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六章

 一課との連携システムは、多くの五課隊員が予め計算していた通りの軌道を、許容誤差に充分収まる範囲内で、順調に辿りつつあった。これが、外惑星探査機の打ち上げであれば、コントロールルームは歓喜に沸くところであるが、今のところ、五課のパソコンルームが、このために喜びの声で満たされた事はない。

「ったく、何なんだよ、あいつらぁ!」

 どかりと椅子に掛けながら、ゴトウは苛立たしげに喚いた。

「俺らの顔を見りゃ、馬鹿の一つ覚えみたいに、モヤシモヤシモヤシってよぉ!」

 ゴトウの癇癪に、ユウはいつになく内心で同意する。つい先程、ユウとゴトウは、ササヅカ課長に連れられ、一課のフロアへと赴いたばかりだった。過去二十四時間に探知した不正アクセスに対し、五課が試みた逆探知の結果を一課の捜査班に報告するためだ。

 が、そんな彼らを待っていたのは、一課隊員らの失望と冷笑だった。

昨日も、その前日も、五課は、旧市街ハッカーの不正侵入を示す明確な証拠を掴む事ができずにいた。無理もない。不正侵入のログを露見させてしまうほど稚拙な技術しか持ち合わせない似非侵入者に、不正登録などという高等技術が出来る訳はなく、片や、実際に登録ができうるほど高い技術を持つ人間は、当然、ログの消去等の隠蔽作業に抜かりはしない。

つまり、現実問題、不正登録を行いうる技量を持つハッカーの侵入行為を、リアルタイムで捕捉する事は、理論上、ほぼ不可能と言っても良いのだ。

「つーか、ハナっから無理なんだって、こんなの。なぁ一士、どう思う?」

「そうですね。実際にゲートブレイクが可能な人間を、連中の組織に潜入でもさせない限り、」

「げーとぶれいく?」

ゴトウの不審げな顔に、ユウは思わず肝を冷やした。旧市街で不正侵入を意味する言葉を、つい無自覚に口にしてしまった事に気付いたからだ。

自身の迂闊さを悔やみつつ、しかし、ユウは努めて平静に返す。

「ご存知ないんですか、三曹。旧市街の人達が、不正侵入を指して呼ぶ言葉ですよ」

「ふーん」

 まるで興味の欠片も示さずに、ゴトウは鼻を鳴らした。

「そういやお前、最近さ、しょっちゅう旧市街に足を運んでるそうじゃねーか」

「……え?」

 またしても、ユウの背中に冷たいものが走った。動揺を押し殺しつつ、ユウは訊き返す。

「誰から、そんな事を、」

「別に、風の噂さ。――――ひょっとして……お前」

 ゴトウは、詮索の目でユウの顔を覗き込んだ。まさか、と肝を冷やしつつ、ユウは息を殺してゴトウの次なる言葉を待った。

「お前さ、もしかして」

「はぁ、な、何でしょう」

 まさか、ゲートブレイクが、露見した――――?

「旧市街に、女でも出来たのか?」

「へ?」

「だからさぁ、お気に入りの店に、カワイイ女の子でもいるんだろ? んで、あーゆー事やこーゆー事をやってもらってんだろ? え?」

 思わず、ユウは返す言葉を失った。安堵でポカンと呆けるユウに、追い討ちをかけるようにゴトウがそっと耳打ちする。

「良かったらさ、今度、俺にも紹介してくれよ。な?」

 


数日後。

またしてもユウは、時刻を憚らない電話によって寝入りばなを叩き起こされた。

夢うつつのまま、着信を受ける。電話口から聞こえてきたのは、ウエスギの声だった。

『ユウか』 

「は……はい。お久しぶりです、ウエスギさん」

 この数日というもの、ウエスギは一度も南棟の地下室に姿を現していない。大容量サーバーを手にし、虎の子がぐずらなくなった事が、彼が五課と疎遠になった主な原因ではある。しかし、一課が現在打ち出している掃討作戦もまた、少なからず彼の業務に影響を及ぼしていた。

一課との連携システム構築のために多忙なはずのウエスギが、単なる駄話のためだけに電話をかけてくるとは、ユウには到底考えられなかった。窓からの月明かりを便りに、ユウは壁の時計に目を凝らす。すでに時刻は深夜の二時を回っている。

「どうしたんですか? こんな時間に」

『お前に、是非話さなければならん事がある』

 その声は、まるで地響きを思わせる重苦しさを帯びていた。午前も二時過ぎの丑三つ時に、是非とも電話で話さねばならない事が、めでたい知らせであるはずはない。

「……それは、」

『ノムラが裏切った』

 その答えに、ユウはさして驚きもしなかった。代わりに、彼の中で何かが腑に落ちる。しかし、落ちたとして、それは彼にとって決して心地のよいものではなかった。むしろそれは、彼の臓腑の奥底に沈殿し、どろりとした冷たい泥炭層を形成する。

『さっき、オノから連絡があった。近頃になって、ノムラが、あるヤクザの組織に出入を始めたらしい、とな。―――オノの奴、随分前から知っていたらしいんだが、ノムラに悪いつって、俺達に黙っていやがったんだ、くそっ!』

