三章
夢の中では、父は必ず、息を切らせながら彼を迎えに現れた。
荒い息をつき、肩を大きく上下させるスーツ姿の父を見つけるなり、ユウは大好きなブロック遊びを途中で投げ出し、託児所の入口へと駆け寄った。
夜更けの中心街からモノレールに乗り込み、親子は家路を辿る。セントラル公園駅から数駅離れた海沿いの駅の近くに、彼ら親子の住まう公営団地がある。
潮風の中、団地への道を父と並んで歩きながら、ユウは父に語りかける。
「ねぇ、お父さん。お母さんは今日も遅いの?」
「そうだねぇ、お母さんは忙しいから……」
「ふぅん」
「会いたいのか?」
「……ううん、頑張ってるお母さんを、困らせたくないから」
「そうか。……ユウは優しいな」
家に帰る頃には、すでに時刻は午後一〇時を回っている。軽い夕食を済ませ、風呂から上がる頃には、就寝の時間となっている。布団へ潜ると、ユウは必ず『幸福の王子様』の絵本を読むよう父にせがむ。
「ほんとに、ユウはあの絵本が好きだな」
そして、父は絵本を読み始める。
むかしむかし、ある町の広場に、金色に輝く美しい王子様の像が立っていました。
町の人たちは、金箔に覆われたその像を、幸福の王子様と呼んで大切にしていました。
けれども、その呼び名とは裏腹に、王子様は決して幸せではありませんでした。
広場の近くには、たくさんの貧しい人たちが住んでおり、彼らの暮らしを眺めながら、王子様は、彼らを救う事ができない自分を嘆き悲しんでいました。
そんなある日、一羽のつばめが、彼の肩に止まりました。
王子様はつばめに、自分の身体を覆う金箔をはがして、貧しい人たちに届けて欲しいと頼みました。
頼みを聞いたつばめは、王子様の言うとおり、その身体から金箔をはがして貧しい人々に次々と届けました。
秋が来て、冬が来ても、つばめは南へと渡らず、王子様の願いを叶えるために、ひたすら金箔を届け続けました。
やがて、つばめは冬の寒さに凍えて死にました。
そして、金箔が全て剥げ落ち、みすぼらしい姿となった王子様の像も壊されました。
けれども、人々に幸せを与えた王子様とつばめは、神様によって天国に召され、いつまでも幸せに暮らしました。
父が絵本を読み終えると、ユウはいつも父に尋ねた。
「ねぇ、お父さん。僕も王子様やツバメみたいに、なれるかな?」
「……なりたいのかい?」
「うん。いろんな人に、幸せを分けてあげられる人になりたい」
「なれるさ。ユウは優しいから」
「なれる?」
「もちろんだとも。どうして父さんが、お前に、ユウって名前をつけたか、わかるかい?」
「ううん」
「優しい人間に育つように、って、願いを込めて付けたんだよ」
「ほんと? じゃあ僕、優しい人になる」
「ああ。なるといい」
言うなり、父はリモコンに手を伸ばし、部屋の明かりを落とした。
途端、目の前の景色が闇へと落ちる。
「―――父さん」
その闇の中へ、ユウは呼びかけた。
「何だい?」
「優しさは身を滅ぼす。それが、この話の本当の教訓なんだろ?」
「……」
「どうして父さんは、そんな嘘をついたんだよ」
「嘘?」
「優しい人になってほしいだなんて、どうせ嘘なんだろう? 本当は、知っていたんだろう? 優しさなんて、この街じゃ何の役にも立たない。むしろ、要らないものだって」
父は何も答えなかった。ただ、闇の中から、じっとユウを見下ろしていた。
「あんたと一緒だ。優しさなんて、この街には必要ないんだよ、必要なのは、いかにして勝ち残るか、それだけなんだ。違うか」
「……」
「イラつくんだよ! いつもいつも、事あるごとにしゃしゃり出てきやがって……。マキタを助けた事は、間違っていたんだ! ルールに照らせば、間違っていたんだよ! なのに、どうして……」
