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一章

  一章   



 ゲート付近の海浜公園は、休日ともなると、釣りを楽しむ多くの家族連れで賑わいを見せる。

今日も多くの釣り客が、遊歩道の柵を越えて消波ブロックの上に立ち、サビキを海に垂らしては、子アジやガラカブなどの小魚釣りに興じている。海面から魚が釣り上がるたび、きらきらと銀色の光を撒き散らす魚の姿に、子供達は興奮し、嬌声を上げる。

のどかさの中に興奮が漂う海浜公園の、すぐ背後に起立するツインビルの中では、しかし、休日にも関わらず隊員らが常駐し、日々の業務に勤しみ続けている。

本部ツインビル南棟の地下一階は、主に、警備隊のローカルネットワークに対するサイバー攻撃へ対処するための情報管理課―――通称五課が占めるフロアである。会議室や配電室などがフロアに配される中、彼ら五課の隊員達は、主に『情報管理室』と呼ばれるパソコンルームにて、一日の大半を過ごしている。スチール製の扉の脇には、生体情報リーダーの他に、暗証番号を入力するためのテンキーが据えられており、警備隊といえども五課以外の人間が安易に立ち入る事が出来ない仕組みとなっている。この暗証番号は、十二時間毎に新しい番号へと自動的に変更される。よって、情報管理室に勤務する五課隊員は、勤務を終えて帰宅する際は、次の暗証番号を部屋の中で控えてから退室せねばならない―――というのが、この部屋における一応の規則である。

しかし、規則は所詮、規則に過ぎない。今や、この七面倒くさい規則を生真面目に守り通しているのは、二〇人程いる五課の中でも、ミズシマ・ユウ一士、彼一人ぐらいのものだ。

 今、ユウの隣の席で、彼と同じく不正アクセスの監視に当たっているはずの隊員は、テレビチューナーを通じてディスプレイに表示したサタデー・マンザイ・ショーを眺めては、だらしない笑みを浮かべている。彼の肩章には太いストライプが一本描かれている。ユウよりも階級が一つだけ高い三曹の証だ。だが、ユウが彼の勤務態度に文句を言わない主な理由は、彼が上官だからという訳ではなく、ひとたび文句を述べれば最後、その後には必ず、ひどく不愉快な結果が待っている事をよく心得ているためである。文句と中傷の応酬で、時間と精神力を無駄に削られてしまう事が予め予想されるのであれば、敢えて無視を決め込んだ方が、快適な職場環境保全のためには、むしろ理に適っている。

やがて男は、眠そうな目で手元の時計を一瞥し、シフト時間が終了した事を確認すると、立ち上がってうんと背中を伸ばした。そして、隣に座る部下の肩を叩いて言った。

「んじゃ、一士、あとはよろしくぅ」

「了解しました。ゴトウ三曹」

ディスプレイから顔を上げる事もなく、ユウは答えた。頼まれるまでもなく、ユウはすでに彼の業務を引き継いでいる。

 ふと、ユウは、思い出したようにゴトウの背中に声をかける。

「ゴトウさん、暗証番号は」

「あ? ノックするから開けてくれよな」

 言いながら、ゴトウは無神経にドアを開く。そこへ、今度は別の人間がするりと滑り込む。

男の顔を見上げるなり、ゴトウは、それまでのふやけた表情をたちまち引き締めると、踵を揃え、敬礼の姿勢を取った。男の肩には、隊の幹部を示す星印が二つ並んでいる。

「う、ウエスギ二尉!」

 新たに現れた男の姿に、ユウは、ゴトウとは別の理由で表情をしかめた。

ウエスギ二尉と呼ばれたその男は、「おう」と軽く返すと、そのまま振り返りもせずにパソコン台の列を突っ切り、一路、ユウの机へズカズカと歩み寄った。

軍服の映える、鍛え上げられた鋭利な体つきと、これまた武人らしいくっきりとした精悍な顔立ち。だが、涼やかに切れ上がった双眸だけは、佇まいに反し、少年のように無邪気な眼差しを放っている。警備隊本部二課―――出入管理課課長、ウエスギ二尉だ。彼は、隊の中でも只一人、二〇代という若さで幹部を務める男でもある。

