忽那瑞希〈始〉
冬の闇は濃い。
冬の夜が深いからだろうか。
ともかく。
見上げた空には月も星も見えなかった。
真っ黒だ。
雲でも掛かっているのだろうか。昨日は初雪がちらついていたが、今日はどうだろう。昼間は晴れていた。なら今も雲は出ていないのかも知れない。
じゃあ空を埋め尽くしているのは闇か。
見渡しても見渡しても、ただひたすらに黒い空間が続いている。高層ビルでもあれば境界は出来るのだろうけど、田舎の空は無限だ。
切れ間も果てもない。
ぐるりとその場で回転してみた。
やはりどこまでも空。
いや闇だ。
真っ黒い、闇。
何の光りもない。ひたすらに。ただひたすらに。
闇。
不安にはならない。怖くもない。恐ろしくもなければ嫌気も差さない。
でも。
星が見たかった。
なぜそう思ったのかはわからない。突然のことだ。
帰路のことである。
部活動で使用する資料を探しに書店へ立ち寄ったまでは良いが、そこで時間を掛けすぎた。店を後にした時にはすでに闇一色。
帰宅時間が遅れることは滅多にない。だからふと珍しさに目を引かれただけなのかも知れない。
深い夜の。
濃い闇の空に。
星は見えない。ぼんやりとも見えない。
そもそも星が見たいわけでもないのかも知れないけれど。
帰路を行く。どっぷりと闇に浸った田んぼ道。もう空は見ない。地面にも同じ闇があるから。
しばらく歩くと前方の闇が僅かに揺れた。いや人影か。
「……あれ、忽那〈くつな〉さん。今お帰りですか?」
影は闇を脱いで白い顔を覗かせた。
久遠寺朋花〈くおんじともか〉だった。
朋花はピタリと足を止めてわたしの表情を窺うように首を傾げる。
「やっぱり忽那さん。どうしたのですか、今日は随分と」
そこで止める。恐らく「帰りが遅いのですね」と続けたかったのだろう。終わりの文を切るのは朋花の癖なのだ。
「本屋さんに寄っていたのだけれど、目当ての本を探すのに少し手間取ってしまって」
朋花はそう、と返したのだと思う。あまりにも微かな声だったもので、正直自信はないが。
そもそも朋花は声が小さい。普段話していても聞き返すことが多々ある。さらに今は。
闇が。
人の姿すら隠してしまう闇が――在る。
だから朋花の声は尚更拾い難い。微か、というよりも。
幽か。
だろうか。
何だか違和感を覚える。どこがどう、というわけではない。朋花はいつも通りだと思う。別段おかしなところはない。いや一点気になると言えば朋花の服装か。
私服。
紺色の羽織に、同じく紺色のスカート。
闇に紛れるわけだ。近くで見なければ紺色だとはわからない。闇がベッタリと張り付いている。ただ白い顔だけは浮いていた。
「朋花さんこそ今日はどうしたの? 部活休んでいたみたいだけど、何か用事?」
朋花はクラスが違うが部活は共にしている。文芸部である。だが今日はいなかった。もともと体が弱いのか体調不良を理由に休むことは多々あった。だが今日はどうだろう。体調不良ならばこんな時間にこんなところを私服で歩くだろうか。
朋花は少し思案したのち幽かな声で、
「……何と言うのでしょう。ええ、まあずる休みです」
と言った。悪びれた様子ではない。むしろその表情は愉しげだった。返答に困る。
「ふふ。意外そうな顔をしてますね。でも私、こう見えてよくやるんですよ」
――ずる休み。
微笑に変わった。と同時に。肩に掛かっていた黒髪がぱさりと落ちた。
朋花の、その艶めいた黒髪に憧れていた。
だけれど、何だか今は。
その黒さが妖しく見える。
何て応えれば良いのだろう。わからない。
「これから」
どこへ行くの?
