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少女《をとめ》神の笑み給へる村

作者: 丹羽夏子

「――なぁ、行くのか?」

 少年はそっと身を起こした。しかし少年に腿を貸していた少女は少年の問いに答えることなく、「鼻血はもう止まったのか」と笑った。少年は、正直なところ、鼻血など少女の膝を借りる口実――それも、本当は鼻血を出した時は上を向かない方が良いのだということも一応知っていた上での行動だった――に過ぎなかったし、横たわってから大分長い時を経ていた為少女も何故自分が膝枕を提供しているのか忘れているに違いないと思っていたので、そう言われてむっと顔をしかめた。恥ずかしかった。

 折角得られた少女の白い腿という素敵な枕から離れたのには、訳がある。

 辺りが明るくなってしまったのだ。

 山の上から見る朝日は、少年の目には、眩しかったのだ。

 朝が、来た。

 祭りの夜は、終わってしまったのだった。

「残念だったな」

 寂しそうな少年の横顔を見て、少女が笑う。その笑い方は、少女と言うよりは、女かもしれない。

 少女はいつもそうだった。少年が少女に初めて出会った時から、そうだった。

 少年が彼女に初めて出会ったのは、いつのことだっただろうか。いつの祭りの日のことだっただろうか。もう、思い出せないほど昔の話になってしまったようだ。

 並んだ灯火の向こう側で。ただ黒と赤と橙の三色だけで塗られた、何の装飾もつけられない山車の向こう側で。ただ、その白い頬を照らされ、少女はいつも少年を嘲るように、それでいて誘うように、笑っている。

 昔は、夜の闇に揺らめく炎の中輝く少女の白い頬を、漆黒の髪と瞳を、美しい、としか、思えなかった。祭りの夜にのみ現れる美しい魔の者なのだと判断して、それ以上のことは何も考えなかった。

 しかし、今は違う。今は、彼女のそんな様子に、艶かしさを覚える。少女はいつも、紺地にところどころ白の絞りのある、現代に生きる少年にはどこぞの旅館で風呂上りに着られるものにしか見えない浴衣をその身に纏っているのだが、その裾は短く切られていて、少女の白い腿を外気に常に晒していた。また、合わせ目からわずかに覗くほのかに膨らんだその乳房も、思わせぶりな様子だ。

 今、初めて日の下で見た少女の真っ赤な唇は、痛いほどに蠱惑的だ。

 自分は、少女の姿をそんな風に捉える年頃になってしまったのだった。

 だが、少女は笑う。

「もう皆家に帰った。お前の分の菓子はないだろう」

 この村の秋祭りでは、祭りの後に数少ない子供たちに袋詰めの菓子が振る舞われる。少年も、かつては、それを貰う為に山車の中で一生懸命小太鼓を叩いた一人だった。だが、少年の手は、今はもう、大太鼓を叩く為の大きなばちを持てるほどに大きくなってしまった。今年の少年は菓子ではなく少女が欲しいのだが、少年はまだうまくそれを言葉にできない。

 けれども、少年はまだ親に庇護されるべき年頃でもある。今頃、両親はあの人混みの中少女を追いかけて失踪した自分を捜しているかもしれない。酔い潰れて自分の存在を忘れてくれていたらいいのだが、自分は村の数少ない子供のうちの一人であるので、減っていたら、もしかしたら村全体が大騒ぎになるかもしれなかった。

 この村は子供が少ない。だが、それも仕方がないだろう。この村には山と海とみかん畑しかないのだから。山を一つ越えれば、全国に知られる温泉街があるにはあるのだが、それももうすでに廃れている。そこから山を一つ隔てたこちらなら尚更、何もない。陸の孤島と呼ばれ、首都から最も近い南国とも呼ばれるこの辺りだ。電車もかろうじて一時間に一本来るか来ないかである。台風がくれば道路は閉鎖され、暖かいここらでは晴れていても――この地はあまりにも暖か過ぎる為、少年は生まれてこの方雪が積もったところを見たことがない――山に雪が降ればまた閉ざされる。みかん栽培と漁業しかないこの村に、人がとどまるはずがなかった。

 だから、少年は、いつの日かこの村では祭りが行われなくなるであろうことを確信している。

 山を越えた向こう側の祭りは、主に夏に行われるが、派手な装飾を纏った山車を引き、海沿いに数々の出店を並べて、着飾った老若男女が舞を舞い、盛大に花火を打ち上げて夜空を彩る。

 しかし、こちら側の祭りは、秋に行われるのだが、地味であることこの上ない。山車は単純なつくりでしかも古く、毎年変わるところと言ったら山車の上部に張られた障子紙とそこに描き出される黒と赤と橙だけで彩られた絵ぐらいだ。出店が村を賑やかにするわけでもない。ただ、提灯が家々の軒下や電信柱と電信柱の間に渡された縄に吊るされるくらいである。作られる人混みは、隣の組とぶつかる為に設けられた村で一番広い道路があるところ、つまり寂れて利用客のない駅前のみで、一歩外に出れば、村はいつものように静寂に包まれているのだった。否、村の住人全てが駅前に出るので、駅前以外はむしろ死んだように静かで、少年には恐ろしいくらいなのだが。

 けれども、少年は知っている。山の向こう側の祭りは、祭りではない。単なる観光客を呼ぶ為だけの催し物だ。山のこちら側の我々だけが、本物の祭りを行っている。本物の祭り――今年の収穫に感謝の祈りを捧げる祭りだ。神へ感謝の意を述べる祭りだ。