―――おぼえてろ。ノムラが去り際に叩き付けた台詞が、ユウの脳裏に反響する。

「あいつ……」

ノムラが裏切る筈はないという楽観的思考は、もはやユウの頭に掠める事もしない。

『ヤクザとつるんでいるという事は、目的は一つしか考えられない。奴は、お前を連中に売るつもりだ。ゲートブレイクでシノギを獲る連中が、腕のいいブレイカーであるお前を、みすみす放っておくはずがないからな』

 不本意にも、ジャンク屋の社長の警告は、現実と化してしまったのである。

『それで、だ。この件が解決するまで、お前はゲートから一歩も外に出るな。いいか?』

「え?」

思いがけないウエスギの一言に、ユウは思わず声を上擦らせた。

「ど、どうして……」

『決まっている。安全だからだ。こちら側にいる限り、連中は決してお前に手を出せない。今回の掃討作戦のために、一課の方からヤクザの構成員データを受け取ってな。そのデータを元に、俺達二課が連中の侵入をブロックする事になった。たとえIDを持っていたとしても、連中の侵入は俺達二課が阻む』

「で……でも、リコは、カンザキさんは」

『は?』

「店も、危ないんじゃないですか? もし、彼女達が人質に取られでもしたら、」

 すると、ウエスギは忌々しげに呻いた。

『あ、ああ。その件だが、同じ事を、俺もあいつらに言ったんだ。だが、どうしてもこちらに来たくないっつてな、頑なに突っぱねやがった』

「ど、どうして?」

『知るか。むしろこっちが訊きたいぐらいだよ……まぁ、せめてもの防御策として、今はオノの家に匿ってもらっているが』

「信用できるんですか、オノ君は」

『さぁな、だが、女二人を放っておいたところで、結局は同じ事だ』

それからユウは、一言二言を交わした後、早々に電話を切り上げた。

ベッドに潜る。すると、あの時のリコの温もりが、息遣いが、俄かにユウの身体に蘇った。

ゲートを出る事ができない限り、彼女に会う事も、また許されない。その制約が、かえって、彼の中に潜んでいた願望を、鮮明に浮かび上がらせたのだ。

会いたい。抱きしめたい。その拍動を、息遣いを感じたい。会いたい。会いたい……

結局その後、ユウは、空が白み始めるまで、布団の中での煩悶を余儀なくされた。



 彼が、目の保養のためにビル屋上へと上るのは、かれこれ数週間ぶりの事だった。

 いつものように、生体リーダーに手のひらを乗せ、扉を開き、屋上へと出る。

そこにはすでに先客がいた。暗闇の中に目を凝らすと、奇しくもそれは、以前、ユウが苦言を投げつけた研修生の青年だった。初々しいニキビ面は相変らずだが、その顔立ちには凛々しさが増し、警備隊相応の面構えとなっている、しかし、肩章の線は、未だに一本のままだ。

研修期間は幹部も隊士も、等しく半年と定められている。春に入隊したはずの彼が研修を終えるのは、早くとも今年の秋となるだろう。

 研修生は、ユウの姿を認めるなり、すかさず機敏な挙動で敬礼した。

「その節は、大変失礼致しました!」

「あ、ああ」

あの時と同様、ユウは曖昧な声で応じると、そのまま研修生の傍をすり抜け、足早に鉄柵へと歩み寄った。そして、以前と同様に、“目の保養”に勤しみ始める。

ところが、その日の保養は、いつもとは随分と勝手が違っていた。

気が付くと、旧市街の猥雑な煌きに目を向けている自分がいる。その度に目を逸らすも、やはり、つい旧市街に視線を向けてしまう。そんな茶番を三度四度と繰り返した挙句、堪りかねたユウはとうとう顔を上げ、眼差しを夜空へと追いやった。天候が崩れがちな梅雨の時期には珍しく、夜空にはおびただしい数の星が輝いている。

「もうすぐ七夕だな」

 誰に聞かせるでもなく、ユウは呟いた。

「一士は、七夕にデートなどは、なさらないんですか?」

 その独り言に、思いがけず食いついたのは、例の研修生だった。面構えは変わっても、会話好きの性癖は相変らずのようだ。怪訝な顔で振り返りつつ、ユウは訊ねる。

「デート? 何故?」

「昔話によると、七夕は、天の川に隔てられた恋人同士が、一年に一度会える日だそうです。おかげで街も随分と、恋人気分で盛り上がっていますよ。私のような人間には、クリスマスと並んで辛い時期です」

「天の川に、隔てられた、か……」

 呟くなり、ユウは旧市街の灯りへと目を戻した。

 海向こうの煌びやかな灯りの中に、彼女がいる。だが、その灯りと彼の住む世界は、広く深い漆黒の闇によって隔てられている。

「どうしました? 一士」

「いいや。何でもない」

心配そうに訊ねる研修生にそっけなく返すと、それきりユウは口をつぐんだ。



 ウエスギからの警告以来、ユウは、ゲートシティへの避難を勧めるべく、何度も何度もリコへの連絡を試みた。だが、いくら試みても、彼女がユウからの電話を受け取る事はなかった。

 まんじりともしない日々が続いたある夜。勤務を終えて本部南棟から寮へと帰る道すがら、ふと、ユウのモバイルが着信を告げた。

表示された番号を見るなり、ユウははっと目を見開いた。それは、永らく待ち望んでいた相手からの着信だった。安堵と興奮を押し殺しつつ、ユウは電話を取った。

「もしもし、リコか?」

 だが。

『よう、青虫野郎』

電話口の声に、ユウは俄かに、はらわたがズンと重みを増す心持を覚えた。それは、澄んだ風鈴の音のようなリコの声ではなく、調子外れの管弦楽にも似た、癇に障る男の声だった。

