家出したとある辺境夫人の話
その日ガイジアは、数日ぶりに仕事から屋敷へと戻った。
「……ん?」
ようやく一息をついたその目に、机の上に置かれた一通の手紙が入った。
カサリ、と乾いた音を立てて封を開けたガイジアは、その内容にみるみる血の気を失った。
差出人は、この屋敷に暮らす妻――トリシアだった。いや――暮らしていた、と言うべきか。
『ガイジア辺境伯様
同じ屋敷におりながら、このように大切なことをお手紙でお伝えする失礼をお許しください。
突然ではございますが、私はあなたと離縁し、このお屋敷を去ることにいたしました。
私が辺境のお屋敷に移り住み、早や半年が過ぎました。
貴方様が私との結婚に、色々と思うところがおありなのは存じておりました。貴方様が苦しい思いをなされたことも、決して望んで婚姻を結んだのでないことも。
ですから、白い結婚でも心通わぬ生活が続こうとも致し方ない、と考えておりました。
けれど、こちらでの暮らしはそんな私の想像をはるかに超えるものでございました。
貴方様が私を妻と認めず、無視し続けたせいでしょう。使用人たちまでもが、私をいないものとして扱い続けたのです。
結果、日々の掃除や洗濯はもとより、食事もすべて自力でなんとかするより外ありませんでした。
けれど日に日に寒さも厳しくなり、この調子では暖炉の薪すら自力で用意するしかないのは目に見えております。
そこで決意したのです。
互いに望まない婚姻ならば、もうこの辺りで終わらせては、と――。
もちろん、この婚姻は種々の難しい問題をはらんでおります。国の平穏のために辺境地が担う大切な役割についても、承知しております。
その上で私がよきに対処いたしますので、なにとぞご理解くださいませ。
また、離縁にまつわる手続きもすでに進めさせていただいております。
ことがまとまり次第、またご連絡いたします。
追伸 行方を探されるおつもりでしょうが、きっと貴方様には見つけられません。どうぞ無駄な労力をお使いになりませんように。 トリシア』
手紙を読み終えたガイジアは、一瞬固まりそして大声で叫んだ。
「ジール! これは一体どういうことだっ!! すぐに使用人全員を呼び集めろっ。聞きたいことがあるっ!!」
屋敷中に響き渡るような切羽詰まった声に、家令のジールが大慌てで飛んできた。
「ど……どうかなさいましたかっ!? 旦那様!?」
ガイジアの顔に広がる憤怒と驚愕の色に、ジールもただごとではないと気がついたらしい。
怯えと不安をにじませ、主に問いかけた。
「ジール!! トリシアはどこだっ! この手紙にあることは本当なのかっ!?」
「……は?」
トリシアという名を聞いても、一瞬それがこの屋敷に住まう女主人であると結びつかなかったのだろう。
ジールはきょとんと目を瞬かせた。
その様子が余計に、ガイジアの怒りに火を注いだ。
「ええいっ! 今すぐ皆を集めろっ。事実確認をするっ! もしこれが事実ならお前たち、ただではすまんぞっ!!」
手紙を読むようにうながせば、ジールの顔からもみるみる血の気が引いていく。
「……こ、これは!! そ、そんな……いや、しかし……そんなはずは……!?」
挙動からして、使用人たちの行動は決して誇張ではないことが見て取れた。
ガイジアは歯噛みした。
「トリシアはいないのだな……!? いつからだ……?」
「い、いえ……。それは私どもには……、でもまさかそんなはずは……」
怯えて震え上がるジールを、さらに責め立てる。
「いつからだと聞いているっ!! まさかいなくなったことにも、誰も気がついていなかったのか……!?」
手紙に書かれた日付は、今から五日前。これを書き残してすぐに屋敷を出ていったと考えるなら、すでに家出して一週間近くが経過していることになる。
(くそっ……! まさかこんな思い切った行動を取るとは……。おとなしそうな地味な女だったし、怒りや不満はあっても当分は静かにしているとばかり……)
ガイジアは、ぐるぐると考えを巡らした。
トリシアとの結婚は、この辺境領の苦しい財政状況を補填するための完全なる政略結婚だった。それが破綻したとなれば――。
