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四章

 ウエスギが用意したリストには、すでに数十人分もの名前が並べられていた。液晶画面をびっしりと埋め尽くす人名を眺めながら、ユウは、いつの間にウエスギはこんなものを用意していたのかと、感心し、同時に呆れもした。

「一体いつ頃から、ゲートブレイクを行うつもりでいらしたんですか?」

『アヴェクトワ』のカウンター席にて、相変らず慣れない洋酒の水割りを舐めつつ、ユウは、隣の席でカパカパとロックをあけるウエスギに訊ねた。

今夜の二人は、警備隊の身分を伏せるべく、いつもの制服姿ではなく私服を羽織っている。たとえ普通のジャケットやパンツを身につけても、その体躯ゆえに軍人らしさを失わないウエスギの一方で、同じような服装を纏っても、ユウはギークの風体を払拭する事ができずにいる。

「そうだなぁ。最初に、お前を引き込もうと考えたのは、半年ぐらい前かな」

「半年前!? まさか、インサイトのチェックを僕に振っていたのも、そのため……?」

「いいや、むしろ逆だよ。最初にインサイトの修復を頼んだ時、コイツは使えると思ったのさ」

 カウンター向こうのリコから五杯目のグラスを受け取りつつ、ウエスギは答えた。

「僕が? どうして」

「お前は、口が堅い」

 答えるなり、ウエスギはまたしても、一気にグラスを空けた。

「――――それだけ、ですか?」

「それだけ、って、大事なことだぞ? ゲートブレイクなんてものは、何だかんだ言っても所詮は違法行為だ。誰彼構わず触れ回るような奴じゃ困るだろ」

「そんな単純な理由で、僕を……?」

「あらぁ? 拗ねてるの? ミズシマ君」

ユウの隣に腰掛けるなり、カンザキは不機嫌なその顔をぐいと覗き込んだ。

「いえ、別に」

むくれるユウの頬を指先で突っつきながら、カンザキは続ける。

「嘘。本当はもっと個人的な理由で、声をかけて欲しかったのよねぇ」

「こ、個人的な理由って、何なんですかっ!」

「だったら早く言えよぉ、ユウ! 俺はいつだってお前一筋だぜぇ!」

「で―――――今回、IDを必要としているのが、」

大手を広げて抱きついてきたウエスギを両手で突っぱねつつ、ユウは背後のボックス席に振り返った。合皮の安ソファには、本来であれば、こんなうらぶれた雑居ビルのスナックになぞ縁もゆかりも持たぬであろう若い夫婦が、居心地悪げにちょこんと腰を下ろしている。葬式のごとくに暗く沈んだ面持ちを付き合わせる両親とは対照的に、彼らの子供である五歳の女の子は、呆れるほどに元気よく、店の中をはしゃぎ回っている。

幼いながらもさすが女の嗅覚と呼ぶべきか、店に入るなり女の子は、端のクローゼットからカンザキのドレスや衣装を目ざとく見つけ出すと、早速それらを引っ張り出し、一人ファッションショーを開始した。今も、カンザキの手伝いを受けながら、次々とドレスを着替えては、両親やウエスギらに、その艶姿を披露している。

「どうしても、あの子をゲートシティの学校に通わせたいのだそうだ」

 ウエスギの言葉に、ユウは怪訝の色を浮かべた。

「学校、ですか?」

「そう。旧市街では受けられない、高度な教育を受けさせたいんだとさ」

「そんな事のために……」

「おいおい。そんな顔するなよ。長い目で見れば、とても重要な問題だぜ。教育機会の格差は、所得格差の固定化に繋がるんだ。そうなると、いよいよ格差の是正は困難になる」

 事実、公教育の内容は、ゲートの中と外では、その質に大きな開きがある。

「あ、あの……」

 不意に、女の子の父親が、おずおずと口を開いた。

「ほ、本当に、IDを取得して頂けるんですか?」

青褪めた男の顔には、怯えと不安、そして微かな期待が、微妙な配合で浮かんでいる。

「ええ、お任せください」

ウエスギが、こともなげに答える。

「保障します。こいつは街でもトップクラスのゲートブレイカーですよ」

 いい加減な称号に対し、真面目に謙遜するのも馬鹿馬鹿しく、ユウは淡々と話を繋げた。

「ところで、頂いたお話では、娘さんと奥様のIDだけが必要との事ですが……旦那様は、取得をなさらないんですか?」

 ユウの質問に、若い夫婦はいやましに顔を曇らせ、不安げに見合った。やがて、旦那の方がおもむろに口を開く。

「なるべく、税金を少なく抑えたいと思いまして。たとえ三人分を取得しても、市民税を賄えなければ、どうせ、また……」

「世帯の一部のみをゲート内に移す事はできません。その事はご存知で?」

「……ええ」

夫婦は、再び沈痛な面持ちで俯いた。

「すでに離婚の申請は済ませています。親権も妻の手に」

 言いながら、男は妻の膝に手を添える。夫に応じるように、妻は夫の肩に寄り添う。その妻の肩を、夫は強く抱き寄せる。痛ましいほどの夫婦愛である。

「ですが、これからも私達は家族です。たとえ籍は分かれても、私達はずっと……な」

男が耳元で囁くと共に、妻は涙で顔を赤く腫らしながら頷いた。

―――だが。

「残念ですが、あなた方の依頼をお受けする事はできません」

「は?」

ユウが発した思いがけない言葉に、その場に居合わせた大人達の顔が、音を立てて一気に凍りついた。一人、女の子だけが、キョトンと呆けた顔を浮かべる。

「おい、どういう事だよ、ユウ」

微かな苛立ちを込めつつ、ウエスギがつっかかる。

「気に食わない。理由はそれだけです」

言いつつ、すでにユウは、目の前のパソコンを畳み始めている。

「ちょ、ちょっと待ってください、気に食わないって、どういう事ですか!?」

たまらず、男はソファを立ち上がると、地獄に垂らされた蜘蛛の糸でも掴むかのように、ユウの細い背中にすがりついた。一方のユウは、振り返りもせずに答える。

「あんたは逃げている」

「は? 逃げている? 俺が?」

 途端、男は素っ頓狂な声と共に、その目を大きく見開いた。

「本当に娘さんの事を思うのなら、どうして自分も一緒に、あの街へ戻ろうとしない?」

「そ、それは……俺の力じゃあ、三人分の税金なんて、とても、」

「とても、何だ?」

「俺はもう、あの街ではやっていけない。さもなきゃ今頃、こんな所でこんな事を、あなたに頼んでいるわけがない……。俺は、もう、あの街にはいらない人間なんだ。どうせまた、クビになるのがオチだ」

