七章
ゴトウのマシンが何物かに乗っ取られ、そのディスプレイ上に、突如膨大なソースコードを紡ぎ始めたのは、ゴトウが、いつものようにサタデーマンザイショーにうつつをぬかしていた、まさにその時だった。それらのコードに、ゴトウはもちろん、隊員達は思わず息を呑んだ。
それは紛れもなく、不正ID登録―――ゲートブレイクを行いつつあるハッカーが紡いだ、不正登録のための侵入プログラムだった。
「ななな、なんぢゃこりゃあ!」
だが、丁寧な仕事の一方で、その下手人はあまりにも杜撰な一面を彼らに示していた。
「ログが、こんなに……」
それは、侵入経路上に大量に残されたログだった。ログは、旧市街への市役所から始まり、ゲートシティの市民情報データベースに至るまで、その侵入経路上にべっとりと残されていた。初心者のハッカーでも、ここまであからさまにログを残すケースはまず見受けられない。
「これ、ワザと残しているんじゃないか?」
課長の一言で、彼らはすぐさま居場所の特定を開始した。特定を終えるなり、場所を一課へと報告する。と、すぐさま一課は特殊部隊を編成し、現地へと駆けつけた。
以上が、後日ユウが聞かされた、例の突入劇に至るまでの警備隊本部の動きである。
あれから、ヤクザの構成員は、ことごとく逮捕され、もしくは射殺された。警備隊北棟地下三階の死体安置所には、数体の死体と共に、端正な顔を粉々に砕かれたノムラの亡骸も並べられている。
裏切り者は死に、敵組織は壊滅した。現実を鑑みれば、ユウを取り巻く脅威は、ほぼ解消したと言ってもいい。しかしながら、あの一件以来、ユウの内奥に生まれた魚の小骨のごとき違和感は、解消するどころか、日を追うごとにその存在感を増しつつあった。
恐怖装置―――あの男は、ユウが守るこのゲートを、このシステムを、そのような名で呼んだ。市民を守るためではなく、むしろ市民を脅かすための存在である、と。
もし、男の弁が、より深く真実を貫いているのだとしたら、今までの自分は、一体、何に囚われて生きていたのだろう。
ゲートブレイクを拒んでいた自分は? 旧市街を忌み嫌っていた自分は?
リコとの距離を保たねば、と、思い込んでいた自分は?
……父と、あのような別れ方をせねばならなかった自分は……?
「つーか、なんでオメーが、俺のパスワードを知ってんだよ!」
不機嫌な声に、はっと振り返ると、ゴトウが目を三角にしてユウを睨みつけていた。
「は……はい?」
「だぁあからさ、なんでお前が、俺のパスワードを知ってんだよ!」
「……ですから、何度も申し上げたはずです。パスワードを変更した方が良いですよ、と」
「チッ」
そしてゴトウは、ぶちぶちと愚痴を漏らしつつ、ようやくパスワードの変更にとりかかった。
「いやぁ、俺も驚いたよ!」
海沿いの遊歩道にて、手すりにもたれかかりながら、ウエスギは得意気に声を上げた。
消波ブロックの上では、今日も数人の釣り客が、子アジ釣りに興じている。
「一課のロッカーから戦闘服を拝借してなぁ、トラックの荷台に紛れちまえば誰も気付かないんだ。みんな顔をマスクで隠してるからね。これは一度、ヤマモト一尉に、隊員識別システムの問題点を上申しないとなぁ、はははは!」
と、得意気に語るものの、一課の突入部隊に紛れ込むのは、決して生半可な行為ではない。よしんば紛れ込む事ができたとして、高度に訓練された戦闘スキルを持ち合わせなければ、突入後に露見するか、さもなくば敵の鉛玉の餌食となっていただろう。類稀な運動能力を持つ、彼ならではの荒業と言える。
「そんな無理をなさらなくとも、口止めなら僕が、」
「いや」
ユウの申し出を、ウエスギは強い口調で遮った。
「そもそも、これは俺が撒いた種だ。それに何より、リコは俺の……」
ざん、と、消波ブロックで波が弾けた。潮風に乗った飛沫が、微かに顔へ降りかかる。