 立ち上がって敬礼するユウに、ウエスギは、手のひらで作業へ戻るよう促した。一方、敬礼を解いたユウは、自分より頭半分は高いウエスギの顔を見上げながら、遠慮なく上申する。

「二尉、いつも申し上げておりますが、ここは大変高度な情報を管理する部屋です。他課の方が、それも、暗証番号もなしに入室なさるのは、いかがなものかと」

「今日はちゃんと入力したよ。で、開けたら、たまたま今の彼が出て来る所だったんだ」

 ユウの冷たい気焔を、ウエスギはしなやかな物腰でかわす。この掴みどころのなさが、ユウをしてウエスギを苦手たらしめている所以だ。

「……それは、失礼致しました」

釈然としない口ぶりで、ユウは返す。実際、ユウはウエスギの言い分に全く納得していない。手順通りに入室したとすれば、閉まろうとするドアに楔を打ち込むかのように、素早く中へ入り込む必要などなかったはずだ。

「納得できない、って顔してるね」

机越しに突き出された不敵な笑みに、ユウは思わず身を退いた。

「いえ、そのような事は、」

「誤魔化しても無駄だよ。一士はすぐ感情が顔に出るからな」

 図星を食らい、ユウはいよいよ萎縮した。彼が、ウエスギの不用心な行為に怒りを覚えたのは、その実、ほとんどが八つ当たりに近いものだった。彼は、情報管理官として余りにも低い、昨今の同僚らのセキュリティ意識に腹を立てており、その憤懣がここへ来て思わぬ噴出を見たのだった。

憤りを飲み込み、ユウは努めて静かに訊ねる。

「今回は、どのようなご用件ですか?」

「わかってるくせにぃ」

ウエスギは、武人らしからぬ奔放な口調と共に、ユウのなで肩に馴れ馴れしく手を置いた。

仮にも上官の振る舞いを無下にあしらう訳にはゆかず、ユウがじっと身体を強張らせ、その暴挙を遣り過ごしていると、ややあって、ようやく背後から救いの声がかかった。

「また、インサイトの不具合ですか」

ウエスギは弾かれたようにユウの肩から手を離すと、恐ろしい俊敏さで振り返り、踵を揃えて敬礼した。ほっと胸を撫で下ろしつつ、ユウもまた振り返る。そこには、立派な狸腹を抱えた一人の壮年男が、引きつった笑みと共に立っていた。

警備隊本部五課―――情報管理課課長、ササヅカ一尉である。年齢は、ユウより二周りほど回ってはいる。しかしながら、ユウと同じく、未だに独身寮の厄介となる身である。

「一士への用でしたら、まずは私に通してもらわなければ、困りますよ」

 一尉の苦言に、しかし、ウエスギは動じず、

「ああ、すみませんねぇ、じゃあこれ、申請書」

と、平然と言ってのけると、何食わぬ顔で手持ちのクリアファイルを突き出した。

「じゃあ、って、その場で出されても困るんですよ、こういう書類は事前に、」

「いやぁ、私も重々、理解はしているつもりなんですが、」

次第に声を荒げ始めるササヅカの言葉を、ウエスギは芝居じみた口調で遮った。

「何せ、あのインサイトときたら、システムが脆いのかワガママなのか、何の前触れもなくいきなり機嫌を損ねてしまうもので。おかげでゲートは、またしても通行止め。橋には長い渋滞が出来始めていますよ。宜しければ一尉もご覧になられます? なかなかの壮観ですよ?」

「いや、結構」

 一気にまくし立てられ、不満を封殺されたササヅカは、憮然とした顔で呻いた。

「というわけで、一士を借りて行きますねー」

こうして、理由にならない理由でササヅカを煙に巻いたウエスギは、ユウの肩を小脇に抱え、早々に二課のオフィスへと徴用していった。


北棟と南棟のそれぞれ五階部分を結ぶ渡り廊下は、幹線道路の頭上をまたぐ形で据えられている。廊下を渡りながら眼下を見下ろすと、路上にはすでにおびただしい量の大小様々な車両が、数珠繋ぎとなってひしめいていた。