「父さんは、お前の行為をむしろ誇りに思うよ。お前は、人として正しい行いをしたんだ」
「ふざけんな!」
「……」
「何が……何が楽しんだよ。そうやって僕を苦しめて、惑わせて……嘘なら嘘って、はっきり言ってくれよ。じゃなきゃ僕は、いつまでも……」
「……ユウ」
しばしの沈黙の後、ややあって、闇の奥から再び声が響いた。
「お前を苦しめているのは、お前自身だ。ユウ」
その声に、ユウは思わずベッドから跳ね起きた。
はっと周囲を見回す。だが、いくら見渡そうとも、そこは生活臭漂う公営団地のひなびた寝室などではなく、機能的で生活感のない、男やもめの六畳間に他ならなかった。
明け方の青白い光が、うっすらと窓から差し込んでいる。気温はさほど低くはない。にも関わらずユウは、その首筋にひどい悪寒を覚えていた。シャツに触れると、汗を含んでじっとりと湿っている。
腕時計を見る。次の出勤時間まで若干の余裕があると見たユウは、ベッド下の引き出しから新しい下着を引っ張り出すと、寮の一階にある共同シャワー室へと向かった。
汗の染みた下着を脱ぎ捨て、シャワールームへ入る。そこで、ユウは思わず愕然とした。
目の前の鏡に映る、青褪めた顔。それは正しく、あの日、あの時、最後に目にした、父の顔そのものであったからだ。
―――これが、お父さんの本当の姿だ。
インサイト専用の新型サーバーが、本部北棟の地下三階に納入されたのは、遅れに遅れ、それから半月ほど経った後の事だった。
「よう、一士。見に行かないのか」
隣の席から身を乗り出したゴトウが、卑しい笑みと共にユウに耳打ちする。
「何を、です?」
「インサイトのサーバーに決まってるだろ? 早く行ってやった方が、二尉も喜ぶぜ」
「そんな事より、ゴトウさん。例のパスワード、そろそろ変更した方が良いですよ」
ゴトウのやっかみに付き合うのも阿呆らしく、ユウは早々に話を逸らした。するとゴトウは、さも面白くなさそうに、フンと鼻を鳴らして返す。
「アイツが戻ったら変えるつもりだ。一士のくせに、余計な口出しすんじゃねーよ」
言うなり、ゴトウはいつものマンザイショーを眺めるべく、ヘッドフォンを頭に被った。
と、その時だ。
ドンドンと無遠慮なノックと共に、今この瞬間、登場するに最も間の悪い男が、分厚いスチール扉越しに、清涼感のある大声を響かせた。
「おおーい! 開けてくれぇ!」
苦々しげに顔をしかめるユウに、からかうようにゴトウは肩をすくめる。
「モテモテだな、一士」
ほどなく、扉近くの女性隊員によって、予想どおりの長身が部屋の中へと誘われた。
「やぁ、ありがとう」
礼を述べられた女性隊員は、やにわに頬を赤らめ、乙女の顔を俯かせた。
事実、ウエスギは女に良くモテる。隊内では、石を投げれば必ず、ウエスギ好きの女に当たるとも言われる程だ。シャープで涼やかな外見と、少年のように奔放な言動とのアンバランスな複合技が、多くの女性隊員の女心を捉えて離さないのだと、かつて四課へ寮の契約更新に行った際、窓口の女性隊員が口にしていたのを、ユウは以前、耳にした事がある。
―――の割に、ウエスギに女の影があるという話は、ついぞ、起こった事がない。
そのウエスギが、疲労と興奮で火照らせた顔と共に、いつものように我が部屋のごとく、パソコンルームへズカズカと踏み込んで来た。ユウとゴトウはすかさず椅子から立ち上がり、上官への敬礼を示す。ユウの方は、敬礼に苦言も追加する。
「ウエスギ二尉。いつも申し上げているように、この部屋に入る時は、」