「……ノムラ?」

『今すぐさぁ、店の方に来てくれねーかなぁ?』

 ノムラがリコの番号で電話をかけている、その事実が示すおぞましさに、ユウの全身から一気に冷たい汗が噴き出した。脊髄に液体窒素を流し込まれたような感覚に、その顎が震える。

「リコを……リコを、どうした」

『へぇ、やっぱり気になる?』

不意に、電話口の音声が途切れた、と思いきや、今度は遠くでノムラの怒鳴り声が響く。

『おい! 急に黙るんじゃねぇ! さっきまで散々喚いていただろうが!』

『ふ、ふざけんな、ノムラ! 誰が、そんな事、』

 いよいよ憂慮が現実となり、ユウは一瞬、呼吸を失った。

『いいから叫べよ! 助けてぇーー愛しの王子様、ってよぉ! おら、喚けコラァ!』

『きゃあ!』

電話の向こうで、激しく肉を打つ鈍い音が響いた。音は一回のみならず、二回、三回と果てなく続いた。回数が増すたび、ユウの臓腑に沸き立つ黒い熱量は、自乗的に増幅されてゆく。

「わかった。今すぐそちらに行く」

『さすが王子様。じゃあ、今から店のビル前に、三〇分以内に来い。三〇分を越えたら、リコが……わかってるよな?』

「ああ」

ブツリ、と、電話は乱暴に途切れた。

衝動的に、ユウはモバイルを持つ手を振り上げた。だが、地面に叩きつける間際、すかさず頭を冷やすと、貴重な連絡手段であるモバイルをそっと懐にしまった。

タイムリミットは三〇分。ユウは手元の時計を振り見た。時刻は午後十一時。今の時間では、繁華街に車を乗り入れる事はできない。ユウはすぐさま寮へ走ると、タクシーの停まるエントランスをすり抜け、自転車を取り出すべく駐輪場へと駆け込んだ。

薄暗い蛍光灯の中で、自分の自転車を探しつつウエスギに電話をかける。

「ウエスギさん」

『何だ』

「今から旧市街の方へ行ってきます」

『はァ? お前、この間の俺の話を、聞いてなかったのかよ!?』

「ノムラがリコを人質に」

『な……!』

電話の向こうで、ウエスギが驚愕に唸る。 

と、ちょうどその時、いつも彼をモヤシと揶揄する一課の隊員が、今まさにツーリングから戻り、赤く輝くバイクを押しながら駐輪場へと入って来た。ユウは迷う事なく腰のホルスターから銃を抜くと、彼に銃口を突きつけながら怒鳴った。

「そのバイクを貸せぇ!」

「え? い、一士!? なんで!?」

 あたふたと困惑する男を追い払うと、ユウはヘルメットもつけずにバイクへ跨った。

『行くな、ユウ! 奴らの目的はお前だ!』

「でも、リコを放ってはおけません!」

 言い捨てるなりユウは電話を切ると、エンジンを起動させ、すぐさまゲートへとアクセルをひねった。


「どけぇぇえええええっ!」

エンジン音を甲高く鳴らしつつ、ユウの乗るバイクは猛然と歓楽街を突き抜けた。ヨッパライを轢きかけ、また、ゴミの入ったポリバケツをひっくり返すも、ユウは決してハンドルを切る事なく、あくまで相手が避けるに任せて走り続けた。無遠慮に人混みを突っ切るバイクの姿に、街をそぞろ歩く老若男女は、例外なく目をひん剥き、その身を翻した。

ようやく、いつもの路地を見つけたユウは、車体を傾け、迷う事なくそこへ飛び込んだ。

ゴミの散乱する裏路地を抜け、うろつくネズミの影を蹴散らし、いつもの小汚いビルの前へ駆けつける。そこではノムラが、見慣れない数人の男達と共にユウを待ち構えていた。

「ノムラぁぁ! 一体、どういう事だぁぁ!?」

 ユウは転がるようにバイクから飛び降りると、横様に倒れる車体に構わず、猛然とノムラに駆け寄った。と共に、腰のホルスターから拳銃を引き抜き、その銃口をノムラに構える。

