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五章

 勤務開始前。いつものようにユウが、情報管理室のデスクにて砂糖ウン一〇パーセントのコーヒーをすすっていた時の事だ。ふと、傍の先輩隊員が、彼に声をかけた。

「なぁ、ミズシマ君、いいかげん、そういうのを飲むのは、止めた方がいいよ」

「何故です?」

「糖尿になるよ。糖尿はねぇ、大変だよ。食べたいものも自由に食べられなくなるし」

 すでに所帯持ちである中年の男性隊員は、先日の隊内健康診断で、血糖値が高かったとひとくさり騒いだ後、傍で無茶な栄養摂取を行う隊員に目をつけ、本人曰く親切心からの忠告を、その若い隊員くれたのだった。が、大抵の無理はどうにでもなる二十歳前後の隊員にとって、相手をするにこれほど面倒な手合いはない。ユウはなおもコーヒーをすすりながら、人生の先輩による貴重な説法を、只々右から左へと流し続けた。

 彼の隣では、相変らず締まりのない笑みを浮かべながら、ゴトウがマンザイショーを楽しんでいる。そのパソコンは、つい昨夜も、ユウがゲートブレイクのために拝借したものである。

彼らは全く気付いていない。

目の前の部下が、旧市街にて人知れず不正ID取得なる違法行為を行っている事を。

彼が、本格的にゲートブレイクを始めて早一ヶ月。すでに、ユウがIDを取得した人数は二桁勘定に至っている。そして、間もなくその数は、二〇人を突破する。

昨夜も彼は、親子二人のIDを取得し、このゲートシティに送り込んだ。今頃は、ゲート内の不動産仲介店にて、新しいアパートを探し回っている頃だろう。

「はぁ、わかりました。気をつけます」

上司の言葉に曖昧な笑みで応じると、ユウは空になったコーヒーカップをテーブルに置いた。



「みんな、今日もお疲れー!」

依頼人が帰るなり、カンザキは、グラスを高らかに掲げながら華やかな声を上げた。

その日も無事にゲートブレイクを終えた彼らは、心地よい疲労と、一仕事を終えた開放感にたゆたいながら、カウンターに肘をつき並んでいた。

軽妙な会話が交わされるその横で、ユウはしかし、一人、歓談から身を引きつつ、ちびちびと洋酒のグラスを舐めていた。相変らず、その匂いには慣れない。

カウンターの向かいでは、いつもの仏頂面をこさえたリコが、グラス拭きに勤しんでいる。

あの日以来、リコは一度もユウに話しかける事はなかった。一方のユウも、あのような物言いを行った手前、自分から話しかけるわけにもゆかず、彼女に対しては、ひたすら沈黙を貫いていた。結局二人は、旧市街での物別れ以来、一度も言葉を交わしてはいない。

 上官の妹とはいえ、所詮は旧市街の女だ。自分の事を何と思おうが構わない――――が、気が付くと、視界の隅でリコの顔色を伺っている。そんな自分に気付き、ユウは愕然とする。愕然としつつも、やはり彼女の姿を目で追う―――そんな事を、ユウはあの日以来、もう何度も何度も何度も繰り返している。

 その時、不意に顔を上げたリコに睨まれ、ユウはまたしても、慌てて目を逸らした。

 ―――くそっ、旧市街の負け犬のくせに。

「オノくぅーん。お疲れ」

 言いながらカンザキは、オノの丸い巨体へ、ずいと肩を寄せた。先程からカンザキは、メンバーを労うべく、花から花へと渡る蜂のように、カウンター席をしきりに飛び回っている。

「い、いや、俺は別に、何もやってませんからっ」

 頬のみならず、耳まで真っ赤に染め上げながら、オノは答えた。

「そんな事ないわ。オノ君はいつも、素敵なマシンを持って来てくれるじゃない」

「で、でも、あれは社長の……」

すると、オノの隣で、ウエスギが不満げに声を上げた。

「おーい、カンザキ。そういう事をやるから、すぐ男を勘違いさせちまうんだろうが」

「なによう、こんなの、ただのスキンシップじゃない。ねぇ」

至近距離で顔を覗き込まれたオノは、いよいよ顔を真紅に染め上げる。

「ケッ、悪食め」

その時だ。やおら、カンッ! と、カウンターが甲高い悲鳴を奏でた。その場の誰もが、音の方を振り見る。すると、カウンターにグラスを叩きつけたカンザキが、三日月眉の片方をひくつかせ、栗色の髪をむらむらと逆立てながら、憤然とウエスギを見下ろしていた。