(しかもあの女は、仮にも王命で定められた婚姻相手なんだぞ。その妻にろくに食事も与えず放置した上、結婚半年で家出されたなどと陛下に知れたら……)
ガイジアはすぐさま使用人たちに、この半年間の様子を問いただした。
結果は、散々なものだった。
あるメイドは、おずおずと告げた。
「お屋敷においでになって一週間ほどは、ごく普通にお食事や部屋のご用意などもさせていただいておりましたが、それ以降は何も……」
「何も……とは!? では一体彼女は何を食べて暮らしていたのだっ!! 飲み物は!?」
「出入りの商人から、ご自身のお金で用立てていらっしゃったようです……」
「は……!? 自分のパンや飲み物を、自ら調達していたというのか……??」
「……そのようです」
「……」
また別のメイドは。
「お洗濯はご自分でしておいでだったようです……。裏庭で洗っていらっしゃるのを見たことがありますので……」
「辺境伯に嫁いだ女主人が、自分の下着やシーツを手ずから洗っていたと……?」
「……はい」
「なぜお前たちは、それをただ見ていたのだ……!?」
「……旦那様が、トリシア様はいないものとして扱ってよいとお命じになりましたので」
「……」
怒鳴り散らしたい気持ちをぐっとのみ込むしかなかった。
すでにガイジアにもわかっていた。たとえ使用人たちの行為が少々行き過ぎていたとしても、こうなった元凶は自分にあるのだと。
けれどどうにも怒りは収まらず、抑えきれない感情がジールへと向いた。
「ジール! お前は一体何をしていたのだっ!! 確かにトリシアを妻として認めるつもりはないとは言った。屋敷の諸々にも口を出させるな、とも。だが……!」
顔を真っ赤にしてジールを責め立てた。
「仮にもあれは、王命で結婚した令嬢だぞ!? 機嫌を損ねれば、この辺境領にとっても不利にもなることぐらい、家令のお前ならわかることだろうがっ!!」
「ぐっ……! そ、それは確かにそうではございますが……」
ジールの握りしめた両の手がぶるぶると震えた。
「……しかし、トリシア様は旦那様の元の婚約者様を追い出したも同然っ! 本当ならば今頃は、あの方と幸せな結婚生活を送られているはずでしたのに……! なのにトリシア様が邪魔を……!」
ガイジアは、その言葉にがっくりと肩を落とすしかなかった。
結果的に反故になった元の婚約者がこの屋敷に住まう日を、ジールは心待ちにしていた。
以前から、元婚約者をジールはいたく気に入っていたから。
その思いが、トリシアへの行き過ぎた嫌がらせにつながったらしい。
「……だが、この婚姻を決めたのは陛下なのだぞ。トリシアを虐げたところで、この婚姻がひっくり返るわけでもあるまい? ただあれの生家が潤沢な金を持っていたから、それを当てにしただけの婚姻だったのだから……」
「くっ……」
辺境の地を、ひいてはこの国の平穏を維持するためとはいえ、意に沿わぬ結婚に腹立たしさも感じていた。
けれどそれはトリシアとて同じことだったろう。はるばる生まれ育った王都を離れ、こんな何もない辺境の地に嫁ぎたかったはずはない。
(一体なぜこんなことに……? そもそものはじまりは、婚礼でトリシアの顔を見た時だ。あの瞬間、なぜかひどく嫌な気持ちになって……。だからつい、あんな態度を……)
婚礼の時、トリシアはまったくの無表情だった。美しいドレスに身を包んではいてもそこには何の感情の高鳴りも感じられず、ただ淡々と事実を受け入れたような顔をしていた。
あれはあきらめだったのか。それとも失望か。
(嫌々なのがわかって腹が立ったのか……? しかし確かに私も大人げなかったのは認めるが、何も突然家出などしなくても……)
だがきっと突然などではなかったのだろう。何度も自分に話をしようとして、その度にジールに阻まれていたに違いない。
それにもし直に話をする機会があったとしても、まともに取り合ったかどうか――。
ガイジアは深く深く嘆息した。そして無理矢理に頭を切り替えた。
今さら誰かを責め立てたとて、どうなるものでもない。