思いがけず、ノムラの血しぶきを想起したユウは、微かに顔をしかめた。
「……なにやってんだろうな。俺」
ふと、ウエスギは呟いた。
「一体何がしたかったんだろう……たった一人の肉親を危険に晒してさ、ほんと、何をやってんだろうな。マジで、奴の言うとおり、ただの道楽に過ぎなかったのかな」
「違います。ウエスギさんは、本当に自分の信念で、ゲートブレイクを、」
「その結果が、これだよ!」
やおら、ウエスギはその拳を、欄干に激しく叩き付けた。
「結果、何が起こったよ!? ―――ああ、知ってるさ、知ってるよクソッタレぇ! ……全部、俺のせいだ。リコにも、お前にも、辛い思いをさせちまって……」
呻きつつ、ウエスギは真っ青な顔を、その腕に深く埋めた。
「僕の事は、いいんです。僕は、あくまで自分の意思でゲートブレイクを、」
「いいや。お前は俺に騙されたんだ」
その言葉に、ユウは思わず、眉根を寄せて訊き返す。
「……騙された?」
「そうだ。お前は俺に騙されたんだよ。―――世界を変えられる、ルールを変えられる。そんなオメデタイ夢想図に、酔っ払っていた俺にな」
遠くの空では、人様の俗事など知らぬ体で、ウミネコが気持ち良さそうに舞っている。
「ユウ、今更、勝手な事を言うみたいで、悪いんだが」
ウエスギの声は、もはや嘆きを通り越し、完全な虚無に冒されていた。魂を伴わない空気人形が、萎みながら噴き出す気体と変わらない。
「はい」
「日常へ、帰ろう」
「は?」
「もういいんだ、ユウ。いいんだよ。今回の事で、俺はよくわかった。―――所詮、システムの前に、俺達は、あまりに無力だ」
それきり、ウエスギはその口を堅く閉ざした。
リコが拉致された日、カンザキがいつものように店に現れると、そこに、いつもであれば一足先に出勤し、開店準備に勤しんでいるはずのリコの姿がなかった。いくら電話をかけても繋がらず、不審に思ったカンザキは、すぐさまリコの家に駆け、居ないとわかるや、今度は、二人が一時的に身を寄せるオノの部屋へ駆け戻った。その後も彼女は、リコを探して市内を駆け回ったが、ついにリコの姿を見つけ出す事はできなかった。それもそのはず、その時にはすでにリコは、店の前で待ち伏せていたノムラ等によって、拉致された後だったのだ。
「ごめんね、ユウ君、私がもっと、しっかりしていれば……」
ユウの隣で、カウンターに肘をつき、頭を抱えながら、カンザキは呻いた。
「いえ、そもそも僕らが悪かったんです。こんな事に、二人を巻き込んでしまって……」
「いいえ、私も軽率だったのよ。せめてリコちゃんだけでも、ゲートに避難させていれば」
電話口でのウエスギの言葉を、ふと、ユウは思い起こした。いくら勧めても、二人はゲートの内側への避難を受け入れなかったという。しかもカンザキに至っては、この期に及んでも、自分もゲートシティに戻れば良かったとは言わない。
「カンザキさんは、本当にゲートシティが嫌いなんですね」
「どうしたの? 急に」
「ウエスギさんから聞きました。ゲート内への避難を勧められても、お二人は決して首を縦に振ろうとはしなかった、と」
カンザキは、大きな鳶色の瞳を伏せ、手元のグラスに落とした。琥珀色の液体の中で、透明なロックグラスが、光を散らしながらそっと揺れる。
ややあって、彼女はようやく口を開いた。
「ええ。大嫌い」
それは、いつもの軽妙な彼女の声色とは程遠い、臓腑の底から噴出した澱のごとき声だった。
「どうして」
グラスを軽く煽ると、再びカンザキは、おもむろに口を開いた。
「……私、あっちにいた頃は、ある企業の会計部にいたの。もちろん、サラリーを貰っている以上は、企業のために働くわけよね。……でも、企業の……あの連中が考えている事と言ったら、いかに溜め込むか、奪うか、自分達の報酬を守るか……そういう事ばっかり」
「―――で、辞めた、と?」