「だぁああれが、悪食ですってぇえ?」

「さーね、誰の事だか」

ウエスギは、そのむくれっ面をぷいと背けた。一方のカンザキは、そんなウエスギを差し置き、今度はウエスギの隣でちびちびとグラスを舐めるユウへ抱きつく。

「ユウちゃぁん、コイツがあたしの事をバカにするぅう」

 カンザキの突然の狼藉に、ユウは避ける間もなく絡め取られた。耳元を熱い息がくすぐり、トドメとばかりに、白いうなじから、背中の芯を蕩けさす甘い微香が漂う。思いがけない状況に、目を白黒させながらユウが辺りを見回していると、ふと、その視界に、絶対零度の視線で彼を射抜くリコの姿が映った。

「あ、あの、カンザキさん?」

「こらぁ、カンザキぃ! いい加減にしろ、お前っ!」

すかさずウエスギは、背後からカンザキの白い肩を掴むと、強引にユウから引き剥がした。 

引っ張る勢いが余ったのか、たおやかな身体が、ぽすりとウエスギの胸板に収まる、と。

「やめて」

咄嗟にカンザキは、それまでの賑やかな嬌声とは一変、冷たい声色と共にウエスギを突っぱねた。一瞬、カウンターに漂った奇妙な沈黙の後、再びカンザキは大声を張り上げる。

「ちくしょおー、バカにされた腹いせだぁ! 今夜は飲むぞぉ! リコちゃん、ボトル開けてちょうだい! 一番高いやつ! もちろん、このボンボン課長のツケでねっ!」

リコはすぐさま、棚の奥に鎮座する桐箱から、未開封のウィスキーボトルを取り出した。一方、ウエスギは見事な仏頂面をこさえて、カウンターの丸椅子へ乱暴に腰を下ろす。

そんな、虫の居所の悪いウエスギへ、果敢にも声をかける者があった。

「なぁ、ウエスギさん」

「何だ」

不機嫌な声を寄越すウエスギに、ノムラは構わず続けた。

「どうして、客から金を取らないんですか? マシン台しか貰わないって、ありえないですよ」

「俺達は、金儲けのためにゲートブレイクをやってるんじゃない。ヤクザと一緒にするな」

「けど、これだけ需要があるんですよ。ビジネスにすりゃあ、かなり良い稼ぎになりますって」

「知らん」

いよいよウエスギはそっぽを向く。しかし、一方のノムラは、なおも食い下がる。

「俺、真面目に聞いてるんですよ!? 本当にもったいないですって! そこらの嘘ブレイカーだって、下手すりゃプラント勤めよりも稼いでるってのに、なんで、マジにブレイクできる俺らが、稼げないんですか」

 するとウエスギは、俄かに鋭い怒声を上げた。

「だからさっきから言ってるだろうが! 俺達は金儲けのためにやってんじゃねーんだよ!」

 その声は、浮わっついた店の空気を、一瞬にして硬直させた。皆、二人に目を向け、その会話の動向をじっと見守る。

しばしの沈黙の後、ぼそり、と、ノムラが口を開いた。

「……そうか、わかったよ。あんたらにとっては、ゲートブレイクなんて、所詮、金持ちの暇つぶしに過ぎないんだよな」

「は?」

「どうしたの? ノムラ君」

カンザキの怪訝な問いに、しかし、ノムラはさらに甲高く喚いた。

「俺達ぁな、あんたらと違って、金持ちでもゲートシビルでもねーんだ! 余裕がねーんだよ!稼がなきゃいけねーんだ! どうしてかわかるか!? 貧乏だからだよ!」

一気に吐き捨て、ノムラは踵を返した。その刹那、彼は、狙撃手のように冷酷な視線を、ウエスギ、ではなく、どういう訳かカウンター隅のユウに投げて寄越した。しかし、すぐさま頭を廻らすと、彼はそれきり一度も振り返る事もなく、乱暴な足取りで店を飛び出して行った。