「とにかく……、こんなことが世間にも王宮にも知られてはまずい。今すぐにトリシアを探すのだっ!! どうにかなだめすかして、屋敷に連れ帰ってこい!! いいなっ!!」
そう命じて、ガイジアは痛む頭を抱え込んだのだった。
が、トリシアが手紙に書いていた通り捜索は徒労に終わった。
もともと見た目が貴族令嬢らしからぬ、大変に地味で目立たない風貌をしているせいもあるのだろう。町のどこにもトリシアの姿は見えず、誰も見たものはいなかった。
こうしてガイジアは、一層頭を抱え込む羽目になったのだった。
◇◇◇
そんなある日の昼下がり、辺境の町では。
「トリシア様! お待ちかねの手紙が届きましたよっ。それにたくさんの贈り物も!!」
「あら、ありがとう。ハンナ。……まぁ、私の大好物のお菓子に果物に、ふふっ! お気に入りの本まで」
自分宛てに届いた手紙と山のように積まれた荷を目にして、トリシアは思わず笑いをこぼした。
屋敷を出て、すでに二週間が過ぎていた。
けれど町の人たちの協力のおかげで、今も見つからずに済んでいる。
生まれつき、目立つ特徴がないせいだろうか。地味な格好をするだけで、どこにだってすんなりと溶け込めるのだ。
これでも化粧を施し着飾れば、それなりに見えなくもないのだが。
「さすがはヒューね。こんな短い時間で必要なものを全部そろえるなんて……。ふふっ。これでこんな不毛な結婚をとっとと終わらせられるわ」
届いた荷物をあらため、トリシアは満足気な吐息をもらした。
荷と一緒に届いた手紙は、三通あった。
一通は、離縁するに当たっての協力者からの状況を知らせる内容。もう一通は、父親の正式な署名入りのとある契約書だった。
残る一通は――。
それが国が認めた正式な書類であることを確かめ、トリシアはほぅ、と安堵の息をついた。
トリシアにとっても、この結婚は貴族としての義務でしかなかった。貴族である以上、王命に逆らうわけにはいかない。ただそれだけだったのだ。
事情は色々と聞いていたし、幸せな結婚生活が送れるだろうなどとは夢にも思ってはいなかった。
けれどまさか、あれほどまでにひどい扱いを受けるとは――。
(でもそのおかげで、あちらに恩を着せる形で離縁に持ち込めるわ。それに放っておかれるのは慣れっこだし、本当は大して堪えてはいなかったんだけど……)
トリシアは、裕福な貴族家に生まれた二人姉妹の長子だった。けれど、両親から愛されたことなどない。
どうも両親の気に入るような見た目でなかったのが原因らしい。
可憐でかわいらしい外見を持った妹が生まれてからは、まるでいないにも等しい扱いで放っておかれた。
その割に、頭の出来の良さだけは重宝された。
妹をかわいがるのに忙しい両親は、家政と領地経営をまだ年若いトリシアに任せきりにしたのだ。
おかげでさまざまな知識と経験を存分に身につけたトリシアは、身の回りの一切をこなすくらい朝飯前だった。
よって、あの程度の嫌がらせはどうということもなかった。
が、トリシアは考えた。これは、こんな望まない結婚からもあの家族からも、国や貴族からも逃げ出す好機なのでは、と――。
そんなトリシアの様子に、ハンナが肩を落とした。
「返事がきたってことは、もう間もなくここを離れちまうんだねぇ……。残念だよ。トリシア様のおかげで、ようやく商売もうまく回りそうだってのに……」
女手一つで食堂を切り盛りしているハンナは、なかなか売り上げが思うように伸びずに悩んでいた。
そこにトリシアがやってきたのだ。
しばらく一部屋貸してはくれないか、その代わりに商売の手伝いをするから、と。
事情を聞いたハンナは、半信半疑でトリシアをかくまってくれた。
その結果は。
「トリシア様の助言のおかげで無駄な経費も抑えられたし、仕入れだって安く上がるようになったしさ。浮いた分を宣伝に回したら、客の入りだってぐんと増えたしさ……」
「ふふっ! ハンナがそれだけ頑張った結果よ? 私は少しアドバイスしただけだわ」
これまで散々両親にこき使われてきた成果が出たらしい。
ハンナはこの調子なら店の売り上げは大層上がりそうだ、とずいぶんと喜んでくれた。
