亀と鳥
「———君って人?」
「何を突然」
夕下がりの図書館。そのちょっとしたテーブルに向かい合い座った2人の少年少女がいた。
「本当に?」
「君と同い年の男の子ですよ」
「だって、君は宿題も出さないし足もクラスで1番遅い。口だけ達者。本当に人?」
「名誉毀損で訴えますよ」
「本当のことでしょ?」
「…………」
読んでいた本を閉じ、机に伏した少年は静かに心の涙を溢した。
「あ〜あ、一緒に本を読もうって誘った人は、僕を虐めるために誘ったんだ。まるでササゴイだよ」
「失礼な。私は鳥ではなく人だよ」
「じゃあ僕も人間だね。亀のような人間だよ」
「……そうね。それなら私は鳥のような人間」
少女の手にしていた『人間失格』の本に、最後の光が差し込んだ。
「2人とも、人間なのに亀と鳥に似ている。似た者同士だね」
「それは良いこと?」
「君が最初に言った意味では悪口になっちゃうね」
「そうだね」
「肯定されたら傷つくよ……」
「ごめんね?」
「この人でなし」
「だって鳥に似た人間だもの」
無言で少女の本を指差して不服そうな顔をした少年は、ため息を吐いた。
『パンっ』
「じゃあそれぞれ良いところを言おう。君は僕の。僕は君の」
「鳥と亀が褒め合うなんて御伽噺のようね」
「そうだね。2人とも多くの物語の主人公だ」
ニコニコと楽しそうな顔を浮かべる彼らはお互いの良いところを、亀と鳥に交えて話した。
「君は鳥のような優雅さがある」
「君は亀のように落ち着いている」
「君は鳥のような自由さがある」
「それは褒めているの?」
「もちろん。自由は罪ではないんだよ?僕たち動物の当然の権利だ」
「なら大人は自由に動けないのは何で?」
「それは社会で生きているからさ。それに大人全員が自由に動けない訳ではないよ」
「そうなの?お母さんとお父さんは思考さえ縛られていたよ。私も縛られそうになっている。もしかしたら、既に縛られているかも」
徐々に縛られていく図書館を純粋な目で少女は見ていた。
「縛られる事も悪くはないよ」
「君が言うと説得力がないよ」
「そうかな?社会には縛られているよ?学校には縛られていないだけさ」
「また屁理屈」
「屁理屈じゃないよ。僕にとっては正当な理由さ」
「そう。でも縛られるのは悪い事ではないの?」
「この世に縛りがあるのは何故か知っている?」
首を傾げて不思議そうな顔をする少女は本物の鳥のようだ。
「理由なんてあるの?」
「あるさ。大いにある。縛りの全ては明確な理由のもとに存在している。例えば宿題をする縛りがあるのは僕たちに宿題をさせて知識を蓄えさせるため。大人が子供を縛るのは大人の都合がいい子供に育てるため。もしくは自分の分身を作るために」
「だから君は縛りを無視するの?」
「そうとも言えるけど、面倒くさいだけだよ」
「君は亀は亀でもダメな亀に似ているのね」
「ぐうの音も出ない」
「でも、君の言う縛りは悪いものに聞こえるよ。何でみんな縛りを守っているの?」
「それは『楽』だからだよ」
薄暗くなる空を見て、「そろそろ出ようか」と少年少女は帰路についた。その途中、少女はずっと考えていた。
「答えは出た?」
啄木鳥のように首を縦に振った。
「縛りには社会や集団にとっては悪いものではないから?」
「そうとも言える。けれど、縛りに従うのが『楽』なのは『責任がない』からさ」
「責任?」
「人間ってね面白いんだよ。責任を取る事を酷く恐れる人が多いんだ。とても賢いよね」
「臆病にしか聞こえないよ」
「なかなか辛辣な感想だね。けど、この選択は人間にしたらとても賢いんだ。人間は個では到底生きづらい生物だ。これはアリストテレスが言った『人間とはポリス的動物である』という言葉がある。そう人間は社会を前提とした生き物なんだ。だからこそ縛りは一見自身に都合が悪そうでも、母体である社会には都合が良いんだ」