安全装置を外し、銃身のスライドを引いて初弾の装填を済ませる。いつぞやと違い、今回はただの威嚇ではない。

 ユウの殺意に呼応してか、ノムラをはじめ、彼を囲む男達も、めいめい懐や腰から拳銃を取り出し、目の前に現れた制服姿の男に、その銃口を突きつけた。

薄暗い路地裏に、一瞬にして膠着状態が生まれる。

肩を激しく上下させ、必死で息を整えながら、ユウは周囲を見回した。いくら探してもリコらしい人影は見当たらない。もちろん、その間もノムラへのロックオンは解かない。

「リコは……リコはどこだ」

「ここにはいねーよ」

「じゃあ、どこにいる!」

 ことさらに銃口を突き出し、ユウは吠えた。しかし、ノムラは不敵な笑みを崩さない。

「怒鳴るなよ。あんたらしくねーな。いつもみたいにクールにいこうぜ、なぁ」

ノムラを囲む男の一人が口を開く。

「おいノムラ。お前の言ってた事ってマジだったんだな」

「だろ? だから言ったじゃねーか。警備隊がブレイカーやってるって」

「つーか、テメェらで通れねぇようにガードしてるくせに、それでブレイクでカネ取るって、どーゆーマッチポンプ? これ?」

 そして男達は、下卑た笑みを浮かべる。

「お前らと一緒にするな、僕は純粋に、人助けのつもりで、」

「何が人助けだよ! テメーらで追い出しておいて、今更善人ヅラかよ、ふっざけんな!」

 ノムラの鋭い怒声が、猥雑な雑居ビルの谷間にこだました。狂気を帯び始めたその声に、ユウは気圧され、押し黙る。

「とりあえず、俺達に付いて来てもらおうか。じゃなきゃ、あんたの大事なリコが、好きでもない男のガキを身ごもる事になるぜ」

「……」

 ユウは苦渋の色と共に腕を下ろし、ひび割れたアスファルトに銃を投げ捨てた。

すぐさま男達はユウに詰め寄り、服をまさぐって持ち物のチェックを始めた。彼らは、本来の目的である銃が見つからないと見るや、ユウのモバイルや財布を奪い、その懐へとしまい込んだ。やがて彼らは、確認という名の強奪を終えると、ユウの腕を背中に回し、その手首に手錠をかけた。さらに、その目にも厚手の布を巻き、視界の遮断を図る。

目隠しによって、ユウの視界は完全な闇に包まれた。と、やおらユウは、みぞおちを抉る鋭いい衝撃を覚えた。内臓が裏返り、くの字に折られた身体から内容物が湧き出す。

弾みで俯くや、すかさず髪を乱雑に掴み上げられる。と共に、彼の耳元でノムラが唸った。

「先にリコを好きになったのは、俺だ。わかってんだろうな」

「し、知るか……離せ!」

直後、ユウの頭は、生ゴミの散らばる路面へと激しく叩きつけられた。


視界は全く利かない一方で、視覚以外の感覚は、いやに研ぎ澄まされる。

 随分と古い車であるらしかった。彼の尻の下では、ガロガロと大量の缶が転がるような音が絶え間なく響く。サスも酷くイカれている。もし、その両肩を連中の肉圧に挟まれてでもいなければ、彼の身体は座席の上を跳ね回る羽目になっていただろう。

「ノムラ、まさか最初から、このつもりで?」

 闇の中に問いかける。すると、程なくして、例の神経に障る声が返ってきた。

「んな事訊いてどーすんだよ。こっちの人間なら、ゲートブレイクで一山当てようなんて、誰だって一度は考える事だぜ。やる気になるか、ならねーか。違いはそれだけだ」

「だからと言って、こんな卑怯な方法を取らなくてもいいだろうが」

「卑怯なのは、テメーだよ! この野郎!」

 不意に、闇の向こうで怒号が響いた。

「……僕が?」

「他に誰がいるんだよボケェ! ……人が必死で狙ってるモンを、あっさり掠め取りやがって。ゲートシティに住んでるってだけでよォ!」

「……」

「けど俺は違う。カネだろうとIDだろうと、もちろんリコだって、俺は、俺が欲しいものは何でも自分の力で手に入れる! 最初から何でも手にしている、あんたと違ってなぁ!」

「……やっぱり、お前にリコは渡せない」

「は?」

「彼女はモノじゃない。欲しいと思えば手に入るモノなんかじゃ、」

「ははっ、女はみんな同じさ、札束を投げて寄越しゃ、誰でも喜んで股を開く」

 ノムラの言葉に、堪らずユウは激昂した。

「リコを、そこらの売春婦と一緒に――――」

 一緒にするな、と言いかけて、ユウは思わず、その続きを飲み込んだ。それは以前、彼が、ゲートブレイクの客によって投げつけられた言葉と、寸分違わぬものだったからだ。

 人知れず、ユウは奥歯を噛み締めた。

 僕には、彼女を信じる事すら許されないのだ……。


目隠しを外されると、そこは、驕奢なホールのど真ん中だった。旧市街の建物にしては、内装や調度はどれも豪勢で、いずれもゲートシティの一流ホテルか、上等な結婚式場を髣髴とさせた。クリーム色の壁や天井と、深緑のカーペットとの、色彩のコントラストが上品で美しい。

頭上のシャンデリアからは、銀河のような煌きが降り注いでいる。

ユウは、この広いホールの真ん中に置かれた大きな円卓の一席に座らされていた。その円卓も、艶やかながらも深みのある、木材独特の輝きを放っている。

さながら、晩餐に呼ばれた客だなとユウが思ったその時、その背後で現実の音がした。

チャッ、と、銃身の鳴る音がし、背後を振り返ると、ノムラを含め数人の男らが、扇状にユウを囲み、その銃口を彼につきつけていた。

「ノムラ。彼がお前の言っていた、ブレイカー?」

 その声に、やにわに男達の顔が強張った。男達の視線につられ、ユウが声の方を振り返ると、右手の扉から、今まさに一人の男が姿を現すところだった。壮年と呼ぶにはいささか若い、とはいえ青年と呼ばれる歳でもない。すらりと痩せたその身体は、旧市街の人間にしてはやけに形の整ったスーツを纏っていた。鷲鼻にかけられた丸眼鏡の奥からは、小振りながらも思慮深い瞳が、まっすぐにユウを見つめている。一見すると端正な紳士風の男だが、その全身からは、えもいわれず近寄り難い毒気と危うさが放たれている。

