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二章

翌日、またしても、騒がしい長身がパソコンルームに湧いて出た。

「またインサイトですか」

半ばうんざりげにユウは返した。昨日の出来事のせいか、その声は意図せずとも不機嫌を帯びてしまう。

が、ウエスギの返答は意外なものだった。

「いや、今回は違うよ。君にはいつも世話になっているから、その礼に、ちょいと飲みに連れて行ってやろうと思ってさ。ちなみに、今夜は空いてるだろ?」

「今夜、ですか?」

思わぬ提案に、ユウが面食らいつつ返すと、ウエスギはさらに調子を得て続けた。

「うん。昨日も君を誘いに来たんだけどね。先に帰られちゃって、寂しかったよぉ」

ウエスギのハイテンションに、しかし、ユウはあくまでつれなく返す。

「―――生憎ですが、今夜は、」

「嘘はいけないぞ、一士」

「は?」

再びユウは面食らい、思わず間の抜けた声を上げた。

「どうして、嘘だと?」

「簡単だ。顔に書いてある」

 思わず図星を突かれ、ユウは黙り込んだ。事実、今夜の彼の予定は、このまま寮に帰ってシャワーを浴びて寝る、ただ、それだけだ。

「二二〇〇に南棟玄関前な。遅れたら命令違反で減給だぞ♪」

満面の笑顔で言い残すなり、ウエスギは一迅の風となって部屋を立ち去って行った。



午後一〇時、警備隊本部南棟の玄関前に行くと、果たしてウエスギはそこで待っていた。ユウの姿を認めたウエスギは、ひまわりのような笑みで彼を迎えると、制服姿もそのままに、早速、入口前のロータリーに待機させていたタクシーの後部座席へ乗り込むよう示した。

タクシーに乗り込むなり、早々にウエスギは、旧市街へ向かうよう運転手に言いつけた。初老の運転手は、アクセルを踏み込んで水素エンジンの出力を上げると、庭師によって丁寧に整えられた端正なロータリーを回り、警備隊本部の門をするりと滑り出した。

タクシーは、片側一車線の幹線道路へと流れ込み、やがて巨大な鋼鉄の門へ至る。

ゲートシティと旧市街を繋ぐ全長約一キロの橋の袂には、高さ約一〇メートル、横長約二〇メートルの巨大なゲートが、内外へ向け、その堂々たる威容を誇示している。

ここで搭乗者らは、後部座席の二人はもちろん、運転手も車窓を開き、ゲート脇のセンサーに手のひらをかざす。認証完了を示す青のランプが灯ったところで、めいめいはようやく手を引き戻し、再び窓を閉じる。全員の認証が完了すると共に、目の前のゲートが上に跳ね上がる。ゲートを抜けると共に、車は旧市街との間に架けられたコンクリート橋へとさしかかる。

何本もの橋脚によって支えられた橋桁の上は、今夜も、おびただしい量の大小様々な車両によって埋め尽くされている。それらのほとんどは、プラントで生産された製品をゲート内に運び込むトラックや、ゲート内で生じた廃棄物を街の外へ運び出す清掃車などの業務車両だ。

「ゲートシティが出来た最初の頃は、これらをいちいち人の手で調べていたんだどさ。父上が仰っていたよ。全く、気の滅入る話だよね」

 対向車線を過ぎ去る車列を眺めながら、ウエスギはうんざりげに呟いた。

「神様、仏様、インサイト様々、……なんちって」

 ゲート脇を固める警備隊は、ゲートシティを出入りする車の荷台を逐一検める事はしない。検める必要がないのである。先程潜り抜けた鋼鉄製ゲートの上部には、巨大なX線非破壊検査機、通称『インサイト』なる機器が搭載されている。行き交う車両の内部は、このインサイトによって逐一モニターされており、仮に、荷台等に侵入者が潜んでいた場合、インサイトが当該車両を自動的に捕捉し、現場の警備隊へと即座に通知する。

 このインサイト導入により、不正侵入者の検挙率は格段に上昇した。同時に、人件費の抑制にも成功し、上層部としてはまさしく一挙両得の大成果だったと言える。

ウエスギはまさに、この大いなる神の目の御用聞きである二課の長を務めている。

「そういえば、一士。前々から話していた例の件だけど、引き受けてくれるよな?」

「いえ、その件については、すでにお答えしたはずですが」

「あれ? そうだっけ? ……はて、何と言ったかなぁ?」

 ウエスギは、あからさまにトボけて見せる。言葉の意味そのものより、むしろ口調の方こそウエスギの真意を物語っている。が、その真意に気付きつつも、ユウは強い口調で告げる。

「お断りします、と、お伝えしたはずです」

いよいよウエスギは口を尖らせ、ユウの方へ向き直った。

「どうしてだよ? 悪い話じゃないだろ? インサイトの管理主任だぞ? 君にしてみれば二階級特進並みの大出世じゃないか。一体、この話のどこに不満があると言うんだい?」

 ゲートを出入する人、モノを、よりスピーディに無駄なく検査するために、ウエスギが束ねる出入管理課は常に、より効率的な検査システムの模索を要求されている。年々複雑化・高度化するシステムへの対応に追われる上に、さらに近年では、インサイトという虎の子の管理まで任され、二課はまさに慢性的な人材不足に陥っていた。そこでウエスギは、情報技術専門の人材が集まる五課から、インサイトの管理を専属で請け負う人材の抜擢を思いついた。そして白羽の矢を立てたのが、ユウだったのだ。だが。

「私には、荷の重すぎる役目です」

 上官の申し出に、ユウはあくまでそっけなく返した。ここで彼の申し出を請け負ってしまえば、まるで昨夜のミズシマ氏の言葉に従ったかのような図式となってしまう。それが、ユウにとっては堪らなく不本意でならなかったのだ。

「相変らず、慎ましいねぇ。まぁ、そんな君も嫌いじゃない、が」

「?」

「本当に君は、今の仕事に、いや、人生そのものに、満足しているのかい?」

振り返ったウエスギの双眸には、いつしか、インサイトよりもなお対象を深く洞察する、思慮深い眼差しが宿っていた。いつになく怜悧なウエスギの視線に、ユウは一瞬、返すべき言葉を失った。

「どうなんだ? ん?」

さらに探るように、ウエスギはユウの顔を覗き込んだ。

 が、ほどなく平静を取り戻したユウは、頑なに心を閉ざすと、そっけなく答えた。

「もちろん、満足しています」


タクシーが向かったのは、旧市街随一の歓楽街だった。歓楽街は、市内を二股に分かれて流れる川の中州に位置している。その川端で、二人はタクシーを降りた。街の中心部は、十八時以降は一般車両の通行が禁止されているためだ。

車を降るなり、たちまちユウは顔を歪めた。川面から漂うドブの臭いが、彼の鼻腔を不意に強襲したのである。橋の下を覗き込む。どす黒い水面には、ひどい臭とは不釣合いな極彩色の輝きが、絢爛豪華に散り敷かれている。顔を上げる。川面を挟むのは、果てなく続くネオンに、オーロラビジョン、そして、最近ようやく旧市街にも普及し始めた立体ホログラムだ。

 心躍る光の渦に、しかし、ユウはすぐさま心の防衛線を張る。

 こんなもの、所詮はまやかしだ。いくら取り繕ったとしても、ここが、敗者の街である事に変わりはない。

「ほら、一士、行こうぜぇ!」

不意に肩を組まれ、ユウは否応なく声の主へと振り返った。街に漂う自由と放埓の空気に呼応してか、ただでさえ奔放な彼の挙動に、いやましにターボがかかる

薄皮の下で顔をしかめつつ、ユウは黙って頷いた。

いつもは本部ビルの屋上から眺めるだけでしかない、それらのいかがわしい夜景は、間近に見ると、その毒々しさがより一層強調され、実体のない麻薬に網膜が冒される心持がする。だが、迂闊に頭上にばかり目を泳がせるわけにもいかない。油断すると、歩道のそこかしこで剥げたタイルの窪みや、路傍に散乱するゴミに足を取られてしまう。