「いらない? どうして?」

「どうして? どうしても何も、それが現実なんだ! 俺は、もう、何をやっても駄目だ。だから、せめて妻と子供だけは、向こうで幸せになってほしいんだ。俺のプラントでの稼ぎと、妻がゲートシティで働く分を合わせれば、何とか、二人分の生活と税金ぐらいは賄える」

「一つ、訊いていいか」

「はぁ」

「さっきから聞いていると、どうもあんたは、あの奥さんが、向こうであんたを裏切る事はないと信じきった上で、話を進めているように聞こえるが、気のせいか?」

「妻が、裏切らない、と?」

ユウは頷いた。ようやく質問の不躾さに思い至った男は、怒りに顔を赤らめて喚いた。

「も、もちろんだとも! アユミは俺を愛してる。俺も、アユミを……」

「その保障はどこにある」

「……は?」

 思わぬ言葉に、男は目を点にした。一方、ユウはさらに畳み掛ける。

「はっきり言おう。彼女はいずれあんたを裏切る。理由は簡単だ。旧市街とゲートシティでは、平均給与に約三倍の差がある。―――仮に彼女が、ゲートシティで仕事の口を得たとする。その時点で、すでにあんたは彼女の収入に負けている。しかも、だ。彼女の職場は、あんたの三倍は稼ぐ男達で溢れているんだ。―――それでもあんたは、彼女が、あんたへの愛情を貫いてくれると信じられるか? 稼ぎの少ない旧市街の男への愛情を?」

男は、眼を白黒させ、その口をぱくつかせながら、ユウの言葉を聞いている。

「おい、ゾンビ野郎」

やおら、カウンター向こうのリコが、ユウの背中に雑言を投げつけた。

「お前、やっぱり、あたし達旧市街の人間をバカにしてるだろ?」

「僕は、ありうべき仮定の話をしているだけだ」

ダン! と、やにわにカウンターが音を立てる。

「やっぱりお前の事は気に食わねぇ! お前がどれだけすげぇブレイカーか知らねーけどな、あたしはお前の事なんか、絶対に、」

が、リコの抗議は半ばで掻き消された。爆音にも似た怒声が、突如、店内を劈いたのだ。

「アユミを、そこらの売春婦と一緒にするなぁ!」

びりりと空気が振るえ、一瞬、時が止まったかのような静寂が部屋を包んだ。父親の怒声と、その場に漂う緊張感に堪りかねたのか、ほどなく、女の子はくしゃっと顔をしかめ、声を上げて泣き始める。そんな彼女を、すかさずカンザキが、あやしながら店の外へと連れ出す。

扉の向こうへと消える娘を見送った男は、再びユウに目を戻し、きつく睨み据えて唸った。

「あんた、奥さんはいるのか」

「いない」

「ああ、だと思ったよ。だから解らないんだ。夫婦ってものが、そんな単純な金勘定だけでくっついたり離れたりするもんじゃないって事がな。俺とあいつは、今でも強く愛し合っているんだ。夫婦としての絆を大事にしてるんだよ。だから俺は、何の不安もなく離婚届けにサインが出来たんだ。 ――――俺達の絆に、何も知らないガキが、ケチをつけるな!」

 だが、ユウは全く怯まない。

「いいや、僕にはわかるね。どうせあんたはすぐに見捨てられる! 旧市街暮らしの低収入男なんか、ゲートシティの男らに比べりゃ月と石ころの差だよ! 頭は悪い、要領も悪い、服装も冴えない! どうだ、これでも奥さんに捨てられない自信があるか!?」

「おい! 言わせてりゃ、このゾンビ野郎!」

ユウの背後から、再び怒声が上がる。カウンターから飛び出さんばかりに乗り上げるリコを、すかさずウエスギが押さえ込む。

「リコ、悪いがもう少し、黙って見ていてくれないか?」

一方、ユウは、今度は男の妻を振り見ると、さらにえげつない言葉を浴びせかけた。

「なぁ、奥さん、あなたはまだ若くて綺麗だ。あっちに行けば、こんなクズより、もっと魅力的な男がわんさといる。再婚を勧めるよ。そうすればあなたは一生安泰だ」

「そんな……そんな!」

妻は言葉を詰まらせた。代わりに、ぼろぼろと涙を流し始める。

「ひどい、私がそんな事……」

「あんた! よ、よくも俺の妻を!」

激昂する男に、ユウは冷ややかな声で続ける。

「言っておくが、泣かせたのはあんただ。家族を守りきる覚悟も、自信も、何もない。そのくせ、妻の愛情なんて他人任せの不確定要素にすがりついて、都合のいい絵に酔っ払ってる、旦那さん、あんたが泣かせたんだよ」

途端、男はユウの胸倉に飛びつき、その首をカウンターに押し付けた。

「言わせてりゃあ勝手な事をぉ!」

男は、ユウの首に回したその手に、躊躇なく握力を込めてゆく。次第に赤く変じてゆくユウの顔色に、さすがにマズいと感じたか、ウエスギはすかさず男の肩にとりついた。

「まぁまぁ、旦那さん。落ち着いて、」

だが、男は、ユウの首から手を除けるどころか、いやましに指先をユウの首へとめりこませる。ユウの方も、苦しげに顔を歪めながら、さらに挑発的な言葉を、男に投げつける。

「い、いいか、よく聞け! お前が頼りにしている夫婦の愛情なんざ、あっという間に跡形もなく消えちまう! 一〇〇万YENを賭けてもいい! 一年も経たないうちに、奥さんは他の男に靡く! 僕にはわかる!」

「おい、いい加減にしろ! ユウ! 死にたいのか!?」

「こ、殺してやる……このクソガキ!」

 男はいよいよ握力を強める。ユウの顔色はもはや赤を通り越し、ついに紫を帯び始める。

「じゃ、じゃあ、なんであんたは、あの街から逃げるんだ……? か、勝てないとわかっているから、そ……そうだろ!?」

「俺が、何から逃げてるって!?」

「街だよ、げ、ゲートシティから……あんたは逃げてんだよ!」

 ユウの絶叫に、はたと、男の手が止まる。

「街から……逃げてる? ……俺が?」

 男が握力を緩めると共に、すかさずユウはその手を振り払い、がばと身を起こした。激しく肩を上下させ、新鮮な空気を必死に吸入する。

「逃げるな。ま、街から、逃げるな……」

「でも、きっと、また……」

力ない男の呟きに、ユウは咳き込みつつ答える。

「あんたが、いらない人間がどうか、それを決めるのは、あんた自身だ。……違うか?」

「……」

ついに男は、こく、と小さく頷いた。

そこへ、二人の青年がどやどやと店に雪崩れ込んで来た。店のドアに掲げられていたはずの本日貸切の看板に構わず駆け込んで来たのは、先日、マキタに付き添っていた二人の青年達だ。

