第二話:白い檻と知恵の種
聖都ルメンティアの中心にそびえ立つ白亜の巨塔――アウレリア魔獣災害対策院(A.D.R.I.)中央塔。
その最下層に近い医療隔離区画は、日光すら届かない無機質な白一色の世界だった。
ネロはこの「白い檻」に閉じ込められていた。
辺境の村を襲った、人間が異形へと変貌する怪事件。その唯一の生存者である彼は、ウイルスの潜伏期間を考慮し、四十日間に及ぶ厳重な隔離と検査を命じられていた。
部屋にあるのは、寝心地の悪い硬いベッドと、心拍や身体の異常を常に監視し、低い駆動音を立てる機械のみ。
ネロは、その冷たい石の床に拳を突き、黙々と腕立て伏せを繰り返していた。
「……九十八、九十九……百」
滴る汗が白い床に丸い染みを作る。
目を閉じるたび、ネロの脳裏には愛する姉の最期と、あの凶悪な笑みを浮かべた犯人の姿が鮮明に蘇る。
(強くならなきゃ……あいつを、殺すために)
燃え盛る復讐の誓いだけが、時間の止まったような白い部屋で、ネロの正気をギリギリで繋ぎ止めていた。
* * *
隔離が始まって十四日目。
強化ガラスで仕切られた面会室に、ズシン、ズシンと重厚な足音と共に一人の男が姿を現した。
短く硬そうに刈り込まれた銀髪に、190センチを超える岩のような体格。
対策院の最高責任者の証である、隙のない重厚な濃紺のロングコートを羽織ったその姿は、ただ静かに立っているだけで部屋の空気を張り詰めさせるような、圧倒的な威厳を放っていた。
「フィオーネから聞いている。キミがあの惨劇での、唯一の生存者か」
スピーカー越しに届く声は、腹の底に響くほど重く、威圧的だった。
ネロは腕立て伏せを止め、鋭い視線をガラスの向こうへ向ける。
「……あんたは?」
「私はこの対策局の管理総監を務める、ガロ・ヴァレンティだ。以後、よろしく」
すべてを見透かすような、鋭く厳しい眼差しがネロを射抜く。
年配ながらも背筋の伸びた大柄な体格から放たれる空気の重さは、とてもただのお偉いさんとは思えなかった。
「ガロ……管理総監か。毎日の検査で、俺の身体に異常はないって聞いてる。なら、もう出してくれ」
「それはまだできない。キミの村での惨劇を思い出せ。あれがこの都市で起きればどうなるか、想像してみろ。キミは、あの地獄を他の誰かに味わわせたいのか?」
「………っ」
反論できず、ネロは悔しそうに唇を噛む。
「……良い子だ。退屈だろうが、欲しいモノがあれば伝えるといい。持ってこさせよう」
「……武器が欲しい。対策局が使ってる剣を貸してくれ」
それは、一般の局員でも安全に扱えるように出力を抑えられた制式の剣だ。
魔獣の分厚い装甲を壊す力はないが、今の自分に振るえるものといえば、それくらいしか思いつかなかった。
「……それでどうやって復讐するというのだ。検査結果によれば、多少筋力に優れているようだが、戦い方を知らないキミが、その剣を振るってどう勝つという?」
「……相打ち覚悟だ。隙さえあれば、あいつを……!」
「………くだらんな。実にくだらん」
ガロが、心底つまらなそうに鼻を鳴らした。
「あんたに俺の何がわかるっていうんだ! 姉さんは……セリア姉さんは、俺にとって、たった一人の家族だったんだぞ!!」
ガラスを叩かんばかりに叫ぶネロ。
だが、ガロの瞳に揺らぎは一切なかった。
「復讐するな、などという綺麗事は言わん。だが、戦う技術を身につけろ。相打ちでいいなどと、甘えたことを口にするな。死んだ家族のためにも、確実に勝て」
「確実に……勝つ……」
「わかればいい。であれば、残り期間、大人しくそこにいろ。終われば、また会いに来る」
ガロは薄く微笑むと、踵を返して面会室から去っていった。
翻った濃紺のロングコートの裾が消えた後、一人残されたネロは、小さく震える自分の拳を見つめ、再び強く握り込んだ。
「………強くなるよ、姉さん」
* * *
翌日。隔離十五日目。