「は、はい。組長」

硬く畏まった声で、ノムラが答えた。

「なるほど、確かに警備隊の制服だな」

組長と呼ばれた男は、テーブルを挟んでユウの真向かいに座ると、磨き上げられた天板に肘を突き、向かいに掛けるユウの顔をまじまじと覗き込んだ。

「何か、飲むかい?」

 男の問いに、ユウは黙って首を横に振った。一方の男は、傍らの部下にことづてると、部屋の隅のバーカウンターから飲み物を運ばせた。部下は、男に横広のロックグラスを、そして、ユウには細身のグラスを運んだ。琥珀色の液体が注がれた瀟洒なグラスからは、華やかな茶葉の香りが漂っている。どうやらそれは、アイスティーの類であるらしかった。

「ダージリンだよ。いい香りだろう」

「リコは、どこだ」

「リコ? ……ああ、ノムラが連れて来た少女か。確か、君の彼女だったな」

 君の彼女、という物言いに、一瞬どきりと間を奪われつつも、ユウは毅然と答えた。

「彼女を返してもらうために、僕はここへ来た。彼女はどこにいる? もし彼女の身に何かあったら……」

 そこで、ユウはアイスティーのグラスを掴み上げると、それを思い切りテーブルに叩きつけた。そして、天板に大小様々のガラス片が散らばる中から、手頃な大きさの破片を掴み取ると、もう片方の手首に、その鋭利な切っ先をぐいと突きつけた。切っ先は、まっすぐに手の腱を狙っている。

「お前達がせっかく捕まえたブレイカーが、使い物にならなくなる」

 すると、男は不敵な含み笑いを漏らし始めた。一方でしかし、その目は相変らず、怜悧な眼差しでユウを射抜いている。

「確かに、それは困るな」

すぐさま、男は傍の部下を呼びつけ、リコを連れて来るように言づてた。

やがて。

「ユウ!」

扉から聞こえたその声に、ユウは背後から突きつけられた銃口の存在をも忘れ、弾かれたように椅子から立ち上がった。そこには、男達の無骨な手によって、その細腕を乱暴に掴まれたリコの姿があった。

「……リコ!」

「ユウ、どうしてここに!?」

その顔や体に浮かぶおびただしい数の青痣に、ユウは再び、はらわたが熱でたぎる心持ちを覚えた。きっと振り返り、ノムラを睨み据える。

「そんな怖い顔で睨むなよ」

 ノムラは、ユウに銃口を突きつけたまま、不遜な笑みを浮かべて言った。

 リコは、部下達の腕に押し付けられるようにして、男の隣席へと座らされた。

「さて、ブレイカー君。すでに察しはついているだろうけど、私達はカタギじゃないんでね、このまま、彼女と君をすんなりと娑婆に帰すわけには、いかないんだ」

「……ゲートブレイクに加担しろ、と、そういう事だろう」

男に目を戻しつつ、ユウは唸った。

「お、おい、ユウ! こんな奴に、絶対に手ぇ貸すんじゃねぇぞ!」

「黙っていてくれないかな? レディ。さもないと、再び退室を願う事になるよ?」

「……!」

 男の鋭い眼差しに射竦められたリコは、顔を強張らせ、はたとその口を閉ざした。

ふぅ、と溜息をつき、男は続ける。

「まぁ、要はそういう事になるなんだけどね。ただ、君の場合は、他のブレイカーとは若干、使い勝手が違うんだよ。わかるかい?」

「……いえ」

「わからないか。じゃあ、少しヒントをあげよう。―――その服」

 そこで、ユウは男の意図にようやく気付いた。微かな戦慄と共に、男の次なる言葉を待つ。

「そう。君は、現職の警備隊という重要なカードを持っている。これは、切り方次第では、とっても強い効果を発揮するんだよ。わかるかい? ……例えば、あちらではもうすぐ選挙が行われるね。この時期に、現職の警備隊員が不正ID取得の斡旋をやっていました、などという醜聞が衆目を集めた日には……ねぇ。大変だよ? 与党の先生方は」

「僕を、脅迫の材料に使うつもりか」

「おお、当たり当たり。いや、君はなかなか勘がいい」

 男は、この時初めて、その小振りな眼をほころばせた。

「いやぁ、ノムラ君から君の話を聞いた時は、これぞ天啓と、思わず神様に拝んだものだよ。普段は神様なんて、これっぽっちも信じちゃいないんだけどね、私は」

「脅迫して、最終的にあんたは何をしたい? 目的は何だ? ゲートの撤廃か?」

旧市街の人間であれば誰であれ、ゲートシステムの廃止を希求しているに違いない―――という、ユウの思い込みから生じた質問は、しかし、あっさりと覆された。

男は、半ば哀れみを帯びた眼差しで、ユウを眺めた。

「ゲート? ……とんでもない。あんなもの、どうなろうと私には関係ないよ。私が欲しいのはカネ。それだけ」

「か、カネ? そんなもののために? ……う、嘘だ。あんたら旧市街の連中にとって、必要なのはゲートの撤廃だろう? だから与党の……ゲート支持派の議員を脅迫するんだろう、違うか!?」

 すると男は、嘲笑めいた笑みを浮かべた。

「一つ面白い話をしようか。これは、さる知り合いの議員先生が本当に口にしていた話だ。実はね、あのゲートは、街が市民から確実に税金を徴収するために設けた、恐怖装置なんだとさ」

