来海冴〈始〉
冬の気配がする。
暦の上ではもう初冬なのだから当然かも知れないが。
乾いた空気の匂い。葉を濡らす朝露の輝き。澄んだ視界。響く喧騒。
冬の気配。
しばらくぬらりくらりと歩いた。それほど時間はないのだけれど。
途中途中足を止めて辺りを意味なく見渡したり、振り返ったり、空を見上げたりした。
夏とは違う。
どこがどうとは言えないけれど、目に映る見慣れた町並みは、夏の景色とは随分違っていた。
碧の違いか光量の違いか。まあどちらもだろう。気温だって湿度だって全然違うのだ。繁った葉も落ちるだろうし、陽の光だって夏より遠い。ならば当然、景色だって違うものになるだろう。
そんなことはわかっているが。
ただもっと曖昧な何かが違うように思えた。
それが何かはわからないけれど。
ゆるゆると迫る冬の気配に。
何か。
厭なものを感じた。
「おはよう、冴〈さえ〉」
振り返る。
いつもと変わらぬ呆け顔の忽那瑞希〈くつなみずき〉がそこにいた。
おはようと返した。
「今日は寒いね」
瑞希は手を合わせ忙しなく擦りながら首をすくめている。
「寒いよ」
だって冬が――。
肩を並べて歩いた。瑞希も急ぐ様子はない。遅刻する時間ではないが、まあぎりぎりだろうか。
田畑に挟まれた細い道を行く。夏は碧が香る道。今日は何も匂わない。朝の匂いだけ。
ゆるゆると歩いた。
ふと瑞希の鞄に目が向いた。
「今日はまた随分と膨れているね。また安斎さんの趣味趣向?」
――そうそう。と瑞希は渋い顔をする。
安斎とは私が所属する文芸部の部長である。一風変わった人間だが嫌いではない。ただ瑞希はどうだろう。彼女も同じく文芸部に所属している同胞ではあるが、よく雑用を引き受けているようだ。
いや頼まれているのか。毎度資料集めには骨を折っているようだ。
瑞希以外にも私を含め一年生は何人かいるが、安斎の雑用をこなしているのは瑞希だけのようだ。
気に入られている、と言えばそうなのだろうが、どうなのだろう。
確かに瑞希は親しみ易い人間ではある。誠実かつ温厚。顔も体型も小動物的で愛嬌もある。まあ動作はぬらりくらりとしていてマイペースなところもあるが、根は真面目なので憎めない。
何より。
優しい。
瑞希は、他人の気持ちを理解しようと努力する人間だ。
他人のことなど絶対にわからないのに。
人間の感情など定規では計れない。それほどに複雑だとかそういうことではない。
心というのは。
有って無いようなものだから。
つまり曖昧なものである。存在不確かなものなど計ることなど出来ない。出来ようはずもない。
朝好きなものが夜には嫌いになることだってある。
いい加減なのだ。
心なんてものは。
計ることなど出来ないし意味もない。理解など出来ない。
ほんの僅かでも理解出来たと感じたとしても、それはただの勘違いである。ただ自分という物差しを使って、その物差しの目盛りである己の価値観だの体験だので推し量っているだけに過ぎない。
その物差し自体も曖昧なものだと気づかずに。
そんなのはただの阿呆の考え知らずで、私が何より軽蔑する行いだ。
別に推し量ることは良い。この人はこういう人間だとある程度断定するのも良い。
でも。
自分の物差しも。計る相手のソレも。
朝と夜の間に変化するかも知れないほど曖昧で、妖しくて、そして“幽か”なものなのだと理解しなくてはいけない。
そこを弁えず他人のことを単純的に理解し騙る阿呆が。
嫌いなのだ。
瑞希は分を弁えている。
彼女は他人の気持ちを理解しようと努力するだけだから。
理解出来ないことを知っている。
知っているのに努力をする。無駄だとわかっていても思考する。
そういう人間を。
私は“優しい人”と断定している。
だから私も。
瑞希が好きだ。
でも瑞希はどうだろう。他人に好かれる人間と他人を好く人間はイコールにならない。なるわけがない。
もしかしたら瑞希の方は。
甚だ迷惑に思っているのではないだろうか。
