篠崎夜空〈結〉
『そしてリリスは、彼女の住処を壊して荒野へと逃げ帰った』
――ギルガメッシュ叙事詩より
冬という季節が来るたび、わたしは子供の頃を思い出す。
寒さに震えて目を覚ます朝。独りで固いパンをかじる様。悴む指で本を捲った時間。親に捨てられた日、暖を求めて温室に潜り込み、誰かに見つけられるまで薔薇を眺めていたあの朝。
冬の寒さを感じるたびに、わたしの記憶は子供時代の映像を送り出す。
厭な日々の映像だ。
いや。
わたしが厭な子供だったから。
誰とも語らず誰とも触れあうこともしなかった。
厭な子供だったのだ。
『語らないことで守れるものは確かにある。でもね。語ることで守れるものもあるのよ』
その言葉をわたしは忘れない。今も昔もそして、今後も。
――ごめんさい。
誰への謝罪ともつかぬ。誰への謝罪でもある。
たとえばわたしが壊したあの子供たち。
たとえばわたしが狂わせたあの紅い少女。
たとえばわたしが傷つけたあの探偵。
たとえばわたしが殺したあの老人。
たとえばわたしが呪ったあの女性。
多くの人たちへの言葉。
ただひたすらに。
わたしは贖罪の日々を送る。
吹き付ける冬の風がこの身を切り裂こうとも。訪れるこの季節がわたしを苛めようとも。
わたしは立ち止まってはいけないのだから。
見上げる。
無機質なビル。今のわたしの居場所。
四階に上がる。
細い廊下を進み、突き当たれば。
賽ノ目探偵事務所。
そこがわたしの新たな世界だ。
中に入るといつものデスクにはいつもの顔。
白い肌の青年。
「ただ今戻りました」
わたしはその青年に深々とお辞儀をしたのちコートを畳み来客用の椅子に腰かける。
「おかえりなさい」
暖かい声。
青年は立ち上がりわたしを労った。
「戻って早々申し訳ありませんが、首尾は如何程に?」
青年はそう言いながらわたしの前に座す。
華奢なフォルム。柔和な顔つき。
「簡潔に申し上げますと、貴方の予想通りの動きでございます。詳細は報告書にまとめております。ですが恐らく」
「よろしくない状況、ということですね」
わたしは無言で頷く。
青年は少し思案したのち頭をかきむしった。癖である。
「ううん、そうか。やっぱり一筋縄ではいかないな。あのくそ爺め。さすがに老獪。手こずらせるな。ならやっぱり、僕が骨を折るしかなさそうですね」
ううん、面倒くさいな――と青年は椅子の背もたれに深くもたれ掛かり悪態をつく。
「わたしが行きましょうか?」
「いいえ、それには及びません。ここから先は多少荒事も混じるでしょうから、僕が行きますよ。最近は貴女に頼り切りでしたからね。そろそろ動かなければ怠け者になってしまう」
「そう、ですか」
「貴女は少し休んでください。しばらく僕はこの件で動きますから、その間は依頼も受けません。最低五日は休んで頂けますよ」
五日、か。
長い。
「大人の冬休みだと思って羽を伸ばしてください。事務は天草さんにお任せしてますから」
冬休み。
小さな子等の、短く、そして長い冬の日々。
彼女たちは。
何を想っていたのだろう。
「子供は大人になる夢を見るものですよ」
「え?」
青年は微笑む。
「また、妹がご迷惑をおかけしたのでしょう?」
「……やはり気づいておられましたか」
「当然です。あの馬鹿のやることは今も昔も何一つ変わりませんからね。どうせ渥美くん辺りがまたどたばたやっていたのでしょう。あいつは騒ぎが好きなのです。うるさいところを好む。今回もどたばたと騒ぐ渥美くんの首根っこを掴まえて、余計な自分の首まで突っ込んだんでしょうよ」
まさにその通りである。
そしてわたしも。
「貴女も困った方だ。あんな馬鹿の言うことなんか聞かなくても良いのですよ。あいつに関わるとろくなことがない。貴女はさすがに上手く立ち回るが、渥美くんなんかはあいつに関わる度に何かを失ってますよ」
困った子供たちですよ――と青年は眉を寄せる。
そうかも知れない。
でも。
「ご令妹さまは、きっと誰かを救うことが出来る人間なのですよ」
わたしと正反対。
わたしは誰を不幸にすることしか出来ない。
「でも、今回の事件に関わった少女たちの闇を払ったのは貴女でしょう」
わたしはただ伝言を届けただけだ。
動いたのは渥美さんで。願ったのは久遠寺さんで。決断したのは“彼女”だ。
わたしは何もしていない。何かを出来る人間ではない。
わたしは昔々の物語の中にしか登場しない異端者だから。
いや。
やはりただの。
陽炎、か。
「キリンのリンゴ」
青年は瞳を閉じる。
「今回の鍵はその絵本だったのですね。それは、どんな話なのですか?」
それは。
「調べて見ますか?」
「ふふ、それは勘弁ですね。僕にはこれから日本一の小悪党退治が待っていますから」
そう言って。
若き探偵、賽ノ目虹は事務所を後にした。
独り残されたわたしは、ただ呆と窓から空を見上げていた。
もう夜か。
窓の外は暗い。
真っ黒で。濃密で。月も星も見えない。
わたしは立ち上がる。
やはり立ち止まってはいられない。
わたしは罪人。
残りの人生を、贖罪という時で満たすためだけに生きる者。
立ち止まっては立ち行かぬ。
さあ。
行こう。
あの外界の闇こそが。
悪魔をも呑むあの夜闇こそが。
わたしがいるべき本来の世界。
「人の、人ゆえの根深き願望を」
あの闇へ還すために。
黒より黒いコートを羽織り、扉を開ける。
わたしは世界の外と内を隔てる垣根。
誰とも知れぬ誰も触れ得ぬ。
――陽炎だ。
音もなく扉は閉ざされ。
気配もなくその人陰は去った。
ただ夜闇だけが残る。
少女たちの。
幽かな譚を隠すために。
――了
ご高覧ありがとうございました。今作は前作である「少女眩幽譚~夕暮れ遊戯~」と同じく「複数人の少女が生む妖しい物語」というテーマを立てております。さらに前作の「事件・解決・結末」をぼやかしたスタイルも継続しております。これは読者さまの想像を活かすための作りですが、前作と違うのは「作中の犯人」を三人に絞ることが出来るという点です。つまりは読み方によって3ルートのエンディングに辿り着くマルチストーリー仕立てになっております。ちなみに第一と第二のルートは若干イージーではありますが、第三ルートはとても難解になっております。色々想像を膨らませて頂ければ本望ですので、読者さまの中の「それだけのお話」を見つけ出してみてください。一つの解答編であれば少女眩幽譚三章で明かしたいと思います。ご高覧重ねてお礼申し上げます。ありがとうございました。




