親友令嬢は恋を諦めるしかない
ルベシュ家の伯爵エドゥアルトは告げる。
「お前を愛することはない」
拒絶がありありと浮かんだ瞳で見下ろされた妻ロマナは、肩を竦める。
二人は今日が結婚式だった。そして、初対面でもあった。
「だよなぁ」
ロマナは同意するしかなかった。
「エロ本貸しあってたダチに勃つワケねぇよなぁ」
結婚式でヴェールをあげられ、互いの顔をみた瞬間、魂の記憶が甦った。前世の記憶により、お互いにまったく別の懐かしい面影が重なった。二人は前世で高校時代の親友だった。同性の。
今世では可憐な令嬢のロマナだが、前世では万年補欠の野球坊主だった。坊主頭でなくなったのは、高校卒業してからだ。
「なんでテツがTS転生してんだよ!?」
「前世から言ってた、そのティーエスってなに」
「トランスセクシュアル! 性転換の通称だバカ!!」
打ちひしがれるエドゥアルト。親友のテツはステータスを運動に全振りしているような奴だった。
初瀬 鉄男、名前の字面のイメージに違わず坊主頭の似合う親友だった。日焼けした肌が当たり前だったのに、指輪を嵌めたときの手は白魚のようだった。前世が見る影もない。
「確かにTSモノも好きだったけど、我が身に降りかかるとか誰得だよ……!!」
「二次元は別って、タカよく言ってたもんな」
タカこと見延 尊はゲーム好きで、よく色んなソシャゲをしては話してくれた。ソシャゲでヤンデレなるキャラを推してるのだと、スマホのゲーム画面をみせられたときに、そんな女子と付き合いたいのかと鉄男は訊いた。すると、尊は真顔で現実だとストーカーで恐いだろ、と正論を述べた。二次元だから許せるのだという主張に、AVのシチュエーション定番のようなものかと鉄男は解釈した。SMなどは自分がされるのは御免だが、それ用の服装が魅力的に感じはする。
趣味やタイプは違ったが、尊と鉄男は気の合う親友同士だった。
「え、コレ。BL!? BLになんの!?」
「こんなに可愛い嫁捕まえて何言ってんだ」
「ほんと、まじ可愛いし」
「お、おぉ……」
前世のノリでロマナがつっこんだら、悲愴を帯びた嘆きは正直な感想だった。思わずロマナは動揺してしまう。
そういえば、尊は素直に褒めてくるタイプだった。万年補欠で試合にでられないと落ち込んでいる鉄男に、それでも真面目に練習に励む姿がカッコいいと正直な思いを伝えてくれた。そして、自分だったら絶対全力で引きこもると断言しては笑かしてくれたものだ。魂の性質なのか、そういった素直さは今も変わらないらしい。
前世の男の姿と比較して、ではあるが、可愛いと言われて悪い気はしない。ふざけるなと不満が返るとばかり思っていたものだから、エドゥアルトの正直な感想には照れる。現状を嘆く彼は、反応に弱るロマナの様子に気付かなかった。
「テツと初夜なんてまじないわ」
「じゃあ、白い結婚かぁ」
どうするか、とロマナは考える。エドゥアルトの心情は解るが、今後同衾しないとなると嫁いできたロマナの肩身は狭くなる。主人の態度は、使用人にも反映する。アウェイな環境で、このままだと冷遇されてしまう。
ロマナは、残りの半生が楽しめない予感を感じた。
「今日からどこで寝たらいい? 通されたのココだから、他にあるか知らなくて」
ベッドの大きさから、この寝室が夫婦用であることは判る。夫となる男の顔も知らず嫁いできたロマナには、自分の部屋にも寝室があるかなど、他の選択肢が判らない。
「テツはここで寝ろ」
「じゃあ、タカが自分の部屋に……?」
「俺もここで寝る」
「はい?」
エドゥアルトの言葉に、ロマナは面を食らう。てっきり別々の寝室で休むことになるとばかり思っていた。
「同じ部屋で寝ていれば、使用人に不仲と疑われることもないだろ」
どうやらエドゥアルトは、自身の身の振り方がどう周囲に影響するのか理解しているらしい。初夜から見放された妻がどういう扱いを受けるのか。事前の顔合わせなどをしてこなかったので、余計ロマナに不利な環境だ。エドゥアルトが率先して、歓迎の姿勢をみせなければ、彼女はこの家に馴染めない。