「どうしたのかしら? ノムラ君」

「あいつ……」

ノムラの背中を目で追ったオノが、眉根を寄せつつ呟いた。

「どうしたの? オノ君」

「い、いえ、何でもないです、何も」

何もない、と言いつつ、その目はひどく泳いでいる。不審に思ったウエスギは、すかさずオノに問いただした。

「何だ。知っている事があったら、言え」

「い、いや、本当に何でもないです」

それきり、オノはうつむき、ぐっと口をつぐんだ。

ウエスギはそれ以上の詮索をやめ、重い溜息をつくと、カウンターにもたれながら呻いた。

「今日は、やけに疲れちまったな……。おい、ユウ。お前はどうだ」

「僕は、別に……」

「そういや、ユウ、近々お前の課にも話が行くと思うが、今度、一課の連中が旧市街のヤクザ共に、一斉掃討作戦とやらを仕掛けるつもりらしい」

「え? でも、こちらのヤクザを取り締まるのは、旧市街当局の仕事では?」

「それがなぁ。こっちの警察がちーっとも働かないもんで、とうとう父上が業を煮やしてね、わざわざ御自ら一課に檄を飛ばしたのさ。連中を何とかしろってね。ま、もうすぐ選挙だし」

「それは、我々五課にも関係が?」

「まぁ、詳しい話は、いずれ一課の課長から話があるだろう。いずれにしろ、しばらくゲートブレイクは休業だな。あのブルドッグに嗅ぎ付かれると、色々と厄介だ」



それから数日後、五課の面々は、いつにない緊張を強いられていた。

その日、彼らは南棟一〇階の会議室へと召集されていた。会議室のボード前には、いつもの狸腹に並んで、山から切り出したばかりの巌のごとき男が立っている。

肩章には星が三つ。ササヅカと同じ、一尉の印である。

「今日は、一課のヤマモト一尉から、君達に話があるとの事で呼び出した」

第一声と共に、ササヅカは、隣に立つ岩石男に話を譲った。地下暮らしですっかり青白きモヤシと化した五課の面々の中で、その男は、まるで別人種のごとき異彩を放っていた。艶やかな褐色の肌に、かっちりと中身の詰まった肉質、そして、これは彼個人の資質ではあるが、その顔は確かに、ウエスギが評するとおり、どことなくブルドッグを想起させた。

ヤマモトは、その大きくめくれた下唇から、銅鑼のような声を発した。

「諸君。わざわざ集まって頂き、感謝する」

組織侵入捜査課―――通称一課は、主に不正侵入斡旋などの、組織的、計画的な侵入行為、侵入関連行為を画策する組織を取り締まる課である。五課にとっては、その職務の性質やメンバーの気質上、最も相性の悪い課でもある。

一課は、その多くが任務の特質上、自身の手足で生きた情報を得る事を常としている。時には、重要な情報を得るために命の危険を冒す場合もある。そんな彼らにとって、一日中安全で薄暗い地下室に居座り、データ化された、彼らに言わせれば“死んだ”情報をセコセコと集める五課の隊員達は、世間ズレした根暗な偏物以外の何物でもない。一方、五課の面々からすれば、そんな一課の人間達が、事ある毎に自分達を勝手にモヤシ呼ばわりし、見下す態度が気に食わない。

かようにして、常日頃、五課の面々は一課に対して密かな嫌悪感を抱いている訳だが、その一課の、他でもない御大将が、彼らに直々の話があるとして召集をかけた事は、彼らに少なからぬ困惑を与えていた。そして、その困惑はほどなくして、ざわめきとなって発露した。