「そう。だってさ、私達が毎日毎日、いかにして維持費を減らすか、従業員の給料を切り詰めるか、一円単位で凌ぎを削ってる横で、役員連中はホテルの最上階でのんびりディナーでも食ってるわけよ。なんていうか、もう、わかんなくなっちゃって。何やってんだろ私、って」
「僕も……わからない」
「え?」
「警備隊の仕事も、ゲートシティに住み続ける事も……わからない。何のために、僕は……」
「何か、あったの?」
横から覗き込むカンザキに、すがるようにユウは訊ねた。
「カンザキさん……。ゲートって、一体何なんですか? 僕やウエスギさんが、いや、僕ら市民が守ろうとしている、ゲートシティって何なんですか?」
「どうして、急にそんな事を訊くの?」
「わからないからです!」
今にも泣き崩れそうな顔と声で、ユウは叫んだ。
「僕の仕事には……考え方には、意味があったのか、それが知りたいんです」
「疑ってるの?」
「……でなければ、こんな事、わざわざ訊きません」
しばし、カンザキはグラスを眺め、そして、訊ねた。
「今から三〇年位前まで、市民税が今の半額程度の値段だった事は、知っているかしら?」
「え? 半分?」
思いがけない話の切り口と、その内容に、ユウははたと目を見開いた。
「ええ。それでも、あの街のインフラや社会機能は充分維持されていたそうよ。これが何を意味しているかというと、つまり、今の税額は、街を維持するためと言うには、多すぎるって事」
「で、でも、昔と今は、抱えている問題が違います。高齢化に伴って、医療費が……」
「にしても、二倍なんて取りすぎよ。もう一つ、面白い数字があるの。ここ三〇年もの間、値上がりを続ける市民税の一方で、下降の一途を辿っている税金があるわ。企業税よ」
「えっ、……企業税?」
「そ。おかげで、企業の役員連中はホクホクよ。今まで払わなきゃいけなかった税金を、払わずに済むようになったワケだから」
「ど、どうして市民は、そんな事を黙って許しているんでしょう」
「決まってるじゃない。街を出たくないからよ。出るのが怖いから」
「怖い……?」
「ひとたびストでも起こすなり、組合でも作った日には、即刻会社をクビになって、それきりゲートも追い出される。それが分かっているから、みんな黙って連中の言い値を払い続けるの。―――もっとも、私は文句を言ったけど。出て行く間際にね」
「……恐怖装置」
ユウの口から零れ出た思いがけない言葉に、カンザキの三日月眉が吊り上がる。
「僕らを拉致したヤクザの組長が、ゲートを指して言った言葉です。あれは、旧市街の人間を締め出すためと言うより、ゲートシビルを脅すための装置だ、と」
「へぇ、面白い喩えね。すごく的を射てる」
「カンザキさんも、そう思いますか」
「ユウ君は?」
その問いに、ユウは首を縦に振ることができなかった。怖かったのだ。男の弁を、いよいよ認めようとしている自分がいる。その事実に、ユウは愕然としていた。
強張る感情をなだめるべく、ユウは話頭を転じる。
「そういえば、リコは」
「家で休ませてるわ。今日も、あの子の家に寄って様子を見て来たんだけど、まだ、気分が安定しないみたいで」
「そうですか……」
「あの子、強情なようで、案外、芯は繊細だから。お兄さんに似て」
そこで、カンザキは胸元でパンと手を叩いた。
「そういえば、ユウ君が店に来たら、是非渡して欲しいって、預かって来たわ」
カンザキは席を立つと、カウンターの奥から紙袋を持ち出し、それをユウに差し出した。中を見ると、そこには丁寧に畳まれた警備隊の上着が収まっていた。
清涼感のある洗剤の匂いが漂う。リコの匂いだ。途端、ユウの心臓が締め付けられる。
「彼女、何か言っていましたか?」
「いいえ、何も。どうして?」
「彼女に、もう会わない、と言われました」
「え? どうして」
「わかりません。……でも」
そこで、ユウは大きく息をついた。