「前世だって、お互いの家泊まったりしてたんだ。大して変わらない」
「そう、か」
言葉通りからりと笑うエドゥアルトに、ロマナはどうにか頷いた。自分への冷遇回避のためなのだ。元親友の善意を無下にはできない。
決まってからは、行動が早く、エドゥアルトは早々に寝入った。彼が寝入ったのを確認して、ロマナも仕方なく同じベッドで横になるのだった。
翌朝、先に目覚めたエドゥアルトは妻を起こさないよう注意しながら身支度し、寝室をでた。
ドアの閉まる音に合わせて、ぱちりとロマナの瞼が開く。彼女は寝ていたのではなく、寝たフリだった。エドゥアルトの気配がないことを確認して、身を起こす。
「そうか、ない、かぁ……」
零れた呟きは、思ったよりも気落ちしたものだった。
前世の記憶が甦ったからといって、それは記憶だ。ロマナは令嬢として生まれ、育った。彼女の実家であるヴィコヴァー家とルベシュ家で決まった結婚。家同士の契約で決まった婚姻で、夫が乗り気でないと事前に判っていたが、それでも良好な関係が築ければと考えていたのだ。
エドゥアルトの顔立ちは優しげで、それゆえに不快に眉を歪めた表情が判りやすい。また親友には気を許しきった笑顔をみせる。ロマナは一夜で思い知った。彼にとって自分は異性ではないのだと。
前世が男だろうと、ロマナは十七の花も恥じらう乙女だ。同世代の異性と同衾するなど、緊張してロクに眠れなかった。けれど、エドゥアルトは違った。安心しきった寝顔を晒していた。
「私とは、昨日初めて会ったんだけど、な」
確かにロマナも、前世の記憶からエドゥアルトと尊に似通ったところを見つけては懐かしさを覚えた。だが、それは尊に対する親しみであって、エドゥアルトに対してではない。魂は同じでも、似たところがあっても、ロマナにとっては会ったばかりの異性だ。
甦ったばかりの前世に引きずられて、反射的に鉄男の口調になってしまったが、ロマナの本来の話し方は違う。彼が自分を鉄男として扱うものだから、態度を戻せずにいただけだ。
妻になる覚悟でやってきたのに、一夜にして親友で固定されてしまった。
残りの半生をともにする相手だから、好きになれたらと願っていた。けれど、それも叶わない。エドゥアルトにとって、ロマナは親友なのだ。
「万年補欠の次は、万年親友か……」
しかも、今回は応援してくれる親友もいない。嫁ぐ前は頑張ろうと意気込んでいたのに、頑張れなくなってしまった。
夫に恋してはいけないという事実に、ロマナの胸は軋んだ。
コンコン、とノックがされる。彼女の身支度のために、使用人がきたのだ。ロマナは両頬をぱちんと打ち、表情を引き締める。浮かない表情をしていては、せっかくエドゥアルトが同衾してくれた意味がなくなる。
「どうぞ」
そうしてロマナは微笑んで使用人を迎えたのだった。
夫婦生活は良好に映るものだった。
食事は三食ともに歓談をまじえてするし、毎晩同じ部屋で寝ている。つつがなく、夫婦生活が送れているといえた。少なくとも、家の主人が笑顔で妻に接するのだ。ロマナへの使用人たちからの扱いは好意的であった。エドゥアルトがくだけた話し方になるのも、早々に打ち解けたのだと解釈された。
妻ではなく、親友への態度だと知るのはロマナだけ。
そうして過ごすある日の昼食時、エドゥアルトの眉根がわかりやすく寄った。
どうしたのか、とロマナが彼の手元をみると、フォークがニンジンのグラッセの寸前で止まっていた。
「……お前、いまだにニンジン嫌いなの?」
前世で尊が毛嫌いしていた野菜だ。生まれ変わっても同じものを嫌いになるのかと問うと、エドゥアルトの表情はさらに歪んだ。
「野菜が甘いなんておかしいだろ」
「うわ、ダッセ。甘いからって。イチゴだって野菜だぞ」
「イチゴは果物だ!」
幼子のような言い分に、ロマナはおかしくなって笑う。前世でも同じようなやりとりをした。