「まったくこんな賢い奥方様を追い出すような真似をするなんて、ひどい話さ。ガイジア様だってトリシア様をちゃあんと大事に扱ってくださってたら、離縁なんてことになりゃしなかったのに。まったく残念だよ……」
ハンナによれば、ガイジアは決して悪い領主ではないらしい。だが少々頭が固く融通が利かないせいか、あまり領地経営には向いていないとか。
地の利が少ない辺境民にとって、それは死活問題だった。
だからハンナは、トリシアの貴族令嬢らしからぬ商売向きの賢さがこの領地には必要だと思ったらしい。
けれど、こればかりは致し方ない。
「仕方ないわ。ガイジア様も屋敷の皆さんも、私をお望みじゃないんだもの。でも助けてくれたお礼に、今後役に立ちそうな商売のコツを書き残しておくわね」
「おや、本当かい!? そりゃあ助かるよ」
そして荷物の中からおいしそうなお菓子やら日用品をいくつか取り出し、ハンナに手渡した。
「よかったらこれは皆さんでどうぞ。……あぁ、それからあと数日したら、ヒューという人が私を訪ねてくるはずなの。その人に、この手紙を渡しておいてくれる?」
「はいはい! もちろんですよ。……もしかしてその人って、トリシア様の大事な方なのかい?」
ハンナがにんまりと微笑んだ。
その意味ありげな笑みに、トリシアの頬がほんのりと染まった。
「ど、どうしてそんなこと?」
思わず顔を両手で覆ったトリシアは、ハンナを見やった。
「あっはっはっはっ! 図星みたいだねぇ。……いやね、なんだかトリシア様のお顔がいやに優しげだったから、ついそんな気がしてさ! そうかいそうかい。トリシア様には大切な人がおいでなんだね」
「まぁ、ハンナったら……。ふふっ。でも、そうね。ずっとずっと私の味方でいてくれた、とても大切な人なの。その人の助けがなければ、あのお屋敷を出ることなんてとても無理だったもの」
トリシアの脳裏に、少し斜に構えた眼差しに時折甘い色をにじませる青年の顔が浮かんだ。
「そうかいそうかい! そんないい人がそばについててくれるんなら、ひと安心さね。わかったよ! この手紙はちゃあんとその人に渡しておくからね!!」
「ええ、ありがとう。ハンナ! 皆にもよろしく伝えてちょうだいね!!」
こうしてトリシアはハンナたちに別れを告げ、いよいよ最後の仕上げに取り掛かることにしたのだった。
自分の人生を縛りつけてきた、窮屈なすべてのものから自由になるために――。
◇◇◇
数日後、トリシアはガイジアのいる辺境屋敷へと向かった。
「ト……トリシア様っ!? し、少々お待ちくださいませっ!! 旦那様っ! 旦那様っ、奥方様が……!!」
「お、奥方様……。これはご無事にお戻りくださり、心より安堵いたしました……。その節は誠に……」
突然に行方不明だったトリシアが姿を見せたことで、屋敷は蜂の巣をつついたような騒ぎになった。
仕事を途中で放り出し、かけてきたのだろう。ガイジアは息を切らし、トリシアに向かい合った。
「あー……その、よく戻ってきてくれた。使用人たちに任せきりで何も知らなかったとは言え、本当にあなたには悪いことをしたと……」
もごもごと決まり悪そうに謝罪の言葉を口にするガイジアを、トリシアはにっこりと笑みを浮かべ、けれどきっぱりと切り捨てた。
「謝罪など結構ですわ。そんなものがほしくてここに参ったわけではありませんし。突然にあんな置手紙ひとつ残して家を出た私も非礼でしたし、おあいこです」
「い、いや……しかし……」
釈然としない様子のガイジアに、トリシアは用件を切り出した。
「私が今日ここへきたのは、ガイジア様との離縁が正式に認められた旨をお伝えするためですわ。それと、今後のためのいくつかの取り決めについてお知らせするためです」
ガイジアの顔色が変わった。
「正式に……離縁が決まった、だと? し、しかし私は署名などしていない。それに私たちの婚姻は王命なのだし、お互いによく話し合えばやり直すことだって……」
ガイジアは期待していたのだろう。互いに歩み寄れば、最悪の結末は回避できるのではないか、と。
けれど、トリシアにその気は皆無だった。