むしろ、足元の光景こそ、旧市街の正体を、そして現実を最も如実に示していると言える。

旧市街では、自治体の公共サービスはほぼ壊滅していると言っても過言ではない。いや、全国的に見ると、旧市街の状態こそが一般的で、むしろゲートシティの方が、全国水準を大幅に超えた公共サービスを供給している稀有な場所なのだ。その高度な公共サービスを支えているのが、ゲートシビルらが街に支払う高額な市民税だ。

そもそも、ゲートシティが形成されるに至った主因はそこにある。国家財政の破綻によって壊滅した社会サービスに、多くの高給層や一部の中産階級は失望し、国外退避を計った。しかし、彼らを失う事は税の減収に繋がると考えた国は、国内の数箇所に、彼らが住まうためだけの街を作り上げ、高い税負担と引き換えに、快適な社会サービスを担保した――――そして出来た街こそが、ユウの住まうゲートシティである。これは、ゲートシビルであればジュニアスクール時代に全員が学習する、履修必須の近代史である。

剥げたタイルは、もはや道路の維持管理を行うための工事費を、そして、路傍のゴミは、頻繁にゴミ回収を行いうる人件費を支払う能力のない、旧市街自治区の貧しい予算規模を物語っている。

目抜き通りを行き交うのは、その多くが、ゲートシティから来たと思しき背広姿の男や、郊外のプラントから仕事上がりに立ち寄ったらしい旧市街の工員達だ。が、いずれの男達も、この街へ集う理由は一つだ。彼らは、女の色や体を買いに、この街へと訪れるのである。

下卑た笑みを浮かべる男達がひしめく中を、赤や黄色のハッピを着た男達が、せわしなく駆け回る。そんな彼らの一人が、蝿のように両手を揉みつつ、卑屈に腰をかがめて、制服姿のウエスギ達に擦り寄る。

「ねぇ、警備隊さん、今夜はうちの店でどうだい?」

男は、酒焼けと思しき赤黒い顔を崩しながら、二人に笑いかけた。だらしなく開いた男の口からは、茶色く痩せた歯と、肉感を失った黒い歯茎が覗く。旧市街で密かに流行る、違法ドラッグの影響だろう。

「悪いね、おっちゃん。俺ら、もう行く所を決めてるんだよ」

歩みを止める事なく、ウエスギは答える。

「へぇ、お兄ちゃんみたいな色男に通われるコは幸せだねぇ。でも、その前に、ウチにもちょいと寄って行きなよ」

「ごくろうさん。けど、また今度な」

 気さくに返しつつも、その足はすでに男を引き剥がすべく速度を速めている。

 往来の隙間にちらつくのは、辻立ちの売春婦だ。扇情的な姿をした女達の諸肌が、夜陰に浮きつ沈みつしては、街の光を浴びて怪しく輝く。迂闊に目で追っていると、視線に気付いた女が、すかさず声をかけてくる。時には目を合わせずとも、勝手に擦り寄って来る。

「ねぇ、あなたたち警備隊?」

紅色のワンピースに身を包んだ女に突然言い寄られたユウは、弾かれたように身を引き、そして、獣のように小さく唸った。「触るな。下衆が」

女は、チッ、と舌を打つと、次の商売相手を探すべく、再び往来へと紛れた。

「どうした、怖い顔して」

「いえ、何も」

「じゃあ、もっとゴキゲンな顔をしてくれよ。せっかくのお祝い気分が台無しになっちまう」

「……」

 通りはいずれも、鼻をつく汚物臭に満たされている。一体どこから漂って来るのかは定かではない。古くなった下水管が壊れ、汚水が配管の外に漏れているのか、あるいは、行き交う酔っ払いが見境なくそこらで用を足すためなのか。恐らく、その両方なのだろう。通りを挟む雑居ビルは、いずれも看板やネオンで取り繕ってはいるものの、外壁のモルタルは剥がれ、窓枠は錆びて朽ち、経年劣化の見本市と化している。

ウエスギは、歩みを止める事なく往来を突き進む。ウエスギに連れられてこの街へ来るのは今回が初めてのユウには、一体、彼がどこへ向かっているのか、まるで見当がつかなかった。が、その迷いのない足取りから、彼が、すでに明確な目的地を定めている事だけは、はっきりと窺い知る事ができた。

その後も二人は、幾多の扇情的な誘惑をすり抜けて歩いた。薄暗い裏通りを縫うように歩き、やがて辿り着いたのは、何の変哲も見るべき所もない、古びた雑居ビルだった。

パック酒を手にうずくまる浮浪者を横目に、ホールでエレベーターを待つ。ナメクジのような速さで上下するエレベーターがようやく到着すると共に、中から、イブニングドレス姿の女を侍らせた男が降りてくる。入れ替わるように、二人はすかさずエレベーターへと滑り込む。先程の乗客らの残り香か、酒と香水と汗の混じった臭いが漂う。

やがてエレベーターは七階へと到着する。蛍光灯がちらつく殺風景な廊下には、錆びた鉄製の扉が、コピペを繰り返したようにずらりと並んでいる。それらの中から、ウエスギは迷う事なく一つの扉を選んで開く。その挙動は、随分と通い慣れた様子を伺わせた。

扉の上では、『AVEC・TOI』なる文字のネオンサインが瞬いている。ウエスギに続いて扉を潜ると、そこには目に鮮やかなドレスを纏った一人の女が、二人を出迎えに店先へと現れていた。

「あら、シンヤ君。いらっしゃい」

 艶のある声で、女は言った。その口ぶりから察するに、ウエスギとは顔見知りであるらしい。

真紅のロングドレスを纏ったその女は、身体の曲線美が見事な、非常に豪華な美人だった。艶やかな栗色の髪を頭頂部に纏め上げ、白い首筋と肩を惜しげもなく露わにしている。その首筋から放たれる圧倒的な色香に、ユウの目は一瞬、不覚にも釘付けとなった。

ふくよかな唇に、熟達の絵師が一筆で描いたかのような鼻筋と眉。だが、それらに増して印象的なのは、知的で深みのある輝きを帯びた鳶色の瞳だ。

「よう、カンザキ。相変らず閑古鳥が鳴いてやがるなぁ」

「ふん、余計なお世話っ! ――――あれ?」

カンザキと呼ばれた女は、見慣れない青年の姿に気付くなり、大ぶりの目をしばたかせ、その顔を覗き込んだ。「シンヤ君、この子……?」

「そう。前から話していた、俺のお気に入り」

 言いながら、ウエスギはユウの肩に腕を回し、親しげに頬を突いた。その馴れ馴れしい言動に、ユウは思わず顔をひくつかせる。

「ああ、この子が例の……」

すかさず、カンザキは店の奥を振り返った。

「リコちゃーん、カウンターにお酒を準備して」

店の奥、カウンターの向こうには、一人のウェイター姿の女が立っていた。肉付きの薄い身体は、未だ成熟しきっていない少女のそれだ。リコと呼ばれたその少女は、カンザキに声をかけられるなり、弾かれたように、ボトルや氷を集め始めた。狭いカウンターの奥を細々と動き回るその後頭部では、二つに纏められた髪が元気良く飛び跳ねている。

ウエスギに並んでカウンター席へと座らされたユウは、そこで初めて、落ち着いて店の中を見渡した。店とは言っても、その広さはせいぜいがマンションのリビングルーム程度だ。五人掛けのカウンターと、ボックス席が一つ。そのボックス席は、すでに三人の男達によって占拠されている。彼らがゲートシティの人間ではない事は、纏った服の質感を見れば一目瞭然だった。客層の悪さに、ユウは思わず眉根を寄せる。

