小さな密室で
風がやさしく吹いていた。
晴れた日曜日。観覧車のゴンドラは、きしむ音を立てながら、ゆっくりと空に向かって登っていく。
「……思ったより高いね」
笑いながらそう言ったのは、隣に座る彼――三浦翔。
Tシャツに薄手のパーカー、整った横顔。
大学の同じゼミにいて、気軽に話しかけてきた最初の人。
「怖い?」と翔が尋ねると、私は小さく首を横に振った。
「ううん。……気持ちいい」
「そっか。灯理って、意外と強いんだな」
灯理――それが、私の名前。
篠崎灯理。翔の彼女。……表向きは。
ゴンドラのガラス越しに広がる景色は、まるでジオラマみたいに静かだった。
地上から流れてくる遊園地の音楽も、ここまでは届かない。
今、このゴンドラには私と翔だけ。
ちいさな密室。
逃げ場は、ない。
「さっきのジェットコースター、絶叫してたね」
「……うるさかった?」
「いや、むしろ可愛かった」
翔の口調は、いつもと変わらない。無邪気で軽くて、優しげで。
でも、それが一番、腹立たしかった。
この人はきっと、覚えていない。
自分が誰かの人生を壊したことを。
***
二年前、妹が死んだ。
高校三年、進路で悩んでいた頃。
ある日、突然ベランダから飛び降りた。
遺書も、スマホの履歴もなかった。
でも私は知っていた。
妹が密かに憧れていた相手がいたこと。
翔。
SNSの裏アカ。
そこにあったやりとり。
「好きな人ができた」「でも、その人には彼女がいる」
「君なんか、どうでもいいって言われた」
画面に残された名前。三浦翔。
彼は、妹の想いを踏みにじった。
口にしたことさえ、忘れてるのだろう。
私は近づいた。
大学で彼を見つけたとき、すぐに分かった。
そして笑った。
「偶然ですね、同じゼミですね」
あれから半年。
誘われて、手をつないで、デートして、
今日、観覧車に乗って、
やっと、ここまで来た。
「ねえ、翔くん」
「ん?」
「……ひとつ、聞いていい?」
「うん、何?」
私は鞄から、小さな紙片を取り出した。
「この名前、覚えてる?」
翔は紙を受け取り、一瞬だけ眉をひそめた。
「……誰? 妹さん?」
「うん」
「え、ほんとに?」
彼は笑った。冗談みたいに。
「……ああ、でも、なんか聞いたことあるかも。えーと……高校の後輩?」
私は黙った。翔は曖昧に笑ったままだ。
やっぱり、何も覚えていない。
ひとを殺したのに。
「ねえ、翔くん」
「うん」
「好きって、言われて困ったことってある?」
「はは、あるある。俺、そういうの断るの苦手なんだよね」
その瞬間、胸の奥が冷えた。
「……なんて断るの?」
「え? ……うーん、『ごめん』とか? 『君の気持ちは嬉しいけど』とか……」
「『どうでもいい』って言ったことは?」
「え?」
沈黙。
翔の顔から、ようやく笑みが消える。
「……俺、なにかした?」
「ううん。なにも」
私は笑った。
優しく、静かに。
「ちょっと、ね。景色、見てただけ」
ゴンドラが頂上に達する。
真下を見下ろすと、人々が米粒のように動いていた。
私は紙片を指で裂き、窓の外へ投げた。
翔は少し戸惑った顔で私を見る。
「……なんだったの、あの紙?」
「忘れていいよ。翔くん、そういうの得意でしょ?」
彼は言葉をなくした。
私はただ、外の景色を見ていた。
復讐は、きっと成功しない。
でも、いい。
翔の心に、少しでも冷たい棘が刺さったなら――
それで、少しだけ、妹が浮かばれる気がした。
「ねえ、降りたらさ、また次の乗り物行こっか」
「……うん、そうだね」
そして観覧車は、ゆっくりと地上に降りていく。
何も変わらない顔をしたまま。
けれど、その密室には、もう二度と戻らないものが確かにあった。