彼らはいずれも、マキタと共にゲートシティへの侵入を試みた際、ウエスギと知り合いになった青年達である。ゲートを警邏していた隊員らに捕まり、二課オフィスへと連行された彼らに事情聴取を行ったのが、他でもないウエスギだったのだ。

大柄な青年の方は、その太い腕に新しいラップトップを抱えている。いや、正確には、いわゆる新品と呼ばれるものではない。彼が勤める旧市街のジャンクショップにて、店の店主に組ませた特注品だ。

「ミズシマさん、注文通り、メモリを増設しておきました」

そう言って、彼は、そばかすだらけの丸顔をめいっぱいにほころばせた。

「あ、ああ……ありがとう、オノ君」

オノは、ゲートシティの人間であれば、未だハイスクールに通う頃の年齢である、が、すでに彼は、ジャンクショップ勤めによって自ら生計を立てている。そんな苦労を微塵も感じさせない愛嬌のある顔立ちに、さらに人懐っこい笑みを浮かべつつ、オノはユウに駆け寄った。

「どうしたんですか? なんか、やけに苦しそうですけど」

「何でもない……処理速度は、どれぐらい上がってる?」

「前回比ですと二倍に上げてます。もっと速くした方がよかったですか?」

「いや、充分だよ」

「なぁ、本当に今夜、一気に二人分もゲートブレイクをやるつもりかよ?」

次に口を挟んだのは、ノムラという青年だ。

「二人? いいや、三人だ」

「はぁ? ど、同時に三人!? んな話、聞いてねーし!」

ノムラは、長髪を乱暴に掻き上げると、少女のように端正な顔を歪ませ、悲鳴を上げた。

「確かに、同時三人は無茶ですよ。作業が長引けば、ハッキングもバレやすくなりますし」

オノも、不安げに口を差し挟む。

「だから、メモリ増設を頼んだんだよ」

 言いながら、ユウはオノの腕からマシンをひったくると、カウンターに置き、早速、動作チェックにかかり始めた。しばらく弄った後、うん、と満足げに頷く。

ふと、隣に座るウエスギが、溜息と共に口にした。

「驚いたぜ。お前が、あんな事を言うなんてな」

「あの子に、寂しい思いをさせたくなかった―――それだけです」

ディスプレイから顔も上げずに、ユウは淡々と答えた。

不意に、手元にグラスが差し出され、ユウはふと顔を上げた。見るとそれは、砂糖が大量にぶち込まれた水である。顔を上げると、リコが、相変らずの仏頂面でユウを見下ろしていた。

「飲め」

思いがけず穏やかなリコの言動に、ユウは半ば拍子抜けした面持ちでグラスを手に取った。

すると横から、すかさずノムラが茶々を入れる。

「どうしたよ、リコ。今日はやけに、こいつに優しいじゃねーか」

「うるせぇよ」

それきり、リコは再びグラス拭きに勤しみ始めた。

ユウは、グラスの中身を一気に煽ると、改めてディスプレイへ目を戻し、ついに二度目のゲートブレイクに取りかかった。


 果たして夫婦の戸籍は、当人達の話したとおり、旧市街の役所にて別々の世帯として登録されていた。おかげで、戸籍を探し出すのに二倍の手間がかかってしまったユウは、余計な事を、と、内心で毒づいた。それら戸籍を引きずり出すと、続けて、三人分の生体情報スキャンを行い、いよいよゲートシティ情報局へ登録の段となる。

「夫婦だった頃は、どちらの姓を使っていたんです?」

不意に作業を中断し、振り返ったユウに、男は怪訝の色を浮かべた。

「それが、何か」

「ゲートシティの情報局へは、夫婦として登録しておきます。わざわざ向こうで婚姻届を出し直すのも、面倒でしょう」

「……え?」

男は、唖然とした面持ちを浮かべると、同じく目を丸くする妻と顔を付き合わせた。

「ええと……妻の方を、」

 男が、要領を得ない口調で答えると、ユウは「わかりました」とそっけない答えを返した。そして、再び画面に向き直ると、それきりコード紡ぎに没入していった。


「まさか本当に三人分もやっちゃうなんて、社長が聞いたら驚くだろうなぁ」

親子連れが店から帰った後、使用したマシンのメモリをテーブルの上で叩き壊しながら、オノがうわ言のように呟いた。

 その言葉に、カウンターにてグラスを煽っていたウエスギの片眉が、くいと釣り上がる。

「お前、社長にゲートブレイクの事を話すつもりか?」

「え? まずかった、ですか?」

 その言葉に、ウエスギの顔がいやましに曇る。

「まずかった? どうして過去形なんだ? ―――まさか、もう喋ったのか?」

ウエスギの静かな怒気に気圧されたオノは、その巨体を小さくすぼめつつ答えた。

「べ、別に、自慢したかったとか、そういうワケじゃないんです……その、何のためにマシンを組むのか、目的をはっきりさせないと、効率的な部品選びが……」

すると、突如ウエスギは丸椅子から立ち上がると、自分より頭一つ抜き出たオノの胸倉を掴み上げながら猛然と怒鳴った。

「勝手に言いふらすな、と、最初に言っただろうが! 忘れたのか!? あぁ!?」

「す、すすすみません……」

その胸倉を突き飛ばし、ウエスギは唸るように吐き捨てる。

「今回は大目に見てやる。だが、もし、また誰かに漏らしてみろ。即刻でお前らを逮捕してやる。俺の権限で、お前らの起こした侵入事件が保留にされている事を忘れるな!」

「す、すみません。……そこまで怒らなくても」

「怒るに決まってるだろ! 少しでも俺達の行動が誰かに知られてみろ。地元警察、ヤクザ、もちろん、ゲートシティの警備隊にも……そうなれば、ここにいる全員がタダじゃ済まない。いいか。俺たちは、すでにヤバい橋を渡り始めてるんだ。その事を、もっと脳味噌にしっかり叩き込め! いいな!?」