薄暗い店内は、甘美なジャズに満たされている。音楽の趣味は悪くない、が、いかんせんスピーカーが古いためか、音が割れて何とも聞き苦しい。

あらかた店の中を見回した後で、ユウは再び、カウンター向かいでグラスに酒を注ぐ少女に目をやった。

細身の身体に、涼しげな目鼻立ち。桜色の薄唇は一文字に引き結ばれており、簡単に開く気配を見せない。物憂げに伏せられた長い睫毛の奥では、黒い瞳が、グラスの氷にも似た、澄んだ輝きを放っている。幼い顔立ちと、大人びた表情のアンバランスさが、かえって見る者の興味を掻き立てる。カンザキが初夏の陽光なら、少女はむしろ静かな冬の月光である。

「あら? リコちゃんの事が気になるの?」

 いつの間にか、隣の席に腰を下ろしていたカンザキが、ユウの耳元に顔を寄せて囁いた。

「い、いえ、別に」

思いがけぬ至近距離に、うろたえつつユウは答えた。甘くも深い大人の女の香りが、思いがけずユウの脳幹をくすぐる。

「でも、ずーっとリコちゃんの事を見てたでしょ?」

「観察していただけです」

「ふぅん、リコちゃんの、何を?」

その問いに、ユウは口をつぐんだ。答えるべき答えもなく、また、答えたところで話が面倒な方向に転がる事がはっきりしていたからだ。

隣にかけるウエスギは、リコからグラスを受け取るなり、中のロックを一息に飲み干した。ユウも同じくロックグラスを受け取ったが、縁に口をつけるなり、慌てて鼻から遠ざけた。洋酒独特のスモーキーな香りが鼻を突き、つい激しくむせてしまったのだ。

「あら、飲めないの?」

苦しげに咳を続けるユウの顔を、カンザキが心配そうに覗き込んだ。

「洋酒はちょっと」

「じゃあ焼酎にする?」

「いえ、お酒は結構です。アルコールは好きじゃない」

するとカンザキは、「そう」と小さく囁くと、ユウが口を付けたグラスを、何の躊躇いもなく一気に空けた。そして、聞こえよがしの独り言を呟く。

「あらやだ、間接キスになっちゃった」

「おーい、カンザキ」

すかさず、ユウの頭越しに声が飛ぶ。

「あんまり俺の部下をイジめるなよ?」

「別にイジめてないもん」

 ふくよかな唇を、巾着袋のようにすぼめてカンザキはぶうたれた。つい先程までユウが格闘していたロックのグラスは、今はピンク色の口紅によって微かに彩られている。

ほどなくしてカンザキはカウンターを離れ、背後のボックス席へと移った。すぐさま背後から、カンザキと客等との楽しげな会話が聞こえ始める。

「ったく、あの女……っておい、リコ」

 名前を呼ばれるなり、リコはグラス拭きに勤しんでいた顔を上げ、カウンター越しのウエスギに目をやった。しかし、その顔は相変らずの見事な仏頂面である。

「お前は、もっと愛想よくしろ。曲がりなりにも、俺らは客だぜ?」

 その口調もまた随分と親しげである。やはりウエスギは、この店に随分と通い慣れている、とユウは踏んだ。

「知るか」

 少女はにべもなく答えた。それは、客に対する口調とは思えない、ぞんざいなものだった。

「……まったく、お前とカンザキを上手く足して二で割るって事ぁ、出来ないもんかねぇ?」

「出来るかよ。ガキの算数じゃあるまいし」

 それきりリコは、再びグラス拭きに勤しみ始めた。

「リコ! ……って、どいつもこいつも……。おい一士、君からも何か言ってやれ。こいつ、店員のくせして、いっつもこの調子なんだよ。愛想のカケラもありゃしない」

ウエスギの小言に、しかし、彼の部下もまた、とりつく島のない返答を寄越す。

「私の方からは、特には」

「……そーいや、お前もそーゆーキャラだったか」

ウエスギは、やれやれと頭を掻くと、またしてもグラスをぐいと空けた。

「ところで、一士。カンザキにだけは気をつけろよ」

「はぁ」

 上官の気まぐれな会話に、ユウは曖昧に追随する。

「あいつはなぁ、すぐに男を勘違いさせちまうんだよ。あいつのせいでバカを見た男は、それこそ掃いて捨てるほどいやがる」

「お知り合いなんですか? カンザキさんとは」

「まぁな、アイツとは、アカデミー時代からの……まぁ、腐れ縁みたいなもんだ」

「アカデミー?」 

軽く目を見開き、驚きと共にユウは声を上げた。

「アカデミーを出たのに、IDを剥奪されたんですか?」

アカデミーとは、ゲートシティに数ある教育機関の最高学府である。極めて狭き門ではあるが、ひとたび卒業すれば、その多くには高いキャリアと給料が約束される。ウエスギ曰く、カンザキは、アカデミー卒業後にゲートシティの大手企業で会計士として数年務めた後、IDを失い、この街へと落ち延びてきたのだという。

「アカデミー卒だろうと何だろうと、払うものを払わなきゃ、そりゃ追い出されるさ」

 言いながら、ウエスギは空になったグラスの氷をカラカラと鳴らして見せた。

 市民税の支払いが不能となった時点で、ゲートシティの住人は街を放逐される。そして、一度追い出されてしまうと最後、もはや二度と、IDの発行を受ける事はできない。

旧市街には、このようにしてゲートを追い出された人間が数多く住み着いている。どうやらカンザキという女も、それら敗残者の一人であるらしかった。

 ―――ところで。

先程からユウは、背中に異様な視線を感じていた。背後のボックス席でたむろする男達が、何気ないふうを装いながら、頻繁に、自分の方へ視線を向けている―――そんな気がする。もちろん、ただの自意識過剰をこじらせた末の、歳不相応の勘違いという可能性も充分ありえた。冷静に、思い込みを棄て―――いや、棄てようと努めている時点で棄て切れてはいないのだが―――ユウは今一度、ちらと背後を振り返た。

やはり、こちらを見ている。

「ところで、さ。一士」

「はい」

 またしても、不意に横の上司から話を振られ、ユウは顔を向けた。

「ゲートブレイクって言葉を、聞いた事があるかい?」

耳慣れない単語に、ユウは小さくかぶりを振った。

「いいえ」

ウエスギは一つ頷き、説明を加える。

「直訳すると、門の破壊、だ。旧市街の連中が使うスラングでな。この場合、ゲートとはもちろん、ゲートシティの入り口を指しているわけだが」

「不穏当ですね」

眉を寄せ、声を潜めるユウに、ウエスギはこともなげに返す。

「いいや。実は、そこまで不穏な言葉でもないんだよ。まぁ、ざっくり言ってしまうと、ゲートシビルIDの不正取得、かな。ゲートを壊すというより、破る、って意味の方が近いね。確かに、IDさえあればゲートをくぐる事はできるわけで」

「IDを、不正に?」

ユウは、眉根にさらに深い皺を刻み込んだ。

「不穏ですよ。IDを不正に取得? ……冗談じゃありません。そんな空き巣まがいの行為、私は絶対に許せません」

「空き巣?」

「我々ゲートシビルは、市民IDを保持するために、街に対し、常に多大な負担を負っています。その努力の成果を、何の犠牲も払わない人間が横から攫うのは立派な空き巣です」

