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八章

 受付を済ませ、待合室でミズシマ氏を待つ。

両親の経営する会社を訪れるのは、今回が初めてとなるユウは、中心街のオフィスビルが醸すエネルギッシュかつ洗練された雰囲気に、ビルに入った瞬間からすでに圧倒されていた。

待合室の隅には、本皮張りの豪奢なソファが置かれている。だが、慣れない空気に落ち着きを覚える事のできないユウは、壁にかけられた姿見の前に立つと、着慣れないビジネススーツを今一度調え、ネクタイをしっかりと締め直した。

壁の一部はガラス張りになっており、三十二階の高さから、高層ビルの立ち並ぶ中心街を一望する事ができる。はるか眼下に目をこらすと、ゴマ粒のような人々が、歩道の上をせわしなく蠢く様を見て取る事が出来る。その様子を眺めるだけで、神の視座を得たかのような、言いようのない優越感に浸ることができる。

こんな景色を毎日眺めて暮らそうものなら、誰であれ、いずれはあの男のように傲慢な人間と化してしまうに違いない。あの男こそ正しく、環境が人を形成する、その好例なのだ。

―――などと考えつつ、ぼんやりと地上を見下ろしていたユウに、背後から声がかかった。

「やぁ、ユウ君、どうしたんだい。急に」

「突然、呼び出してしまって、すみません」

「いいや、子供のわがままに付き合ってやるのは、親の義務というやつだよ。それにしても、珍しいな。君の方から私をランチに誘ってくれるなんて」

「たまには、僕にも親孝行をさせて下さい」

そしてユウは、今まで一度もミズシマ氏に対して向けたことのなかった、柔和な笑みを浮かべて見せた。

その後、二人はビル近くのカフェへと赴いた。すでに時刻は昼を大きく回っており、ランチタイムと呼ぶには遅すぎる時刻に差し掛かっていた。そのためか、店内は比較的空いており、二人は、歩道に面したテラス席に難なく席を占める事ができた。

「ところで、今も新世代バンクのセキュリティを?」

 ホットミルクに砂糖を流し込みながら、ユウは向かいのミズシマ氏に訊ねた。

「ああ。今も全社を挙げて取り組んでいるよ」

一方のミズシマ氏は、コーヒーカップを片手に、男の二の腕程の太さもあるパストラミサンドにかぶりつきながら、得意気に返した。

ユウがサーモンベーグルを一口齧る間に、ミズシマ氏は三口ほど口に押し込む。その食事のスピードは、早飯早糞を常とする警備隊の食事風景に見慣れたユウの目から見ても、尋常ではない程に早い。

「なんだ? 今更、勤め口の斡旋か?」

「いえ、そういう訳では」

「言っておくが、お前を雇う気はないからな」

早々にサンドを片付け、口をもごつかせながらミズシマ氏は言った。それから、ミズシマ氏は鞄からラップトップを取り出すと、バリバリとキーボードを叩き、どこかへ電話を始めた。その内容から察するに、どうやら社内連絡の電話であるらしい。

「はぁ? 何やってんだよ、このボケがぁ! いいんだよ! 開発費でも何でも、それらしい名前つけて踏んだくりゃいいんだよ!」

一方でユウは、そんなミズシマ氏のバイタリティに圧倒されつつ、ようやく半分近くに減ったベーグルを、所在なげにかじり続ける。

ミズシマ氏の電話はなおも続く。かなりの大音声である。

「とにかく、その金額で呑むまで絶対にそいつを帰すな! いいか!?」

 周囲の視線が、次第に冷ややかなものへと変わってゆく。それでも、ミズシマ氏は一向に電話を止める様子を見せなかった。どころか、その口調は次第に烈火のごとき熱を帯びてゆく。

 と、その時だった。

「うっせぇぇえんだよ、このデブ!」

やおら、ミズシマ氏の背後でランチを取っていたスーツ姿の男が、椅子を蹴り飛ばしつつ猛然と立ち上がった。山のような巨体を誇るその男は、驚きに目を剥くミズシマ氏に詰め寄ると、その胸倉を掴み、椅子ごと床に押し倒した。気だるい午後の空気が、俄かに張り詰める。

「こっちは優雅にランチタイムを愉しんでんだよ! なのに、あんたのお陰で、雰囲気が台無しだぜ! どーしてくれるんだ、おらぁ!」

大男がミズシマ氏のビール腹に馬乗りになり、シャツの襟をがくがくと振り回す横で、ユウは胸ポケットからメモリスティックを取り出すと、すかさずミズシマ氏のラップトップをひったくり、そのインターフェースへ素早くスティックを差し込んだ。と同時に、メモリに仕込んだ自作ウイルスのダウンロードを開始する。

液晶画面と大男の背中をしきりに見比べながら、ユウはひたすら、ウイルスのダウンロードが完了するのをじっと待ち続けた。早く作業を済ませなければ、騒動を察知した警察がいつ駆けつけて来るか知れない。ゲートシティの警察は、旧市街の当局に比べ、機動力という点では比較にならないほどに優秀だ。

ユウがその手にじっとりと嫌な汗をかいた頃、ようやくウイルスのダウンロードが完了した。と共にメモリを抜き取り、何食わぬ顔で元の場所へとラップトップを戻す。それからユウは、ようやく椅子から立ち上がると、努めて上擦った声で喚いた。

「やめてください! 僕の父に、何て事を!」

大男は、まるで、ユウの声に弾かれたかのようにミズシマ氏から飛び退ると、カフェを飛び出し、一目散にその場を走り去っていった。間もなくゲートシティ警察が店の前に駆けつけたが、時すでに遅し。すでに男は角を曲がり、店の前からは完全に姿を眩ませていた。