「そんなの、今更できるわけがない。か……勝手じゃないか、そんなの。僕はどうすればいい? 旧市街の女だからって、それがどうした? リコは、リコじゃないか! ゲートが何だよ、そんなの、関係ないだろ!?」
「ユウ君?」
「……リコに、会いたい」
紙袋に顔を埋めるユウを眺めながら、カンザキは、呆れたように、はぁと溜息をついた。
「明日は、リコちゃんのお母さんの命日なの」
「?」
ユウは顔を上げた。その目は、今にも泣き出さんばかりに赤く腫れている。
「毎月、この日になると、必ずお母さんの所へお墓参りに出かけるのよ、あの子」
「どこですか? それは」
「絶対にソースはバラさないでね」
カンザキは、その厚い唇に人差し指を押し当てながら、軽く片目を瞑ってみせた。
翌朝。結局、そのまま店で夜を明かしたユウは、カンザキの車で目的地へ送り届けてもらう事となった。
昨夜から降り始めた雨は、結局止む気配を見せないまま、今もなお、灰色にくすんだ街に降り注いでいる。驟雨に煙る中を、旧市街では珍しい新型水素エンジン搭載のスポーツカーが、しなやかに駆ける。
「すみません、朝まで付き合って頂いた上に、送って頂いて」
「いいのいいの、どーせ朝方はいつも暇だし」
車は、旧市街を抜け、一路、郊外にある小高い山の中腹へと向かう。カンザキ曰く、リコの母親は、この先の市民第三霊園なる場所に眠っているのだという。
「じゃあ、頑張ってね♪」
霊園の前でユウを降ろすなり、カンザキはそう言い残し、早々に街へと引き返していった。閑散とした墓地の入口で、一人、消え行くテールライトを見送りながら、これほどひどい雨の日に、墓参りなぞに訪れる人間が果たしているのだろうかと、ユウはにわかに不安を覚えた。ともすれば、カンザキに一杯食わされたのかもしれない、とさえ訝り始める。
それでも彼は、一縷の望みを託し、傍の木陰にてリコを待ち始めた。
玉砂利敷きの入口から、ゆるやかな斜面沿いに広がる墓地を眺める。墓地には、おびただしい数の灰色の御影石が整然と並ぶ以外は、生きた人間の影は一切見当たらない。
墓地の向こうへ目を向ける。と、白い海面の向こう、水平線に沿って、ゲートシティを抱く広大な埋立地が、その黒い影を横たえている。
聞こえるのは、傘を叩くノイズのような雨音ばかり。
そんな中、ユウはふと、封じられた記憶にそっと手を伸ばした。
そういえば、あの日も、こんなふうにひどい雨が降っていた。いよいよ父のIDが失効するという日、旧市街へと去り行く彼を見送った時も、ちょうど、こんな―――
「どうして? どうしてお父さんが、街を追い出されなきゃいけないの?」
ひなびた公営団地のエントランスで、ユウは父にすがりつきながら喚いた。
庇の外の景色は、俄かに降り始めた夕立で白く煙っていた。コンクリートも剥き出しの無機質なエントランスには、ノイズのような雨音と、小さな子供のむせび泣く声だけが響いていた。
ユウは、タクシーを待つ父のシャツにしがみつき、顔を泣き腫らしながら訴えた。
「どうして? 行かないでよ、お父さん!」
すると父は、おもむろにしゃがむと、ユウの顔を見つめながらそっと言った。
「父さんはね、この街から要らないって言われちゃったんだ。だから……、ゲートを出て行かなきゃいけないんだよ」
「どうして? 僕は、お父さんがいなきゃ嫌だ!」
「大丈夫。ユウには、もう、新しいお父さんがいるじゃないか」
「あんなの本当のお父さんじゃないよ! 僕のお父さんはお父さんだけだよ! ねぇ、お父さん、行かないで! 行かないでよ!」
「ユウ……一緒にいたいのは山々だ。けど、駄目なんだ、もう……」
「じゃあ、僕も連れて行ってよ! 僕もお父さんと一緒に、ゲートの外で暮らす!」
泣き喚く息子の鼻水を、ハンカチで拭いながら父は言った。
「ユウ。父さんは、負けたんだ……お前のお母さんや、新しいお父さんに……裁判で、負けたんだ。だから……」