トリシアは鞄の中から二通の書類を取り出し、ガイジアへと手渡した。
「こちらが正式な離縁証明書ですわ。ちょっとした伝手を使って、無理に急いでもらいましたの」
「伝手、だと……!?」
「とはいっても見ての通り正式なものですので、今さらひっくり返すのは無理ですわ」
「……!」
ガイジアの顔にさっと朱が走ったのには気づかないふりをして、トリシアは流れるような口調で続けた。
「それともう一通は、辺境領の困りごとに関する取り決めに関するものですわ」
「困りごと……だと?」
憮然とした表情で、ガイジアは手元の書類に目を落とした。
「……」
みるみるその顔から血の気が引いた。
「こ、これはどういう意味だ……? なぜ慰謝料を君の家が私に支払う取り決めになっているんだ!? 逆ならばまだしも……」
ガイジアが驚くのも当然だった。
そこには、この辺境領が当面資金繰りに困らないだけの法外な金額を、トリシアの生家がガイジアに慰謝料として渡す、と記載されていたのだから。
離縁の原因を作ったのは、どう考えてもガイジアの側だ。
なのになぜ虐げた側であるガイジアと辺境地に、トリシアの生家が慰謝料を支払うのか。
その当たり前と言えば当たり前の問いに、トリシアは答えた。
「もちろん私をあのように扱った上の離縁、ともなれば、普通は逆でしょうね。でもそうなれば、ガイジア様にとっては非常に困った事態に陥ることになりますわね。辺境領は火の車ですもの」
そもそもこのままでは国の守りも立ちゆかないことを懸念して、トリシアの生家が援助することを目的とした婚姻だったのだ。
離縁となれば、その援助も打ち切られるのは当然の流れだろう。
「そ……その通りだ。だからこそ、どうにか離縁を撤回した方がいいのでは、と……。君にとっても、再婚ともなればなかなか好条件というわけにはいかないだろうし……」
「……」
「もちろん今後はあなたを私の妻として大事に扱うよう、皆に厳しく言い渡す! 私も態度をあらためると約束する! だからどうか考え直して……」
そう言いかけ、ガイジアははっとしたように口をつぐんだ。
トリシアの冷ややかな視線に気がついたのだろう。
「……離縁はすでに成立しております。撤回などありえませんわ。それにその慰謝料が手に入れば、婚姻を継続せずとも充分に不足分をまかなえるのでは? 当面必要な費用の概算も、添付してございますわ」
「……」
ガイジアはもう一度書類に目を通し、声にならないうめき声を上げた。
「し……しかしなぜこんなことを君が知っているんだ? 辺境にきて半年にしかならない君が、ここの内情ついてこれほどまで知っているはずが……」
荒涼とした辺境地にそびえたつ、長い長い防壁。長年の雨風や隣国との小競り合いで増えていく一方の修繕費。そして国を護る兵士たちに支給される、食事や衣類などの日用品代。
一昨年に起きた土砂崩れで荒れた道の整備も、いまだ完了していない。
トリシアは結婚が決まった際、それらを事前に調べ上げていた。いざという時に役に立つと考えて。
「そのくらいの情報、少しの時間と労力をかければ調べられますわ。私の試算では、その慰謝料でそれらを充分まかなえるはずですが?」
「……」
ガイジアはまたも声にならない声でうめいた。
「実のところ、私の両親はとても妹贔屓で、地味でぱっとしない私のことは家政や領地経営にずっと利用してきたんです。そのおかげで、父がこれまで色々としてきた後ろ暗い数々に気がつきましたの。それをネタにちょっぴり脅したのですわ」
「お、脅しただと……!?」
トリシアの口元に、黒い笑みがふわりと浮かんだ。
「それらを公にされたくなければ私の言い値を用立てろと言ったら、すぐに納得してくれましたわ。もしバレたら、間違いなくかわいい妹もろとも全員路頭に迷うことになりますもの。それどころか、牢屋に引っ越す羽目になるかもしれませんし。ですのでまぁ、これはいわば離縁を強引に進めた迷惑料みたいなものですわね」
「迷惑料……」
ごくり、とガイジアの喉が鳴ったのは、気のせいだったろうか。気がつけばジールも他の使用人たちも、恐ろしいものを見るような顔で呆然と凍りついていた。