「言うね」

「私はあくまで、一般的なゲートシビルの意見を代弁したまでです」

「やはり、許せないか、君は」

「当然です。警備隊員として、何よりゲートシビルの一人として許すわけにはいきません」

一気にまくし立てると、ユウはグラスをちびりと舐めた。

「そうか」

 カウンターに立て肘をつき、顎を預けながらウエスギは呟いた。

「ところで、実はもう一つ、一士に訊きたい事があるんだけど」

「はい。何を、」

「その気になれば、ゲートブレイクは可能かい?」

「……は?」

その言葉に、ユウは自身の聴覚を疑った。先程までの話から、一体どんな流れに乗れば、今の質問に漂着するのだろうと、ただでさえ腹の読めない上官の真意をことさらに探る。

しばし逡巡した後、ユウはきっぱりと答えた。

「できません。ゲートシビルとして」

ところがウエスギは、ユウの言葉をあっさりと切って捨てる。

「ゲートシビルとして、という要素は、この際必要ない。自らの能力を冷静に顧みた上で、出来るか否か、それだけを答えるんだ」

その眼差しは、しかし、先程までのおどけた調子とは打って変わり、あくまでも怜悧にユウを射抜いていた。冗談からの質問とは思えない、にも関わらず、ユウは頑なに返す。

「できません」

「いや、君は出来る。勤務終了後、君がパソコンルームに残って何をしているのか、俺が知らないとでも?」

「あれは、ただの道楽です」

「道楽にしては、随分と手が込んでるな。君も知ってるだろう? 今では、どの公的機関の情報管理課も、HAPPYSWALLOWなるハンドルネームからのバグ通知に、恐々としているぜ」

「悪いのは僕じゃなく彼らです。あんな時代遅れのOSや脆弱なセキュリティで、本当に市民の情報を守る気があるのか、疑わしい」

 ユウの言葉に、ウエスギの口元がにやりと鋭角な笑みを刻む。そこで初めて、ユウは自身が、迂闊にも彼の言葉に釣られてしまったという事に気付いた。

「出来るよな?」

観念したユウは、苦々しく吐き捨てる。

「出来ると答えたら、どうなさるつもりです」

「決まってる―――マキタ君」

言うなり、ウエスギは背後のボックス席を振り返った。

「は?」

 ウエスギの視線を追うように、ユウもまた背後を振り返る。と、今まさにボックス席から、カンザキの手を借りつつ一人の青年が立ち上がり、ウエスギへと歩み寄る所だった。その足取りはひどくおぼつかない。が、酒のせいだと判じるには、その顔はやけに青白い。

 その姿を唖然と見つめるユウに、ウエスギは続ける。

「彼のIDを、今すぐ取得してほしい」

思いがけない上官の余興に、ユウはただ、呆然と目の前の二人を眺めていた。

「これは……何の冗談です……?」

ユウが呻くなり、マキタと呼ばれた青年は、そのシャツをもぞもぞとたくし上げ始めた。ほどなくして、その真っ白な上半身が露わになる。あばらの浮いた胸郭には、薄暗い店内でもはっきりと見て取れるほどの大きな傷が幾筋も走っていた。

青年の身体を指しながら、何の傷に見えるか、とウエスギはユウに問うた。

傷はいずれも直線的に身体を走り、ケロイド化せず綺麗に癒着している。無謀なストリートファイトの結果による傷跡とは到底考えられなかった。

「手術痕、ですか」

 ユウの答えに、ウエスギではなくマキタが、気まずそうに小さく、はい、と頷いた。

 青年の答えを引継ぐように、ウエスギは淡々と説明を加える。

「実はね、彼は生まれつき、心臓に難しい疾患を抱えていてね。小さい頃は、高度な医療技術を持つゲートシティの病院で、この病気と闘っていたのだそうだ。……ところが、彼が十歳の時に、彼の両親が相次いで会社から解雇を宣告されてしまってね。再就職先を探したんだが、結局見つからず、やがて貯金も底をついて……街を追い出されてしまった」

「……それは、気の毒な話です」

つとめて事務的な口調で、ユウは返した。感傷に漬け込まれてはならないと、気持ちを硬化し身構える。

「それでも彼は、何とか旧市街の病院で治療を続けて来たらしいんだ。ところが……先月の検診で、ついに、旧市街の病院から匙を投げられてしまってね」

「それは、お気の毒に」

 ウエスギが何を言いたいのかが、ようやくユウにも見えてきた。つまり、病気の治療のために、彼にIDを発行しろ―――と。

「けどね、そんな彼を助ける方法が、実は、たった一つだけあるん、」

「すみません、お先に失礼します」

ウエスギの言葉を遮りつつ、ユウはそそくさと席を立った。ウエスギが続けるであろう言葉の先、それを耳にすれば、もはや自分は、その青年の運命と無関係ではいられなくなる。そんな危機感が、彼を苛んだのだ。だが、足早に出口へと向かったユウの行く手は、突如阻まれた。マキタの仲間と思しき二人の青年が、彼の目の前にずいと立ちはだかったのだ。

一人は、長身のウエスギすら軽く抜きん出る程の背丈に、さらにずっしりと肉を盛り付けた、岩山のような体格をしていた。その鈍重な挙動は、象や鯨などの大型獣をつい想起させる。もう一人は、ユウと同じ背丈ほどの青年だ。女のように綺麗な顔立ちが、険のある表情をいやましに引き立てている。こちらは、さながら小動物のように、その挙動には落ち着きがない。

「まだウエスギさんの話が終わってねーだろ」

小柄な方の青年が、凄みをきかせつつユウを睨み据えた。そのセリフは言外に、すでに彼とウエスギが顔見知りである事を伝えていた。今更ながら、ユウは自分が彼らの罠に、見事に嵌められてしまった事に気が付いた。それでもなお、毅然とした態度で脱出を試みる。

「どいて頂けますか? 僕は帰りたいんだ」

「あなた、本当はマキタを助けられるんでしょう?」

もう一人の大柄な青年が、すがるように口を開く。

「僕は医者じゃない。買いかぶらないでくれないか」

ユウの反論に、小柄な方の青年が、すかさず声を荒げる。

「んな事ぁ知ってるよ! けど、お前、ゲートブレイクができるんだろ? ゲートシティの病院に、マキタを連れて行けるんだろ?」

「できるかどうかと、実際にやるかどうかは別問題だ! そこをどけ! 僕は帰る!」

「てめぇ、マキタを見捨てるのかよ!」

「ノムラ! 頭を冷やせ!」

突如、背後のカウンターから、いつになく鋭いウエスギの声が飛んだ。

「ウエスギさん、どういう事ですか! こいつならマキタを助けてくれるって、そういう話じゃなかったんですか!?」

「ああ、もちろんだよ。彼はマキタを助けてくれる……そうだろ、一士」

「冗談じゃありません! 誰がIDの不正取得なんて卑怯なマネを!」

すかさずユウは、腰のホルスターから護身用に携帯した拳銃を掴み出し、その銃口を青年らに突きつけた。

「どけって言ってるだろ!? この薄汚い負け犬共が! あんまり調子に乗ってると、監禁罪で地元警察に突き出してやるぞ!」

 鈍く光る銃口に、青年らは一瞬怯み、僅かに退いた。その隙に突破を、と足を踏み出したユウは、刹那、眼前に滑り込んだ刃物のような人影に、思わずたたらを踏んだ。だが、気が付いた時には、銃口を構えた彼の手首は、すでに相手の手刀によって捉えられていた。腕を捻り上げられ、体軸が崩されたユウの足元を、すかさず長い足が薙ぎ払う。

受身を取る間もなく、ユウは毛足の短いカーペットに、その背中を打ちつけた。胸郭に反響した衝撃が、肺から濁った咳を押し出す。

「いいから、話を聞け」

 声と共に、ユウの鼻先には銃口が突きつけられた。それは、先程までユウが手にしていたはずの銃だった。手首を捻り上げると同時に、ウエスギがその手から毟り取ったのだ。

「察しのとおりだ。ゲートシティの病院に行けば、彼は、旧市街では受けられなかった高度な治療を受ける事ができる。命の助かる可能性が高まるんだ」 

「それが、何だというんですか、二尉」

「階級名で呼ぶな、ユウ。ここでは、俺とお前は友達だ。そうだろ?」

 穏やかな口ぶりの一方で、ウエスギは躊躇なく銃のスライドを引き、初弾を装填する。安全装置は既に解除されている。先程、ユウが青年らに試みた形ばかりの威嚇とは違い、ウエスギの場合、その気になればいつでも、ユウの脳味噌を紅色のカーペットにぶちまける準備ができている。