「どうして、一課が?」「何で?」「どうして?」云々……

と、その時だ。

「貴様ら、たるんでいるぞ!」

やおら、一課課長の銅鑼声が、三〇席ほどの会議室に轟々と響き渡った。

「上官の話の途中で、無駄口を利くとは何事だ! ここが一課であれば、全員にビンタを喰らわせた上に、腕立て一〇〇回は命じているところだ!」

びりりと張り詰めた空気に、皆が一気に口を閉ざし、背筋を正した。一方、五課の課長はと言うと、目を右往左往させつつ、「そ、そうだぞ」と、及び腰で尻馬に乗る。

そんな五課課長をじろりと横目に睨みながら、ヤマモトは溜息と共に唸った。

「ササヅカ一尉。日ごろの彼らに対する指導教育が、甘いのでは?」

「は、はぁ」

「部下の弛みは上官の弛みの現れ! そして、上官の弛みは隊の弛みだ! その点を、よくよく肝に銘じて頂かねば、困りますぞ!」

巨大な鼻の穴からぶうと気焔を上げる一課課長の横で、五課課長は姿勢を正して畏まった。

「も、申し訳ありません」

再び、不満げに溜息をついたところで、ヤマモトは話を続ける。

「只今、我々一課では、旧市街におけるヤクザ組織の掃討作戦にとりかかっている。君らも知ってのとおり、ヤクザやその他、旧市街の違法組織の多くが、不正アクセスや不正ID登録事業を生業とし、その収入を活動資金としている。これは、我々警備隊に対する、いや、ゲートシティそのものに対する、極めて許し難き冒涜行為である!」

 ユウの脳裏に、ふと、ジャンク屋の社長の言葉が蘇った。確かに、ヤクザにとってユウは、この上なく厄介な商売敵である。彼らの重要なシノギを、タダ同然の価格で、横から掠め取っているのだから。

「もちろん、我々一課も、全力をあげて連中の掃討に取り組んでいる。が、より効果的に奴らを追い詰めるためにも、是非、君達五課の隊員諸君にも協力を仰ぎたいと思ったのだ」

そこで、ササヅカが彼の言葉を引き継ぐ。

「これまでは、単に、不正アクセスの探知や改竄データの修復、システムの脆弱性を補修する事が我々の主な業務だったワケだが……これからは、より積極的に不正アクセスのログ元を探り、一課と連動してこれを叩く事も、業務内容に含まれてくるだろう。まぁ具体的には、ログ元が判明した場合、即座に一課に通知するための連携システムを構築する、といった事になると思う」

 その後ヤマモトは、一言二言の訓戒を言い残すと、早々に一課事務室へと帰って行った。 

ヤマモトが会議室を後にするなり、五課の面々はすぐさま困惑顔を付き合わせて囁いた。

「冗談じゃねー。あんな脳味噌までプロテインな連中と、何で協力しなきゃなんねーんだ」

ゴトウが漏らす。その言葉を横で聞きながら、ユウは、マンザイと別れた彼女の事で一杯のお前の頭よりは、プロテインの方がマシだと内心でひとりごちる。

「一課の連中さ、総監にハッパをかけられたらしいぜ」

「ああ、なるほど。お膝元だからねぇ、あそこは」

「つーかアレでしょ、ぶっちゃけ選挙前のパフォーマンスでしょ、こんなの」

「ああ、そういや、そろそろ選挙か」

 めいめいが適当にささめく中、ユウは人知れずネクタイを締め直していた。

 これからは、より一層、ログの消去に細心の注意を払わねばならない。特に、万が一にもゴトウなぞに逆探知でも食らった日には、死んでも悔やみきれないだろう。



 ゲートブレイクに一時休業の看板を掲げているとはいえ、ユウの足が『アヴェクトワ』から遠のいたかというと、決してそうではない。

 それから数日後、寝入りばなのユウに、カンザキからこんな電話がかかってきた。

『ごめーん、ユウちゃん! 明日、店に七夕の飾り付けをやるから手伝ってぇ』

「そういう事は、ウエスギさんに頼んで下さいよ」

『それがさぁ、ヤクザの駆除か何かで忙しい、とかつって、断られちゃったの。ほんっと、肝心な時に全然役に立たないんだから、あいつ』

「ですが、そういう事なら、僕の他にも、もっと適任な方がいらっしゃるでしょう」

『えー、つれないなぁ。どうせ明日は休みなんでしょ? ユウ君』

「……どうして、その事を?」

『決まってるじゃない。シンヤ君から聞いたのっ!』

「……」

かような経緯で、次の日、ユウは生まれて初めて、たった一人でゲートの外へ足を踏み出す事となった。一人でタクシーを使うには金が勿体無い。そのため彼は、普段は寮の近所を乗り回すだけの自転車で、旧市街へ行ってみようと思い立った。