もはやガイジアの口からは、言葉ひとつ出てこなかった。
そして――。
「さて、ではこの場をもって悩ましい問題はすべて片づきましたわね。私たちの不毛な結婚も、お金の問題も。……ですわね? ガイジア様」
「……あ、あぁ」
口元にゾッとするような美しい笑みを浮かべたトリシアを、ガイジアがはじめて見るかのような目で見つめていた。
ガイジアにとってみれば、トリシアは地味でおもしろみのない女性に見えた。こんな者が自分の伴侶となるのか、と失望するくらいに。
が、今目の前にいるトリシアはその時の印象とはまったく違って見えた。
内面からにじみでる美しさとでも言うのだろうか。
凛と真っ直ぐに伸びた背筋。隠しきれない賢さがにじみ出た面立ちも、よく見れば化粧が控えめであるだけでそれなりに整っている。
何より、揺るぎない強さを秘めた眼差しはなんとも言えず美しかった。
見惚れたガイジアは、思わぬ言葉を口にしていた。
「もう一度……もう一度だけ、君と私の関係を一からやり直すわけには……?」
その瞬間、トリシアが噴き出した。
「ぷっ……! 嫌ですわ。今になってそんなことをおっしゃるなんて……。もちろんご冗談ですわよね?」
言葉ににじむあからさまな拒絶の色に、ガイジアははっと表情を変えた。
「あ、……いや。も、もちろんだ……。そのようなこと無理に決まっている……な」
もごもごと何かをつぶやくガイジアを、トリシアは興味なさそうに見やると。
「世間には、私は署名を済ませた離縁届だけ残して行方をくらましたと広めてくださって結構ですわ。それきり行方がわからないのだと」
「しかし、君の家族は……? いくらなんでも娘の行方がわからないとなれば……」
ガイジアの言葉に、トリシアはもう一度小さく噴き出した。
「ふふっ。私に、身を案じてくれるような家族はひとりもおりませんわ。それに、私もううんざりですの。この国にも、つまらないしがらみにも」
「うんざり……??」
ガイジアはきょとんとした顔をしていた。
なら君はどうやってこの先の人生を生きていくつもりなんだ、とでも言いたげな。
貴族として生まれ、これからも国の駒として生きていくつもりのガイジアには想像もつかないのだろう。貴族ではない自分の人生など。
王命という名の気まぐれで、こんなに理不尽な目にあったというのに――。
「ふふっ。私は自由に生きますわ。国からもあの家族からも解き放たれて、つまらぬ肩書なんて捨てて、自由に」
「自由……?」
「えぇ。この頭と思いひとつあれば人生などどうとでもできますわ。少なくとも私にはその力が十分にあると自負しておりますもの」
「ひとりで……か?」
その瞬間、トリシアの顔にやわらかな笑みが広がった。
「……私には、信頼に足る者がおりますので、どこへでもついてきてくれる頼もしい者の助けが、ね。それさえあれば、不安なんてこれっぽっちも感じませんわ」
「……」
呆然としたまま、立ち尽くすガイジアと使用人たち。
「さて、と。では私はこの辺で失礼いたしますわ。ガイジア様、皆様。この地と皆様の平穏とお幸せを、遠くからお祈りしておりますわ。では、ごきげんよう」
そしてトリシアは、艶やかな微笑みを浮かべ立ち上がったのだった。
屋敷を出たトリシアは、門の辺りに一台の馬車が止まっているのに気がついた。
そのかたわらに立っている青年の姿にも。
自然と足取りが軽く早くなった。
「すべて思い通りの決着がついたわ。あなたの完璧な仕事のおかげよ。ヒュー」
しばらくぶりに見たその顔に、自然トリシアの口元が緩む。
ヒューも同じ気持ちであるのだろう。
馬車のそばまできたトリシアの手をそっと取ると、手の甲に優しく口づけた。
「当然ですよ、そのためにこれまで着々と準備を進めてきていたのですから。……それでもこの半年という時間は、随分と長くイライラとさせられましたがね」
「ふふっ! ヒューったら」
ヒューは、生家に長らく仕えてくれていた家令の息子だった。少し前に、父にたてついたことを理由にすでに解雇されていたけれど。