「こ、この状況で、よくもそんな事を」

「友情の形に決まりはないよ」

「う、ウエスギさん、もう、いいんです」

 ふと、背後で声がした。木の葉が擦れるような声の主は、ほかでもないマキタのものだ。

「どのみち、僕は助からない」

「助からない? じゃあ、どうしてお前は、あの時、あんなに必死でゲートを潜ろうとした?」

「あれは、本当にただの気の迷いで……」

「違う、マキタ。おかしいのはお前じゃない、むしろこいつだ」

 静かに激昂して見せながら、ウエスギはことさらにユウへ銃口を突きつけた。

「ゲートシビルだからどうとかこうとか、んな下らない屁理屈で、平気で人の命を見殺しにする、こいつの方こそ狂ってやがる。―――わかるか? ユウ。お前は狂ってるんだよ」

「狂ってるのはお前だろうが! ……ウエスギ!」

「さん、を付けろ。ユウ。友達と言ったが、対等じゃないんだ」

言いながらウエスギは、その銃口を、ユウの額へとさらに強く押し付けた。

「もう一度訊く。彼のゲートブレイクを、やってくれるよな?」


ほどなくしてユウは、青年らの腕により、ボックス席のソファへと強引に座らされた。

目の前のコーヒーテーブルには、艶のある白色をしたノート大の板が置かれている。所々に細かな傷が走っている所を見るに、どうら中古のラップトップであるらしい。端にある黒いスイッチを押すと、板は二つに開き、中からつるりとした黒い面を露わにする。人の顔がくっきりと映り込むほど滑らかなその表面を指先で軽く触れると、漆黒の表面が、澄んだ空色へと変じる。ほどなく、空色の画面の所々に、様々なデザインのアイコンが浮き上がる。

 それらアイコンの一つをユウは軽く触れる。すると、手前側の一枚が、一気にその模様を変じる。再び黒い画面へと戻った板に、青く細い線が幾筋も走り、小さな六角形が蜂の巣のように隙間なく並ぶ。それら六角形の枡一つ一つには、めいめい英文字や記号が浮かんでいる。

「もちろん、使い捨てのつもり、ですよね」

 胃液を吐き出すかのように、ユウは苦々しげに呻いた。

「安心しろ。使い回すなんて貧乏臭いヘマはしない」

 IDの不正登録は、ゲートシティに住まう市民の情報を一手に管理する総合市民管理局なるデータバンクへの侵入を必要とする。そこは、市民一人ひとりの市民情報を管理し、また、不正な改竄からデータバンクを守る、言わば仮想空間上のゲートシティである。当然、その防御力は、決して侮る事はできない。無用心に侵入を行えば、ユウの同業者でもある管理局の不正アクセス監視員らにログを探知され、追跡される危険性を孕んでいる。無論ユウは、ログを逐一消去しつつ、慎重に作業を行うつもりではいる。だが、万が一にも物的証拠を掴まれぬよう、使用したコンピューターは即座に破壊した方が良い。

「ウエスギ、さん。糖分を補給させて下さい。出来れば砂糖水がいい」

カウンターを振り返ったウエスギは、テーブルに水と砂糖を運ぶようリコに言づてた。水を入れたグラスと、コーヒー用の砂糖壺をトレーに乗せ、ボックス席へと運んだリコは、やおら、それらをガン! とテーブルに力一杯叩きつけた。さらに、テーブルを去る間際、ユウの耳元で聞こえよがしに呟く。

「ゾンビ野郎」

「ゾンビ野郎? ……どういう意味だ?」

「そのままの意味だ。お前は人間として腐ってる」

 その言葉に、ユウは跳ねるようにソファを立ち上がると、腹の底から怒声を上げた。

「腐ってるのはお前らだ! このコソ泥どもが! 僕らゲートシビルが、街を追い出されないように、日頃からどれだけ重い義務を背負ってるか、わかってんのか!?」

「おい、ユウ、席に着け。さっさと仕事を済ませようじゃないか。誰一人として、この状況を愉快だと思っている奴はいないんだ」

カウンター席のウエスギが、ユウに銃口を向けたまま苛立たしげに言った。その撃鉄は、未だに起こされたままだ。

「……クソが」

 若手幹部の上官に雑言を投げつけたユウは、無造作にソファへ腰を下ろした。そして、運ばれた砂糖壺の中身をグラスへ一気に流し込むと。マドラーで乱雑にかき混ぜ、一気に煽る。

「ごめんねぇ、ミズシマ君。嫌な事を頼んじゃって」

 ウエスギの隣に掛けたカンザキが、この状況でもなお、平然とした口ぶりで言った。

「最初から、何もかも罠だったんですか?」

 鳶色の瞳を睨みつけるユウに、しかしカンザキは動じる事なく返す。

「ええ。でも店は本物よ。私も、それにリコちゃんも」

「バレたら、あなた達も、この店も、タダでは済みませんよ」

「大丈夫っ。その時は、コイツにきっちり責任を取ってもらうから」

不敵な笑みを浮かべたカンザキは、横に掛けるウエスギを顎で指した。

「すみません、みなさん……」

向かいのソファで、石膏像のように鎮座したマキタが、うなだれつつ呟いた。

マキタの顔色は、ユウが最初に出合った時よりも、さらに青く変じていた。つい先程も、彼は突如発作を起こし、症状を抑えるための薬をざらざらと口に流し込んだばかりだった。その際の残骸である薬のプラスチック殻は今も、ユウの目の前でうず高い山を作っている。

「名前は、何と言うんだ」

「名前、ですか?」

軽く目を見開くマキタに、ユウは苛立たしげに言い返す。

「登録には名前が必要だ。その他にも、年齢、学歴、居住歴、あと、お前の場合は病歴、通院歴、投薬歴……いや、面倒くさい、お前が通っている病院を教えろ。そこから直接、お前のカルテを引っ張り出す」

言いながら、すでにユウは情報管理室のゴトウのマシンを乗っ取りにかかっている。ユウはゴトウが、半年前に別れた彼女の名前を、未だにマシンの認証パスワードとして使い続けている事を知っていた。機密保持のためにと、ユウは彼に、パスワードの変更を何度も勧めた。だが、未練がましいゴトウは、そんなユウの忠告を、頑として聞き入れようとはしなかったのだ。

パスワードの入力を求める画面に、『AKINA_COME_BACK』と打ち込む。と共に、認証完了のメッセージが立ち上がり、五課で使用するOSの画面が表示される。ゴトウの次の登庁予定は、明日の午前八時だ。それまでの間、ユウは誰にも気付かれる事なく、ゴトウのIPアドレスを使用しつつ、登録作業を行う事ができる。作業者が自分である事を露見させないための安全策は、一つでも多い方が良いに決まっている。

「ススムです」

「ススム?」

「はい……マキタ・ススム。たとえ、どんな困難が目の前に立ちはだかっても、まっすぐ前に進む、そんな人間になれと、父が、」

「そんな話は訊いてない」

ユウの一瞥に、マキタは再び、泣きそうな顔でうなだれた。

「すみません……」

「病院名は?」

「し、旧市街地区総合病院、です」

早速ユウは、マキタが挙げた病院のサイトを呼び出し、脆弱な侵入経路のスキャンにとりかかる。経路を見つけるなり、自作の侵入プログラムを使い、病院内のローカルネットワークへ潜り込む。その間に、今度は別のウィンドウで、旧市街市役所のサイトを通じ、同様の方法で侵入を開始する。