ユウは、床に転がったミズシマ氏へ駆け寄り、その様子を伺った。

「大丈夫ですか? お父さん」

「ち、ちくしょう、なんなんだよ、いきなり!」

乱れたネクタイを調えつつ、のそりと立ち上がったミズシマ氏は、苛立たしげに肩で大きな溜息をついた。

「くそっ、気分が悪い! 俺はもう社に戻る!」

「気を取り直してください、お父さん。もう少し僕と、」

「ふざけるな! 誰のせいで、こんな目に遭ったと思ってるんだ!」

ミズシマ氏は、冷やかな衆目に構わず、なおも激しい怒号を吐き散らす。

「俺は忙しいんだよ! 一刻千金で動いてんだよ! お前らドンガメ親子と違ってなぁ! 大体、お前ら親子は全くなっちゃいない! 何をするにもノロくてグズで、見ているだけで瞼に苔が生えちまう! いいか? マリの息子でもなきゃ、お前みたいなグズ、誰も息子にしようだなんて思わねーよ! いっそお前も、あのドンガメと一緒にゲートの外に行っちまえばよかったんだ!」

 最後の一言に、ユウは大きく目を見開いた。引きつる喉から搾り出すように呻く。

「……それなら、父さんに僕を託せばよかった。僕はそれを望んでいた」

 すると、ミズシマ氏はなおも苛立たしげに顔を引きつらせて喚いた。

「はぁ!? 冗談じゃねーよ! 親権だろうと何だろうと、譲るって事は、負けるって事じゃねーか。俺は負けたくねーんだ。どんな消化試合でもなぁ、俺は絶対に負けたくねーんだよ!」

瞬間、ユウの中で何かが弾けた。

呆然と立ち尽くし、目の前の男を見つめる。

「もう二度と、用もないのに俺のオフィスに顔を出すな! お前を見ていると、あのドンガメの顔を見ているようで胸糞が悪い!」

言い捨てるなりミズシマ氏は、テーブルのラップトップをひったくると、焼けた火山弾のように怒気を吐き散らしながら、大股で店を飛び出して行った。



それから約二〇分後、ユウは中心街近くに位置するセントラル公園内の遊歩道をそぞろ歩いていた。と、不意に、脇の木立から熊のような巨体が、転がるようにして彼の目の前に飛び出して来た。

「ミズシマさぁぁん!」

「オノ君!」

「こ、怖かったですよぉぉ、ほんとに」

 黒のスーツで身を固めると、政府要人のボディガードにさえにも見えてしまうガタイのオノが、自分より頭一つ以上は小さな相手に、歯医者を怖がる子供のごとく泣きじゃくりながら擦り寄る光景は、異様を通り越し、むしろ滑稽ですらある。

「悪かったね、怖い思いをさせてしまって」

「はぁ……ってか、あの人で良かったんですか? ミズシマさんのお父さんにしては、全然似てないっていうか」

「あの人は、本当の父じゃない……」

 俯くユウの一方で、オノは顔を上げ、頭上にひしめく高層ビルの群れに目をやる。

「しっかし、やっぱ近くで見ると高いですねぇ!」

 ぽかんと口を開き、銀色の光を放つビル群を仰ぐオノは、今日、生まれて初めて、このゲートシティに足を踏み入れたのだという。彼もリコと同じく、旧市街生まれの人間だ。

「今回は、本当に助かったよ」

「いえ、俺、やっと役に立てて嬉しいんです。いつもみんなの足を引っ張ってばかりで」

「そんな事はないよ、むしろ、危ない事ばかり頼んでる、こっちが悪いんだ」

「いえ、俺こそ、ミズシマさんやリコに、迷惑かけちゃって、」

「あの件なら、こちらは何も気にしてないよ」

 彼の言う、あの件、とは、ノムラの一件を指す。オノはあの事件以来、リコをノムラの手から守りきれなかった事をいたく悔やんでいた。そのため、かねてより再び入用の際には、是非自分を使ってくれと申し出ていたのだ。

「……それに、ノムラにも」

「ノムラ?」

オノは、その大らかな造りの顔を、ハの字に伏せた。

「ノムラは……あいつはああいう奴だったけど、俺にとっては本当に、大事な仲間だったんです。……けど、だからって、あいつがヤバい事を企んでるのを、黙っていて良いワケなくて……いや、仲間だったからこそ、ちゃんと止めなきゃいけなかったんです、なのに俺……」

 ノムラが死んだという知らせに、最も胸を痛めたのは、他でもない彼であった。

「恨んでる? 僕ら……警備隊の事を?」

「……わかりません」

 明確に否定しない、その事実にこそ、オノの真意が込められているようにユウには思われた。

「でも、ミズシマさんや、ウエスギさんの事は、好きです」

 最後の一言に、ユウは、さらに胸の詰まる心地がした。オノは、ノムラに手を下した隊員が、ウエスギだったという事実を知らない。

「オノ君」

「はい?」

「中途半端な優しさは、誰も救わないんだ」

 半ば自分に言い聞かすように、ユウは呟いた。あの場所で起こった事実を、ユウは人知れず棺桶に持ち込むつもりでいる。それが、彼の“中途半端な優しさ”が下した判断だった。だが、そんな彼の優しさによって救われる人間は、一人もいない。

 その“中途半端な優しさ”は、一般的には“欺瞞”という名で呼ばれている。



その夜、ユウがミズシマ氏のラップトップに仕込んだウィルスが、ミズシマ氏の会社のデータバンクからユウのパソコンに送り届けた暗号鍵やパスワードの数は、優に五十種類を超えた。それらのツールを使い、新世代バンクのデータバンクへと侵入する。さらに、そこから市議会議員の裏口座と、その出入金記録を引きずり出す。

