とある貴族の物語。
前二つが表舞台だとすれば、舞台裏的なもの。
とある街にある大きな屋敷に住むのは、一人の貴族の男であった。彼は特に線が細く、昔から「娘子のようだ」と言われて育ち、自分でもその通りだと諦観するようになってきていた。
彼には政略的ではあったが、心根が穏やかな妻と子が二人いる。この世知辛い世の中からしてみれば、割りかし幸せな生活を送っていた。
彼には野心がなかった。元々五兄弟の三男坊だったことも大きい。それ故か、彼は彼の箱庭で穏やかな生活をするだけで満足していた。
そんなある日のこと。
彼がいつものように庭に出ると、どこから入り込んで来たのか、木々の間に一人の少年が倒れていた。
少年はボロを纏い、やつれていた。けれどもその顔は幼いながらも美しく、彼がその顔を使って生き延びてきたことが漠然と知れた。
「大丈夫?」
男は少年に訊いた。少年は少し呻き、やがて気が付くとおもむろに顔を上げた。
「お願いです。少し、少しでいいのです。ほんの少し、食べ物を恵んでいただけませんか? 妹がお腹を空かせているのです」
少年はそう言う。男の家は貴族の中ではあまり豊かではなかったため、少しの食料を渡すことしか出来なかった。そのことに男はいつも落胆していた。
「本当は君達貧民層の孤児が満足に生活出来ればいいのにね。これ程自分が非力だと感じたことはないな」
真っ直ぐな目をした少年に、彼は思わずそう言った。少年が目を瞬かせるのが見えた。
「お気持ちだけでもありがたいです」
変わった貴族に少年は笑った。すると笑顔が強張るのが見える。ここに来る前に殴られたのだろう。
「私に出来ることは、ないのだろうか」
「ならば」
一つ、と少年は男に言う。
「もし僕が何かあって、妹が一人ぼっちになってしまった時、せめて彼女だけでも助けてくれませんか?」
男は少年の願いに頷いた。
その時に、この純粋で素直な少年も助けたいと密かに決意して。
それから男は今までに見ない勢いで力を欲した。
人を動かす力。政を動かす力。金を動かす力。そのために、時には嫌いな嘘を吐き、裏での流行りにひそりと乗り、少しずつ、しかし着実に力を蓄えていった。
けれども彼の心はいつも疲れていた。演技なんて本当は苦手だし、傷付くことはとても怖い。でも、怖気付きそうになった時にはあの少年を思い出し、自らを奮い立たせる。
そうして、数年。彼の心には、欲と狂気が忍び寄って来ていた。
力を欲する時に、わけが分からなくなりそうになる時がある。そのうち自分が自分でなくなるような気がして、彼はますます怯えていた。
いつか彼らを含めた孤児達を幸せにする。何度も自分に言い聞かせ、狂気を遠ざける。しかし年月は確実に、彼の心を蝕んでいった。
彼が兄弟にも親にも蔑んだ目で見られ、しかし有能なことでいよいよ知名度が上がって来た頃のことだった。
――あの綺麗で純粋な少年が、崖から身を投げ死んだと知った。
ああ、どうしてこうも自分は肝心な時に役に立たないのか。男は一人で静かに涙を流した。
けれど。けれども。
彼の妹はきっとまだ生きている。
情報を集めていた時に、彼は妹に向かうであろう害悪を全てあの小さな体で受けていたと知っていたから。
ならば男に出来ることは一つだろう。
彼はすぐさま少年の妹を探しに出掛けた。
果たして彼女はようやくと言っていい時に見つけることが出来た。
しかしその時に、彼は一つの過ちを犯してしまった。彼女を一刻も早く保護したいという気持ちが先走りすぎて、彼女に許可を取る前に自らの養子にしてしまっていたのだ。
人形の様に無表情な少女を前にした時に、彼は「しまった」と思った。だがもう遅い。既に少女は男の「娘」となっていたのだから。
そして初めて「娘」として会った時に、彼は気付いてしまったのだ、彼を見る少女の目に狂気の炎が灯されていることに。
三月経って、男は少女が演じた方の自分を「本来の男」と認識していることに気が付いた。少女が生きるために独自の情報網を持っていたことが分かった。