 顔を上げると、マキタが相変らず沈痛な面持ちで俯いている。目の前でいつまでも通夜みたいな顔を曝されても不愉快だと思ったユウは、やむなく慣れない世話話を切り出した。

「僕の名前が、どういう由来でつけられたか、わかるかい?」

その間も、ユウはキーボードを叩く指を止めない。一方、驚いたように目を見開いたマキタは、しばし瞳を右往左往させ、やがて、おずおずと答えた。

「優しい人間に、なるように、とか?」

 するとユウは、特に話を引っ張る事なく、早々にクイズの正解を寄越した。

「違う。優れた人間になるように、だとさ」

病院、そして市役所から、マキタについての市民情報を抜き出す。これで、ゲートシティの総合市民管理局へ登録するためのマキタの市民情報が整う。―――いや、正確には、登録のためにはもう一つ、重要な情報が必要となる。

「マキタ。画面に両手を乗せろ」

パソコンを、テーブルの向かいへと差し出しながらユウは言った。

「手のひらの血管パターンをスキャンする。そいつがないと、ゲートシティではコーラ一本買えやしない」

 言われるまま、マキタは画面に手のひらを乗せた。と同時に、画面全体が黒く変じ、画面上部に一筋の青い線条が現れる、線条は、マキタの手を、指先から手首までゆっくりと撫でる。

青い光が消え、画面から手を離すと、黒い画面上に、木の根を逆さまにしたような模様が、二つ現れる。

「終わりました」

「よし、後は登録だけだ」

 登録作業そのものは、ユウにとっては決して困難な作業ではない。用意したマキタの市民情報を、前述の総合市民管理局に登録すれば作業は完了するのだが、実は今までにもユウは、この総合市民管理局なる場所へ、すでに何度も侵入を試み、そして、成功させていた。その際、彼がHAPPYSWALLOWなるハンドルネームで発したバグ報告は、いずれも、彼ら総合市民管理局の管理官に少なからぬ驚きを与えてきた。事実、彼の指摘によって改善されたシステムも多い。

これから彼が行う作業も、その意味で、実は普段とさして変わるところはない。ただし、普段の彼の作業を空砲による威嚇に喩えるなら、今回はサプレッサーを使用した実弾発砲である。

「あの、ミズシマさん」

「……」

「少し、横になっても、構いませんか?」

「……」

 彼らのデータバンクへの侵入を果たしながら、しかしユウは、そこに喜びなどの高揚感を見出す事は、全くもってなかった。そもそも、彼らの使用するOS自体が古すぎるのである。ユウにしてみれば、まるで通い慣れた友人宅にでも上がるようなものだ。

彼らが新しいOSを導入しない理由については、実は不可解な点が多い。彼らは、議会によって新システム開発予算が削減されたためだ、との説明を行っている。事実、彼らの開発予算は、年々縮小傾向にある。しかし、議会自体は、ゲートシステム擁護派の政党が政権を握っているのである。つまり、議会の決定は、その掲げる旗に大きく反していると言える―――といった疑問を脇に除けつつ、ユウはあくまで淡々と作業を続ける。

 マキタのID登録が完了したのは、それから一〇分ほど経った後の事だった。

「終わったぞ。けど、本当に大変なのはこれから――――」

 顔を上げたユウは、たちまちその背筋を凍りつかせた。彼の目の前に、白い顔をほころばせ、ソファの上に静かに横たわるマキタの姿があったからだ。

「……マキタ?」

呻きつつ、ユウはマキタに飛びついた。すかさずその白い鼻先に、先程までキーボードを叩き続けていた手のひらをそっとかざす。

 息が………ない?

「マキタ? ……おい、マキタ、マキタ―――まさか!?」

 慌てて首を巡らし、周囲を仰ぐ。だが、ユウを囲む青年らは、皆、静かに目を伏せ、唇を一文字に引き結んだまま何も語ろうとはしなかった。

 すでにカンザキは、美麗な顔をハンカチに埋め、たおやかな肩をか細く震わせている。

 一方、ウエスギは、ユウに突きつけていた銃を下げると、その撃鉄をそっと落とした。カチリという無機質な音は、もはやウエスギに、ユウを脅迫する理由がない事を告げていた。

「ご苦労だった。ユウ」

静かに、ウエスギは呟いた。と共に、冷たい湖の底のような空気が、哀愁を帯びたブルースに乗り、そっと店内に漂った。

「う、嘘でしょう、だって、つい、今まで……」

 マキタの顔に目を戻す。微笑みを浮かべたその顔は、あたかも心地よい日向でまどろんでいるかのように穏やかな表情を帯びていた。

肉のそげきったマキタの身体に、ユウはそっと手を乗せる。―――まだ温かい。

と、マキタの命が残した体温に、僅かな口火を得たかのように、ユウの体中で、細胞という細胞がかっと爆ぜた。衝動に任せ、ユウはマキタの身体を揺らす。

「おい、マキタ、マキタ! どういう事だよ!? たった今、お前の願いが叶ったってのに、寝てる場合じゃないだろ! 起きろ! 起きろぉ! マキタ!」

その肩を、不意にぽんと叩くものがあった。弾かれたように、ユウが顔を上げると、そこには、波間に映った人影のように、ひどく歪み、ぼやけたウエスギの姿があった。

「う、ウエスギさん……」

その時だ。

「……うーん」

耳元で呻き声がし、ユウは思わず、声の方へと振り返った。

―――と、途端。

「いぃい生き返ったぁあああ!」

絶叫と共に、ユウは派手にのけぞった。勢いのあまり、したたかに尻餅をつく。一方のマキタは、暢気に目元をこすりつつ、のんびりとした口ぶりで言った。

「すみません……ひょっとして僕、寝てました?」

途端、ユウの頭上で、俄かに笑い声が爆発した。顔を上げると、ウエスギ以下、その場にいる全員が、揃いも揃って顔を崩し、げらげらと笑い転げていた。仏頂面の専売特許であったはずのリコですら、カウンターの奥で、湧き出る笑みを必死に押し殺していた。

「な、何が」

目を右往左往させつつ呻くユウに、膝を激しく叩きながら、ウエスギが答えた。

「いや、悪い悪い。マキタが、少し寝ると言って横になったんだが、お前が全く気付いてない様子だったんで、騙せるかどうか試してみたんだ。けど、まさかここまで……くくっ」

やおら、ユウは激しい怒りと羞恥に見舞われた。相手の思惑に踊らされ、乱れた感情を醜く露呈させてしまった恥ずかしさと、そんな自分の恥辱を憚りなく嗤ったウエスギらへの怒りが、全身を鋭く貫いたのだ。烈火のごとき感情は、叫びとなってユウの喉を劈いた。 

「っざけんなぁああああ!」

空間を震わす怒号と共に、ユウは渾身の力をもってウエスギの横面に拳を叩き込んだ。

ベチッ、という鈍い音と共に、顔面にしたたかな一撃を食らったウエスギは、その長身を背後のカウンターへと打ちつけた。

なおも猛然とウエスギに飛びかかるユウの前に、傍らのカンザキが咄嗟に立ちはだかる。

「やめて!」

「どけぇ! こいつは絶対ぶっ殺す!」

すかさず二人の青年が、背後からユウの腕に取り付き、ウエスギから引き剥がす。

フロアが乱闘騒ぎに沸く一方で、カウンター向こうのリコは、早々にグラス用の氷で即席の氷嚢を作ると、早速、それをウエスギの頬に当てがった。その甲斐甲斐しい様は、先程、ユウの眼前にトレーを叩き付けた人物と同一であるとは信じ難いほどであった。