「とても個人を尊重していない話。理性的な感想じゃなくて、本能的な思考ね」
「動物の行動原理の根底は『本能』だよ」
「それは同感。だからこそ犯罪者という社会にとって不都合な思考、行動をする人間が生まれている」
「それは個人差だよね。そうだ『楽』の意味を答えてなかったね。答えは『社会が責任を取るから』だよ」
「……そうね。それはとても私を納得させる」
「それに社会が縛りを守る限り守ってもくれるから、ずっと社会の子として生きていける。それはとても楽で安定している」
公園のベンチに並んで座った2人は、空を見上げた。
「けど、自由な人間は何で社会の子にならないの?その方が自由でしょ?」
「それだと母体が弱ってしまうからだよ。政治家がある意味そうだよ。彼らは国を動かしてその全ての責任を個人で受ける。けれど、それに怖がって彼らのような存在が居なくなると母体は弱まって、弱々しい社会の子しか残らなくなる。その後の結末は弱肉強食の世界だよ」
「けど、彼らは権力を持っているわ。誰が彼らに責任を取らせるの?社会の子が増える程彼らの力も強くなるんじゃない?だって縛られるだけの人間しか居ないのだから」
「お嬢様はカラスのように容赦がない」
「君は亀のように楽観的ね」
「彼等に責任を取らせるのは『社会の子』だよ」
「子供が?」
「そう。責任は必ず誰かが受ける必要がある。これは社会のルールとして必要な事だから。そして社会の子は責任に敏感だ。彼等が責任から逃れようとすれば、社会の子がその責任を受ける必要がある。けれど、覚悟のない彼らには受け入れられない。しかし、そうすると社会という母体が弱まってしまい、社会の子では不安定過ぎて今のままではいられない。それなら君はどうする?」
「最初の人間に責任を取らせる」
「そう!だから彼等が逃げようとすれば社会の子が責任を追及する。日頃から子が頑張って貯めた甘い蜜を好きに奪える代償のようにも言い換えることができる」
「自由も大変なのね」
「そうでもないよ」
「そう?普段は子の成果を好きなだけ奪える立場でも、失敗すれば子に全ての責任を取らされる。君の言う人間にとっては恐ろしいことに他ならない」
「何故僕が社会の子と敢えて言ったのかわかる?」
夜風を感じる少女は火照った体を冷やして考えても思いつかないのか。もしくは、間違えた責任を取りたくないのか「教えて」と言った。
「子に何を言われても親には些細なことだからだよ。例えば僕が親を「嫌い!」と言っても、親にとっては「はいはい、そうですか」となることの方が多い。子供が親を「殺してやる!」と言っても実際には言葉だけ。そんな場合は親は逆に叱る。一度でも社会で親になった存在は子に殆ど影響を受けない」
「そんなの、社会の親になった者勝ちね」
「そうだよ。だから自由な人は全員とは言わないけど唯我独尊な人の割合が多い。だって、彼等より上の人が殆どいないから」
「バランスの取れているようで取れていないのね」
「ある意味これが1番バランスが取れているよ。だって彼らの存在がなければ人間なんて身内争いだけでも滅亡しているよ」
「そんな嫌な調停者が居ないと生きていけない人間とは嫌になるね。それなら私は鳥の方がいい」
「それなら僕は亀の方がいいかな?」
「最初と意見が違うね」
「君の方だって」
「おかしいね」と2人で笑い合っていると、少女の電話が鳴った。
「お母さんからだ。早く帰りなさいって」
「それは大変だ!親の言うことは聞いた方がいいよ」
ニヤニヤしながら話す少年に「亀の癖に」と言うと、「悪口は良くないよ」と少女に言った。
「今日はとても楽しかった」
「それは良かった」
「また話そうね、亀さん」
「それは楽しみだ、鳥のような人間さん」
少女が離れていく姿を少年は黒い眼で見ていた。
「そろそろ僕も帰らないと」
そう言って、少年もまた家へと帰って行った。
『ボチャン』
静かな公園の池はゆったりと靡いていた。