「本当に侵入しちゃったワケ? あの新世代バンクに?」

カウンター向こうのカンザキは、呆れたとばかりに目を見開いた。

「はい。個人的なツテで、鍵が手に入ったもので」

「ふーん……案外、ユルいのね」

 するとユウは、自嘲気味に唇を歪めた。

「今回のケースは例外です。これほどの複雑なセキュリティを僕一人で打ち破るには、もっと長い時間がかかります。破れずに終わる可能性も高い」

「にしても、急にどうしちゃったの? 銀行の裏口座を探すだなんて」

「ヤクザの組長に言われたんです。ゲートシティの本当の姿を知りたければ、見るといい、と」

「……へぇ」

早速、ユウはラップトップの画面を廻らせ、向かいのカンザキに突き出した。その画面を覗き込むなり、カンザキの目が爛々と光る。

「これ……下手すると死人が出るわよ」

「死人が? こんなもので?」

 ディスプレイには、桁もパターンも様々な数字の羅列が、画面を埋めるかのようにずらりと並んでいた。今、表示されているのは、さるベテラン市議会議員が保有する裏口座の、過去五年間の出入金記録だ。

「これを、ただの数字の羅列と思ったら大間違いよ。ここには、ゲートシティ市議会議員や、大手企業の信頼を、ことごとく失墜させる情報が並んでいるわ」

 それからカンザキは、自身の会計知識を元に、数字の読み方についての講釈をユウに施した。

ほどなくして要領を得たユウは、改めて、数字の羅列の中に驚くべき事実を見出す事となった。それらの記録は、多くの議員が、ゲートシティ内の様々な企業役員等から、多額の献金を受けた事実を赤裸々に物語っていた。受け取った議員はいずれも、所属政党に関わらず、企業税の減免と、ゲートシステムの保持、そして、市民税の増額を声高に訴えている。

 ユウは思った。もし、彼らがこのような意図で、市民税を無闇に釣り上げる事をしなければ、あるいは、ゲートを追われずに済んだ市民も、数多くいたのかもしれない。

 あるいは、その中に、マキタの両親も、リコの母親も、そして自分の父親も――――。

相変らず、古びたスピーカーからは、洋酒の味わいに似たスモーキーなジャスが流れている。 

「……あの街を、変える事は可能でしょうか?」

 ふと、ユウはぽつりと呟いた。

「街を、変える?」

「この情報を公開し、市民に問うのです。本当に、このままで良いのか、と。こんな連中に搾取されたまま、あの街に住み続ける事を、納得できるのか、と。きっと彼らは目覚めてくれる。本当にあるべき街の姿に。もっと、多くの市民が、安心して生きられる街の姿に、きっと……」

 その言葉に、カンザキは小さく肩を落とした。艶美な造りの顔には、呆れと言うより、そこはかとない悲哀が漂っている。ややあって彼女は、小さく溜息を吐いた。

「世界は、あなた一人の力で簡単に変わるほど、単純には出来ていないの」

 水割りで軽く唇を湿すと、カンザキは淡々と続けた。

「確かに、あなたは今、あの街に激震を与える情報を手にしている。……その上、ゲートブレイクという、あの街の約束事を簡単に覆す禁じ技まで手にしている。でもね、勘違いしないで。あなたは、あなたが思っている以上に非力なの。そして、連中の力は、あなたが想像している以上に、したたかだわ」

「でも、僕は無力じゃない」

 思わぬユウの返し刀に、カンザキはふと振り返った。ユウの顔には、静かな、しかし猛烈な怒気が宿り始めている。

「確かに僕は非力です。でも、無力じゃない。たとえ僅かだとしても、僕にはあの街を変える力がある。あの街は、連中は狂っている! 歪んでいる! 僕は、その歪みに負けたくない」

「どうしたの? ユウ君」

「絶対に許せない。あの街の歪みを、狂気を僕は絶対に許せない」

「……ユウ、君?」

「僕はやる! あいつらを……あいつを絶対に破滅させてやる……!」

もはやユウの相貌は、常人の持つべき慎みを失い、憎悪に醜く歪んでいた。

「絶対に……許せない」



ユウが、独身寮での最後の朝食を摂りつつ見た天気予報によると、ゲートシティの今日の天気は雨との事だった。なるほど空には、すでに分厚い雨雲が立ち込め始めている。時刻はすでに午前八時を回っている。にも関わらず、独身寮のエントランスは、未だに朝ぼらけのような薄暗さから開放されずにいる。

ユウの傍らには、大きめのボストンバッグが無造作に置かれている。それが、約二年間、独身寮の六畳間で過ごした彼の、私物と呼べる唯一の持ち物だった。

「何を考えてんだよ、お前は!」

不意に、思いがけない人物の怒声がエントランスに響き渡った。弾かれたように振り返ると、ユウの目の前には、案の定の制服姿が、憤怒の表情と共に立ち尽くしていた。

「お前、辞表を出したんだって!?」

 目を剥き、額に青筋を立てがらウエスギは唸った。

「はい」

 一方のユウは、いつもの能面と共に、ウエスギを見つめている。

「考え直せ! 今なら、まだ、俺の力でも何とか取り消す事ができる」

 すがるような口ぶりで、ウエスギは喚いた。だが、ユウは、

「結構です。僕はもう、この街を出ます」

と、頑なに拒むと、憚りもせずに元上官へ背を向けた。

拒絶の意を帯びたその背中に、しかし、ウエスギは飛びかかるように駆け寄ると、その肩を掴み、強引に振り向かせた。

「目を覚ませ、ユウ! お前は酔っ払ってんだよ! ノムラと同じで、飲みつけない酒に悪酔いしているだけだ! 普通のアタマじゃねぇんだよ!」

 だが、ユウはそんなウエスギの手を無下に払いのけると、その目を見上げて言った。

「これは、間違いなく僕の意志です。僕は、自分の使命に正直に生きるんだ」

「使命……? まさか、ゲートブレイクの事を言っているのか?」

「だけじゃない。この街の歪みを正す。それが僕の使命です」

「歪みを、だと?」

 困惑顔で呻くウエスギをよそに、ユウはさらにまくし立てた。

「この街は歪んでいる。勝ちたい、勝ち残りたい、蹴落としたい、奪いたい……自らの勝利のためならば、利益のためならば、たとえ他人の幸せをぶち壊しにしても構わない。この街は、そんなクソ野郎で溢れているんだ!」