「今回は、どのようなトラブルが?」

小走りに廊下を駆けながら、ユウはウエスギの背中に問いかけた。

「いつもと同じだよ。サーバーがダウンした」

「ダウン? ……しかし、インサイトは先日、新たなサーバーを増設したはずでは?」

「そのはずだったんだけど、ほら、旧市街のプラントが、先月、ストライキで軒並み操業を停止しただろう? その影響で製造が遅れて、来月初旬に納期が延びちまったんだよ。ゲートシティ有数の巨大サーバーも、残念ながら今の所はおあずけだな」

「負け犬どもめ……」

「何か言ったかい?」

「いえ、何も」

その時、不意にウエスギは、その機敏な足の運びを止めた。

「どうしたんです? 二尉」

同じく足を止めたユウは、ウエスギの広い背中越しに廊下の先を覗いた。

そこには、小柄ながらも、研ぎ澄まされた刀のごとき威厳と存在感を放つ一人の男が、数人の隊員らを侍らせ、こちらへと歩み来る姿があった。

男の姿に、ウエスギのみならずユウもまた、廊下の隅にて敬礼を示した。彼こそ、ゲート警備隊において最も強力な指揮権を持つ司令官であり、同時に、ユウの隣で同じく敬礼を示す男の父親でもある、ウエスギ総監その人である。

総監は、渡り廊下の半ばで立ち尽くす息子の前で、その足をピタリと止めた。そして、ただでさえ鋭利な目つきに、いやましに険しい眼差しを浮かべると、その頑強なへの字口を厳かに割り開いた。

「二尉、またしてもインサイトか」

「はっ、只今、復旧に向けての作業を進めている所です」

ウエスギは、父親を目の前に一分の隙もない直立不動の姿勢で、敬礼し、畏まった。

「早急に解決しろ。これほど頻繁に機能を停止させては、警備隊の信頼を失墜させかねん。何のために、わざわざインサイト専用のサーバーを配備していると思っている」

「はっ、総監、申し訳ございません」

総監は、傍らの一士には目もくれずに頭を廻らせると、背後の部下らと共に、廊下を歩み去って行った。しばし、その背中を目で追っていたウエスギは、父親が廊下の向こうへ遠ざかったと見るや、すかさず踵を返し、猛然と駆け始める。その背中に、慌ててユウも追随する。

―――と。

「二尉!」

背後から浴びせられた鋭い追撃の声に、二人は石のように硬直した。振り返ると、はるか廊下の向こうから、総監が峻険な眼光で二人を、いや、正確には息子を睨み据えている。

「上官は、部下の前では決して焦りを見せてはならんと、いつも言っているだろう!」

「も、申し訳ございません、総監」

ウエスギは再び、彫像のように模範的な敬礼の姿勢を取った。

今度こそ、鋭い怒気を放つ父の背中を見送ると、ウエスギはそっと振り返った。

「すまない、さて一士、行こうか」

そしてウエスギは、今度こそ獣のような速度で廊下を駆け始めた。



その夜、午後八時に勤務が明けたユウは、普段であれば、勤務時間終了後も職場に残り、隊内のネットワークに潜むシステムバグの除去や、脆弱性の解消に取り組むところ、その日に限っては、所用のためにすぐさまパソコンルームを後にした。

住人によってブロイラー小屋と揶揄される、警備隊敷地内の独身寮に戻ったユウは、早速、クローゼットから着慣れない私服を引っ張り出し、袖を通した。警備隊への勤務を始めて早二年。制服の馴染みは良くなる一方で、手持ちの私服の数、そしてセンスは反比例するかのように目減りしている。服というものは、身に付けなければどんどん体に馴染まなくなるのだ、という、以前どこかで耳にした言葉を思い出しつつ、ユウは自身の六畳間を後にする。

部屋に姿見を持たないユウは、出掛けにエントランスのガラス前にて、自身のコーディネートのチェックを行った。数週間ぶりに着込んだ私服は、上下の取り合わせも、色使いも、どこかちぐはぐで、ひどく収まりが悪いものだった。さりとて、改善すべき点を明確に見出だす事も出来ない。