「は、はい」

二人の青年は、こくこくと首を縦に振った。

「ったく……おい、ユウ。調子はどうだ」

 ぼやきつつ、ウエスギはソファへと振り返る。

さすがに三人分のゲートブレイクが思わぬ負担となったのか、ユウは、うだった頭を抱え、力なくソファに横たわっていた。リコに貰った氷嚢を額に当てがいながら、言葉を返すべく口を開く。だが、いっこうに言葉が出てこない。無理に出そうと喉を絞ると、頭蓋全体がひどく疼き、痛みで口が閉ざされてしまう。

ユウの頭痛は、時間を追うごとにその酷さを増していた。最初は、軽く頭を締め付けられるようだった鈍痛が、今や、チェーンソーで脳味噌を細切れにされているかのような、鋭い激痛にまで悪化していた。

「大丈夫? ミズシマ君」

様子を伺うべく寄り添ってきたカンザキの耳元に、ユウは、何とか声を絞り出して訴える。

「頭が、いたい……」

「タクシーには乗れそう?」

「わからない……」

「ねぇ、シンヤ君。今夜は、彼をこのままゲートに帰らせるのは無理なんじゃない? 良かったら、今夜はあたしが、」

「リコ」

カンザキの言葉を遮りつつ、ウエスギは、ウェイター姿の少女を呼びつけた。と同時に、カウンターから子鹿のような体が飛び出してくる。

「今夜は、お前に世話を頼みたいんだが、いいよな?」

黒い瞳を大きく見開いたリコが、えっ、と、引き潰されたカエルのような声で呻いた。

「な、なんで、あたしが?」

「カンザキに任せたら、こいつの貞操が奪われちまう」

言いながらウエスギは、顎でユウを示した。すると、カンザキがすかさず抗議の口を挟む。

「なによぉ、また、人を悪食みたいに!」

「間違っちゃいないだろうが。大体、お前はアカデミーの時から、」

「アカデミー? ちょっと、それ何年前の話よ!?」

「あ、あのー、ウエスギさん、そんなら俺が、ミズシマさんを、」

 申し出たノムラの言葉には耳も貸さず、ウエスギはなおも怒鳴り続ける。

「うるせぇ、俺は知ってるんだぞ! カノウと付き合ってる時に、奴のダチにも手ぇ出したろう。おかげでこっちは今でも、あいつらと飲む時は余計な気を使わなきゃならねーんだ!」

「カノウ君ともその友達とも、付き合った覚えなんてないわ。二人が勝手に勘違いしただけよ」

「よく言うぜ、じゃあヨシオカとは、」

「それも彼の勘違いっ! アンタ、よくもまぁ、そんな鶏みたいな脳味噌で、警備隊の課長が務まるわね。まぁ、どうせお父様のコネで雇ってもらったんでしょうけどぉ?」

「なにぃ!? お前、また、俺をボンボン呼ばわりする気か!?」

「事実じゃない。やーい、ボンボン!」

二人の不毛な言い争いが頭蓋骨に響く中、ユウの視界はひっそりと暗闇へ落ちていった。



目を覚ましたユウの前に広がっていたのは、見覚えのない部屋の見知らぬ天井だった。

白い壁紙の所々には、カビか、あるいは雨漏りの跡と思しき茶褐色のドットが浮かんでいる。

染みだらけの天井の真ん中に吊り下がるのは、埃で煤けた蛍光灯、ただ一つ。その蛍光灯は今は灯されておらず、代わりに、窓から差し込む陽光が部屋を明るく満たしている。

「ここは……?」

顔を廻らせていたユウの視界に、ふと、小さな人影がひょっこりと顔を出した。おぼろげな視界ながら、それがリコである事は、ユウにはすぐにわかった。二つ結びの髪の毛が、後頭部でさらりと揺れる。その格好は、いつも見かけるウェイター姿ではなく、キャミソールに短パンという、ラフな部屋着姿だ。どうやらここは、リコの部屋であるらしい。

「今……何時だ?」

リコは、ベッド脇の時計を一瞥するなり、ぞんざいな口調で答えた。

「九時半」

その言葉に、ユウの顔からざぁと血の気が引いた。今朝の彼の出勤時間は午後七時だ。

「うわぁ、ちち遅刻!」

慌てて布団を跳ね除け、ベッドから起き上がるも、すぐに酷い眩暈を覚えたユウは、空気の抜けた風船のように、ふしゅう、と布団に倒れこんだ。

「まだ寝てろ。すげー熱が出てんだからよ」

「ふえ……? 熱?」

「さっき計ったら、七度九分あった。まぁ、夜に比べたら、少しは引いたけど」

ユウの額に、新しい保冷剤を乗せながら、リコは呆れたような口ぶりで言った。そういえば、と、今更ながらユウは、頭がひどい重だるさを帯びている事に気付いた。こめかみがジンジンと脈打ち、その首筋は、溶けるような熱と凍りつくような寒気を同時に覚えている。

「粥を作った。食え」

「腹は、へってない……」

「でも食え」

言うなり、リコはベッド脇の椅子から立ち上がり、キッチンへパタパタと駆け出した。

改めて、ユウは彼女の部屋を眺めた。

ユウが住まう独身寮の六畳間より少し広めのフローリングの部屋は、建物自体の古さは確かに目につくものの、家主の努力と工夫によって小奇麗に整えられていた。ぼろぼろに剥げ落ちた壁紙を繕うかのように、壁のあちこちには大判のポスターが貼られている。壁際に置かれた本棚には、派手な色使いの雑誌や本がずらりと並べられている。どれも、若い女性向けのファッション雑誌だ。

同居人の存在を示すものは、ユウの目には全く見当たらなかった。ハンガーラックに並ぶ服も、いずれも若い少女が好んで着るスパイシーな色使いのものばかりだ。そこは、言葉遣いの割にきちんと女の子をやっている、ティーンエイジの少女の部屋に違いなかった。

やがてキッチンから、粥の皿を載せたトレーを抱えたリコが、ベッド脇へと戻ってきた。リコの介添えによって、ユウはどうにか皿を手に取る。だが、そのスプーンは一向に進まない。