 自転車を押し、ゲート脇の歩行者用通路にてチェックを済ますと、すぐさま橋にさしかかる。

潮風の中、信号もない一直線をのんびりと走る。空を仰ぐと、ウミネコがニャーニャーと鳴きながら、真っ青なカンバスの中を気持ち良さそうに漂っている。

歓楽街へは、思いがけず早く辿り着いた。一方通行などの規制に囚われず、最短距離を進む事ができたためだろう。日の高い時刻のためか、営業中の店はほとんど見当たらない。その代わり、通りのそこかしこでは、店の小間男達が夜の営業に向けてせっせと店の入り口を掃いている。その傍らでは、ネコもまた、せっせと毛づくろいに精を出している。

裏路地を辿り、やがて、いつものビルへ到着する。入口前に自転車を停め、今やすっかり馴染みとなったナメクジのエレベーターに乗り、蛍光灯のちらつく七階フロアで降りる。

 意外な組み合わせの会話が聞こえて来たのは、まさにその時だった。

「ふ、ふざけんな! いきなりそんな事を言われても、困るんだよ!」

「フザけてねーよ。俺はマジだ! 絶対に幸せにしてやるって、だから俺と付き合え!」

「あ、頭冷やせ、バカ野郎!」

廊下を曲がった角の向こうから、聞き覚えのある若い男女の声が響く。いずれも、ひどく声を昂ぶらせている。ユウは、二人の様子を伺うべく、廊下の角からそっと覗いた。案の定、店の前ではリコとノムラが、いがみ合うノラネコよろしく激しい言い争いを繰り広げていた。

なんだ、痴話喧嘩か、と、ユウは思わず辟易した。犬も食わないほどの不味いものを、わざわざ人間様が進んで喰らいに行く法はない、と、無関心を装い、踵を返す。

だが、その足はほどなく、コンクリートの床にぴたりと捕われた。同時に、彼自身にも意外な、そして極めて不本意な欲求が、彼の中で頭をもたげた。―――聞きたい。彼らの会話を。

 角の向こうでは、なおも二人の言い争いが続いている。

「なぁ、真面目に聞けよ。俺はな、最初に会った時からずっとお前の事が好きだったんだ。一目惚れってやつだよ。わかるか?」

「しらねー……」

 熱を帯びたノムラの声に対し、リコの返事は極めて冷ややかだ。

「知らねぇって何だよ! 俺はずっと、ずっとお前を見ていたんだ!」

「だから何だよ! 知らねぇもんは知らねぇ!」

 リコの怒声が、落書きだらけの廊下に虚しくこだまする。

ややあって、再びノムラが口を開く。

「……そうか、知らなくて当然だよな。お前が見ているのはいつも、あいつばかり……」

「は? 何の話だよ」

「しらばっくれてんじゃねぇよ! この売女!」

「―――は?」

俄かに、リコの声が震えを帯びた。

「今、何て言ったよ、お前……」

「とぼけんなよ! どうせお前は、あいつがゲートシティの男ってだけで、欲気を感じてるんだろうが!?」

「いきなり何の話だよ、えぇ!?」

狼狽か、あるいは怒りのためか、声を裏返しながらリコは喚いた。

「仕方ねーよなぁ。ゲートシティの男と聞きゃ、お前ら女は、どんな変態のモノにでも平気でしゃぶりつく。そうだろ? お前も、あいつがゲートシティの男だからイイんだろ? どうなんだよ、え? 答えろよ! この、薄汚い売女ぁ!」