「よう、モヤシ。珍しいなぁ、デートか?」

 バイク用のツナギを着込んだ男が、珍しく私服を着込むユウを見るなり、面白半分に冷やかしを入れた。別課に勤める男の体躯は、ユウのそれとは比較にならない程に逞しい。その腕が抱えるヘルメットに一瞥をくれたユウは、ガラスに目を戻しつつ背中で訊ねた。

「そちらは、ツーリングですか」

「おう! 今から橋向こうの峠を、俺のツインスパークで攻めて来るぜいっ!」

そして男は、得意気な笑みを浮かべながら、駐輪場へと歩み去っていった。


最寄り駅でもあるフロントゲート駅は、独身寮から歩いて十五分程の場所にある。急ぎの用であればタクシーを拾うところだが、さして急ぐ気になれなかったユウは、散歩がてらに駅まで歩く事にした。とはいえ寮の周辺は、散歩を決め込むにはそれほど楽しい場所ではない。

立ち並ぶ巨大倉庫の隙間を縫っていると、あたかも巨人の棲む国にでも迷い込んだような心持を覚える。この地区に建つ倉庫の多くは、ゲート外のプラントから搬入された食料品や工業製品を、一時的にプールするために建てられている。多くの企業が、市内の提携小売店舗へ商品の配送を行うための物流の拠点として、これらの倉庫を使用しているのだ。道を行き交う車も、ほとんどが巨大な荷台を曳くトレーラーばかりだ。

やがてユウは、フロントゲート駅へと辿り着く。

駅は、いつもと変わらず閑散としていた。所々に駅員が控える他は、乗客がまばらに行き来するだけのホールを進み、改札機の黒い板に手をかざす。運賃は、手のひらの生体情報と共に登録された銀行口座から、自動的に引き落とされる仕組みになっている。

改札を抜けたユウは、今まさにホームへと滑り込んで来たモノレールに乗り込むと、ゲートシティの中心街に程近いセントラル公園駅へと向かった。


セントラル公園駅の改札を出るなり、シャンパンの泡のごとき華やかな空気がユウを包み込んだ。宵口の中心街は、街灯やビル、広告などの色鮮やかな輝きをちりばめ、開放的できらびやかな雰囲気を漂わせている。仕事帰りか、あるいはデートだろうか。上等なスーツやドレスを纏った人々が、街の光を浴びつつ大理石の歩道を闊歩する。軽やかな靴音を響かせ、歩道を行き交う人々もまた、街に彩りを加える立派な舞台装置の一つなのだ。

歩道脇のショーウィンドウには、さながら美術館の展示物のごとく、服、バッグ、靴などが丁重に陳列されている。いずれの商品にも値札は示されていない。が、恐らくは途方もない値段なのだろう。どのみち自分の人生と永久に関わる見込みのない品々ならば、自分にとってはこの世界に存在しないも同じだ、と、ユウは早々にショーウィンドウから目を離し、街並みへと振り返った。

おびただしい数の高層ビルを、巨大な平面ディスプレイがくまなく覆う。それらに次々と表示される色鮮やかな広告が、濁った夜空を幾何学的に侵食している。遠目に眺めれば神々しさすら感じさせる高層ビル群も、間近に見ると案外、旧市街の猥雑なきらめきと変わる所がない。


 セントラルホテルの豪奢なホールを抜け、エレベーターに乗り、三十七階のボタンを押す。デジタル時計よりも目まぐるしく変わる階数の表示と共に、耳の奥が鈍い痛みを訴え始める。気圧の変化に鼓膜が慣れた頃、エレベーターはようやく目的のフロアへと到着する。

エレベーターを降り、豪奢な廊下を抜け、廊下奥のフレンチレストランへ向かう。入口のセンサーに掌をかざすと共に、目の前のガラス戸がおもむろに左右へ開く。毛足の長いカーペットが床一面に敷き詰められた店内は、壁も天井も、いずれも磨き上げられた上質なオーク材でしつらえられている。フロアには、純白のクロスを被った丸テーブルが整然と並び、それぞれの卓では、ディナーを愉しむ紳士淑女がワインを片手に笑いさざめいている。