しかしながら今日に限っては、ウエスギはユウの傍を素通りすると、矢のごとく一直線に課長席へと歩み寄った。と共に、ササヅカ一尉も、その狸腹を抱えてのっそりと席を立つ。そして、パソコンルームの面々をデスク前に呼びつけると、ウエスギを脇に、早速、用向きを伝え始めた。
「ええと、すでに皆も知っていると思うが、本日、ようやく二課の方に、インサイト専用の大容量サーバーが納入された」
ざわめきの収まらない五課の面々に、ササヅカは、他課の課長の手前、気まずげに咳払いをすると、先程よりも努めて大きな声で、さらに続けた。
「実は、今回のサーバーには、これまでのインサイト用サーバーとは決定的に違う点がある。それが今回、ウエスギ二尉に、わざわざ、こちらにご足労頂いた理由なのだが」
言いながら、一尉は再びウエスギの長身に目をやった。わざわざ、の部分で語気を強めたのは、恐らくは、頻繁に顔を出しては、サーキュレーターのごとく部屋の空気を攪拌するウエスギに対する、彼なりの嫌味と、ささやかな鬱憤晴らしなのだろう、と、ユウは踏む。
「今回のサーバーは、ネットワークとは物理的に独立した状態にあった旧型サーバーと違い、常時ネットワークに接続し、他課はもちろん防衛局等の上部組織とも、出入記録などの情報のやり取りを行いうるようになった」
その言葉に、俄かに部屋がざわついた。ササヅカ一尉の言葉の意味、そして、その意味が彼らの業務にもたらす影響に、五課の面々はすでに気付いている。
「ええと、それは同時に、外部からのサイバー攻撃の対象となりうる、という事でしょうか」
先程、ウエスギを部屋に招き入れた女性隊員が、慎ましげに手を挙げた。その目は、一尉の狸顔ではなく二尉の涼やかな眉目を見上げている。
「当たりっ! さっすが五課、詳しいっ!」
屈託のないウエスギの笑みに見つめられた女性隊員は、再び乙女の顔を俯かせた。
「ゴホン……二尉?」
ササヅカ一尉の再びの咳払いに、ウエスギは軽く肩を竦ませ、すぐさま姿勢を改めた。その間際、ちらりとユウに視線を送る。その視線を、ユウは敢えてぷいと逸らす。
「という訳で、今後は、このインサイト用の大容量サーバーを、ハッキング等のサイバー攻撃から防御する事も、我々の業務となるわけだ」
「めんどくせぇ」
ぼそり、と、ユウの隣でゴトウが小さく呟いた。もちろん、上官には聞こえない小声で、だ。
「新型サーバーの本格稼働は、早ければ半月後を予定している。その間、我々五課も、この、新しい虎の子を適切に保全し管理するための新しいセキュリティシステムを構築せねばならん。と同時に、二課との連携や、情報の相互伝達の円滑化も、図って行かねばならん」
「と、いうわけで、君達五課には、今後も引き続き世話になる。よろしく頼むよっ!」
ウエスギのハイテンションな挨拶にて、上官らの言葉は締めくくられた。
新サーバーのオンライン化を前に、ユウは、課内でもベテランであるタガワ一曹と共に、北棟四階の二課フロアへと一時的に貸し付けられる事となった。二課の隊員らの要望を伺いつつ、連携システムを構築するためだ。
そして今日も、ユウは二課のフロアへと足を運ぶ。
二課のフロアは、一日を通して心地よい陽光に満たされ、時計なしでは時刻の感覚が判然としない地下室に比べると、極めて健康的な環境であった。メンバーの人当たりも良く、オフィス奥の課長デスクから、三〇分に一回は一士一士と呼び立てる無遠慮な上官さえいなければ、ユウにとって、そこは非常に心安らぐ牧歌的な空間であった。
しかしながら、二課への出勤が彼にとって心安らぐものとなりえたのは、せいぜいが最初の三、四日のみだった。
それは、二課への出勤を始めて五日目の事だった。ユウが、二課のメンバーと共に昼間の食堂へと足を運んだ時の事だ。