やがてウエスギは、頬の痛みに顔をしかめながら振り返った。

「おい、ユウ。あんまり自分の拳を粗雑に使うな。大事な商売道具なんだろ?」

「だから何だ! こんな侮辱、絶対に許さない!」

青年らの腕の中で足掻きながら、なおもユウは激しい気焔を上げた。

「勘弁してくれよ。冷徹なお前がここまで感情を乱しちまうなんて、正直、予想外だったんだ」

「はァ? 何をぬけぬけと、」

「ミズシマ、さん」

木の葉が擦れるような声に一同が振り返ると、いつの間にかソファに身を起こしていたマキタが、窪んだ眼窩の奥から、困惑を帯びた目で彼らを見回す姿があった。

「す、すみません、僕のせいで、なんだか大変な事に……」

思いがけず怒りの切っ先を削がれてしまったユウは、不承不承、その矛を納めた。

「べ、別に、大した事じゃない」

「やっぱり、優しさのユウだと思います」

「……は?」

思いがけない言葉に、ユウは、埴輪のように呆けた面でマキタを見下ろした。一方のマキタは、そんなユウを、ひたすら屈託のない笑みで見上げていた。



茜差す海上の一本道を、一台のタクシーが滑るように駆け抜ける。海は、今まさに水平の彼方から射し込む薄紅の光に染まりながら、新しい一日の訪れを寿いでいる。波間からは時折、気まぐれな瞬きが放たれる。さながら海面一杯に金糸が流されているかのようである。

風はない。その車窓から見える景色は、何もかもが信じられないほど穏やかで美しい。

だが、マキタや彼の着替えと共に後部座席へ押し込められたユウは、晴れがましい車窓の景色とは裏腹に、ひどく暗澹たる気分に苛まれていた。

果たして、昨夜の不正登録は、成功しているのか、失敗しているのか。

いっそ、失敗しているといい。

成功していたとしても、それは彼にとって、決して喜ばしい結果ではなかった。自身の技術的な未熟さを突きつけられる事は確かに不愉快だ。しかしそれ以上に、彼は、ゲートシティの根本原則を冒す卑怯な犯罪に加担してしまった自分を、許すことができなかった。『権利を得たくば努めよ』―――ゲートシビルとしての権利と快適な生活を維持したくば、相応の義務を果たし、ゲートシティの良質な市民サービス維持のために貢献せよ―――これは、ゲートシティで生を受けた者ならば、産声を上げた瞬間から耳にする、ゲートシビルがゲートシビル足るための根本原則である。

だが、侵入斡旋は、そんな彼らの良識を覆す行為である。

それは、例えば、家計簿を開いては月々の家計のやりくりに頭を抱える市民らの耳元で、「お前達が、毎月一人当たりに納税する一〇万YEN―――ゲートシビルの平均月収は約六〇万YENである―――は、実は無駄な出費なのですよ」と、囁く行為に等しい。

とはいえ、露見したとしてもまずい。

ゲートシティへの不正侵入を働いた者には、基本的に、五年以下の懲役、又は一〇〇万YEN以下の罰金が課せられる。ただし、これは不正侵入を働いた当人に課せられる刑罰だ。侵入を斡旋した者には、場合によっては、殺人犯に対するものと同等クラスの刑罰が科せられる事もある。これは、不正侵入が、窃盗や財産侵犯などの比較的軽微な犯罪に喩えられるのに対し、進入斡旋の方は、ゲートシティの根本原則を大いに冒涜する、テロリズムにも似た悪質な犯罪行為と見なされるためだ。さすがにユウは、街への道義を貫くために人生の大半を棒に振りたいと思うほどの聖人君子には出来上がってはいない。

露見を防ぐための対策は充分過ぎるほど講じた。侵入経路に残したログはことごとく消し、アクセス履歴が残るメモリも、直後にマシンから取り出し、粉砕した。見つかる可能性は限りなくゼロに近い。さもありなん、本来は不正侵入を監視する側の人間が、監視の盲点を突き、侵入を行っているのだ。ユウ自身、これほど慎重な侵入者に気付く事は極めて難しいだろう。――――とはいえ、完全に不安を拭い去る事はできない。

あたかもその不安を具象するかのように、巨大な鋼鉄製のゲートが、彼の眼前にその存在感をゆっくりと主張し始めた。


ついに、彼らの乗った車はゲートへとさしかかった。街を出た時と同様、車窓を開き、各々、車の脇に据えられたセンサーに手のひらをかざす。自身のチェックを終えたユウは、傍らで数年ぶりの生体認証チェックにかかるマキタを見守った。その横顔は、期待と緊張にひどく強張っている。

もし、不正侵入が露見したら、彼は、そして僕は……

平静を装いつつ、ユウは、マキタの認証終了を待つ。じっと待つ。

いやに長いスキャン時間の後、赤かったランプが――――

パッ、と青く変じる。

弾かれたように、マキタは満面の笑みと共に振り返った。同時にユウは、肺が潰れんばかりの大質量の溜息を吐き出す。

「ありがとう……」

マキタは、ウエスギへの殴打で青く腫れたユウの右手を取り上げると、重病人とは思えない程の握力で、その手をぎゅっと包み込んだ。元々の筋力ではない、無理からの握力である。その証拠に、白い指先がひどく震えている。

ともすれば押し寄せる感傷の波を押し戻し、ユウは冷淡に返す。

「離せ。痛い」

言うなり、ユウはマキタの手を強引に振りほどいた。


林立するビルの谷間を、バスやタクシー、そして、艶やかなボディの高級乗用車が滑らかに行き交う。道路脇の歩道では、皺一つないスーツや、品のいい色合いのジャケットで身を固めた老若男女が、リズミカルな靴音を絶え間なく奏でている。ある者は電話先の相手と活発な商談を交わしつつ、ある者はラップトップを片手に、キーボードで何かを打ち込みながら歩く。石畳を蹴る彼らの靴音は、ビルのしじまに反響し、やがて一つの無機質なハーモニーとなって、狭い空へと高く遠く抜けて行く。

すでに時刻は、経済が餌食を求めて活発に蠢く頃合いに差し掛かっている。

歩道に面したテラスから、目の前を行き交う人の流れを眺めながら、ウエスギはふと呟いた。

「暗い地下室で、貝みたいな生活を送るお前には、とても理解できない話だろうな」

 呟くなり、ウエスギはブラックコーヒを一口すする。

「ええ、多分、理解できないと思います」

一方のユウは、テーブルに置かれた砂糖壺の中身を、ホットミルクのカップへ丸ごとあける。

「……それ、飲むのか?」

ティースプーンでぐりぐりと掻き混ぜられるカップを眺めながら、ウエスギは訊ねた。

「はい」

「ちょっと飲ませろ」

言うなり、ウエスギはカップをひったくると、持ち主の了解もなしに中身をすすり始めた。

ユウが、カップを取り戻すべくテーブル越しに手を伸ばしたまさにその時、ウエスギは、傍の植え込みに向けて盛大に白い霧を吹きかけた。

「んだぁ、こりゃあ! 乳牛に謝れ!」

「人の飲み物で勝手にキレないで下さい」

「いいやキレるね! どういう了見だよ、こりゃあ! 俺が酪農家なら裁判を起こすぜ!」

「これぐらい飲まないと、途中で糖分切れを起こして頭が働かなくなるんですよ。了見も何も、これは僕の毎朝の習慣です」

「……お前、やっぱりオカシイわ」

「ウエスギさんにだけは、言われたくはありません」

あれから二人は、マキタを病院の救急外来へ連れ込み、知人として彼の診察に立会った。

旧市街で作成されたカルテを見た医師が、彼を侵入者として疑うのではと危惧していたユウだったが、医師は特に不審がる事もなく、彼の診療を行った。

すぐさまマキタは、入院が必要であると言い渡され、ほどなくベッドも用意された。

手続きを済ませ、病院を後にする二人の背中に、マキタは何度も何度も礼を言った。

「マキタのやつ、治るといいな」

 ウエスギの言葉を黙過しつつ、ユウはひたすらホットミルクをすすり続ける。

 そこへ、ウエイターがサンドイッチを運んで来た。軽くトーストされたパンの表面から、香ばしい匂いが立ちのぼる。途端、空腹神経をしたたかに刺激されたユウは、早速その一つを手に取り、豪快にかぶりついた。ベーコンとチーズの塩味が、さらに飢餓感を加速させる。

