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久遠寺朋花〈始〉

 

 

 冬の張り付く空気が好きだ。

 ぴりぴりしてひんやりとしてピタリと肌に張り付くから、心地よい。

 寒いけど。

 羽織を直す。開いた空間に一瞬だけ冷気が入り込む。でも心地よい。

 夏は嫌いだ。湿度が高くてべたべたするし、自分の汗も絡み付くから何より不快に思う。匂いも嫌。夏のきつい日射しは海の潮臭さを強くする。そんなに海が近いわけではないけど。でも匂う。生ぬるい風が運んでくる。だから。

 嫌いだ。

 冬は良い。

 冷えた空気は世界の匂いを凍らせてくれる。海の匂いも町の匂いも。

 いや、自分の――匂いか。

 よくよく考えてみれば私は私が何よりも嫌いだ。

 顔も体も声も匂いも性別も何もかも。

 嫌いだ。

 特に匂いが。

 鼻を突く。その鼻も嫌い。

 お風呂に入ったって匂いは残る。たとえ石鹸の匂いでも洗髪料の匂いでも、嫌だ。自分の肌に一度張り付いてしまったなら、それはもう自分の匂いだから。

 他人のそれは気にならないのに、自分のものには敏感になる。

 匂いが嫌いなんじゃなくて。自分自身が大嫌いだからそうなるのか。

 わからない。

 でも冬の空気は。

 好きだ。

 いくら自分に張り付こうとも嫌いにはならない。張り付いても張り付いても、好きだ。多分自分じゃないから。

 なぜかそう思う。

 空を見上げるとおでこから前髪がさらりと流れた。途端に洗髪料の匂いが薫る。

 吐き気がした。

 嫌いだ嫌いだ。嫌だ嫌だ。


「……星が、見えるかい?」


 背後の声は風鈴のように涼やかで。


「別に星なんか」


 見たくない。最後までは言わなかった。自分の声を長く聞きたくはないから。

 私は。

 何で空を見上げているのだろう。わからない。

 空は。

 どっぷりと夜に浸かっている。

 星は。

 見えなかった。

 月も雲もない。雲がないのに星が見えないのは少し不思議だった。


「闇が在るからさ」


 そう言われた。

 闇。

 黒より黒い黒。夜より暗い色。

 それが星を隠しているのか。


「あの闇は何でも隠してくれるのでしょうか?」


 私も。

 大嫌いな私のすべても。

 ――隠すよ。

 風鈴が鳴る。


「闇は何でも隠してしまう。山も海も僕も君も何でもさ。でも光だけは隠せない。光がない状態を闇というのだから」


 光は隠せない。

 でも。

 星も月もない。見えない。隠されている。

 光だって、隠されているじゃない。


「光は隠せないよ。絶対に隠せない。光が見えないならば」


 ――そこには無いんだよ。

 ざあ、と強い風が吹き付ける。髪が薙ぎ払われた。匂いが増す。自分の匂いが。

 あの闇に飛び込めば――。

 私は私を感じなくなるだろうか。姿も匂いも気配も感触も。何もかも。

 私が嫌いな私のすべてが。

 消えていく。

 闇に。闇に。

 そう考えれば何だか楽しくなってきた。これまでの地獄のような十六年間に、漸く、ほんの僅かにも光が差したような気がした。

 その光すらも。

 呑み込め。

 私は天空を占めるどす黒い闇を凝視する。そして夢想する。あの黒き大海を存在なく遊泳する私ではない私の存在を。


「……君はもう帰った方がいい。ここにいたら可笑しくなってしまうよ」


 振り返る。

 冷たい人影が一つ。


「可笑しいのは今までの私です。ここにいると私は今までの狂った日々を清算できるような気がするの。可笑しくなんてない。可笑しくなんて」


 ないわ。

 影が揺れる。その表情はどこか哀しそうだった。

 そして。


「闇が深い」


 と呟いた。

 私は再び空を見る。やっぱり黒い。濃く深く、昏い。


「君は悪魔を信じるかい?」


 頭を振る。


「神も天使も悪魔も信じない。幽霊だって妖怪だって、信じない」


 そういう幽かなものになりたいと思っている。


「僕は信じている」


 そう呟く声も、どこか悲しげで。


「僕らはきっとリリスの子供さ」


「リリス?」


 ――夜の悪魔さ。風鈴が耳を撫でる。


「夜を占める女の悪魔。魔女とも妖怪とも伝えられている」

 

 夜の悪魔。夜を司る者。

 とても魅力的な生だ。


「僕も君も、きっとリリスが産み落とした子供〈リリン〉なんだよ」


「……リリン?」


 影が並ぶ。そしてその影も空を見上げた。何もかもを覆い隠す絶対なる闇を、見つめる。


「あれは夜闇だよ」


「私を隠す闇だわ」


「そんなに隠したいのかい。でも隠すことで見えるものもあるよ」


 隠して見えるものなんてあるわけない。それじゃあ隠していないということだ。


「さてね。僕は教師でも牧師でもましてや救世主でもないから、すべてを教えることはしない。いや出来ない。僕は」


 ――悪魔の子供〈リリン〉だから。

 再び風が吹き付ける。今度は柔らかな香りがした。自分のものじゃない。だから嫌じゃない。


「不思議な」


 人ですね。


「厭な人さ。僕からすれば君の方が不思議な人だよ。いいや君の在り方が不可思議だ。理解出来ない。そんな在り方は――いや、そんなことはどうでも良いか。それより、ねえ」


 ――久遠寺朋花さん。

 そこで影は踵を返し、


「最後にもう一度聞くけど」


 ――星が見えるかい?

 と尋ねた。

 私は。

 見えない。

 と答えた。

 影は何も言わず歩き出す。

 私は。

 ただ空を見上げる。

 闇を見る。

 冬の夜風が私の嫌いな私の匂いを運ぶ。

 冬は好きだ。

 冬の張り付く空気が好きだ。

 張り付いても張り付いても私にはならないから。

 私は私が何より嫌いだ。

 嫌いだ嫌いだ。嫌だ嫌だ。

 白い顔も。

 細身の体も。

 高い声も。

 女の性も。

 大っ嫌いだ。

 ああ、消えてしまえ何もかも。

 あの闇に隠すんだ。

 あの黒に染まるんだ。

 あの空に埋まるんだ。

 この真夜に幽かな存在として漂って。

 私は私をやめる。

 それは。


 夜の悪魔〈リリス〉か。


 途端に視界が揺らぎ。

 まるで目眩のような目まぐるしい視点移動を繰り返しながら。

 私の躰は。

 鋭く身を切る冬の夜気を纏って。

 光をも呑む天空の夜闇へと羽ばたいた。



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