そう訊ねた。
「秘密の場所ですよ」
そう返った。
朋花はとても愉しそうに見える。そんな表情は学校では見たことがない。いや部活以外では滅多に会わないけれど、少なくとも部活で一緒の時にはそんな表情はしない。
一体どこへ行くのだろうか。わからない。聞けない。黙り込む。間が持てない。
とても。
厭な感じだった。
冷えた夜気が背筋をまさぐる。雪の気配。だけれど空には雲などない。きっと、ない。
ぞくりとした。
これ以上は。
わたしは咄嗟に鞄に仕舞った本を取り出した。先程買ったものである。なぜそうしたのかはわからない。これ以上朋花と話すことがなければさっさと切り上げて帰ればいいのに、そうはしなかった。なぜか。
「……それは何?」
朋花が目を細める。
「天使と悪魔」
わたしは取り出した本の表紙を朋花に向けた。
「ダン・ブラウン?」
「ううん。多分ただの辞典だと思う」
ふふ、と朋花が笑う。
「今度は宗教学でも語り合う?」
「かもね。例のごとく部長のお使いだから」
詳しくは知らない。ただ明日からの活動で使うと言っていた。だから帰りに買って、明日持って来てほしいとお金を渡されただけだ。自分で行けば良いのに、とは思う。だけれどそういう雑用は一年生の仕事だとも思っている。思っているから断らない。入部して九ヶ月。今回のような雑用は幾度もあった。
文芸活動として使う資料ならば図書室で間に合う気もするが、現文芸部の風潮――というより現部長である安斎澄子〈あんざいすみこ〉の趣向がやや奇態なものであるから、学校で取り扱っている書籍では間に合わないのかも知れない。
前回の活動内容は『ミステリー小説に於ける登場人物の構築精度』などという、実によくわからない主題で議論し合うというものだった。終わった今でも何が何で、どう決着したのか正直わからない。ただ資料は相当数集めた気がする。ミステリー小説ばかり。中には図書室で借りた書籍もあったが、七割は書店で買い求めた。すべてわたしが。
普段文学作品しか読まないわたしには全くついていけない領域だったので、活動内容もさることながら、資料集めの際に迷走した記憶も苦々しい。いやミステリー小説漬けの人間でもあの活動内容には困惑したのではないだろうか。
何せ、トリックがどうの動機がどうのというミステリーの醍醐味など微塵も語っていないのだ。ただただ理解し難い論が飛び交っただけである。
それが五回続いた。つまり一週間である。まさに奇態。
まあそういうへんてこな活動ばかりしているわけではないのだけれど。古典や現代文学について語りあった日もあった。文学性とはつまりどういうものか、と胸を熱くさせる議論だってした。というより基本はそういう感じで、安斎部長の奇態な趣向は文芸部らしい――恐らくは――その基本活動の合間合間に骨休め程度の軽さで割り込ませただけなのだと思う。思うだけだ。本人には聞いていない。
ただ骨休めにしては内容が濃すぎるから、やはりそれはわたしの気のせい――というか現実逃避――であり、現文芸部の風潮とはまず安斎部長ありき、で確定なのかも知れない。
今回も。
もしかしたら頭を抱えることになるかも知れない。
わたしは手に持つ書籍に目を落とす。と同時に。
「悪魔って」
朋花が口を開いた。幽かな音色。
「本当にいるのでしょうか」
わたしは書籍を凝視する。
今。
朋花の。
朋花の顔を見れない。見てはいけない。そう思ったから。
「いない、と思う。天使も神様も妖怪も――幽霊だって」
いるわけがない。
天使と悪魔、そう題打たれた安っぽい装丁の書籍を目が乾くほど凝視しながら、わたしはそう答えた。声は、もしかしたら震えていたかも知れない。
ふふふ。
誰かが笑った。朋花ではない。朋花であってはいけない。
ぞくり、と。
またも夜気が背筋をまさぐる。
「冷えて来ましたね。さあ風邪を引くといけませんからこの辺で」
朋花はそう言って止めていた足を動かす。
そしてわたしの横を過ぎる際に。
――この先にはきっと悪魔がいます。貴女は振り向かずお帰りなさい。
そう囁いた。
微かな、幽かな声で。
わたしは。
堪らず振り向いた。
明りのない田んぼ道。
星をも隠す深く濃い夜闇は。
愉しげに秘密の場所へと向かう久遠寺朋花の背中だけは、隠さなかった。