 と言っても、少年の友人や、ひょっとしたら両親も、この村の祭りにそんな意味があることを、知らないだろう。ただ、毎年惰性で祭りを続けているだけに違いない。村人達を集めて酒を飲み狂喜乱舞しながら太鼓を叩くことだけに価値を見出しているはずだ。

 少年だけが、知っている。

「行くのか?」

 もう一度尋ねたら、少女は頷いた。

「だが、お前が忘れなければ、私はもう一度この村の為に舞ってやろう」

 なんと酷なことを言うのだろう。

「来年もお前が太鼓を叩くがいい。お前の太鼓は私を呼ぶ」

 なんと残酷で、無慈悲で、それでいて、優しい言葉を紡ぐのだろう。

 この祭りで一番大切なのは太鼓だ。

 軋む山車の中で選ばれた少年少女のみが太鼓を叩き祭りを盛り上げる。

 太鼓の調子は組ごとに違っていて、かつて少年だった者が今少年だった者へ目の前で叩いてやりながら教えていく。その様子は口伝にも似ている。紙面にはけして残されない、けれども何百年と続けられてきた、伝統の調子なのであるから。笛も、かねも。全ての囃子はやしが、組ごと――この村は漁村だ。だから、昔風に言えば、船ごと――に異なり、その全てがその組の中で父から子へ、子から孫へ受け継がれているのだ。

 そして、その太鼓を、かつてはどこでやっていたのかは知らないが、今は駅前の広場で、隣の組の山車と競い合わせる。山車をぶつけ合わせるのではなく、体をぶつけ合わせるのではなく、太鼓の音を、それも含めた囃子の音を、ぶつけ合わせるのである。それこそがこの祭りの一番の山場だ。

 その勝敗は、今はその場で見物していた周囲の大人たちが適当に決めているようだが、昔は、神によって決められていたそうだ。勝者側の組には来年も神によって多大な収穫がもたらされる。対して、敗者側の組は来年の収穫にあまり期待できなくなる、と云う。今はもう、誰も知らないことだけれども。何故ならば、今の世では、この村にいるからと言って全員が漁をしているわけではないので、収穫と生活に直接の関係がない人間も多々いるからだ。

 誰も、知らない。

 少年だけが、知っている。

 今は人数が足りないから少女も太鼓を叩かせてもらえるけれども、昔は少年にしか叩けなかったというその訳も、少年には、分かるのだ。

 少年の耳には、心には、魂には、太鼓の音は男たちの恋の叫びに聞こえる。美しい少女神の気紛れをいかにして自分に惹きつけようか、その為に吠えているように聞こえる。俺のものだ、いや俺のものだと、太鼓の音がそう言い争っているように聞こえるのだ。

 だから、少年は太鼓を叩く。

 美しい少女神の気紛れが、自分に向きますように。

 少年は神に恋を叫ぶ最後の一人だ。

 紙面に残されず代々目と目で、手と手で、音色と音色を擦り合わせることで伝えてきた囃子には、もう、後継者がない。この村の太鼓は、もう、滅ぶ。この村の祭りは、もう、滅ぶ。

 少年は、神を恋う、最後の一人なのだ。

「お前の太鼓は私を呼ぶ」

 少女が笑って繰り返す。少女の白い手が自分の頬を撫でる。少年の頬が朱に染まる。

「呼べ。来年も、そのまた次も、更にまた次も」

 朝日の中で見た少女は、美しく。

「お前の船の為に私は舞ってやろう。お前だけが私を知っている」

 妖しく、艶やかで。

 目に、痛い。

 少年はそっと目を閉じると、苦しい息を吐いた。それから、少女の白い手をつかんだ。

 今、少女の手をつかんでいる手は、もう、太鼓のばちは、握らないだろう。この手は、もう、大きくなってしまった。

「俺、漁師にはならない」

 少女の目が、見開かれた。少女がこんな顔をするのは、初めてだった。

「医者に、なる。この村に、病院を、創り直したい。だから、上の学校の寮に、入る」

 朝日が、少女の頬が、目に痛いからだ。目が、かすむのは。けして涙などではない。

「昨日が、最後の、祭だった」

 あなたへの想いを太鼓にぶつけて叫ぶ日は、もう、終わりだ。

「意味が分からない」

 そうだろう。悠久の時を生きる少女には、分からないだろう。少女は永遠にそのままなのだろう。けれども、自分は、育った。育ってしまう。いつか老い、死ぬ。少女は違う世界の住人で、自分は、この世界の、人間なのだった。少女の体に欲望さえ覚えるように、どうしようもなく、人間なのだった。

「皆、祈らなくなった。お前もか?」

「いや。俺は、死ぬまで、祈る、と、思う」

 この村が、好きだから。

 この海が、好きだから。

 この神が、好きだから。

「でも、それと、ここで生きるということは、違うんだ」

 少女はしばらく黙って少年の顔を眺めていた。が、ややして、「そう」、と頷いた。そうして、笑った。嘲るように、馬鹿にしたように、笑った。

「お前は嘘をついている」

「そう見えるか?」

「お前は私のものだ。この山に生まれこの海に死ぬのだ」

 そうかもしれない。と、そう思えるから、不思議だ。呪いのようでいて、祝福のようでもある、不思議な言葉だ。

 自分は一生、少女に囚われたままだ。

「離れたくば離るるが良い。但し、お前は戻るだろう」

 少女が傍らに置いておいた面を拾い、立ち上がった。そうしてその白い乙女の小面の中へと、妖しい笑みを納めていった。

「お前はまた、太鼓を叩くだろう。その時にまた、舞ってやる」

 少年が一度目を閉じ、次に目を開いたその時、少女の姿はそこになかった。

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