「仕方ねぇな、ほれ」
代わりに食ってやる、とロマナが近付き口を開けると、エドゥアルトのフォークを持つ手が揺れた。
「ん?」
「いや……」
なかなかニンジンがやってこないことにロマナが首を傾げると、エドゥアルトは頼むと彼女の口に自分の分のニンジンを運んだ。素手で弁当のおかずをとられた前世を思えば、相手の口に食べ物を入れる方がマシといえよう。なのに、口にかからないよう髪を耳にかける仕草は前はなかったと気付く。
苦手な野菜を代わりに食べてもらう作業が、妙に緊張した。エドゥアルトは作業が終わるまで、相手は親友だと、脳内で反芻する。
「お前、父親になったときも嫌いだったら、子どもに示しつかねぇぞ」
けたけたと揶揄いまじりのロマナの発言に、いつもなら返ってくる反論がない。
不思議に思い、隣を見遣るとエドゥアルトはなぜか呆けていた。
「……子ども」
「あ」
ロマナは失言に気付く。この場合、子どもができるなら二人の間にだ。だが、白い結婚であるはずのないことを口にしてしまった。
「こ、言葉の綾だって……!」
「言葉の綾とか言えるようになったのか」
「うっせ」
一気に気まずくなったと、ロマナは視線を逸らし自身の皿を空けることに集中する。咀嚼していれば、会話しなくて済む。貴族社会の行儀のよさが今の彼女には救いだった。あらためて白い結婚であることを自分から確認しなくてもよかっただろう。胸が重くなるだけだ。
胸の重圧に耐えているロマナは視線を外していたので、知る由もないが、エドゥアルトの耳が多少赤みを帯びていた。
耳の熱さの理由にエドゥアルトはまだ気付いていなかった。
数日後、ずいぶんと庭が騒がしかった。
にぎやかな声にひかれて、エドゥアルトが向かうと、使用人たちに囲まれてロマナがいた。皆と笑い合っており、使用人たちとの関係が良好なのが窺え、彼は安堵に微笑む。親友は屈託のないまっすぐな人間だ。自分のせいで彼の人柄が誤解されるようなことはあってはならない。体裁だけとはいえ、夫婦関係がちゃんとあると示しておいてよかった。
近付いてよく見ると、ロマナはドレスだというのに土だらけだった。それを侍女たちがおろおろと心配している。
「何をしてるんだ?」
「あっ、タ……エド。ふふーん、見ろ! この家庭菜園を!」
「家庭菜園?」
花壇の一角で、花ではなく野菜を育てはじめたらしい。なにも、伯爵夫人手ずからしなくとも、とエドゥアルトは呆れた。だが、それも鉄男だと思えば納得もできる。
畑と化した花壇には、芽生えて間がないのだろう、若々しい緑の細い葉が五センチほど伸びていた。
「何を育ててるんだ?」
よくぞ聞いてくれた、とロマナは得意げに教える。
「ニンジンだ」
「はっ!?」
苦手な野菜を育ててると知り、エドゥアルトは困惑する。なんの嫌がらせだ。
「いくらニンジン嫌いのエドでも、妻が丹精込めて育てた野菜なら食うよなぁ?」
「ゔ……っ」
人の厚意を無下にできるのか、それも自分のためを想ってのことを。否と返しづらい状況を作られてしまい、エドゥアルトは唸った。
好き嫌いはよくないと笑う彼女。その表情は明るい。陽射しを受けているせいか眩しいほどだ。
他に人がいるからだと解っているが、彼女は自身を妻だといい、エドゥアルトの愛称をその口にのせる。それがなんだか妙にそわそわとした心地にさせた。
侍女たちはせっかくのドレスがと嘆く。ロマナは申し訳なさげに、次からは汚れてもいい服を着るようにすると詫びた。伯爵夫人が作業をやめる気がないことを察した侍女たちは、それで折れた。土に汚れてしまったが、ラベンダーの縦縞のドレスは侍女たちがロマナに似合うものをと選んだのが判る。
陽の下でも、彼女の肌は白い。
当たり前だ。ロマナは真夏の太陽の下、日々練習に励んでいた野球坊主ではない。前世の記憶とのズレがじくりじくりとエドゥアルトの意識を刺すようだった。
