終章
その砂浜からは、海向こうの半島へと沈む夕日を望む事ができる。
すでに海風は、さらりとした涼しさを帯び始めている。つい二週間ほど前まで、海水浴客で埋め尽くされていたとは俄かに信じ難いほど、砂浜は閑散としている。
夕暮れの時刻は随分と早まりつつある。盆もすでに過ぎた。残暑こそ厳しいものの、空にたなびく薄雲は、街に、秋が近付きつつある事を告げている。
夏の粗熱が失せた砂浜を、二つの人影が並んで歩く。彼らが向かっているのは、旧市街でも美味いと評判の、海岸沿いにあるイタリアンレストランである。
「結局、ウエスギさんは辞めないのか。警備隊」
燃えるように鮮やかな夕暮れ空を仰ぎながら、ふと、ユウは呟いた。
「ああ。警備隊こそ俺の生きる場所だ、なんつってよ」
停職処分中の今、ウエスギはカンザキを連れ、国内外のあちこちをせわしなく飛び回っている。新しい社会システムの見識を広めるため、というのが表向きの理由であるが、その実は、数年越しのプロポーズ成功に浮き足立った挙句の、婚前旅行に他ならない。
カンザキの奇襲的結婚発表の後、彼女が語った弁によると、実は彼女がゲートを出る間際、ウエスギは彼女に対し、一度、プロポーズを試みた事があったのだという。だが。
「当時のあいつは、ただ、お父様の望むとおりに生きる事しかできない、そんな奴だった。自分が本当にやるべき事を、自分の頭では考えられない木偶人形だったの。だから私は、あいつとの結婚を断った。だって、人形と結婚したって楽しいわけないじゃない」
との理由で、彼女はウエスギの申し出を断っていたのだ。
そんな彼女に、再び指輪を差し出しながら、ウエスギはこう言い放ったのだという。
―――今の俺は、まだ、お前の言った木偶人形に見えるか?
その言葉に、ユウは、以前マキタを病院へと送った後に、彼が語った言葉を思い出していた。
「お前自身の頭で、捉えろ、か……」
あるいは、それは彼が、彼自身に向けて言った言葉であったのかもしれない、と、次第に半島の陰へと姿を消しつつある夕日を眺めながら、ユウは思った。
結果、カンザキの左手には今、ダイヤモンドのリングが燦然と輝いている。
「しかし、驚いたなぁ。まさかあの二人に、そんな事情があったなんて」
「つか、気付かなかったのか? 兄貴と姐さんが、好き合ってるって事」
「だって、そんな様子はちっとも……」
「鈍すぎなんだよ、お前。バレバレだろ、あんなの」
「悪かったな、鈍くて」
むくれつつ、ユウは波打ち際へと目をやった。
「でも、どうするんだろう、あの二人。カンザキさんは、ゲートブレイクの必要はないって言うし。入籍せずに事実婚で済ますつもりなんだろうか」
「いや、そういう訳じゃねーよ」
「え?」
「兄貴は、自分の力でゲートブレイクをやりたいんだとさ」
「え? あのパソコン嫌いのウエスギさんが?」
するとリコは、カラカラと無邪気に笑った。
「ちげーよ。隊の中で偉くなって、ゲートの役割そのものを、変えたいんだとさ。不正を守るためだとか、旧市街の奴を閉め出すためのゲートじゃなくてさ、二つの街の人や物を、バランスよく行き来させるための、そういう橋渡しみたいなゲートに、変えて行きたいんだと」
「それが、ウエスギさんのゲートブレイク……?」
「そ。んで、いずれ自分の手で、姐さんを迎えに行きたいんだとよ。ゲートを開放してさ」
「長いゲートブレイクになるだろうな。それは」
するとリコは、軽く肩をすくめて見せながら、呆れたように言った。
「しょうがねぇよ。それが、姐さんと兄貴が選んだやり方なんだから」