「何なんだよ! さっきから、お前は何を言ってるんだ!?」

「僕は、街の歪みを正したい。ゲートの中も外も関係ない、真っ当な人間が、真っ当な暮らしのできる、そんな街を作りたい」

「……ユウ、俺は言ったよな? 日常に帰ろう、そう言ったよな!?」

「その日常が狂っているんだ! 戻ってたまるかぁ!」

 半ば狂気を帯びたユウの怒鳴り声に、ウエスギは本能的に身体を強張らせた。

 遠くの空で、雷鳴が轟く。空はいよいよ、その光量を落とす。

「こんな日常……クソだ」

 吐き捨てるように呟いたユウに、ウエスギの怒気が俄かに破裂した。

「目ぇ冷ませボケがぁ!」

途端、ウエスギは、ユウの頬に鋭い一撃を食らわせた。したたかに弾き飛ばされたユウは、受身を取る間もなく、コンクリートの床へ無様に叩きつけられた。

「お前は、ゲート警備隊五課、情報管理官、ミズシマユウ一士だろうが!」

 床にうずくまるユウの頭上から、ウエスギは厳然と叫んだ。そして、再びユウの胸倉に掴みかかり、殴る。バチッと肉を打つ音が、怒号の残響に交わり、さらに響く。

「お前の仕事は、南棟地下一階のパソコンルームに一日中立て籠もり、不正アクセスを監視し駆逐する事だ! それが、他でもないお前の日常だ! ガキじゃあるまいし、ヒーロー気取りの下らない非日常に、いつまでもバカみたいに酔っ払ってるんじゃねぇよ!」

 一言一言叫ぶ度に、ウエスギはその拳で殴った。ユウの顔を、みぞおちを、脇腹を。ウエスギの怒声と、骨の軋む鈍い音が、がらんとしたエントランスに、幾重もの音のうねりを作る。

 ウエスギが怒鳴り終える頃には、すでにユウは、自身の膝が利かないほどに前後を失っていた。倒れずにいるのが精一杯の体で、身体をふらつかせつつ、ウエスギを睨み据える。

 その顔は、一面が赤く腫れあがり、唇や瞼はひどく血を滲ませている、

一方、ウエスギの拳にも、ユウの返り血とは別の血が浮かび始めている。

 エントランスの外から、グラウンドの砂嵐に似た埃っぽい臭いが漂う。案の定、ほどなくして、大粒の雨がロータリーの植え込みを洗い始める。

「あんたこそ、誰だ」

 ぼそり、と、ユウは呟いた。

「なに?」

 半ば雨音に掻き消されたユウの呟きに、ウエスギは訊き返した。

「あんたこそ、誰なんだよ! ウエスギぃ!」

全身の痛みを押しつつ、ユウは大音声で吠えた。

「……俺が?」

 一瞬、言葉に気を取られたウエスギの横面に、すかさずユウは、渾身の拳を見舞った。武芸に練達したウエスギも、この不意打ちには防御が間に合わず、その精悍な横面に強烈な一撃を食らう羽目となった。地を這わずには済んだものの、片膝をつき、その姿勢を大きく崩す。

 そこへ、なおもユウは追いすがり、拳を叩き込んだ。しかし、この二発目は空を薙ぐ。体勢を整え直したウエスギが、素早く体を退ったのだ。

「お前……本気で殴ったろ」

 言いながらウエスギは、口中の血を忌々しげに吐き捨てた。一方のユウは、肩で荒い息をつきつつ、なおもウエスギを睨み据える。

「……そんなに、この街を、守りたいのか?」

 呻くように、ユウは訊ねた。

「……」

「そんなに、この街の連中の腐った性根を、歪んだ人間性を、守りたいのか? この街の、腐った社会システムを……その象徴であるゲートを、守りたいのかよ!?」

 すでにユウの声は、狂気を帯びた絶叫と化していた。が、しかし、そんな彼に、ウエスギはあくまで静かな口調で答えた。

「……ああ」

「嘘言え! マキタを助けろと僕に銃口を突きつけたたあんたは、一体、どこに行っちまったんだよ!? えぇ? 答えろよ!」

 ユウの絶叫に、しかし、ウエスギはきっぱりと答えた。

「俺は、逃げない」

「……は?」

 思いがけぬ返答に、ユウは思わず、その痣だらけの顔に怪訝の色を浮かべた。

 一方のウエスギは、なおも毅然とした口ぶりで続ける。

「俺は、ゲート警備隊二課、出入管理課課長及びインサイト管理責任者、ウエスギシンヤだ! それが俺の立場であり役目なんだ! 自分自身から、俺は絶対に逃げない! 絶対に! 何があってもだ!」

ウエスギの怒声が、がらんとしたエントランスに虚しくこだまし、そして消えた。

 ―――どれほどの時が経ったろうか。

 ややあって、ユウはぽつりと口を開いた。

「幸福の王子って童話を、知っているか」

「……聞いた事は、ある」

 ユウが持ち出した意外な話に、戸惑いの色を浮かべつつ、ウエスギは返した。

「あんたは、金箔を纏った王子の像だ。目の前で困っている人達がいても、動く事ができない。手を差し延べたくても差し延べる事ができない……それで苦しんでいた。そうだろう? だからツバメに、自分の代わりとなって彼らを助けてくれと頼んだ。違うか?」