一年経って、少女は罪悪感に囚われる様になった。何より生きる意味を見出せず、ただぼんやり生きている様に思えた。同時に男も罪悪を感じた。
二年経って、少女の狂った炎が激しさを増していた。そして男は、彼女が自分に心を開くことはないと悟った。
ならば、と。
生きる意味となるために、彼は望んで憎まれ役となろうと決めた。自分を憎むことで彼女の理性が狂わぬように。狂ったら、狂ったまで。家族にもそのことを言い、妻が哀しげに笑って頷くのが印象的だった。
三年経つと、いよいよ少女の炎は狂気と理性がせめぎ合っていた。
彼が彼女の兄を救えなかったのは事実。
赤の他人と言えばそれまでだが、なぜだか彼の心に強く惹かれていた。あの、真っ直ぐな心に。
きっと憧れていたんだろう。どれ程落ちぶれていようと貴族は貴族。嘘と本当を混じらせ噂と情報を交差させ、金と力を手にするべく動く。それは今までの彼からすれば、あまりにも薄汚くて醜いと思える行為であった。
そして彼はその薄汚い力を使いここまで上り詰める程の実力者となったのだ。自分がどれだけ醜いなんて、自分自身がよく知っていた。
ある日彼は、お気に入りの人形に言った。
「もし私が命の危機に晒された時、その時には、君は傍観していておくれ」
「傍観ですか」
初めに会った時から幾分か穏やかになった硝子玉の青い瞳を瞬かせ、彼は首を傾げる。
だから男は苦笑して言ったのだ。
「私はいつか近いうちにあの子に殺されるよ。間違いなくね。だからその時に、邪魔しないであげて。嫌われることにはもうすっかり慣れているし、何より君まで嫌われるのを私は見たくないからね」
人形は表情を翳らせたが「はい」と言った。
「彼女にはただの人形として振る舞うこと。感情を知らぬ無知の人形であること。いいね?」
「それは、自分のためでしょうか?」
「そう。彼女がどこまで狂うのかは私にも分からないけれど、憎まれて壊されるなんて君だって辛いだろうから」
人形は暫し黙っていたが、やがて苦々しく「はい」と言う。
――それから数日後に、男は少女に嘘をついた。
今までで一番苦しくて、悲しくて、辛い嘘だった。
――彼は目の前で自分の大切なモノを次々と殺され、壊されていった。
人形は彼の言い付け通り、何事もないかのように振る舞う。
けれどもティーポットを持つその手はカタカタと震えていた。
彼にとって男は絶対的存在であったし、逆らうことなど出来なかった。
しかし彼は「本当」を言いたかった。狂ってしまった少女に「真実」を叫びたかった。
でもそれは男を裏切る行為となってしまう。それにきっと、少女は何を言ったところで止まらない。
だからこそ彼は、手を震わせて己が主人の最期を見届けることを決めた。
殺される直前。
男はこちらに気が付くと、確かに口を動かしてこう言ったのだ。
――すまない
それから男は心臓を一突きされて、悲しげに微笑んで静かに死んだ。
これはきっと、男の我が儘。
力をつけることばかりに気を取られてしまい、周囲に目を向けられなかった不甲斐無さと悔しさに。
助けることの出来なかった悲しさに。
少女の死んだような目を見る度に感じた罪悪に。
男は少しずつ、本人も気付かぬうちに、自らの狂気によって動かされていた。
いつからかは分からない。彼が気が付いた時には、既に狂っていたのだから。
きっと、だからこそ。
彼は自らの狂気によって、少女も妻も子も人形も、そして街の者全てを殺してしまう日が来るだろうことを知っていたのだ。
自らが最大の害悪となると。
結果として、これが幸であったのか、不幸であったのか。
それは誰にも分かり得ないことである。
自分としては「よくある設定、よくある構成!」と、思ったのですが、見せた友人の大半には「よくはない、どこにあるってんだこんな話!」と言われて「なにおう? きっとよくあるって言ってくれる人はいるはずだ!」となってここに書いてみた次第です。
……え、あるよね? どこにでもありそうだよね? 未だにそう思うんだけれど……
とにもかくにも、ここまで読んでくださってありがとうございました!