夕日はいよいよ半島の向こうへと沈み行く。紅色の空が、次第に濃紺を帯び始める。
「ありがとう、ってよ」
「え?」
「兄貴が、お前に伝えてくれって」
「どうして、ウエスギさんが、僕なんかに?」
「兄貴の奴、すげぇ感謝してたぜ。お前のお陰で、自分のやるべき事が、はっきりと分かったって。あの街の歪みを正したい。真っ当な人間が、真っ当な暮らしのできる、そんな街を作りたい、って」
「……」
その言葉に、ユウは胸がつまった。それは他でもない、彼が以前、ウエスギに対して語った理想だった。そして、今もなお、彼が、その胸に強く抱き続ける理想である。
方法こそ違え、ウエスギは自分と同じ景色を見つめている。それはあたかも、どこに立っていようと、どの場所から眺めようと、この夕日が美しいという事に変わりがないのと似ている。
「なぁ、リコ」
「ん?」
「実はさ、前々から考えていた事なんだけど……僕、事務所を開こうと思ってるんだ」
「事務所?」
「そう。いつまでもカンザキさんの店を拝借し続けるのも、悪いだろ?」
「何だ? ゲートブレイクの看板でも出すってのかよ」
「い、いや、そういう訳じゃなくて。基本的には、あくまでシステム開発会社なんだけど、たまに、必要な人のために、IDを取ってやる、っていう……。どうだ?」
「どうだ? って言われても。やりたきゃ勝手に、」
「出来れば、リコにも手伝って欲しい」
そっけないリコの答えに、被せるようにユウは言った。その目は、じっとリコを見下ろし、視線を外す様子はない。潮の香と共に緩やかな沈黙が漂う中、再び、ユウは口を開いた。
「必要なんだ。リコが。今も、これからも、ずっと」
しばし、その目を見つめ返していたリコは、ややあって、ぷいと顔をそむけた。その顔が赤く染まっているのは、果たして夕焼けのせいだけかどうか、それはわからない。
「ま、まぁ、そういう事なら、考えてやらなくも、ない」
「ありがとう、リコ」
暮れ行く夕暮れの中で、ユウは、柔らかな笑みを浮かべて見せた。そんな彼の顔を、ちらと見たリコは、さらに顔を赤くしてぽつりと呟いた。
「お前さ」
「ん?」
「……いや、なんでもない」
「へ?」
呆気に取られるユウをよそに、リコは、やにわにサンダルを脱ぎ捨てると、一目散に波打ち際へと駆け出した。小鹿のような足が蹴り上げる細かな砂が、夕日の放つ最後の一条を浴びて、俄かに炎の輝きを纏う。
「おい、この時期の海は入っちゃ駄目だ。クラゲに刺されても知らないぞ」
ユウの制止も聞かず、リコは波打ち際を跳ねるように駆け回る。一方、やれやれと溜息をついたユウは、砂の上に転がる小振りなサンダルを拾い上げると、付かず離れずを保ちつつ、リコの影に寄り添うように、再び砂浜を歩き始める。
「そうそう、思い出したぁ!」
やおら、リコは振り返ると、波打ち際から大声でユウに呼びかけた。
「何だぁ?」
「もし、俺達に嗅ぎ付かれるような無様な仕事をやった日にゃ、速攻で捕まえに来るから覚悟しろ、って、兄貴が言ってたぞぉ!」
その言葉に、ユウは思わず、数年ぶりに大口をあけて笑った。寄せては砕ける波音と共に、彼の哄笑が、広々とした砂浜に響き渡る。
「それは、怖いなぁ」
彼らの背後では、今まさに旧市街の町並みが、いつもの猥雑な彩りを帯びつつある。一方、海上ではゲートシティが、星が瞬き始めた夜空の下で、清冽な光を放ち始めている。
あの時の研修生の問いが、ふと、ユウの脳裏に蘇った。
―――一士は、どちらの景色がお好きですか?
「どっちでもいいよ、もう」
砕ける波音の中に、ユウはそっと呟いた。
了