ヒューは、次の家令が決まるまでの代理だった。
父親の血を受け継ぎ頭脳明晰だったヒューと、両親に虐げられ利用されてばかりのトリシア。
ふたりの間には、いつしかほのかな恋心が育っていた。もちろんそれは、身分や立場から秘めておくしかなかったけれど――。
けれど辺境の地での結婚が不毛なものだと知ったトリシアは、思ったのだ。
こうなったら自分をがんじがらめにする一切を捨てて、ヒューと新しい人生に踏み出してもいいのでは、と。
「計画を持ちかけられた時は驚きましたが、うまく運んだようでよかった……。こんなこともあろうかと、密かに準備を進めておいた甲斐がありましたよ」
「ふふっ! さすがヒューね。さすがはお父様譲りのできた家令だわ。ありがとう、本当に助かったわ。おかげで、こうして何もかもから自由になれたんだもの……」
トリシアはヒューの手をきゅっと握り、やわらかく微笑んだ。
けれどヒューにとっては、そう簡単に割り切れるものでもないらしい。
目に剣呑な光を浮かべ、おもしろくなさそうに口を真一文字に引き結んだ。
「私としては、あなたをひどい目にあわせた両家の者たちを無罪放免にするのは不服なんですがね……。白い結婚で済んだのは不幸中の幸いでしたが……」
「ふふっ! ヒューったら、もう済んだことだわ。両親も妹も、この辺境領だってもう私には何の関わりもないんだから」
「それはまぁ……そうなんですが……」
いまだ不満そうなヒューをおかしげに見やり、トリシアはわざと口を尖らせヒューの顔をのぞき込んだ。
「……ところで、ヒュー? あなた、いつまでそんな使用人みたいな言葉遣いを続けるつもりなの? これから私たちは対等な関係になるのよ? そうでしょ。ヒュー」
もう自分を縛りつけるしがらみも身分もない。
ここから先はまっすぐ港へと向かい、大きな船に乗り込むことになっていた。
その先で待っているのは、未知の世界。
そこで新たに商売を立ち上げ、ヒューとともに愛と希望に満ちあふれた人生へと漕ぎ出すのだ。
ヒューの目の奥でらゆらりと熱が揺れた。
「……これは失礼。ではこれよりはただの男として、一緒に行くとしよう。……トリシア」
突然の熱にトリシアは目を見張り、そしてふわりと少女のようにはにかんだ。
「ふふっ! ええ。そうね。とても楽しみだわ」
船の切符もふたり分。出立に必要な荷もすでに船に預けてある。
これから移り住むことになる隣国の屋敷も、すでに購入済みだ。もちろんこれまで密かに貯めてきた軍資金もたっぷり。
ヒューの父親も、生家にいた信頼できる使用人たちとその家族もすでに前乗りしている。きっと今頃自分たちが到着するのを、新天地で今か今かと待ち構えていることだろう。
トリシアはちらと、もう二度と会わないであろう家族の顔を思い出した。
今あの屋敷に残っているのは、口先だけでちっとも仕事のできない使用人たちだけ。腕のいい料理人もいなくなってしまったから、今頃妹はキレ散らかしているに違いない。
まぁそれもすべては身から出た錆。実は傾きはじめている領地経営も家政も、自力でどうにかしてもらうより他ない。
「どちらにしても、もう私には何の関係もないことね……。この国で起きることも、あの家族に降りかかる未来も、望まない結婚も。私にあるのは、新しい未来だけ。……あなたとの幸せで挑戦に満ちた人生が、ね」
眩しいばかりのトリシアの笑顔に、ヒューの目がまたゆらりと揺れた。
ヒューは握ったままのトリシアの手をぐいと引き寄せ、抱き寄せた。
「……ええ。本当に。これでやっと、ただひとりの男としてあなたを独り占めできる。もう国にも誰にも、絶対に邪魔はさせない」
「……!」
「覚悟しておいてくださいね。もう私はあなたを離す気はありませんから……」
頬にそっと伸びた指先からくらりとするほどの独占欲を感じ取り、トリシアの頬が赤く色づいた。
「さぁ、では港へ向かおう。トリシア」
「えぇ。そうね、ヒュー」
そして熱く見つめ合うふたりを乗せて、馬車は軽やかな蹄の音とともに走り出したのだった。
ふたりの新しい人生が待ち受ける、大海原の向こうへと。
〈おしまい〉