「……何が言いたい」

「本当は辛いんだろう? システムが歪んでいる事も、ルールがオカシイ事も、みんな分かっているんだろう? だから僕にゲートブレイクを頼んだんだ、そうだろう!」

 雨脚はさらに強さを増す。エントランス近くの木々は、すでに驟雨の中に霞んでいる。

「……それでも、このゲートを守らねばならないのが、ウエスギシンヤの仕事だ」

 ウエスギの静かな声は、しんと静まったエントランスに、虚ろに響いた。

「ウエスギさん」

「……何だ」

「次に会う時は、僕とあんたは敵同士だ」

「ああ。その時は、間違いなく貴様を収監所送りにしてやる」

結局、それが二人の別れの挨拶となった。



四年に一度の市議会議員選挙を一週間後に控えたゲートシティは、本来であれば、各党、各候補者の掲げる主義主張や、各メディアがぶち上げる各党の予想獲得議席数に、一気に喧しくなるはずであった。ところがその夏、ゲートシティのテレビ局、及び、ネットのニュースサイトで、毎日のように報じられていたニュースは、それらの月並みな選挙報道とは、いずれも一線を画したものであった。

『ミズシマ代表、今回の、新世代バンクからの口座情報漏洩の原因について、情報セキュリティを担当なさっていた企業の代表として、是非、詳しい説明をお願いします』

『一部では、漏洩の原因は、ミズシマ氏本人が個人的に作成したウイルスソフトにある、との噂が立っていますが、ミズシマ代表の見解を、お願いします!』

『御社のローカルネットワークに、何らかの経路でウイルスが侵入したとの情報も……』

先程から、ジャンク屋の片隅に置かれたテレビは、一人の太った脂顔が、おびただしい数の記者やカメラ、マイクに取り囲まれ、厳しい追及を浴びる様子を映し出している。かつて、ホテルの最上階にてフォアグラにかぶりついていた際の厚顔さは、今や、その顔から完全に霧散し尽くしていた。男は、脂で重く光る髪を振り乱し、濁った眼球に疲労を色濃く浮かべている。

「この人って、あの時の?」

ぼんやりとテレビを眺めていたオノが、怪訝な顔で振り返りつつ、ユウに声をかけた。

一方のユウは、何食わぬ顔で、壁にずらりと陳列されたジャンクパーツの品定めを続けている。警備隊を辞めて半月。顔の腫れはほぼ収まりつつある。

「社長、せめて、この倍以上の処理速度があるCPUを、用意できませんかね」

 言いつつ、ユウは、店内で最も速度が早いと銘打たれたCPUチップを摘み上げる。

「今、手元にある俄か造りのサーバーだと、ダウンするのは時間の問題です。早く、何らかの対策を講じないと」

 社長は、坊主頭をつるつると撫でながら、店の奥からのそりと顔を出した。

「いんやぁ、そう言われても、ここはジャンク屋だからねぇ。中古で売りにでも来てくれなきゃ、店には入らないよぉ」

「そうですか……困ったなぁ」

「そんなに欲しかったら、ゲートシティで買えばいいでしょうに」

 すると、ユウの顔に自嘲めいた笑みが浮かんだ。

「無理ですよ。怖い門番にマークされていますから、僕は」

 テレビは、相変らずミズシマ氏の無様な弁明を垂れ流している。

 彼が、このようにメディアによって槍玉に上げられてしまったのは、彼の会社が請け負っていた銀行のセキュリティシステムが、何者かの手によって打ち破られてしまったためだった。

しかし、仮にこれが単純な漏洩事件であったなら、選挙前の大事な時期に、これほどまで頻繁に、重大ニュースとして扱われる事はなかっただろう。問題の本質は、この漏洩事件の影響が、市内の政財界にも広く深く及んだ事にあった。漏洩の影響により、彼のクライアントである新世代バンクが密かに管理していた情報が暴かれ、多くの市議会議員や企業役員が所有する裏口座が、その存在をことごとく白日の下に曝されてしまったのだ。各メディアは、この漏洩事件を、近く行われる選挙報道以上に執拗に報じ立てた。

「でも、ミズシマ君は、ゲートシティのIDを持ってるんだろう?」

「とっくの昔に失効しましたよ、そんなもの」

 言いながら、ユウは肩を竦める。

「また取ればいいじゃない」

「嫌ですよ、面倒くさい」

 ミズシマ氏の青褪めた脂顔がメディアを席巻する一方で、彼を追い込んだ下手人の姿は、画像どころか、その本名すら明かされる気配を見せなかった。唯一、市民の前に明らかになっているのは、裏口座の情報をネットワークにアップした人物が、HAPPYSWALLOWなるハンドルネームを使用している、という、取るに足らない事実だけである。その人物の正体が、一体どのような人物であるか、各メディアの間では、すでに激しい推理合戦が始まっていた。あるミステリー小説家気取りのコメンテーターは、ゲートシティ自治政府に不満を持つ、地下アナーキストの仕業だと断じた。また、選挙前の醜聞に顔を青くした与党側の議員は、今回の漏洩事件は、敵陣営を政権から引き摺り降ろすために、野党側の人間が仕組んだ、薄汚い策略だと喚いた。

誰もが真実に興味を抱き、憶測を生み、そして情報を消費した。

 けれども、それらの憶測はどれ一つとして、真実を捉えてなどはいなかった。

 真実は明らかにならないまま、今も事実だけが街を駆け巡っている。裏口座の情報を開示するためにハッカーが立ち上げたリークサイトは、開設から二日が経過した後も、一時間に数千単位のペースでアクセスカウントを叩き出していた。人口約五〇万人のゲートシティで、だ。

『今回の件について、ミズシマ氏はどのような責任を?』

 記者の一人が質問を投げつける。と、ミズシマ氏は苛立たしげに眉を吊り上げ、髪を振り乱しながら怒鳴った。

『責任!? ……どうして俺が責任を取らなきゃいけないんだ!? え? むしろ、俺は被害者なんだぞ!? 何も悪くないんだ! 責任を取るのは俺じゃない、このリーカーだよ!! 情報をバラしやがった、この、忌々しいくそリーカだ!』