店に入るなり、黒蝶タイを身につけた初老のウエイターが、すぐさま用向きを伺いに来る。

「ミズシマという名前で、予約を取っていたはずですが」

 するとウエイターは、にこやかに頷くと、しなやかな身振りでユウを窓際の一卓へと誘った。

そこでは彼の“家族”が、円卓を囲み、一足先にオードブルで舌鼓を打っていた。

紫のナイトドレスに身を包んだ女は、テーブル脇に現れた息子の姿を見咎めるなり、眉をしかめて非難の声を上げた。

「ちょっと、ユウ。何? その服」

小柄で無駄のない体つきに、シャープで鋭角的な顔立ち。賢しげに動く大きな瞳は、どこか軍用犬を彷彿とさせる。その鋭い瞳に睨まれると、たとえ息子といえども身を竦めるしかない。

「ごめん。ちょうどいい服が、見当たらなくて」

「みっともない。まるで旧市街の乞食だわ。今度からは制服で来て頂戴」

「わかった、母さん」

続いてユウは、傍らに座る彼女の夫にも頭を下げた。

「すみません、遅れました」

「一〇分の遅刻だな。前回は十三分」

 ミズシマ氏は、たくし上げた袖から金縁の腕時計を覗かせると、文字盤を見ながら億劫げに言った。その声は、低いながらも良く通るバリトンである。

 脂の乗ったふくよかな顔と、縦にも横にも豊かな体格が、細身の椅子からたっぷりとはみ出ている。とはいえ、締りのない肉質かと言えば決してそうではなく、そのスーツの着こなしや仕草に、隙や緩みは一切見当たらない。男の全身からは、周囲を圧倒する膨大なエネルギーが絶えず放出されている。その様は、さながら歩く爆風である。

「遅刻は良くないよ、ユウ君。もう社会人なんだろう」

「すみません」

頭を下げつつ、ミズシマ氏の正面に腰掛けたユウは、喉の渇きを癒すべく、水の入ったグラスをぐいと煽った。グラスは、卓に運ばれて久しいのか、すでに露でべっとりと濡れている。

「ところで、ユウ君、仕事の方は順調かね?」

ユウは手元のグラスから顔を上げた。ミズシマ氏の毛深い手が母親の手に重ねられている様を、さりげなく視界から排除し、あくまで平然と答える。

「はい」

「そうか。本当に君は大したものだよ。ハイスクールを卒業してすぐに、あんな難しい仕事の口を得るなんてね。さすがはマリの息子だ」

 言いつつ、ミズシマ氏は、横に座る妻に粘り気のある流し目を送った。

「いえ、ひとえに、お二人の教育の賜物です」

 その言葉に、男は大口を開けて哄笑した。しかし、その目元は決して緩んではいない。

「はっはっは! 毎回ディナーに遅刻さえしなければ、本当に自慢の息子だよ、君は」

「すみません」

 ミズシマ氏のさりげない嫌味に、気付かぬフリをしてユウは返した。一方でユウは、自分が遅刻をする本当の理由に、この男はすでに気付いているのだろうと勘ぐる。

「ところで、だ。実は今日、君をここに呼んだのはね、この店自慢のフォアグラステーキを、君にご馳走するためだけじゃないんだよ」

 そしてミズシマ氏は、皿に盛られた淡茶色のステーキにフォークを突きたてると、塊のまま豪快に口に運んだ。分厚い唇から漏れ始める咀嚼音が、ユウの脳髄に強酸を流し込む。

「と、言いますと」

そこで、ミズシマ氏は軽く周囲を見回すと、テーブルに身を乗り出し、声を潜めて言った。

「今回、私の会社に、大口の契約が舞い込んで来てね。―――新世代バンクから、新しいセキュリティシステムの開発依頼がね」

「おめでとうございます」

ミズシマ氏の目にぎらつく光から視線を外しつつ、ユウは淡々と祝辞を述べた。すると、彼の母親が思いがけない言葉を差し挟む。

「ユウ。今回は、あなたも私達のチームに加わってみたら?」

「え?」

「あなた、警備隊で不正アクセスを監視してるんでしょ? きっと、あなたのノウハウも活かせると思うの。あなた自身の成長のためにも、悪くはない話だと思うし、どうかしら?」