見かねたリコが皿を引き取り、スプーンに粥を取ってユウの口に突きつけた。

「ほら、食えよ」

渋々、ユウはそれを口に含む。しかし、熱さが仇となり、なかなか粥は喉を通らない。

「後で食う……横に置いていてくれないか」

「駄目だ、今食え」

「無理だ。熱すぎる」

するとリコは、皿の粥をスプーンで掻きながら、ふうふうと息を吹きかけ始めた。小さく尖ったその唇は、あたかも小鳥のくちばしのようである。ユウが、その桜色のくちばしをぼんやりと眺めていると、その視線に気付いたリコが、ふと顔を上げた。

「じろじろ見るな、気色悪い」

リコの言葉に、ユウは慌てて顔をそむけた。

「べ、別に、見てない」

粥から吹き上がる蒸気が量を潜めると、リコは、先程ユウが使ったスプーンで粥をすくい、それを自分の口に運んだ。うん、と頷くと、今度は掬った粥をユウに差し出す。ところがユウには、リコが咥えたスプーンに口をつける事が、ひどく不徳な行為に思えてならなかった。

抵抗感と罪悪感を覚えつつ、ユウが粥を前にたじろいでいると、リコが訝しげに眉を寄せた。

「どうした? 今度はちゃんと冷ましたぞ。食え」

「け、けど……」

「けど、何だ」

「いや、何でもない」

やむなく、ユウはスプーンを口に含んだ。粥は確かに、人肌程度に冷やされ随分と食べやすくなっていた。一方のリコは、顔色一つ変えず、ユウの様子を見守っている。

「あの子……」

不意に、リコはぽつりと呟いた。

「よかったな。お父さんとも、お母さんとも別れずに済んでさ」

「……どうした、急に」

「いや、何でもない」

言いながら、リコは、スプーンに掬った粥を再び差し出した。それを、ユウは再び口に含む。

「お前ってさ」

大儀そうに粥を飲み込みながら、ユウはリコに目を向けた。

「お前って、他のゲートシティの連中と同じで、傲慢でいけすかない奴だけどよ」

「わ、悪かったな……」

「昨日は、少し見直した」

「……?」

 呆けるユウに構わず、リコは再びスプーンを差し出した。

「ほら、もう一口、食え」


昼過ぎ、ようやく自力で歩ける程度に回復したユウは、近所の病院で治療を受けるべく、リコと共に昼間の旧市街へと出かける事にした。リコの住まうアパートにエレベーターはなく、ユウは、三階にあるリコの部屋から、自力で一階へ降りる事を余儀なくされた。リコの手を借りつつ、煤けたコンクリートの階段を一歩一歩慎重に降りる。埃だらけのエントランスに設けられたガラス戸を押し開けると、そこは、人通りもまばらな裏路地である。

日の光の下に横たわる旧市街は、夜とは似ても似つかない表情を帯びていた。

夜の街を制していた刺激、色彩は、強烈な陽光にことごとく焼き尽くされ、完全にその影を潜めていた。今や、それらの代わりに街を覆い尽くしているのは、身が溶けるほどの倦怠と無気力、そして、おびただしい数のゴミ袋である。

今にも倒壊しそうなビルの合間を、窪みやゴミを避けつつ黙々と歩く。日差しが出て、気温が高まったためか、路傍に放置された生ゴミからは酷い臭いが立ち始めている。

「この街のゴミ回収って、何曜日だ?」

 異臭に顔をしかめつつ、ユウはリコに訊ねた。

「何曜日? 回収は十日に一度だぜ」

「え……?」

「ちなみに、この地区は、四日後まで回収はない」

 やがて二人は裏路地を抜け、比較的広々とした通りへと出た。

通り沿いに並ぶ店は、いずれも、看板や陳列こそ賑やかではあるものの、肝心の店員や店主はというと、気だるげに軒先に座り込み、椅子に掛けるなどして、客や通行人と駄話に興じている。のどが渇いたので、スポーツドリンクを買うべく、とある食料品店に立ち寄った時などは、レジを打つ人間がいないのでカウンターの呼び鈴を鳴らすと、軒先でボードゲームに耽っていた初老の男が、のそのそと店に入ってきてレジを打った、などという事もあった。

こんな調子で、よく商売が続くもんだな、と、ユウは呆れた。いずれも、ゲートシティではまず見られない光景である。もし仮に、ここがゲートシティであれば、レジを放置したまま店員が店の外で駄話に興じようものなら、店長やエリアマネージャー、さもなくば客らのクレームにより、その店員は即刻で首を切られてしまうに違いない。そもそも、この街の店員達には、接客という概念すら皆無であるかのようにユウには思われた。

整備不良か、あるいは単に古いだけなのか、ガラクタをぶちまけたような音を立てながら、車やバイクが車道を行き交う。それらの多くは、ゲートシティではすでに一般化した水素エンジン搭載型ではなく、旧世代のガソリンエンジン車だ。その脇を、染みだらけのボストンバッグを抱えた浮浪者体の男や、縫製の杜撰なワンピースを纏った中年女、痩せこけたノラネコが、濃く小さい影を引きずりながら歩く。

時を経るごとに気温はさらに高くなる。ひび割れたアスファルトからは陽炎が立ち上る。

通りはいずれも、不安を覚えるほどの静寂に満たされていた。あたかも、営業を終えた博物館に一人ぽつんと取り残されたかのような心許なさを、ユウは覚えた。

「静かだな……」

「そうか? いつもこんな感じだぜ」

「でも、夜はもっと、賑やかだろう?」

「当たり前だろ。昼はみんな、プラントへ勤めに出てるんだから」

 旧市街民の多くは、郊外のプラントにその勤め口を得ている。太陽エネルギーに依存するプラントの稼働時間に合わせ、彼ら工員もまた、太陽の活動時間に合わせて日々の労働に勤しんでいるのだ。

「こんな明るい時間に街をぶらついてんのは、大抵が主婦か、夜の人間のどちらかだよ」


ようやく辿り着いた病院に踏み込むなり、ユウは、病院の待合室で診察を待つ患者の多さにひどい眩暈を覚えた。四人掛けの長椅子がずらりと一〇脚ほど並ぶ待合室は、おおよそリラックスできるムードとは程遠い場所だった。最低限の機能性だけを求められた無機質な室内には、ゲートシティの病院であれば好んで置くはずの、絵画などの美術品は全く見当たらない。

 ゲート向こうの人間の来院に、受付の中年女は微かに怪訝な色を見せた。が、すぐに診察カードを作成し、問題なく診療を受け付ける。ゲートシビルだろうと旧市街民だろうと、診療代を払いさえすれば、彼らにとっては立派な客であり、患者であるらしい。市民に対して、だけは、医療費を請求しないゲートシティの病院よりも、ある意味では平等と言える。