ミズシマ氏が怒号を撒き散らすと同時に、彼の不遜な本性を捕らえるべく、その周囲でおびただしい数のフラッシュが焚かれた。

『俺は被害者だぁ!』

「なんだか、気の毒ですね」

 眉根を寄せつつ、沈痛な面持ちでオノは呟いた。しかし、一方のユウは、

「どうして? 僕は彼の教えに従ったまでだよ」

 と、まるで叩き潰した蚊の死骸を、くずかごに捨て去るかのごとく平然と言い放った。

「負けたくなければ、奪え、ってね。本当に、大切な事を教えてくれたよ、あの人は」

 そしてユウは、その口元に歪んだ笑みを浮かべた。


 

 とはいえ、ユウを取り巻く状況は、決して楽天的とは言い難いものだった。

 彼のサイトをアップするサーバーは常に、アクセス数の増加によるダウンの危険に苛まれていた。旧市街のジャンク屋を回り、CPUをかき集めたところで、彼のリークサイトを安全に保持しうるほどの巨大なサーバーを組むことは不可能だったのだ。

のみならず、彼のサイトは、ゲートシティ側からの絶え間ない攻撃に曝されていた。脅威の大小こそあれ、その頻度はおびただしいものだった。

ゲート自治政府の各情報機関が、IPアドレスを特定するために執拗に彼のログを嗅ぎ回る場合もあれば、素人ハッカーが愉快犯的に単純なウイルスを送りつけて来るだけの場合もあった。サイトの開設以降、ユウは常に、これら有象無象の攻撃への対処を迫られていた。

仕事は辞めても、作業内容は以前とほとんど変わるところがない。ただ、以前と違うのは、もはや作業シフトを組むべき同僚がいない事と、たとえ目が疲れても、もはや保養のためにと、ビルの屋上に行って夜景を眺める事はできない、という事、それだけだった。

「なぁ、ユウ、少しは寝たか?」

 背後から、ドアの蝶番が鳴る音と共に、リコが声をかけてきた。

 つい先程、仕事に出かけるリコを見送ったような気がする。ディスプレイから顔を上げ、窓を見ると、街の景色は、先程と同じ夕暮れ時の薄闇に覆われている。ただ、やけに寒い。

「あれ? まだ仕事に行ってなかったのか?」

 振り返りもせずにユウが訊ねると、背後から、意外な言葉が返ってきた。

「は? 行ったし。つか、今帰ってきたんだけど」

「……へ?」

 怪訝な色を浮かべつつ、ユウは玄関を振り返った。

「行ってきた? どういう事? 今日は休みだったのか?」

「何言ってんだよ、お前」

 呆れ顔を浮かべながら、リコはテーブルに歩み寄った。その全身からは、十代という彼女の歳には不相応な、大人びた洋酒の香りが漂っている。はっとして、ユウは手元の腕時計を見た。警備隊支給のアナログ時計は、すでに午前四時を指している。

「いつの間に……」

改めて窓を見る。あの薄闇は、暮れつつある夕闇ではなく、むしろ、新しい朝の兆しなのだ。

「ったく、体壊しても知らないぞ」

 溜息と共に文句を垂れるリコには構わず、ユウは再びディスプレイに向き合った。そんな彼の袖を、横にぐいと引っ張りながらリコは言う。

「ほら、今日はもう休めよ」

「……せめて選挙までは、持ち堪えないと」

 選挙までの時間は、残すところ一週間を切っている。旧市街さえも、ゲートシティ側から垂れ流される選挙報道の粗熱に感応してか、若干の浮わついた様子を見せる頃合いだ。

「いいじゃねーかよ、どうせあっちの街の選挙なんて、あたしたち旧市街民には関係ねーんだ」

 実際、旧市街の人間に、ゲートシティの議員を選ぶための選挙など、毛ほどの関係もありはしない。それでも彼は、キーボードを叩く手を止めようとはしなかった。

「ガキのゲームじゃねーんだよ、加減っつーもんを考えろ、バカ」

「……」

 が、もはやユウは何も答えなかった。

 リコがシャワーから上がり、傍らのベッドに潜り込んでも、相変らずユウの目はひたすらディスプレイのコードを追い続けていた。

「……バカじゃねーの?」

 ふと、枕元から声がした。

「なんだよ、どいつもこいつも、ゲートゲートってよ。ほんっと、バカじゃねーの」

「……あと一週間だ。選挙が終わったら、サイトは閉じる」

「その頃には、もう、冷めてる」

「……何が?」

 そ知らぬ振りを貫きつつ、あくまで冷淡に、ユウは返した。

 ユウにとって、今、彼が行っている作業は、自分の中に一つの大きなけじめをつけるための、言わば、禊に近い行為だった。あの街と真の意味で決別し、新しい世界を手にするための、彼なりの通過儀礼なのである。

その新しい世界に、リコはいる。彼にとって、もはやリコは、禊を済ませなければ触れる事の許されない、不可侵な存在と化していた。

もちろん彼は、今この瞬間も、その手で彼女の肌に触れたくて、その指で彼女の髪の毛を掻き撫でたくて仕方がなかった。首筋に舌を這わせ、清涼な匂いに意識を埋没させてみたかった。

だが、それは、誰よりも彼自身が、彼に許し得ぬ行為だった。

「バカ……」

 それきりリコは言葉を閉ざした。ほどなくして、その枕元からは微かな寝息が立ち始めた。


――――それから、どれほどの時間が経っただろう。

ふと、うたた寝から醒め、テーブルから頭を起こしたユウの目に、おぞましい数字が飛び込んだ。開設されて以来、多くとも日に数万のペースで増えていたアクセスカウンタの数字が、突如、とてつもない桁のカウント数を叩き出していたのだ。