「ふ、ふざけんなぁ! 誰が売女だ、えぇ!?」

悲鳴にも似た彼女の声は、まるで鋭利なナイフのように、ユウの鼓膜を鋭く抉った。それは恐らく、音を良く反射する狭い廊下のためだけではない。

「ノムラ君」

気付くとユウは、すでに廊下の陰からその足を踏み出していた。突然現れた人影に、弾かれたように二人は振り返る。

「ユウ……」

 上擦った声で、リコは呟いた。その顔は、時間を止められたかのように白く硬直している。

「喧嘩、か?」

二人の間に割り込みながら、ユウはさりげなくリコを背中に隠した。ノムラは不快感を隠しもせず、苛立たしげにユウを睨み据えながら呻いた。

「てめぇ、聞いてたのかよ、俺らの話を」

「多分、途中から」

 すかさずノムラは周囲を見回すと、怪訝そうに訊ねた。

「ウエスギさんは?」

「今日は一人だ」

「へぇ、珍しい。てっきりあんたの事は、ウエスギさんの腰巾着だとばかり思ってたよ」

「そんな事より、君は本当に、彼女の事が好きなのか?」

 その質問に、ノムラは呆けたように目を丸めた。

「は?」

「彼女の事が好きなら、どうして彼女を侮辱するような事を?」

 するとノムラは、やおら口角をニィと引き裂くと、弓張り月に開いた口から、さながら壊れたバイオリンのごとき声を奏で始めた。神経を逆撫でする笑い声に、ユウが薄皮一枚の下で顔をしかめていると、ノムラはさらに狂った笑みを浮かべて言った。

「あんたさぁ……そういう態度が、俺をこんなにしちまってんの、気付かない?」

「?」

 怪訝の色を浮かべるユウに、ノムラはさらに続ける。

「いいよなぁ。ゲートから追い出されずに、ずうっと向こうで過ごして来られた奴は。そうやって、何にも知らないフリしてつっ立ってるだけで、欲しいもんが向こうから擦り寄って来るんだからさ」

「ち、違う、あたしは―――」

「彼女は、君が思うような人間じゃない」

リコの言葉を引き取るように、ユウはノムラに反論を寄越した。二人の呼吸に、さらに火に油を注がれたノムラは、さらに狂気の色を深めて喚く。

「一緒だよ! いーっしょ! なんなら確かめてみろよ、今すぐそいつを押し倒してさぁ、ヤッてみりゃわかるって! きっと、売春婦みてーに、喜んでテメーのナニを咥え込むぜ!」

 その挑発的な態度に、ユウはぎりりと奥歯を噛み締める。

「なぁ、ヤッてみろよ! ぶち込んでみろよ! なぁ、なぁ、なぁ、なぁ!?」

「帰れ……」

「はぁ?」

「帰れって言ってんだよ下衆がぁ! もう二度と、リコの前に姿を見せるな!」

 その瞬間、ユウの激昂に掻き消されるかのように、ノムラの顔から下卑た笑みが失せた。しかし、その目は相手の怒気に怯える様子もなく、あくまでまっすぐに、ユウを見据えている。

それは、真っ当な人間の目が持ち合わせるべき焦点を、どこかに忘れ去った眼差しだった。

「おぼえてろよ。マジで」

 ノムラは、月並みな捨て台詞を残し、その場を後にした。

 薄暗い廊下に、不気味な冷気が凝る。

 二人は、身じろぎ一つ取る事もできず、しばし、その場に立ち尽くした。

「―――そういえば、カンザキさんは」

ややあって、思い出したようにユウが口を開いた。

「……買い出しで、少し遅れるって」

「そう」

 それから間もなく、二人は店内のカウンターに移った。いつものようにリコは、砂糖水を用意するべく戸棚から砂糖壺を取り出す。そんなリコを制すると、ユウは珍しく、しかも昼間から、好きでもない水割りを彼女に注文した。差し出されたグラスに、ユウは早速口をつける。だが、やはり洋酒独特の臭いが鼻をつき、なかなか口が進まない。それでも、半ば無理矢理に喉へ流し込んでいると、カウンター越しに、リコがぽつりと口を開いた。

「い、言っておくけどな」

「……何だ」

「あいつの言ってた事、あれ、全部出任せだからな。あたしがお前に色目使ってるなんて、ありえないから」

「わかってる」

再び、カウンターに重苦しい沈黙が漂った。店は、いつになくしんとしている。騒々しいカンザキが出勤していないためか、と、ユウは思ったが、どうやらそれだけでもないらしい。怪訝に思い、店内を見回したユウは、ふと、店にいつものジャズが流れていない事に気付いた。