「きょ……恐怖装置?」

 耳慣れない単語に、ユウの思考が一瞬、一時停止を食らう。

「そう。市民に対するペナルティの象徴。一度ゲートを追い出された人間は、二度と生まれた街には戻れず、ゲート外の劣悪な環境で残りの一生を過ごさなきゃいけない、なんて事を聞いたら、そりゃあみんな、街から追い出されないように、割高な税金でも必死で納めようとするだろう? 税金を納めるために、馬車馬のように働くよね?」

「いきなり、何の話だ」

「君だって、ゲートシティの住人ならば、少なからず覚えはあるだろう? 街から追い出されないよう、何としてでも税金を納め続けなきゃっていう、追い立てられるような気分にね」

「それは、市民なら誰でも、」

「その恐怖を、市民の目に示すために作られたもの、それがゲートなんだよ」

「……な?」

「大衆を動かすのに、恐怖ほど扱いやすい道具はない、っていうのは、古今東西よくある弁だ。あれは、実は旧市街民に対してではなく、むしろゲートシティの市民に向けて睨みをきかせるために作られた、恐怖装置なんだ―――と、その先生は、おっしゃっていた」

 ユウは、水面の上に立ち竦んでいるような、ひどいおぼつかなさを覚えた。

もし、それが本当だとしたら――――彼が、これまでの人生において堅持していた、ゲートシビルとしての考え方、プライドが、その骨格をことごとく失ってしまう。

男の言葉を、必死で意識から振り払いつつ、ユウは返す。

「それで、あんたは何を言いたい」

「まぁ要はね、君らが思っているほど、私達はゲートに対してそれほど深い興味関心を持ち合わせちゃいない、って事だよ。だって、そもそも君達に向けて作られた装置なんだもの。まぁ、興味があるとすれば、ゲートに絡んだカネとその流れ、それぐらいだね」

「ゲートブレイクも、その一つだとでも言いたいのか」

「そうだね。それに、君をダシにした脅迫もそう。いや、それだけじゃないよ。君の知らないところで、あのゲートを中心にいろんな欲望が渦巻いているんだ。そういう意味では、私達も、あちらの先生方も、同じ穴のムジナなのだよ」

「で、出任せで物を言うな! ゲートは……ゲートシステムは、市民を守るために……ゲートシティを守るために、存在するんだ! あんたらの私利私欲を満たすために存在するんじゃない!」

「ははは。私の言っている事が嘘だと思うなら、先生方が銀行に保有する裏口座の一つでも覗いてみるといい。君は優秀なハッカーなんだろう? それぐらい、お手のものじゃないか?」

「そんな……そんな事、できるわけ、」

「怖いのかい? 街の闇を覗くのが」

「……」

 もはやユウは、返すべき言葉の一切を失っていた。この豪華なリビングルームに敷き詰められた毛足の長いカーペットは、今や、彼にとっては底のない泥沼と同義だった。必死で足掻くも、一度足を取られた以上、決してそこから抜け出す事はできない。圧倒的な徒労感と、そして絶望感が、ユウの精神を暗く深い沼の底へと呑み込み、脱出はおろか浮上すら許さない。

 男は、ふと手元の時計に目をやった。

「ありゃ、いつのまに……。じゃあ早速、テストを始めてもらおうか」

「テスト?」

 半ば茫然自失のまま、ユウは尋ねた。

「そう。念のため、君がきちんとゲートブレイクをできるか、調べる必要があるでしょう」

「……テストに合格したら、リコを開放してくれるのか?」

「そうだね、約束しよう。その代わり、失敗したら君と彼女は殺すよ? いいね?」

その言葉に、咄嗟に打って返したのは、ユウではなくノムラだった。

「く、組長、こいつが失敗したら、リコは俺にくれるって話じゃ、」

「ああ、……そうだった。忘れていたよ」

 すると、それまでじっと口をつぐんでいたリコが、突如、がばと椅子から跳ね上がった。 

「じょ、冗談じゃねぇ! お前の女になるぐらいなら、いっそユウと一緒に、」

 ドォオン!

刹那、衝撃波を伴った銃声が、部屋に、そして、その場に居合わせた面々の腹に、深く、重く響いた。耳鳴りを堪えつつ、音源へと振り返ったユウの目に映ったものは、つい今し方、弾丸を発射したと思しき黒い銃口だった。天井へ向けてゆっくりと煙をたなびかせるその銃口は、まっすぐに、リコの方へと向けられている。

 はっとして、ユウは再びリコを振り見た。と、まさにその時、リコの小さな身体は、さながら糸を切られた操り人形のごとく、ぱたりと床へ崩れた。

「り、リコおぉ!」

 取り乱しつつ叫ぶユウに、眼前の男はこともなげに答えた。

「心配しなくていい。ちょいと腰を抜かしただけだ。弾は当たっていない。―――そんな事より、早速テストを始めよう。早く家に帰らないと、妻が怖いのでね」

 ほどなくして、天板に散らばっていたガラス片とお茶は片付けられ、代わりに、一台のラップトップが彼の目の前に用意された。察するまでもない、それは、ユウにゲートブレイクを行わせるためのマシンに違いなかった。