父はそこで、ぐっと下唇を噛み締めた。
「だから父さんは、お前と別れなきゃいけない。―――ユウ、いいかい聞くんだ。負けるって事はそういう事なんだ。惨めなんだ、惨めで、惨めでとにかく惨めで……それが、負けるって事なんだよ、ユウ!」
いつになく取り乱した父の声に、異様な気配を感じたユウは、子供ながらに、腹に響く戦慄を覚えた。円らな目を見開き、じっと父を見つめる。
「お父、さん……?」
「ずいぶん前に、お前の名前の由来を話した事があったな。覚えてるか? ユウ」
「うん……優しい人になれ、って」
「そんなものは、捨てるんだ、ユウ」
「……え?」
「優れた人間になれ、ユウ。優れてさえいれば、街から捨てられる事はない。惨めな思いも、しなくていい」
「でも、お父さんはいつも、優しさが大事だって、」
「そんなもの、いらないんだよ! ……あの女、仕事が大事だと言うから、家の事は何でも引き受けてやってたんだ。俺は家族のために、出来る事を精一杯やってたんだ、それなのに……それなのに、あの女ときたら……あんな男に垂らし込まれやがって……ちくしょう、ちくしょうちくしょう! ちくしょおおおおっ!」
「……お父さん」
ユウが尊敬し、羨望の眼差しを送っていた父の姿は、すでにそこにはなかった。
そこにはただ、他者の裏切りによって帯びた憎悪と怒りを、見境なく周囲に撒き散らす、一人の醜い敗者の姿があった。
「ユウ、よく見るんだ」
やおら、父はユウの肩に取り付いた。狂気を帯びた眼差しに、小さな背筋が凍る。
「これが、お父さんの本当の姿だ」
もはやユウは、声も涙も出す事ができなかった。これまで自分が信じていた理想的な父の姿が、目の前で崩れてゆく様に、そして、そんな父に絶望しなければならない現実に、ユウは、ただひたすら慄然としていた。
「なりたいか? 父さんのようになりたいか?」
しばし、氷像のように全身を硬直させていたユウは、ややあって、その首を横に振った。
雨霧の向こうへ消える父のタクシー見送りながら、ユウは思った。
―――お父さんのような人間には、絶対になりたくない。
結局、父は、ユウが十五歳の時に、旧市街の片隅で誰にも看取られる事なく世を去った。遺体は人知れず火葬され、その遺骨は旧市街の墓地に納められたと、父の死から随分経った頃に、ユウはもののついでに母から聞かされた。
場所は、確か第三霊園と言っただろうか。――――第三霊園?
はっ、とユウは顔を上げた。目の前に立つ石碑には、市民第三霊園の文字が刻まれている。
気がついた時には、すでにユウは、傍らに立つ霊園管理所に駆け込んでいた。
「すみません! この墓地に、タカオカ マコトという人が、埋葬されていませんか!?」
突然、大雨の中から飛び込んで来た墓参客に、管理局の人間と思しき作業服姿の男は、カウンター越しに怪訝な目を寄越しながら答えた。
「はぁ? あんた、ホトケさんの知り合い?」
「はい……息子です」
果たして、父の墓は霊園の奥にひっそりと佇んでいた。だが、父の墓とはいえ、それは決して、父のためだけに建てられた墓ではない。
縦も横も、人の背丈以上はある御影石の石版には、その表面におびただしい数の文字が刻み込まれている。よくよく見ると、それらはみんな、人の名前である。管理人曰く、その墓石は、貧困などの理由により、自身の墓石を用意する事ができなかった人々の遺骨を、合葬するために設けられた公共の墓石であるという。
父の名前は、その中の一つとして、石に刻まれていた。
「父さん……」
玉砂利を踏みしめ、墓石へ歩み寄る。淡灰色の表面に小さく刻まれた父の名前と対峙する。かれこれ、一〇数年越しの再会である。にも関わらず、あの日、自分を見据えた狂気の瞳は、今でもユウの記憶の中に、クリアな映像として残されている。
「父さん、どうしてあんたは、最後の最後で、僕にあんな事を言ったんだ」