受付を終えた二人は、人の尻で埋まる長椅子ではなく、窓際の壁に背中を預けた。

長い待ち惚けを喰らう間、暇を持て余したと思しきリコが、ふと、隣のユウに訊ねた。

「なんで、急に引き受ける気になったんだ?」

 リコの質問は、勿論ゲートブレイクの事を指している。

「まぁ、……いろいろあって」

「空き巣は嫌じゃなかったのかよ?」

「そうだ、けど……」

「また、兄貴に脅されたのか?」

「……兄貴?」

 奇妙な呼び方にユウが訊き返すと、リコは平然と返した。

「なんだよ、兄貴を兄貴って呼んだら、悪いのかよ」

「……え?」

 改めて、ユウはリコの顔をよくよく眺めた。なるほどその目鼻立ちは、ウエスギのそれと見事な相似形を見せている。切れ上がった涼やかな目つきに、思い切り良く引かれた一本眉などは確かに、時々パソコンルームに飛び込んで来る、迷惑な上官のそれと寸分の変わりもない。

「……本当、なのか?」

 驚きに目を丸めてリコを見つめるユウに、リコはまたしても事もなげに返した。

「んな事でお前を騙しても仕方ねーだろ。じゃなきゃ、そもそもあの店に勤めてねーっての」

 彼女の話によると、そもそもカンザキにリコを雇うべく話をつけたのは、他でもないウエスギであったという。

「どうしてリコは、ウエスギさんと一緒に養子に行かなかったんだ?」

「はぁ? 誰が行くかよ、つーか、その頃はあたし、まだ生まれてねーし」

父親の自殺後、彼らの母親は、リコをその腹に抱えたまま、ゲートを追われる事を余儀なくされたのだという。ゲートシティには、手のかかる子供を抱えた身重の女性に、敢えて勤め口を用意する企業など、なかったのである。

「で、ウエスギさんだけは総監に引き取られて、ゲートシティに残った……」

「そう。なんでも、兄貴を跡継ぎにするために引き取ったんだとよ」

「運が良かったんだ、ウエスギさんは」

 するとリコは、呆れたように鼻で笑った。

「運がいい? 冗談じゃねーよ。兄貴が聞いたら怒るぜ。兄貴の奴、学校も仕事も、ぜーんぶその親に決められて、あたしぐらいの時はすっげー荒れてたんだ。俺はあいつの人形じゃねぇって。今でも時々、こんな仕事、本当はやりたくないんだってボヤいてる。あたしら家族を引き裂いたゲートなんか、誰が守りたいもんかって」

「だから、僕に……?」

 ウエスギの真意に思い巡らすユウの一方で、リコは軽く肩を竦めながら、からりと答えた。

「さぁ。かもしれねーな」

二時間の待ち惚けに対する報酬は、ものの数分程度のやっつけ診療だった。栄養注射を打つなり、無愛想な看護師は早々にユウを診察室から叩き出すと、早速、次の患者に打つ注射の準備にかかり始めた。つくづく、この街にはサービスという概念がないのかと、ユウは怒りを通り越して呆れ果てた。絶対にこんな街には住みたくないもんだ―――と、午後になっても、未だに患者の出入りが途切れる様子を見せない病院のエントランスを後にしながら、ユウは内心で毒づいた。

とはいえ、無愛想な看護婦によって静脈へと押し込まれた注射は、早くも効を奏した。病院からの帰り道、空腹を覚えたユウは、リコに手近な飯屋へ案内するよう頼んだ。

「だったら、この近くに旨いラーメン屋があるんだ! 行くか?」

リコは得意気に顔を輝かせると、ユウの腕を取り、ネコしか通わない狭い路地裏やらビルの隙間を、ずんずんと歩き始めた。

「な、なぁ、もっとマトモな道を歩けよ」

 肩幅よりも狭いビルの隙間を、カニ歩きですり抜けながら、ユウはリコの背中に訴えた。

「ここが一番、近道なんだよ」

 ようやく狭苦しい空間から開放されると、そこは商店街と思しき、比較的賑やかな通りだった。買い出しに訪れたと思しき女性らが、その手に大量の買い物袋を提げて行き交っている。

 やがてリコは、商店街の並びにある、小汚いラーメン屋の暖簾をくぐっていった。入り口には、『ケンちゃん亭』と描かれた看板と赤提灯が掲げられている。

「おっちゃん、いつもの二つ」

油で煤けたカウンターに座るなり、リコは厨房の男に声をかけた。丸めた藁半紙のような顔の男は、あいよと答えるなり、ぐらぐらと湯気を立てる大鍋に麺玉を投げ込んだ。

「珍しいねぇ。リコちゃんが彼氏を連れてくるなんて」

「ちげーよ、ちょいと世話を頼まれただけだ。誰が付き合うかよ、こんな……」

 そこでリコは振り返り、しばしユウの姿を上から下まで眺めると、やがて、

「青虫野郎」

と、小さく呟いた。

「青虫? 僕が?」

「なんだよ、ゾンビの方がいいのかよ」

「……どっちも、嫌だ」

「贅沢な奴だな。生き物に昇格してやったんだ。有難く思えよ」 

「だからって、虫に喩える事はないだろ」

ほどなくして、二人の前に大きなどんぶりが運ばれた。二つのどんぶりには、いずれも視覚を疑うほどの大量の青ネギが盛られている。ネギが邪魔をして、下の麺が見えない。

「……」

呆然とどんぶりを見つめるユウの隣では、すでにリコが、顔をほころばせながら麺をすすり始めている。

「んー! たまんないっ!」

一方のユウは、いっこうに箸を進める様子を見せない。どころか、くっついたままの割り箸が、未だにその手に握られている。

「なんだ? お前。まだ食欲が戻らないのか」

 訝しげに顔を覗き込むリコに、ユウは申し訳なさそうに打ち明けた。

「……苦手なんだよ。ネギ」

「はぁ? は、早く言えよ! 何も言わないから、つい、いつものって、ネギラーメン頼んじゃったじゃねーかよ!」

「リコちゃん、彼氏の好き嫌いぐらい、ちゃんと覚えとかなきゃ駄目だぜ」

言いながら、カウンター越しに藁半紙が顔を出した。

「う、うるさい! だから言ってるだろ! 彼氏じゃねーよ、こんな奴―――つーか、おい青虫! なに勝手にネギ取り除いてんだよ! それじゃあただのラーメンになっちまうだろ!?」