時計を見ると、朝食には遅く、昼食には早い、食事を摂るには中途半端な時刻を指している。にも関わらず、カフェへ出入りする客の足は絶えない。その多くはスーツ姿のビジネスマンだ。

その中で、二人の軍服姿はいささか風景から浮いている。黒や灰色のスーツが大半を占める中で、オリーブ色という珍しい色彩と、ジャケットの上からベルトでウエストを締めるデザインは、確かに特殊ではある。

ウエスギは、ブラックコーヒーで口直しを図りつつ、再び先程の話を切り出す。

「まず最初に言っておく。俺自身、このゲートシステムは、俺達ゲートシビルにとって、必要不可欠な社会装置だと考えている。その点については恐らく、お前との間に決定的な見解の相違はない」

「だとしたら、ゲートブレイクなんて発想は、生まれないはずです」

糖分ウン一〇パーセントのホットミルクを平然とすすりながら、ユウは答える。

「そう怖い顔をするなよ。ユウ。俺達は友達だろ?」

「……上下関係つきの、ですよね」

 皮肉には応じず、ウエスギは自説を続ける。

「知っての通り、俺は毎日のように、ゲートを出入する人やモノを監視し、この街へ不正侵入を図ろうとする奴らを取り締まっている。毎日毎日、IDを持たずにゲートへとやってくる連中を、まぁ飽きもせず相手にしているわけだ」

「まぁ、二課ですからね」

「―――で、そのたびに侵入事件の調書を作成せにゃならんわけで、当然、連中の事情にも耳を貸さねばならん事も多くなる」

「その中に、マキタ君が」

ウエスギは再びコーヒーをすすった。途端、その顔をひどくしかめる。

「酸っぺぇ。もう酸化しちまったよ、クソッ」

ソーサーにカップを戻し、ウエスギは続ける。

「えーと、何の話だったかな……ああ、そうだ。侵入者の話だ。つまりな、マキタだけじゃないんだよ。多くの旧市街民が、止むに止まれぬ事情で、懲役も辞さずに侵入を試みて来るんだ。無駄だと知りながらも、な」

「追い払えばいいでしょう」

「簡単に言ってくれるな。じゃあお前は追い払えるか? マキタみたいな奴が、毎日毎日飽きもせず自分の前に現れては、懇願するんだよ。……ここを通してくれってな」

「ルールはルールです。IDを持たない人間に、ゲートシビルと同じ権利を与えるわけにはいきません」

「だからさ、」

「感傷でいちいち侵入を許せば、ゲートシティはあっという間に侵入者だらけになってしまうでしょう。僕らが努める市民としての義務は、たちまち、その意味を失ってしまいます。ウエスギさんだって、わかっているでしょう? 僕らゲートシビルが、市民としての重い義務を果たした上で、市民権をどうにか維持している事を、」

「んな事ぁ、分かってるさ!」

 ユウの言葉を、ウエスギは大声で遮った。訝しげな目が、ちらほらと二人に投げられる。

 が、ウエスギは衆目に構わず自論を述べ立てる。

「けどな、そんな理屈は、所詮、ゲートシティという殻に閉じこもったまま、外の世界なんぞ何にも知らずに生きている人間の机上論に過ぎないんだよ! じゃあ訊くが、お前はマキタがゲートを潜った時、何を感じたよ? 病院で俺達を見送る奴の顔に、お前は何を感じた?」

 ウエスギの熱弁に、ユウはしばし言葉をつぐみ、やがて、ぽつりと答えた。

「……後悔、です」

「後悔ぃ?」

怪訝な色を浮かべるウエスギに構わず、ユウは続ける。

「あのマキタという青年は、助かるべきではなかったんです。彼はレースに負けた。負けたからゲートシティを追われた。ゲートシティを追われたから、高度な医療を受ける事ができなくなった。だから――――僕は、その摂理に反したんです」

「それで、後悔してるってのか」

 俄かに、ウエスギの声に鋭利な怒気が宿る。

「勝ち残った者に、権利は与えられる。それが、この街のルールです」

「じゃあ訊くが、マキタが一体、何のレースに負けたっていうんだ? 仕事の成績か? 数学のテストの点数か? それとも、徒競走のタイムか? あいつが一体、いつ、何のレースで負けたっていうんだ、え?」

「そ、それは」

 ウエスギの追及に、ユウは答えを詰まらせた。一方、ウエスギはさらに畳み掛ける。

「まさか、先天的な不遇を、負けだとは言わないよな? 俺も、お前がそこまで性根の腐った人間だとは、思いたくない」

返答に窮したユウは、苦し紛れの答えを寄越した。

「彼の両親がレースに負けた」

「俺達は競争馬じゃないんだ。親の優劣が、そのまま子供の優劣を決めるわけじゃない」

「いいえ、決まるんです!」

やおら、ユウは声を荒げた。その声に、ウエスギは俄かに目を丸めた。

「どうかしたのか?」

無駄に詮索を食らっても面倒だ、と思い、ユウはつとめて淡々と答える。

「……僕の父も、ゲートを追われました。僕には敗者の血が混じっています。実際、僕は父に似ている。それが嫌なんです」

「お前の親父さんが?」

「一〇年以上も前の話です。会社をクビになって、母からも捨てられて、何もかも失った挙句、最後はIDも……。子供の僕から見ても、無様なものでしたよ」

「いい親父さんじゃないか」

「どこが」

「クビになっても、死ななかった」

「どうして、クビで死ななきゃいけないんです」

「俺の親父は、会社が倒産したその夜に、首を吊って死んだ」

思いがけない言葉に、ユウは顔を上げた。一方のウエスギは、往来へ向けて遠い眼差しを送っている。

「え? お父様は、総監では、」

「彼は養父だ。俺の本当の親父は、俺が八歳の時に死んでる。自殺だよ」

「……」

「本当の敗者ってのは、そういう奴を指して言うんだ。生きようと足掻いている限り、そいつはまだ負けちゃいない」

「父さんが? いえ、違います! 父さんは負けたんです! 負けたから、あの腐った街に、」

「それが、旧市街の連中を毛嫌いする本当の理由か」

 不意に、正鵠を射られたユウは、脳天に雷を浴びたかのような衝撃を覚えた。

「ど、どういうことです」

「今の話で全部繋がったよ。まぁ、連中に親父さんの姿を重ねようとするお前の気持ちは、わからんでもない」

「……」

「だがな、ユウ。いつまでも親父さんの存在に囚われていても、仕方がないだろう。いい加減、お前もガキじゃないんだ。お前自身のクリアな頭で、物事を捉えろ」

そう言って、ウエスギは再びカップを取り上げ、コーヒーをすすった。

「うぅ、やっぱりエグい」

 顔をしかめるウエスギをよそに、ユウは淡々と返す。

「とにかく、今回だけです。もう二度と、不正侵入には手を貸しません。どんなに脅しても、無駄ですから」

 言いながら、ユウは、への字に曲げたその口に再びサンドイッチを運んだ。

「そうか、そりゃ残念だ」

溜息をつき、ウエスギもまた皿からサンドイッチを掴み取ると、一息にかぶりつこうと口を開いた。だが、すぐさま左頬を手で覆い、苦悶の色を浮かべる。どうやら、先程ユウに殴られた場所がひどく痛むらしい。

「お前、これ、本気で殴ったろ!?」

 ウエスギは、呆れたような、苛立たしげな顔で声を荒げた。一方のユウは、鈍く痛む青い右手をさすりつつ、いつものポーカーフェイスで平然と頷いた。

「もちろんです」


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