「音楽、かけないのか?」

「なんだ、聞きたいのか」

リコが目を向けた先に、つられてユウも振り見る。すると、キープボトルが並べられた棚の上に、年代物のオーディオがひっそりと置かれていた。

リコは、カウンターの奥から小さなパイプ椅子を持ち出し、棚の下へ置くと、座面を踏み台にして、棚の上へと身を伸ばした。が、安定感がなく、ひどくふらついている。

「いいよ、僕がやる」

「客は座ってろ」

 席を立つべく腰を浮かせたユウを、リコは冷たく制した。

とはいえ、その危なっかしさは見るに堪えないものだった。ついに、ユウは席を立つと、棚の下からオーディオのスイッチに向けて手を伸ばした。スイッチの手前で、リコの細い指とユウの骨ばった指が触れ合う。と。

「ぅあっ!」

瞬間、リコは大きく身体をのけぞらせた。弾みで、椅子から足を踏み外し―――

「危な、、、、」

――――咄嗟にその身を受け止めたユウと共に、塊となって床に転げ落ちた。

狭い店内に、鈍く大きな物音と、すさまじい振動が走る。

「い、いつぅぅ……」

再びユウが目を開くと、その眼前には、物音に驚いた小動物のごとく、まん丸に目を見開いたリコの顔があった。ユウの薄っぺらな胸板の上にその身を預け、呆けたような眼差しで、じっとユウの目を覗き込んでいる。

「あ……」

押し付けられた彼女の平たい胸から、彼女の体温と鼓動が、ユウの胸へと直に伝わる。その生々しさは、ユウに少なからぬ衝撃を与えた。

今まさに、彼女が、自分の腕の中で脈打っている。息づいている。

「ありがとう……」

小さな唇が、摺れるように発した声に、いよいよユウの動揺は頂点に達した。カンザキの甘い香とは違う、清涼感のある汗の匂いに、ユウの本能は否応なく掻き立てられる。

「リコ」

「……なんだよ」

「……」

目の前に、確かめる手段がある。

あの日、タクシーの傍で物別れとなった後、車中でぶり返した熱の謎が。

先程、ノムラとリコの言い争いに、思わず足を止めてしまったその理由が。

だが―――と、ユウは思い止まった。

それは、リコのプライドを犯す行為だった。ゲートシビルには決して尻尾を振らないと豪語する彼女のプライドを。そう、その行為を自分に許す自分自身こそ、ゲートシビルであれば誰であれ、その身分と経済力にあかせて旧市街の女を簡単にモノにできる、という、ノムラと同じ下劣な思い上がりに侵された、下衆な人種に他ならないのだ。

だが……ならば何故、彼女は、その唇を逸らそうとしない? 

あるいは、彼女は…… いや、しかし、それは……

うたかたのように次々と浮かんでは消える思考が、僅か一〇数センチの跳躍を阻む。一方でリコは、何かを待ち望むような眼差しで、じっとユウの顔を覗き込んでいる。

鼻先にかかる息が熱い。きっと、その唇も……

きっと……

「―――そこを、どいてくれないか」

「あ……ああ」

 ユウの言葉に、ようやく我に返ったリコは、おぼつかない動作で身を起こした。その顔には、相変らず呆けた色が浮かんでいる。

「だから言ったろ、僕がやるって」

 同じく身体を起こしながら、ユウが苦言を吐くと、リコはむっと口を尖らせた。

「あ、あたしはいつも、ああやってスイッチを入れてんだ。お前が邪魔をしなきゃ、こんな事にはならなかった」

「邪魔だったっていうのか」

「あ、ああ、そうだよ、余計な事しやがって」

「……あほらしい」

 立ち上がったユウは、床の上にへたりこんだままのリコに手を差し延べた。が、リコはその手をさりげなく無視し、一人ですっくと立ち上がる。 

「姐さん、遅いな」

「あ……ああ」

 それきり二人は、一言も交わす事なく、カンザキの出勤を待ち続けた。

 結局、カンザキが、笹ではなく竹を引っ提げて店に現れたのは、それから小一時間ほど経った後の事だった。

 ユウに間違いを指摘されるなり、カンザキは喚いた。

「なによぉ! いいのっ! 願い事が叶うなら、どっちだっていいのっ!」


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