでもなくそういって、校門を潜った。そのまま暫くなつきの背を見つめていたけど。

 なつきは。

 二度と振り返ることはなかった。

 至極気だるい、いつかの冬の朝のこと。


 

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