 餃子タレ用の小皿にネギを除けるユウを、鋭く見咎めながらリコは怒鳴った。

「別にいいよ。ただのラーメンで」

 そしてユウは、綺麗にネギを取り除いたラーメンの上に、ネギの風味を誤魔化すべくドッサリと紅生姜を盛った。

「いやぁ、若いってのは、いいもんだねぇ」

 隙っ歯を惜しげもなく曝しつつ笑う藁半紙に、リコはさらに顔を赤らめて怒鳴った。

「うるせえっ!」


ラーメン屋を出た二人は、引き続き商店街をそぞろ歩いた。

とあるパソコンのジャンクショップ前を通りかかった時だ。なんとはなしに品揃えが気になり、覗き込んだユウは、そこに見覚えのある巨体を見つけ、思わず声を上げた。

「オノ君?」

「あれ? ああ、ミズシマさん!」

 オノはすかさず店の奥へ振り返り、体格相応の大声を張り上げた。

「社長ー! 昨日話してた、ゲートブレイカーさんだよ!」

「オノ! そういうの、大声で言うな!」

ユウの背後から、リコの非難めいた声が上がる。するとオノは、象のような肩を竦ませながら小さく舌を出した。体格の割に、その仕草にはきちんと茶目っ気が備わっている。

やがて、がらくたの奥から、ミイラのような体つきをした初老の男が現れた。

「あ、こりゃどーもどーも。あんたが、例の……」

乾いたゆで卵のような頭をなでながら、男は、骨ばった手をまっすぐユウに差し出した。

「機能についての注文があれば、いつでもオノに言づてて下さいよ。あたしもねぇ、あんたみたいな凄い人をサポートできるのが、嬉しくてしょうがないんだ」

「普通ですよ、僕は」

「いいや、ものの三〇分でブレイクをやってのける人間なんか、聞いた事がない。あんたに比べりゃ、よその連中なんざみんな旧世代のCPUみたいなもんだ」

「よその連中、って、僕の他にもいるんですか?」

「ああ、いるよ。けど、はっきり言ってレベルはピンキリだよ。ゲートシティを叩き出されたプログラマー崩れが、日銭を稼ぐために名乗ってる場合がほとんどさ。前金で金だけ頂いて、後はトンズラ。ほとんどが、そういう連中ばかりだよ」

 日々、しつこい虻のごとく警備隊本部のサーバーに仕掛けられる不正アクセスが、彼の言う似非ブレイカーの仕業だとすれば、ユウにとっては、その実力を察するに苦はない。

「確かに、いい加減ですね」

「そう。いい加減なの」

 社長はカカカと快活な笑い声を上げた。

それからしばらく、ユウは社長やオノと共に、新しいマシンの部品について、あれこれと打ち合わせを重ねた。もっとも、打ち合わせの中身は、ほとんどが趣味談義のようなものだ。

その脇では、完全に会話からあぶれたリコが、弁当箱のような基盤を眺めたり、店頭に置かれたマシンの描画ソフトで、下手くそな似顔絵を描くなどして、どうにか退屈を紛らわせていた。しかし、ついに我慢の限界を迎えたか、リコは、店頭から大声で連れを呼びつけた。

「いい加減にしろ、青虫野郎! んな話は、今度にしろよ!」

「青虫?」

オノが、不思議そうに首を傾げる。

「そう。僕の新しいあだ名だよ」

 自嘲気味にユウが漏らすと、オノは屈託のない笑みで答えた。

「良かったですね。今度は生き物ですよ」

「……」

店を後にする間際、ユウは、背後から社長に再び声をかけられた。振り返ったユウに、社長は皺だらけの顔を寄せ、その耳元でそっと囁いた。

「気をつけなされ。連中にあんたの存在が知れたら、あんた、タダじゃ済まないよ?」

「あいつら?」

 眉を寄せるユウに、社長は周囲を憚りつつ、声を潜めて続けた。

「―――ヤクザだよ。あんたは、連中にとっちゃ厄介すぎる商売敵だ」


店を出ると、すでに空は、薄紅から濃い藍色へと、その色をゆるやかに変じ始めていた。 

表の通りに、俄かに人が満ち始める。どうやら、プラントでの仕事を終えて帰路につく人の流れであるらしく、彼らは皆、老いも若いも隔たりなく、疲労による憔悴と、仕事上がりの開放感を携えて、各々の家路を急いでいた。

一方で、街は今まさに、夜の装いを纏いつつある。

「じゃあ、僕はそろそろゲートに戻るよ」

すると、リコはほっとしたように口元を緩めた。

「おう。ちょうど良かったぜ、あたしも今から、姐さんの店に出勤だ」

「そうか。じゃあ、カンザキさんに、僕が感謝していた、と伝えておいてくれないか?」

「わかった」

大通りでタクシーを拾い、乗り込むユウの背中にリコは訊ねる。

「ところで、お前、メシは何が好きだ」

 思いがけない質問に、面食らいつつもユウは答えた。

「……さぁ、ネギが入ってなければ、何でも」

その答えに、リコは嬉しそうな笑みを浮かべた。

「じゃあ次は、ピザ食おうぜ。海岸近くに、うまいピザの店があるんだよ。眺めも良くてさ、夕焼けなんか、メチャクチャ綺麗に見えるんだぜ」

是非行きたい、と、答えかけたユウは、ふと、その口を閉ざした。知らぬ間に、自分がリコとの間で保つべき距離感を失っている事に、ユウは気付いたのだった。リコなどという旧市街の少女と親交を深めたところで、自分にとっては何の意味もメリットもない、という事に。

「勘違い、していないか」

「え?」

 思いがけないユウの硬質な声に、リコの黒い瞳がはっと見開いた。

「今日の事は、とても感謝している。……けれども僕は、君と個人的に親睦を深めたいとは、思わない」

「な、何の話だよ、急に、」

「僕は、ゲートシビルだ。そして、君は旧市街民。確かに君は上官の妹さんだ。けど、だからと言って、僕らが必要以上の親睦を深める意味はない」

 その言葉に、リコの顔がむらむらと赤く引きつる。

「な……なんなんだよ、テメー……」

 小さな肩を小刻みに震わせたリコは、やがて、往来の人目に構わず怒鳴り散らした。

「調子こいてんじゃねーよ! こっちこそ、お前らみてーなゲートシティのクソ虫野郎共に、尻尾を振るなんて御免だよ!」

吐き捨てるなり、リコは鋭く踵を返すと、振り返りもせず通りの向こうへと歩み去って行った。苛立たしげに揺れる二つ結びが雑踏に消えるのを見送り、ユウはタクシーへと乗り込む。