 早朝にも関わらず、ユウは慌ててモバイルを取り出すと、ジャンク屋の社長へ電話をかけた。寝惚け声で電話に応じた社長に、早速、息を巻いてまくし立てる。

「社長、何とか、企業用の大型サーバーを工面できませんか?」

『……にゃあ? きぎょうよう……? なんで?』

「アクセス数が一〇〇〇万を超えています。この数字は尋常じゃない。間違いなく、こちらのシステムダウンを目的とした、攻撃的アクセス要求です」

 多数のパソコンを乗っ取り、それらを踏み台として、攻撃対象サイトに対し、同時に大量のアクセス要求信号を発信する。対象となったサイトのサーバーは、膨大な信号の処理に忙殺され、場合によっては、処理能力を超えて、最終的にはシステムをダウンさせてしまう。

ユウは忌々しげに舌を打った。それは、彼のサイトが持つ最も脆弱な、同時に最も補強し難い弱点を狙った、単純だが最も効果的な攻撃だった。要は、物量作戦だ。一つ一つの攻撃方法は単純だが、いかんせん数で攻められては、もはやユウ自身の対処能力ではなく、サーバーそのものの演算能力の問題となる。だが、現実問題として、金銭的にも環境的にも脆弱なサーバーしか用意できないユウには、この問題に対してだけは応戦の仕様がなかった。

「お願いします、このままでは、サイトが落ちてしまう」

 だが、電話の向こうから聞こえてきたのは、釈然としない声だった。

『でもねぇ、前にも言ったと思うけど、アタシんとこみたいな零細ジャンク屋じゃあ、それだけのアクセス信号を処理できるサーバーを準備するのは、ちょいと無理だねぇ』

「だからと言って、このまま攻撃に対して手をこまねく訳にはいきません」

 うーん、と、しばし社長は、電話の向こうで深く唸った。思いがけず長い沈黙が続き、よもや、そのまま再び眠り込んでしまったのかとユウが訝り始めた頃、ようやく、電話口から返事が寄越された。が、それはユウにとって、決して喜ばしい返答ではなかった。

『ミズシマ君、あたしゃもう、このサイトは閉鎖すべきだと思うんだけどねぇ』

 その言葉に、ユウは、目の前の景色が俄かに暗く落ちる心地を覚えた。選挙までサイトを閉じるつもりはないと、自分に誓っていた、なのに。

「何故です」

『何故って、よぉく考えてみなさいよ。サイトの情報は、とっくの昔にゲートシティの大手メディアが引きついで報じてくれているんでしょう? それに、あんまり長く続けていると、警察や警備隊が、君を嗅ぎ付けてくるよぉ』

「でも、もし、ここでサイトを閉じたならば、僕は連中の圧力に屈した事になる、正しい事を正しいと、もはや言えなくなってしまう」

『とは言ってもねぇ、このままじゃ捕まるよぉ、ミズシマ君』

 ところがユウは、社長の言葉に、ことさらに激しい口調で応じた。

「でも、僕は負けたくない! あの街の圧力に屈したくないんだ!」

『まぁまぁ、意地を張っても仕方がないでしょう、まずは落ち着いて、』

「負けたくないんだよ! 絶対に! 何があっても! もちろん、閉じた方がいいって事ぐらい、僕にもわかる。けど、負けられないんだ! 叩き潰さなきゃ、気が済まないんだよ! そのためなら、僕は、捕まろうと殺されようと、どうなっても構わない! 連中をみすみす安心させてたまるか。僕は、奴らと刺し違えてでも戦う! だから早く、サーバーを用意しろ!」

『ミズシマ君……』

その時だった。

「ユウ」

不意に、ユウの肩を強く抱きすくめるものがあった。軽い驚きと共に、その正体を見下ろしたユウの目に、彼の肩を包む、白く、か細い腕が映った。

腕は、寒さに震える雛鳥のように、儚げに震えていた。

「リコ?」

「もう、やめてくれ……もう」

 絹が擦れるような声で、リコは囁いた。

「起きてたのか? リコ」

「あんなデカい声で喋ってたら、誰だって起きるよバカ」

「じゃあ、わかるだろ。この戦いだけは、退くわけにはいかないんだ」

その言葉に、リコの腕がいやましに締まる。

「腕をどけろ、リコ。僕には、まだ、やらなきゃいけない事が、」

「―――愛されてんだぞ?」

「え?」

 その言葉に、ユウは思わず声を上げた。

「え、じゃねーよ、わかってんのかよ。……お前、愛されてんだぞ?」

「……」

「……なのに、捕まってもいいとか、死んでもいいとか、あたしの横で怒鳴ってんじゃねーよ。殺すぞ。マジで」

「……」

ユウには、もはや答えるべき言葉を見つける事ができなかった。背中に触れるリコの胸から、陽だまりのように温かな体温が、彼の身体へとゆっくり浸潤してくる。その柔らかな温もりに比べれば、勝利も、敗北も、のみならず、この世にあまねく存在する価値はいずれも、彼の目にはひどく色褪せ、くすんで見えた。

「ユウ。あたしはもう、失いたくない。失ったらきっと……また、憎む相手が、増えちまう。憎むのは、もう、疲れた……」

「リコ……」

 振り返ったユウの目の前には、寝起きか、それとも泣いているのか、眼窩を赤く腫らしたリコの顔があった。

 そして二人は、どちらともなく、その唇を、重ね――――

 その時だ。軽快な電子音と共に、小さなポップアップがディスプレイに表示された。

「え?」

 それは、メールの到着を告げるポップアップだった。しかも、そのメールの送り主は、他でもない、物別れとなったはずの、ウエスギ、その人だった。

「ウエスギ、さん?」

「兄貴が?」

「まさか、……どうして?」

 不安げな面持ちをリコと突き合わせつつ、ユウはメールを開いた。そこには、一枚の画像ファイルが添付されていた。ウイルスの有無をチェックし、早速、画面に展開する。映し出されたのは、一枚の写真らしき画像だった。だが、兄が寄越したその写真に、リコは首を傾げる。