答えを寄越さない御影石に、ユウはその拳を激しく叩き付けた。
「答えろよ。どうして最後の最後に、僕を失望させるような事を言ったんだよ!? だったら最初から、優しさなんかいらないって、教えてくれれば良かったじゃないか! 王子もツバメも、バカで間抜けで、こんな奴らみたいにはなるなってさ。……なのに、なんなんだよ、あんたは! 相手が子供だと思って、綺麗事ばかり嘯きやがって!」
もちろん、答えは返ってこない。
「そんなに綺麗事を吐きたかったんなら、いっそ最後まで嘘を吐き通してくれれば良かったんだよ! ……どうして、最後の最後で、あんな事を!」
ついに、ユウは傘を取り落とし、玉砂利の上に膝を崩した。御影石に取り付き、何度も何度も額を打ちつける。
「答えろよ……父さん!」
しかし、聞こえるのは、ただ、木々の梢を洗う雨音と、額が石を打つ鈍い音ばかりだった。
―――ややあって。
「ユウ?」
思いがけないその声に、ユウは弾かれたように振り返った。
彼のすぐ背後には、赤い傘を差した一人の少女が立ち尽くしていた。短パンから伸びるしなやかな脚に、細身の体躯、涼やかな切れ長の目、そして、小さな桜色の唇―――。
「……リコ?」
「どうして……ここに?」
リコの手には、小さな花束がぶら下がっている。白い菊が何本も束ねられた仏花だ。
思いがけないタイミングでの遭遇に、ユウは、しばし我を忘れ、呆然とリコを見上げていた。
ややあって、取って付けた答えをよこす。
「は……墓参りだよ。墓場に来る用って言ったら他にあるのか」
「……あ、そう」
そっけなく答えると、リコは手に持っていた花束を、墓石の前に設けられた献花台の花筒に生けた。寂然とした墓前が、俄かに華を帯びる。
「リコのお母さんも、ここに?」
「じゃなきゃ、花なんか生けねーだろ」
「……そうか」
しばしの間、二人を雨音が包む。
「つーか、傘差せよ。風邪引くぞ」
リコの言葉に、ユウは初めて、自分がひどく雨に濡れている事に気付いた。
「あ、ああ……」
傘を拾い、振り返ると、すでにリコは墓前に立ち、胸元で小さな両手を合わせていた。彼女に倣い、ユウも墓前に手を合わせる。手を合わせながら、横目でリコを盗み見る。
長い睫毛の上では、ひとしずくの小さな雨粒が、つつましくも清らかな光を放っていた。それは、いつも警備隊ビルの屋上から眺めるいずれの光よりも、神々しく、不可侵的で、そして同時に、どこまでも扇情的な輝きだった。
霊園からの帰り、ユウは、リコの家へと立ち寄る事になった。
このままゲートに帰る、と突っぱねたユウに対し、「風邪引くぞ、バカ」と、リコは半ば強引に、ユウを家に招き入れたのだった。
洗いたての髪をタオルで掻きつつ、シャワールームから出て来たユウに、リコはすかさず、大判のスゥエットをずいと突きつけた。背けられたその顔は、ひどく赤らんでいる。
「着ろ」
言われるがまま身につけると、若干サイズが大きい。
「悪いな、男物の服つったら、それしかねーんだ」
聞けば、それは以前、ウエスギがここへ泊まった際に、持ち帰らずにそのまま置いて帰ったものであるらしかった。袖丈のだぼつきに納得しつつ、ユウはベッドに腰掛ける。
窓の外では、相変らず激しい雨音が響いている。この時期特有の、バケツをひっくり返したような雨である。
「あたしの母さんはさ」
ユウの隣に掛けながら、ふと、リコは話を切り出した。
「口を開けば、とにかくゲートシティの事ばかり……そういう奴だった。自分は今でも、あっちの街に住んでますよ、ってな風吹かせてさ」
その口ぶりは、乱暴な言葉使いとは裏腹に、どこか物悲しい。
「君の、お母さんが?」
「そう。仕事も、プラントみたいにマトモな仕事じゃなくてさ、ゲートシティの客を専門に相手する、高級クラブばかり転々として……そんな女だった」