食堂は北棟の二階に設置されている。窓際のテーブルからは、街路樹の枝越しに、幹線道路を行き交う車や人を間近に見下ろす事ができる。そのテーブルの窓側席に陣取り、カレーを掻き込んでいた二課の男が、ふと、窓越しの景色を覗き込みながら、隣のユウに声をかけた。
「ねぇ、ミズシマ一士。ちょいと賭けをしませんか?」
うどん汁に浮いたネギの切れ端を、ちまちまと漬物皿に除けながら、ユウは訊き返した。
「賭け、ですか?」
「ええ。あそこでタクシーを待っている男性が、ID失効者かどうか」
彼らの言うID失効者とは、指定期限までの税金納付が間に合わず、ゲートシビルIDの失効を言い渡された者の中で、特に、退去予定期日までシティ内に居残り続ける人間を指す。ほとんどの失効者は、失効期限ぎりぎりまで、生まれ育った街に居残ろうとする。そして、期限最終日になって、ようやく、帰り道のない往路を辿り始める。
ユウは窓を覗き込むと、男がその目で示す先を見下ろした。そこでは、上下をスーツで固めた会社員風の男が、歩道際に立ち、目の前の車列へ向けて手を挙げていた。男はその脇に、大きめのボストンバッグを抱えている。
「勝ったら千YEN。どうです?」
ユウは、屈託のない相手の笑顔に、ひどい違和感を覚えながら返した。
「……私は、遠慮します」
すると男は、今度は別の二課隊員に話を振った。振られた男は、迷う事なく失効者に賭けた。
「二曹、イジワルですよ。あれは素人目には分かりにくい」
「えー? 楽勝だろ、あんなの」
そして彼らは、気だるい昼過ぎの食堂に、軽やかな笑い声を響かせた。
「あなた方は、普段からこのような賭けを?」
テーブルにぐるりと目をやりながら、ユウは訊ねた。すると、隣の男がこともなげに返す。
「まぁ、退屈な宮仕えの、ちょっとした暇つぶしです」
「……ウエスギ二尉も、なさるんですか?」
「いや……そういえば、課長がこの賭けに乗った所を、見たことがないなぁ」
その言葉に、ユウは何故か深い安堵を覚えた。
「すみません、急用を思い出したので、僕は先に事務室へ戻ります」
食事も半ばに、ユウはテーブルを後にした。どんぶりには、ネギを取り除かれたのみで、ほとんど手付かずのうどんが残されている。それらをトレーごと返却口へ返すと、ユウは早々に食堂を後にした。
そして、その日以来、ユウは彼らと積極的に言葉を交わす事をやめた。
約二週間のレンタル期間に、タガワ一曹と共に二課との連携システム、及びサーバーのセキュリティシステムを構築したユウは、動作テストやバグチェック等々の最終工程を経て、いよいよ、それらのシステムを二課へ引渡す段を迎えた。
「ご理解いただけましたか、二尉」
「うーん、わからん」
ディスプレイを前に、フクロウのごとく首を捻りながら、課長席のウエスギは唸った。
「俺ぁ、他の事はともかく、パソコンだけはどぉーーぉおしても、苦手なんだよなぁ」
「食わず嫌いはよくありません。では、もう一度最初の手順から、説明します」
脇からウエスギのディスプレイを指差しながら、半ばうんざりげにユウは言った。ユウが、今と同じ台詞を口にするのは、今日でこれが三度目となる。
「っつーか、別にいいだろ? パスワードの変更なんてさ。必要な時はお前を呼ぶよ」
「……それが嫌なので、説明をさせて頂いているんです。それに、パスワードの変更は、管理責任者である課長本人が行わないと、意味がないんですよ」
「なんで?」
子供のようにぶうたれるウエスギに、重い溜息をつきながらユウは返す。
「では、例えば私が、何らかの悪意でインサイトのサーバーを乗っ取ったとしても、二尉は文句をおっしゃいませんね?」
「おう。そん時ゃお前の寝込みを襲って、額にバカって描いてやる。もちろん油性ペンで」