「テストは、そこにいる……そうだな、ノムラのIDでも取って来てもらおうか」

 振り返り、ノムラに鋭い一瞥を食らわせたユウを、ノムラもまた、憎悪の眼差しで睨み返す。

「わかりました」

ユウは早速、パソコンを起動させると、いつものパスワードを入力し、ログインした。


作業内容はいつもと変わらない。だが、今日に限っては、ユウはいつになくゆっくりと作業を進めた。慎重を期す、という意味もあるが、彼にはもう一つ、どうしても作業を長引かせねばならない理由があった。

「ノムラ、ここに手のひらを乗せろ」

「なぁ、ミズシマさんよぉ」

「何だ」

「いつもより、かかりすぎじゃね? 時間」

 手元の時計を指し示しながらノムラが凄んだ。すでに、作業開始から四十五分が経過している。いつもは三〇分程度で終了するものを。だが、ユウはあくまでもとぼける。

「さぁ、いつもと変わらないつもりだが」

手のひらのスキャンも終え、後はいつものとおりの手順でノムラの登録を行うのみ、と、ユウが踏んだ、その時だ。正面の男が、ちらりと時計に目をやるなり、ふと呟いた。

「ねぇブレイカー君。もう少し、作業のピッチを上げてくれないかな?」

「こっちは、命がかかってるんだ。慎重に、やらせてくれないか」

「でも、あまり遅くなるとね、妻が怖いんだよ」

「し、知らない、それはあんたの事情だ」

 その言葉に、男の瞳はふと、鋭利なナイフに似た光を宿した。

「ノムラ」

「はい」

「この娘を、犯せ」

「……は」

瞬間、ユウは呆けた声と共にディスプレイから顔を上げた。堪らず、引きつった喉で喚く。

「ど、どうして!? テストをパスすれば、リコを開放すると、」

「もちろん。テストを“終えたら”開放するよ」

 平然と答える男に、ユウは激しく吠えた。

「くそがぁ!」

椅子を飛び上がったユウの肩を、背後の男達が咄嗟に椅子へと押し戻す。

一方でノムラは、卑しい笑みを浮かべながら、ゆっくりとリコへ歩み寄る。

「ふ、ふっざけんな! 誰がお前になんか!」

すかさずリコは立ち上がると、椅子をひったくり、渾身の力でノムラに叩き付けた。ところが、ノムラはこれを難なく避けると、椅子に振られてバランスを崩したリコの脇腹へ、容赦のない一蹴を食らわせた。絹を裂くような悲鳴と共に、床へと倒れ込んだリコは、苦悶に顔を歪ませながら、床の上をもんどりうつ。

だが、ノムラは、そんなリコを労わる様子も見せず、その腕を乱暴に掴むと、身動きの取れないユウの元へと強引に引きずり込んだ。そして、目の前のユウに見せ付けるかのように、リコの華奢な身体へ覆い被さった。

「や、やめろぉ! ノムラ!」

だが、ノムラはユウの懇願を尻目に、リコのシャツを無造作に掴むと、プレゼントの包みを開く子供のように、その布地を乱暴に引き裂いた。裂け目からは、リコの白いブラと、汗ばんだ白い胸元が露わになる。と共に、傍の男達から、おおっ、と、卑しい歓声が上がる。

「やめろ、もう、やめるんだ、それ以上は、」

身をよじらせつつ、さらに哀願するユウに、ノムラは、忙しげに自身のベルトを外しながら傲然と言い放った。

「やめて欲しけりゃさっさとブレイクを済ませろよ。つか、あんたも加わりたいのか?」

「……んだと?」

「俺は構わないぜ? そうだ、いっそ二人でヤッちまおうか? ゲートシティと旧市街、どっちのモノがイイか試そうじゃねえか!」

その言葉に、ユウは目を剥き、そして低く唸った。

「き……貴様は、絶対に殺す」

その時だ。

ガシャアアアン! 

瞬間、部屋の空気が激しく震え、破片と埃の入り混じった烈風が、左手の窓からぶわりと吹き込んだ。びろうどのカーテンが大きく膨らんだ、と思った刹那、弾けたように膨らみが破れ、その向こうから、黒く俊敏な影が次々と飛び出した。

続いて、床全体がドカドカとせわしなく振動する。

と同時に、男達の縛めが緩んだと見たユウは、咄嗟に椅子から飛び出し、リコの身体に馬乗りになったままのノムラの鼻面へ渾身の拳を叩き込んだ。深秋の枯葉のように、ノムラの小柄な身体はひらりと宙を舞い、床へと叩きつけられる。

一方のユウは、すぐさまリコを抱き上げ、その胸にしかと抱き止めた。

「もう、大丈夫だ、リコ」

「てめぇ!」

 すぐさまノムラは身を起こし、銃を構えると、その照準を二人に合わせた。

「ま、まとめて殺してやるうううっ!」

 ユウは、反射的にリコを抱き止め、その銃口から彼女を庇う。

 撃たれる―――。と、ユウが思った、その時だった。

俄かに、背後で鈍い音がし、ユウは思わず音の方を振り返った。彼の眼前には、全身を戦闘服や防弾チョッキなどの突入用装備で固めた警備隊員が、ノムラを仰向けに倒し、その眉間にアサルトライフルの銃口を突きつける姿があった。長身から判断して男と思われるその人物は、不意に、口元のマスクを外し、ノムラの眼前にその顔を曝した。