「なんだ、これ」

「これは……」

そこに映っていたのは、一枚のメモ紙だった。英単語が殴り書きされたメモが、レンズ越しに至近距離で撮影されている。それが、被写体と呼べる唯一のものだった。筆跡から察するに、ウエスギの手による文字である事は間違いない。

「HAPPYPRINCE? 何だ? これ」

怪訝な口調で呟くリコを尻目に、すぐさまユウは、ラップトップを引き寄せ、キーボードを叩き始めた。その一方で、モバイルを取り上げ、再び社長に電話をかける。

「もしもし、社長?」

『はいよ』

「サーバーを用意する必要は、なくなりました」

 先程までの、苛立ちに沈んだ声とは一変、高揚した口調でユウは言った。

『ど、どういう事だい?』

「ゲートシティ最大級のサーバーが、工面できました」

『へぇ?』

それきり、ユウは電話を切ると、物に取り付かれたように猛然とキーボードを叩き始めた。



その日の午後。

警備隊本部、及びゲートシティの各メディアは、インサイト専用サーバーが、ハッキングによる攻撃を受けたという衝撃的な事件で持ちきりとなっていた。しかも、攻撃を受けるのみならず、一時的ながらも、例のリークサイトによる掌握をも許してしまったのだ。

この一件により、すでに裏口座リーク事件によって異様な流れを帯びつつあった選挙戦は、さらに紛糾の度合いを増す事となった。ジャーナリストや知識人は、ゲートシステムの要であり象徴であるインサイトを、リークサイト主催者が敢えてハッキングのターゲットとした理由、及び、その政治的思想について、あれこれと想像を逞しくし、論陣を張り、その主張を烈しくぶつけ合った。

彼らのこうした動きは、いずれゲートシティ全体へ拡散し、市民の間に、ゲートシステムの是非についての議論を生むきっかけとなるはずだ――――と、ユウは期待した。

ところが、次第に状況は、ユウが望まなかった方向へと、その流れを変え始めた。

メディアや市民が、裏口座を使用していた議員や会社役員らへの糾弾に勤しむ一方で、与党は、彼らの目の届かぬ所で、すでに自陣の建て直しを始めていた。まず、大々的なアナウンスをもって、不正を働いていた元議員を立候補者リストから外し、党自体の浄化をアピールした。そして、その後は何食わぬ顔で、かつての同胞を槍玉に挙げ、彼らに全ての罪悪を押し被せたのである。

それまで与党全体に向けられていた市民の敵意は、議員個人の倫理問題とすり替えられ、結果、与党が掲げるゲートシステム自体への問いかけは、次第に、その熱を失っていった。

結局、市民が求めていたのは、議論ではなく、分かりやすい勧善懲悪の図式だったのだ。彼らの多くは、この浮ついた勧善懲悪の図式を一種のエンターテイメントとして消費し、浪費した。そして、肝心のゲートシステムの是非については、ついぞ、さしたる議論が交わされる事はなかった。

結局、蓋を開けてみると、多少の手傷を負いつつも、やはり今回も自進党が安定した勝利を収めていた。ゲートシステムや警備隊についても、引き続き、その存在は維持される事となったのである。

そうして、四年に一度のゲートシティ市議会議員選挙は、波乱の内に、ようやく、その幕を下ろした。



「だから言ったでしょ? 連中はしたたかだって」

 そう言って、カウンター越しのカンザキは、くいとグラスを煽った。

「むしろ、よく頑張った方だと思うわ。だから、いい加減に元気出して。ね?」

 一方のユウは、カンザキの向かいに腰掛けたまま、身じろぎ一つせず、唯々、手元のグラスに浮かぶ氷を、見るともなく見つめていた。

選挙から五日が経過したその夜、ユウは悄然とした面持ちで、『アヴェクトワ』のカウンター席に座っていた。

「ねぇ、リコちゃん。ユウ君って、あれからずっとこんな感じなの?」

 俄かに話を振られたリコは、酒の在庫リストから顔を上げるなり、うんざりげに言った。

「それでも回復した方だよ。最初の二日ぐらい、マジで冬眠中のカメみたいにずーっと布団に包まっててよ。蹴っても叩いても水をぶっかけても、ちっとも起きないんで参ったぜ」

カンザキは呆れたように、はぁ、と溜息をついた。

「この流れであいつの事を持ち出すのも何だけどさ、あいつの方がもっと大変よ。インサイトが乗っ取られた罰として、六ヶ月の停職に、降格処分ですって。もう、踏んだり蹴ったり」

今回のハッキング事件は、ゲート警備隊の信頼を損なう極めて重大な失態として見なされた。責任者はことごとく降格、ならびに停職を余儀なくされ、中でも、インサイトの管理責任者であったウエスギには、六ヶ月の停職、及び幹部職剥奪という重い処分が下された。

そこで、ようやくユウは沈痛な顔を上げた。

「だからこそ、ですよ。あの人に、そこまで迷惑をかけておいて、結局、僕は何も変える事ができなかった……」

 今にも泣き出しそうに顔を歪めるユウに、カンザキは柔らかに微笑んでみせた。

「気にしなくていいと思うわ。だって、あいつが自分からパスワードを送ってきたんでしょ?

当然、こうなる事は覚悟していたはずよ」

「でも……」

 さらに反論を試みるユウを制するように、カンザキはカウンターに乗り出して言った。

「いいのよ。あいつにとっても、お父様の呪縛から抜け出すための、良い機会だったんだと思うわ」

「呪縛、から……?」

 思いがけない言葉に、ユウが訊き返すと、カンザキは満足げに頷いた。

「その証拠に……ねぇユウ君。これ何だと思う?」

 言いながら、カンザキは左手をカウンター越しに差し出して言った。その薬指には、星を集めて固めたかのようなダイヤモンドの指輪が輝いている。

「……指輪、ですか?」

いまいち釈然としない様子のユウに、カンザキは嬉しそうな笑みを浮かべた。

「そ。婚約指輪。あいつから貰ったの」


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