「ゲートシティの警備隊本部へ」

背もたれに身体を沈めつつ、ユウは億劫げに後部座席から行き先を告げた。その身体は、まるで今朝の熱がぶり返したかのように、ひどい倦怠を覚え始めていた。

ところが、頭に白いものが混じった運転手は、困ったような顔で振り返った。

「お客さん。申し訳ないですけど、この車は“赤”ですよぉ」

そこで初めて、ユウは自分が乗ったタクシーが赤い車体だった事を思い出し、しまった、と小さく舌を打った。赤は、ゲートシビルのIDを持たない運転手が乗る、旧市街限定の運行を示すタクシーである。IDを持つ運転手のタクシーには、青のカラーリングが施されている。そちらは、ゲート内の目的地へも難なく客を運ぶ事ができる。

しかしながら、今更新しいタクシーを拾い直すのは、ユウにとってはひどく煩わしい事だった。いずれにしろ、ゲートから寮の入口までは、さして距離はない。

「だったらゲートの手前までで構いません」

「了ぉー解しました」

景気の良い返事と共に、運転手は、灯り始めたテールランプの奔流へとハンドルを切った。


タクシーは、帰宅ラッシュで混雑する幹線道路を、渋滞に呑まれつつダラダラと進んだ。

先程から、運転席のカーラジオから流れているのは、近々ゲートシティで行われるという市議会選挙に立候補する、議員や政党の政見放送である。

「そういえば、あっちの街じゃあ、もうすぐ選挙が始まりますねぇ」

「そう、ですね」

 気もそぞろに、ユウは答えた。熱のせいか、あるいは慣れない街を歩き通して疲れたためか、ユウの耳は、運転手の言葉の意味をうまく捉える事ができない。

「お客さんは、どこの政党を支持なさっているんです?」

「別に……」

「やっぱり、今回も自進党が勝つのかなぁ」

自進党―――正式には、自由推進党とは、ゲートシティが作られてより六〇年、議会において一度たりとも与党の地位を他党に明け渡す事のなかった、極めて強力な政権与党である。多くのゲートシビルの魂に刻まれる、例のフレーズ『権利を得たくば、努めよ』を、党是として唱える政党だ。彼らが主張するのは、主に、自由競争の促進である。市民の競争意識を喚起し、市民同士、会社同士の技術、サービスを互いに切磋琢磨させる事で、街全体の経済力、技術力、市民意識の向上を図る事ができる―――それが、彼らの主張の大綱である。

今、ラジオの向こうで熱弁を奮っているのは、しかし、自進党の議員ではない。先程からしきりに、ゲート開放と、そして旧市街を含めたゲート周辺との共同経済圏構築を訴える彼は、議会内でも極めて少数派の、ゲート開放党の議員であるらしい。議会内では、その議席数が

総議席数の五パーセントにも満たない、極めて弱小な政党である。

「開放派も毎回頑張ってはいるんですけどねぇ。今回も、政権に就くのは無理でしょうねぇ」

やがて、タクシーはゲートシティへ続く大橋へと差し掛かった。

「お客さんは、やっぱり自進党派ですか?」

「さぁ……よく、わかりません」

 実際、ユウは警備隊という立場上、ゲートシステム擁護派の自進党を支持している。とはいえ、元より熱く語るに足る政治的な意見を持ち合わせている訳ではなく、さらに今は、熱く語るための気力さえ失しているユウは、只々、放っておいて欲しいと内心で男に懇願しつつ、冷やっこい車窓に、熱でうだる額を押し付けていた。

 しかし、そんなユウのつれない態度を、若者特有の政治に対する無関心と判じたと思しき運転手は、やおら、その目に険を帯び、きっぱりと口にした。

「お兄さん、こういう事はねぇ、若いうちから真面目に考えないと、後で後悔しますよ」

「……はぁ」

「あたしも、そうでした。若い頃はねぇ、なーんにも考えずに、自進党を支持してたんですよ。けど、ゲートを追い出されて初めて、しまったって後悔するんです。―――あたしの仲間も、みーんな、そうです。みんな後悔してます」

 誰に促されるでもなく、運転手は、バルブが壊れた水道管のように自論を吐き続ける。

「お客さんは、まだ若いみたいだから、わからないかもしれませんけどねぇ。でも、ちょっと考えてみて下さい。歳を取ると、どのみち人は衰えますよねぇ。気力も、体力も」

「……まぁ」

「で、そういう年寄りが会社で生き残ってゆくには、管理職以上のポストに就かなきゃいけないわけです。現場じゃあ、若い人たちの気力と体力には、とても敵いませんからねぇ。……でもねぇ、よく考えて下さいよ? そんな上等な椅子が、そうたくさん、用意されていると思います? いいえ、ありませんよ。――――で、結局、椅子取りであぶれた年寄りは、みーんなまとめて、会社から追い出されるわけですよ。ついでに、街からもねぇ。勝手なものですよ、人間なんて。ゲートから出るまでは、自分が追い出されるなんて夢にも思わないわけですよ。んで、歳を取って追い出されて、そこで初めて後悔するんです」

いよいよユウの頭は、脳味噌が溶けるような不快感に充たされた。その原因が、ぶり返した熱なのか、それとも運転手の口から垂れ流される街への呪詛なのか、それはわからない。

「あの、ここで……降ります」

運転手の弁舌を遮り、ついにユウは降車を申し出た。

「えっ? でも、まだ橋の途中ですよ?」

 もちろん、橋の途中には、降りるべき目標物は何もない。ただ、歩道の所々に、欄干から釣り竿を伸ばす釣り客が立っているのみだ。

「いいんです……少し、海風に当たりたい」

「ああ、そう。お兄ちゃんとは、もうちょっと話をしたかったんだけど、残念だねぇ」

言うなり、タクシーは歩道に車を寄せ、後部座席からユウを降ろした。

 自分の乗って来たタクシーのテールランプが、車列に紛れてゆくのをぼんやりと見送りながら、ふと、ユウは、はらわたに黒い怒りが湧き上がる感覚を覚え始めた。

……負け犬め。

あんな歳の取り方だけは、決してすまい。腹のうちに、粘度の高い怒気をたぎらせながら、ユウは喉の奥で呟いた。



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