ノムラの下衆な罵声を思い出す。ゲートシティの男となら誰でも―――
「きっと、酔っ払っていたかったんだろうな。ゲートシティに暮らしてるって夢にさ。で、あたしにも、その夢を押し付けてくるんだよ。ゲートシティの女の子は、みんなこうしてる、ああしてるって……けど、知るかよ。あたしは、あいつと違って、生まれも育ちも旧市街なんだ。いくらゲートシティの事を話されたって、わかるわけ、ねーだろ」
結果、リコの母親は心を病み、彼女の夫と同じ末路を辿ったのだという。
「ははっ。呆れたろ?」
自嘲気味に、リコは鼻で笑った。
「どうして?」
「そんなクソ女を母親に持ってるあたしも、どーせ同じクソ女なんだ。あたしにも、あいつと同じ、ゲートシティの男を見りゃ欲情する、下衆な血が混じってる」
「どうして……そんな事を言うんだ」
不意に、鋭い声色を帯びたユウに、軽く戸惑いつつリコは訊き返す。
「どうして、って?」
「本当は、好きなんだろ。お母さんの事が」
思いがけぬ言葉に、一瞬、呆気に取られたリコは、ほどなく気を取り直し、苛立たしげな口調でユウに噛み付いた。
「はぁ? お、お前、どういうアタマをしてたら、そんな答えが出るんだよ!」
が、ユウは怯まず、押し付けるような口ぶりで返す。
「嘘だ。本当は、好きなんだ」
「ふざけんな! 大っっ嫌いだ、あんなクソ女!」
「嘘つくな!」
やおら、ユウはリコの細い肩を鷲掴みにすると、そのままベッドへ強引に押し倒した。
その小さな身体を、砕けんばかりにマットレスへ押し付けながら、ユウはリコの鼻先で唸る。
「本当は、好きだったんだよ。さもなきゃ、毎月毎月こんな雨の日でも欠かさず、母親の命日に墓参りなんかしやしない。違うか?」
一方、リコは反撃すらも忘れ、半ば呆然とユウを見上げている。
「なんなんだよ、急に……。どうしちまったんだよ、ユウ」
「答えろ! じゃなきゃ……犯すぞ!」
だが、リコは、醜く歪むユウの顔をじっと見つめたまま、何も答えない。
「……答えろよ! なぁ、リコ!」
「犯したきゃ、勝手にしろ」
「!!」
リコの言葉は、あやまたず真っ直ぐに、ユウの胸を貫いた。もはや一切の身動きを取る事も出来なくなったユウは、ただ、畏怖と困惑の目で、目の前の少女をじっと見つめた。
「どうした。ヤリたきゃヤれよ。けどな、あたしがあいつをどう思っているかなんて、どうせ誰も分かりゃしない。話したところでさ、そうそう他人様に通じる話でもねーんだよ」
「……」
「あいつを憎んでる。それは本当だ。けどよ、じゃあ墓参りに行っちゃいけねーのかよ? え? ……好きなわけねーだろ、あんなクソ女。けど、けどよ、」
「けど―――愛してるんだろう」
はっ、とリコの目が見開いた、その時、リコの頬に、重く、熱い雫が、ぼたり、と落ちた。
いつしか眼前の男の瞳は、その輪郭をひどく揺るがせていた。
「本当は、ゲートがどうこうなんて、そんなのどうでもよくて……ただ、傍にいてほしかったんだろ? 傍にいてくれさえすれば、憎む事もなかったんだろ? 愛していたから、憎まなきゃいけなかったんだろ? ……なぁ、そうだろ?」
「……」
「寂しかった……」
「……?」
「傍に居てくれなかった、それが、寂しかった……だよな?」
もはやユウの声は、消え行く蝋燭の炎のように、その確かさを失っていた。
「……なんで? なんで、お前なんかに……」
「わかるさ。よくわかる」
声とも呼べない声で、ユウは呟いた。そして再び、リコの頬に雫を落とした。
「とう、さん……」
呻きつつ、ユウはリコの胸へ顔を埋めると、それきり顔を上げる事もせず、ひたすら重い嗚咽を漏らし続けた。
思いがけないユウの言葉と涙に、しばし、ぼんやりと天井を見つめていたリコは、やがて、思い出したように、彼女の胸にうずくまる男の頭を、そっと腕に抱いた。
そして、ユウが泣き疲れ、眠りにつくまで、リコはその頭を、優しく撫で続けた。