「う、ウエスギ……?」

 ずり下げられたノムラのジーンズに一瞥をくれたウエスギは、ゴーグル奥に覗く双眸に、俄かに鋭い怒気を宿した。

「てめぇ……よくも妹をおっ!」

喚くなり、ウエスギは躊躇なく引き金を引くと、フルオートでノムラの顔に銃弾を浴びせかけた。その銃身からは、空となった薬莢が次々とばら撒かれ、同時に、ユウの服や顔に、ノムラの血しぶきと肉片が飛び散る。

「ゆ、ユウ?」

「見るな!」

 顔を起こしかけたリコの頭を、ユウは再び胸に抱き込んだ。

「ユウ、か、顔に血が、」

「大丈夫。もう大丈夫だ、大丈夫……」

何がどう大丈夫なのかも分からないまま、ユウは、壊れたスピーカーよろしく、ひたすら同じ文句を繰り返した。

今や、ユウの目の前の床に横たわるノムラ“だったもの”、それは喩えるなら、夏の砂浜にて不細工に潰された哀れな西瓜であった。割れた頭蓋から、赤や白の肉片を撒き散らすそれを前に、しかし、ユウはひたすら激しい憤りを覚えていた。

どうして。僕にやらせてくれなかった。

実際、ユウの神経はしたたかに昂ぶっていた。目の前の凄惨な光景も、吐き気を催す血生臭さも、彼の怒りを鎮め、哀れみを誘うには全くもって充分ではなかった。

 そんな彼の歯軋りなど知らず、彼の前で残虐な殺戮を繰り広げたウエスギは、すでにその場から早々に消えうせ、他の隊員らと共にフロアの奥へと走り去っていた。

ふと、ユウは周囲を見渡した。辺りには、ノムラの他にも数体の肉塊が、三々五々、床に散らばっていた。フロア奥からは、なおも散発的にパンパンと軽い銃声が響く。廊下へと続く扉の手前では、数人の特殊部隊が陣形を作り、扉の奥へ向けて発砲を繰り返していた。どうやら、廊下奥のヤクザ達と、今もなお銃撃戦を繰り広げている様子であった。

銃声と怒号が轟く状況の中、ユウは、リコの髪の毛を、細い肩を、ひたすら撫で続けていた。

「もう、大丈夫、大丈夫だから……」

一方のリコも、そんなユウの胸元にじっと身体を埋め、露わとなった肩を震わせていた。

 不意に、喧騒と土埃の中から、どこかで聞き覚えのある銅鑼声が響いた。

「君は、警備隊……五課か?」

おもむろに顔を上げたユウの目の前には、マスクを首元にずり降ろし、ウエスギの形容するブルドッグのような顔をのぞかせた、いかめしい顔つきの男が立っていた。

「や、ヤマモト一尉……」

「まさか、じゃあ君が?」

「はい」

 一尉の怪訝な目は、すぐさまユウの胸元に抱かれた少女へと移った。

「彼女は?」

「い、一般人です。組織に誘拐された、被害者です」

「わかった。彼女を連れて、すぐにこの場を離れろ。ここは危険だ」

そして一尉は、再びマスクを被り直すと、部屋の奥へと振り返り、猛然と駆けて行った。


外の通りは、多くのトラックや強襲用の特殊車両、そして、それらの隙間を縫うように駆け回る戦闘服姿の隊員らでひしめいていた。埃で白く煙るビルを、何本ものサーチライトが照らし出す。その周辺では、戦闘服姿の男達が非常線を張り、バリケードを形成している。

 割れた窓越しに助け出された二人は、そのまま一課隊員らに連れられ、傍に停められたトラックの荷台に乗せられた。トラックは、兵士を運搬するための車両であるらしく、その中には戦闘用の装備がずらりと積載されているものの、隊員の姿は、今は一人も見当たらない。

ユウは、車両脇に据え付けられた椅子にリコを座らせると、その肩を抱きながら優しくさすった。衣服を剥ぎ取られ、剥き出しとなっていたリコの上半身を、今はオリーブ色の隊服が覆っている。

「ごめん……」

不意に、リコが呟いた。

「どうした、リコ?」

「ごめんな。ユウ、ごめん……」

「どうして、リコが謝るんだよ?」

「あたし達のせいで、迷惑を……。信じてたのに……こんな事、する奴じゃないって」

「?」

「ユウの言うとおりだった……旧市街の奴って、みんな、浅ましくて、卑しくて、どうしようもない下衆野郎ばかりだ。こんな事……お前が許してくれるわけ……」

 その声は、彼女の声にしては、いつになくか細く、そしておぼつかない。

「リコ、それは違う。カンザキさんも、オノ君も、みんな、みんな良い人ばかりだろ? ノムラみたいな奴こそ例外なんだ。だから、気にするな」

「駄目だ!」

唐突に、リコはユウを突っぱねた。

「……リコ?」

 唖然とするユウに、リコはなおも震える声で続けた。

「あたしも、薄汚い旧市街の女なんだ。連中と同類なんだ。この気持ちだって、お前があっちの街の人間だから……だから、きっと違う。本物じゃ、ない」

「え?」

「ごめんな。もう二度と、お前の前には現れないから」

そして、すぐさまリコは立ち上がると、ユウの脇をすり抜け、トラックの荷台から飛び降りた。ユウは慌てて立ち上がり、リコの背中を追った。が、非常線の外にたむろした野次馬の隙間を、しなやかに駆け抜けるリコの身のこなしには敵わず、間もなくユウは、その二つ結びの後ろ髪を、夜陰の中に見失ってしまった。



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