「……」
こうして、二課との連携システム、そしてインサイトのセキュリティシステムは、ようやく、オンラインという名の荒海に乗り出したのであった。
「いや、待て。確か、水性ペンの方が落ちにくいと聞いた事が……」
「どちらでもいいですから、さっさと手順を覚えて下さい」
その夜、勤務時間に久々の余裕が出たというウエスギに、ユウは北棟地下三階のサーバールームへと案内される事となった。生体センサーが青いランプを灯し、スチールの扉が、重い音を引き摺りつつ横にスライドする。
そして現れた眼前の光景に、ユウは思わず息を飲んだ。
コンクリートが打ち放しとなった無骨なフロアには、数える気にもならないほどの沢山の黒い箱が、ずらりと並べられていた。それら整然とした並びを眺めつつ、ユウはうっとりと呟く。
「これが、新型サーバー……」
「そうだよおっ、よろしくね、ユウちゃん!」
やおらウエスギは、子供向け番組のキャラクターを模した奇怪な声色を発した。いかな幽霊の存在を信じないユウも、コンクリートの壁面に反響した異様な声に、思わず背筋を凍らせる。
「気持ち悪いです」
「えーっ、せっかくサーバー君のセリフを代弁してあげたのにぃ」
ぷりぷりと不満を漏らすウエスギには応じず、気を取り直してユウは続ける。
「……最大処理速度は毎秒二〇ギガビットとおっしゃっていましたが、随分と思い切った増設ですね。いきなり、これまでの四倍ですか?」
毎秒二〇ギガビットと言えば、ゲートシティの名だたる大企業が私的に保有するサーバーと比肩しても全く遜色がない、むしろ、ともすれば凌駕する程の処理速度である。
「妥当だよ。ゲートを行き交う交通量は、年々右肩上がりの傾向にあるからな。念には念を、だ。父上のおっしゃる通り、あまり頻繁に物流を止めてしまっては、我々警備隊の信頼問題に関わるからね」
「羨ましいです。五課にも、こんなに立派なサーバーが配備されると良いのですが」
ユウのうわ言に、ウエスギはあっけらかんと答える。
「いやぁ、無理だね。あの課長、根回しが下手だもん」
「根回し?」
「そう。例えばほら、もうすぐ市議会議員選挙が行われるだろ? この時期になると、毎度毎度、ゲート反対派の野党や市民団体が騒ぐじゃない。で、そんな時、父上はもちろん与党のお歴々は、ゲートで起こるトラブルに、いつも以上に敏感になるわけよ」
「はぁ」
「そういう時を狙って、トラブル解消のために予算が欲しいなーって、偉い人達の耳元で囁くわけ。たったそれだけで、高性能サーバーが簡単に手に入っちゃう」
「それが、根回し……?」
「そゆこと。でも、ササヅカ一尉にはその一言がどうしても出せないみたいでさ。きっと根っからの技術屋なんだろうな。技術以外の分野には、まるで不案内なんだよね。君と同じさ」
婉曲気味に自らの性格を揶揄されたユウは、むぅと微かに不満の色を浮かべた。
「ええ。あの人は、二尉ほど軽薄ではありませんから」
が、ユウの嫌味には応じず、ウエスギは笑みと共にぽんと手を叩く。
「そうだ、ユウ。例の件を引き受けてくれたら、俺がお前の課長に代わって、五課にも高性能なサーバーを分捕ってきてやろう。どうだ?」
例の件、と聞いて、ユウの頭に浮かんだ選択肢はただ一つだった。
「冗談じゃありません。誰が、あんな……」
「やっぱり、駄目?」
子供のような目で覗き込むウエスギに、ユウは斬り捨てるように答えた。
「駄目です」
やがてサーバーの見学を終えた二人は、散歩がてらに夜の海浜公園へと出た。
「僕を責任者にする、という話は、なくなったようですね」
「なんだよ、任命して欲しかったのか?」
海沿いの遊歩道から、緩やかにたゆたう海面を眺めつつ、ユウは小さくかぶりを振った。