安斎のことも。
私の――ことも。
いや考えても無駄なことである。
たとえ瑞希がそうは思っていなくても、所詮心の話。朝と夜の短い間にも変化する可能性のある幽かなもの。
今と今以外は決して線では結べない。
だから考えても無駄だ。
「……昨日までまともな内容だったから、そろそろ来るとは思っていたけどね。今回は何かな。前回見たいに面白い内容だと良いけど」
私は横に並ぶ瑞希の肩先に視点を合わせている。目を見て話す気が殺がれたから。
「どうかな。今回は冴にとってはちょっと難しいお話かもよ」
「珍しく挑発するじゃない。確かに私は瑞希程の文学少女じゃないけどさ、でも文芸部に入部する程度には文芸好きではあるよ」
何それ、と瑞希は笑う。
さあね、と私も笑った。
「冴はミステリー小説が好きでしょう? 頭使うやつ」
そのたとえもどうかとは思うが、まあ確かに文学作品よりは謎解きを好むかも知れない。
「そうは言っても食わず嫌いだからね。あんまり手広くは行ってない。お気に入り作家の作品ばかり見ているよ」
「そうなの。まあでもミステリーってどっちかって言うと大人向けの作品でしょ?」
それは偏見だろうけど、まあ私が読んでいるものに限ればそうだろう。話の流れから察するに、瑞希は一般論を語っているわけではなさそうだから私はそうだねと頷いた。
「じゃあやっぱり冴には難しいお話になるかもね」
「何それ。意味がわからない。勿体つけずに教えてよ。今回は何なのさ」
瑞希はふふふ、と意地悪く笑うと鞄を開けて一冊取り出した。
「……絵本?」
瑞希が取り出した本の表紙にはクレヨンタッチのキリンの絵が描かれていた。
キリンのリンゴ。
タイトルである。
「確かに私には小難しい話になりそうだ」
でしょ、と頷く瑞希はどこか嬉しそうだった。
「今日からの文芸部の活動はずばり“絵本の中の文学性”なのです!」
声高らかな発表。周りに誰もいないことが唯一の救いだった。
「絵本に文学性ね。そろそろネタ切れかな?」
「良いじゃない。楽しそうだよ。正直部長の趣向って理解出来ないものばかりだけど、今回のはとても面白そうだよ」
「瑞希は文学って銘打てば何でも良いんだろう? 呆れるほどの文学少女じゃないか」
「まあそうかもね。でも絵本って面白いんだよ。子供の頃は世界観だけに夢中になっていたけど、今読むと大人が子供を楽しませるために知恵を絞って色んな工夫をしているんだなってところが感じ取れるから、面白いの」
ふうん、と相槌を打ったと思う。私には絵本の良さはわからない。子供の時分に絵本を読んだ覚えがないからだろうか。いや流石に一冊くらいは読んでいたとは思うのだけれど、曖昧である。
「だから今回は資料集めも楽しかったよ。頼まれたもの以外にもお小遣いを割いて結構買っちゃった」
キリンのリンゴはその内の一冊らしい。何だかそのタイトルに惹かれた。どんな話か尋ねると、
「絵本は絵と文章を楽しむものだからちゃんと見ないとダメ!」
と怒られた。横着はダメらしい。
「貸してあげるからちゃんと読んでね」
瑞希はそう言って絵本を差し出す。私は渋々受け取る。何だか可笑しなことになってしまったと思うも時すでに遅し。瑞希は、
「読んだら感想文書くこと」
と付け加えて、軽くスキップしながら先に行ってしまった。
楽しそうだね――。
私は少しの間立ち止まって、瑞希の小さな背中を見ていた。
木枯らしが吹く。
ああ。
冬の気配が。
何だろう。
やけに不安が忍び寄る。
その冬に。
何が在るというのか。
わからない。
ならそれはきっと、曖昧なものだ。心と同じように。
空を見上げる。
いつの間にか雲が掛かっている。
灰色の雲。
どんよりした厭な雰囲気。
視点を戻す。
少しだけ遠くなった瑞希の背中には。
微かに。
闇が掛かっていた。
私はへんてこなキリンの絵が書かれた絵本を鞄に仕舞い。
もう、すぐそこまで来ている冬に向かって。
駆け出した。