不意に、隔離室の分厚い扉がスライドして開かれた。
ネロは床で腕立て伏せを続けたまま、振り返らずに声をかける。
「ん? 今日の検査は朝に終わっただろ?」
「久しいな。元気そうで何よりだ」
背中越しに届いた、低く透明感のある声。
ネロが立ち上がると、そこには黒髪の女性が立っていた。
あの日、軍用トラックの中でネロを助け、抱きしめてくれた女性だ。
仕事着である細身のダークスーツを隙なく着こなし、艶のある黒い長髪は真っ直ぐに下ろされている。
女性らしいしなやかなプロポーションとは裏腹に、人を寄せ付けない冷徹で鋭い眼差しは、無機質な部屋の空気をさらに冷やすようだった。
「……あんたは………えーっと……」
「フィオーネだ。あの日、名乗っていなかったな」
「……そうだったな。しかし、なんであんたがここに?」
「見舞いだ。あと、暇を持て余しているだろうと思ってな」
相変わらずの無表情と、感情を感じさせないぶっきらぼうな男口調。
フィオーネは手にしていた鞄から、数冊の分厚い本を取り出し、ベッドの上に並べた。
それは小説や漫画ではなく、法律や魔導工学、この世界の仕組みを難しく書いた学術書ばかりだった。
「文字は読めるか?」
「い、一応読めるけど……見舞いの品って普通、果物とかじゃないのかよ」
フィオーネは、僅かに細めた瞳の奥の強張りを解くように、微かに表情を緩めた。
「なら、それは明日にでも持ってこよう」
「……で、なんでまたこんな本なんだ? 面白そうな本でもないのに」
「……知識はあった方がいいだろう。この先、キミが一人で生きていく上ではな」
彼女の静かな言葉に、ネロは息を呑んだ。
帰る場所はなく、これからはたった一人で生きていかなければならない。自身の境遇を突きつけられる冷酷な現実。
だが、彼女は決して突き放すために言ったのではないと、その不器用に伏せられた視線が物語っていた。
「……そうだな、ありがとう。読ませてもらうよ」
ネロはありがたく本を受け取った。
するとフィオーネは、部屋の隅に置かれていた丸椅子を引き寄せ、ネロの目の前に腰を下ろした。
仕立ての良いスーツの生地が擦れ、微かな衣擦れの音が白い檻に響く。
「……え? なんでそこに座ってるの?」
「……こう見えて、私も女性だが。立ってろとでも言うのか?」
「いや、違う違う……まだ何か話があるとかか?」
「ん? キミが何か話したいのか?」
会話が上手く噛み合わず、ネロは頭を抱えた。
「……いや、なんで出ていかないのかな、と!」
「文字が読めない時や、書いてある言葉の意味が分からない時、私がいないと困るだろう?」
フィオーネは至極真面目な顔で答える。
普段の冷たい立ち振る舞いとは裏腹に、彼女はスーツの袖口を丁寧に整え、ベッドに置かれた分厚い本をネロの手元へ綺麗に揃え直した。
その細くしなやかな指先は、まるで壊れ物を扱うように慎重で。
帰る場所を失った少年に『寄り添う』という行動を、手探りで確かめるかのような不器用な温かさを持っていた。
「……え、もしかして俺がこれ読み終わるまで居る気か? あんたの仕事は?」
「流石に夜には帰るさ。あと、これも仕事のうちだから気にするな。ガロ総監から許可は取ってある」
彼女はそう言うと、自らの鞄からも本を取り出し、堂々と読み始めた。
微かに揺れる黒髪の隙間から覗くその横顔は、誰かに頼られるという事実を静かに噛み締めているようで、不思議なほどの安心感が漂っていた。
ネロは再度頭を抱えながらも、仕方なく彼女から受け取った本に視線を落とした。
結局――。
「……フィオーネ。ここの書いてある意味、わかんないんだけど」
「ん? ああ、そこはな……」
気がつけば、ネロは彼女に質問を重ねるようになっていた。
静まり返った白い檻の中で、ページをめくる音と、少しずれた二人の穏やかな話し声だけが響く。
冷え切っていた少年の日常が、不器用な彼女の体温によって、少しずつ動き出そうとしていた。