「いえ……むしろ安心しました。正直に申し上げて、あの任は僕には荷が重かった」
一方のウエスギは、欄干に立て肘をつき、気だるげに漏らす。
「本当は、お前に頼みたいのは山々だったんだが。さすがに父上の反対に遭っては、こちらも、もはや何も言えなくてね」
「総監は反対なさるに決まっています。一士などという一兵卒を、インサイトの管理担当に任命するなんて、総監にしてみれば金星に人類がいたと言われるぐらい驚天動地な話でしょう」
「はは、金星に人って」
海峡のはるか向こうでは、今夜も、旧市街いかがわしい煌きを放っている。
「ところでお前は、あの時の事を、今でも後悔しているのか?」
その問いを、ユウは敢えて潮風に流し去る。
打ち寄せる波が、消波ブロックの隙間から小気味良い波音を響かせる。
ややあって、ウエスギは再び口を開いた。
「マキタが、死んだ」
海風に霞みかけたその声を、ユウは何かの聞き違いだろうと思った。それから、またしても上官の悪い冗談だろうと思った。
「もう、その手には乗りませんよ」
「……まぁ、さすがにあの時は、悪かった。だが、今回は……本当だ」
「その手には乗りません」
「奴を看取った病院の医者から、お前への伝言を預かった。まぁ、遺言みたいなもんだな」
「その手には、乗らないと言っているでしょう」
「最後まで、闘うチャンスをくれて、ありがとう、と、」
「いい加減にして下さい!」
刹那、ユウは怒声と共に振り返った。鋭い目つきでウエスギを見上げ、なおも喚く。
「冗談にしても、たちが悪すぎますよ! あまり僕をからかうと、また、殴ります!」
「……本当だ」
小さく、しかし、はっきりと、ウエスギは答えた。
船の汽笛が、海面を渡る風に乗り、漆黒の夜空に物悲しく響く。
「無意味だった……」
ぽつり、と、ユウは呟いた。
「どちらにしても、マキタは死ぬ運命だった。僕の行為は、無意味だったんだ」
そして再び、海に目を戻す。海面の所々で浮きつ沈みつする蛍のような輝きは、釣り人によって海に垂らされた浮標が放つダイオード光であろう。
「だが、マキタはお前に感謝していた。最後の最後まで全力で闘うチャンスをくれたお前にな。お前がゲートブレイクを行わなければ、きっとあいつは、悔やみながら死んでいた」
「……」
「ありがとう」
「は?」
思いがけない言葉に、ユウは思わずウエスギを顧みた。
「実は、俺もお前に感謝しているんだ。生まれて初めて、俺は、心の底から自分を誇りに思う事ができた」
「……こんな違法行為を、誇りに?」
自嘲気味な笑みを浮かべるユウに、ウエスギは続ける。
「ああ……。俺も、ずっと迷っていたんだ。自分が本当は何をすべきなのか、どんな行いが正解なのか、わからずに苦しかった……。でも、今回の件ではっきりとわかった。人として、俺は正しかった」
「正しかった……人として……」
うわごとのように、ユウは繰り返した。その目は、何かを思い出すように、遠くを見つめる。
それから、ほどなくしてウエスギは、本部に戻ると言ってユウに背を向けた。やり残した仕事を、片付けに帰るのだという。
去り際、ウエスギは背中で言い残した。
「まぁ、お前にしてみりゃ、こんな話は詭弁に過ぎんだろうけどな」
しばし、その背中をじっと見送っていたユウは、やがて意を決したように、強く言い放った。
「わかります、僕も」
「……え?」
立ち止まり、片眉を上げつつ振り返ったウエスギの目を、きっと見据えてユウは言った。
「やりましょう……ゲートブレイク」
瞬間、ウエスギの顔に、安堵とも喜びとも取れる穏やかな笑みが浮かんだ。
つられるように、ユウも、その頑なな頬を緩ませた。