表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

小さな密室で

作者: 神楽健治

風がやさしく吹いていた。

晴れた日曜日。観覧車のゴンドラは、きしむ音を立てながら、ゆっくりと空に向かって登っていく。

「……思ったより高いね」

笑いながらそう言ったのは、隣に座る彼――三浦翔。

Tシャツに薄手のパーカー、整った横顔。

大学の同じゼミにいて、気軽に話しかけてきた最初の人。


「怖い?」と翔が尋ねると、私は小さく首を横に振った。

「ううん。……気持ちいい」

「そっか。灯理って、意外と強いんだな」


灯理――それが、私の名前。

篠崎灯理。翔の彼女。……表向きは。


ゴンドラのガラス越しに広がる景色は、まるでジオラマみたいに静かだった。

地上から流れてくる遊園地の音楽も、ここまでは届かない。

今、このゴンドラには私と翔だけ。


ちいさな密室。

逃げ場は、ない。


「さっきのジェットコースター、絶叫してたね」

「……うるさかった?」

「いや、むしろ可愛かった」


翔の口調は、いつもと変わらない。無邪気で軽くて、優しげで。

でも、それが一番、腹立たしかった。


この人はきっと、覚えていない。

自分が誰かの人生を壊したことを。


***


二年前、妹が死んだ。

高校三年、進路で悩んでいた頃。

ある日、突然ベランダから飛び降りた。


遺書も、スマホの履歴もなかった。

でも私は知っていた。

妹が密かに憧れていた相手がいたこと。

翔。


SNSの裏アカ。

そこにあったやりとり。

「好きな人ができた」「でも、その人には彼女がいる」

「君なんか、どうでもいいって言われた」


画面に残された名前。三浦翔。

彼は、妹の想いを踏みにじった。

口にしたことさえ、忘れてるのだろう。


私は近づいた。

大学で彼を見つけたとき、すぐに分かった。

そして笑った。

「偶然ですね、同じゼミですね」


あれから半年。

誘われて、手をつないで、デートして、

今日、観覧車に乗って、

やっと、ここまで来た。


「ねえ、翔くん」

「ん?」

「……ひとつ、聞いていい?」

「うん、何?」


私は鞄から、小さな紙片を取り出した。

「この名前、覚えてる?」


翔は紙を受け取り、一瞬だけ眉をひそめた。

「……誰? 妹さん?」

「うん」

「え、ほんとに?」

彼は笑った。冗談みたいに。


「……ああ、でも、なんか聞いたことあるかも。えーと……高校の後輩?」

私は黙った。翔は曖昧に笑ったままだ。

やっぱり、何も覚えていない。

ひとを殺したのに。


「ねえ、翔くん」

「うん」

「好きって、言われて困ったことってある?」

「はは、あるある。俺、そういうの断るの苦手なんだよね」


その瞬間、胸の奥が冷えた。

「……なんて断るの?」

「え? ……うーん、『ごめん』とか? 『君の気持ちは嬉しいけど』とか……」

「『どうでもいい』って言ったことは?」

「え?」


沈黙。

翔の顔から、ようやく笑みが消える。


「……俺、なにかした?」

「ううん。なにも」

私は笑った。

優しく、静かに。


「ちょっと、ね。景色、見てただけ」


ゴンドラが頂上に達する。

真下を見下ろすと、人々が米粒のように動いていた。

私は紙片を指で裂き、窓の外へ投げた。


翔は少し戸惑った顔で私を見る。

「……なんだったの、あの紙?」

「忘れていいよ。翔くん、そういうの得意でしょ?」


彼は言葉をなくした。

私はただ、外の景色を見ていた。


復讐は、きっと成功しない。

でも、いい。

翔の心に、少しでも冷たい棘が刺さったなら――

それで、少しだけ、妹が浮かばれる気がした。


「ねえ、降りたらさ、また次の乗り物行こっか」

「……うん、そうだね」


そして観覧車は、ゆっくりと地上に降りていく。

何も変わらない顔をしたまま。

けれど、その密室には、もう二度と戻らないものが確かにあった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