「―――と、こういう事だ。こいつに、どうしても、と押し切られてね」

 いつの間にかミズシマ氏は、フォアグラのステーキをすっかり平らげている。彼の食事は、早回しを見るかのようにせわしない。まるで食事の時間は無駄だと言わんばかりだ。

「給料も今の倍を出そう。あんな倉庫だらけの辺境地区などさっさと抜け出して、是非、中心街に移りたまえ。君は知らないと思うがね、辺境地区では考えられないほど、中心街では日々、様々な人や情報が激しく流転しているんだよ」

一気にまくしたてるなり、ミズシマ氏は、テーブル中央に盛られたバゲットに手を伸ばすと、その一つを掴み、両の手でバリバリと豪快に引き裂いた。

「君はまだ若い。中心街に住めば、きっと得る物も多いだろう。私が君ぐらいの頃は、食費を切り詰めてでも中心街のアパートを借りたもんさ。そういう意味では、君は恵まれているよ」

 ミズシマ氏の言葉に、妻は満足げに相槌を打つ。

「確かに、魅力的な条件ですね」

そっけなく、ユウは返した。

「だろう?」

 得意気に答えながらも、その大きな口は、パンの表皮をガリガリと咀嚼している。

「―――でも、お断りします」

「……は?」

 瞬間、夫婦は幽霊に出くわしたかのような顔で、息子を振り見た。

「どうして? 何が不満なの? ユウ」

「そうとも! 給料も、キャリアも、今よりずっと、」

「いえ」

 強い口調でミズシマ氏の言葉を遮り、ユウはさらに弁明を続ける。

「僕は、今の仕事に充分満足しています。これ以上の何かを求めるつもりは、ありません」

しばし、円卓に冷ややかな沈黙が漂った。だが、提案を無下に断られ、落胆するかと思われたミズシマ氏は、しかし、ほどなくして、勝ち誇ったような笑みを浮かべて妻に言った。

「ほら、マリ。言った通りだろう。こいつは所詮、奴の子供なんだ」

 その言葉に、俄かにユウは殺気立つ。

「やめて。あんな男の話を持ち出すのは」

 不機嫌を露わにする妻の顔を眺めながら、ミズシマ氏はさらに下卑た含み笑いを漏らした。

「本当に、こいつには欲がない。せっかく目の前に成功のチャンスがぶら下がっているってのに、掴み取るどころか、手を伸ばそうとすらしない。私から見れば、狂気の沙汰だよ、全く」

「……」

「そんな調子では、遅かれ早かれ、いずれ君もゲートを追い出されるぞ。君の父親のようにな」

そしてミズシマ氏は、赤ワインのグラスをぐいと傾けた。

―――と。

ガシャァン! 

両手を円卓に叩きつけるなり、ユウは跳ねるように席を立った。弾かれたように、夫婦が揃って彼に振り返る。

「僕は……僕は、父さんとは違う!」

自分を呆然と見つめる二人を見下ろしながら、ユウは唸いた。

 だが、我に返ったミズシマ氏は、侮蔑の笑みを浮かべ、さらに傲然と返す。

「同じだよ。馬鹿で怠慢で、臆病で愚図な君の父親と、君はまるで瓜二つだ。―――もはや君と話す意味はない。帰りたまえ」

 いつしかユウの母親も、夫と同じ冷気を帯びた眼差しを息子に投げつけている。

「帰りなさい。せっかくのお酒が不味くなるわ」

もはや反論する気にもならず、ユウは黙って踵を返すと、店員や他の客等の冷淡な視線に追い立てられるように、一目散に店を飛び出した。


 フロントゲート駅へと戻るモノレールの車窓を、おびただしい数の光の粒が流れては消えて行く。光の粒は、中心街からゲート方面へ下るにつれ、次第にその密度を落としてゆく。

 閑散とした車両の向かい席では、仕事帰りと思しきスーツ姿の男が、隣で眠る少年に肩を貸している。やがて目的の駅に着いたのか、男は少年を背負い、モノレールを降りて行く。

彼らの背中を目で追った後、向かいの車窓に目を戻したユウは、そこに映り込んだ自分の姿に慄然とした。

確かに僕は、父さんに似ている。


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