侍女たちに懇願され、エドゥアルトは彼女を家庭菜園から引き揚げさせる役目を負う。部屋に戻るよう促すために掴んだ肩は細かった。前世は自分より肩幅があって羨ましかったものだ。
ひとつひとつは小さな違和感がエドゥアルトを困惑させた。
自然と眉が寄っていたのだろう、ロマナが申し訳なさげに仰ぎみる。
「まずかったか……?」
「え……」
「その、エドって……」
他に呼びようがなかったのだと、彼女は眉を下げる。別段、妻が夫を愛称で呼んでもなんら問題はない。
「いや、それは別に。これからもその方がいいだろ」
気にしていない旨を伝えると、ロマナの表情は明るいものへ戻った。
「そ、そうか。そうだよな、エド」
しきりに頷きながら、嬉しそうに自分の名を呼ぶ。気にしないといったばかりなのに、妙に頬が熱くなった。
陽射しが暑いせいにして、早く邸内に戻るようロマナを促すエドゥアルトだった。
言えるわけがなかった。目の前にいるのが親友なのか疑ったなど。
「奥様、今日はどういたしましょうか」
毎朝、侍女たちが確認してくれる。それに、ロマナは同じように返す。
「あなたたちに任せるわ」
残念そうにする侍女たちに、多少の申し訳なさを覚える。そして、一任しても毎度その日の天気や季節に合わせて、自分のために服を選び、髪型を整えてくれる彼女らに感謝する。だが、それを褒めてくれる人は侍女たち以外にいない。
可愛くなること、綺麗になることを、ロマナは求められていない。求められているのは、親友として粗暴な口調で話すことだ。
髪型もドレスに合わせて侍女が変えてくれているが、エドゥアルトがそれに気付いたことはない。妻としての務めは、ともに暮らす使用人たちのためでもあるので励める。しかし、自身を着飾ることにやり甲斐を見いだせずにいた。
異性とみられないのに着飾ることに意味はあるのか、とすら思う。
エドゥアルトからは嫌われていない。むしろ、気を許されている。
育てたニンジンも、甘みに耐えながらも食べてくれた。完食後、弱り切った表情で彼は力なく笑った。そうして弱ったところも簡単に晒す。親友だから、と。
格好をつけず、自分にだけ飾らない顔をみせられるたび、ロマナはそれが可愛いと感じる。けれど、これは親友だからこそみせる表情であって、ロマナが本来は知ることができなかったものだ。
話し方は男らしく装ってみせているが、これまで彼に伝えた言葉はすべてロマナが思ったことだ。それらが、すべて鉄男の言葉と受け止められる。
愛しさを感じるごとに、自分が彼の瞳に映っていないことに虚しさも湧くようになった。
「恋したらだめなのに……」
ひとりで庭を散歩する。日傘で陰り口元など窺えないだろう。呟きも吹く風に合わせたので誰の耳にも届かない。
彼の笑顔をみるために、男友達の真似事を続けるぐらいには惹かれてしまっている。諦めるしかない恋心に、ロマナはとうに気付いていた。
今もキャロットケーキにして果物のように扱えば、彼もニンジンが食べやすくなるだろうか、と考えてしまう。彼の好き嫌いを減らそうと思うのは、ただ彼に健康でいてほしいからだ。
邸に戻ったら、厨房に向かうであろう自分に呆れて、笑ってしまう。
いつかは彼も異性に恋をするのだろう。そのときに親友だから祝ってくれるだろといわれたら、どうしたらいい。形だけの妻も本命ができたら、離縁されるのではないか。愛人を抱えるなどという不誠実なことはしないと思うが、エドゥアルトが好きになる異性が現れる未来に、徐々に怯えるようになった。
親友でないと傍にいられない自分と違って、その女性は最初から異性として愛されるのだ。それが羨ましい。
恋心を募らせても、想いが返らないと判り切っている。
「妻、なのになぁ」
力ない笑みが浮かぶ。
鉄男のときは、目標があった。甲子園にいって、できれば試合にでたいと。望んだとはいえ野球の強豪校に入学してしまったため、実力者が多く卒業するまで試合にでることは叶わなかった。出場できる選手が羨ましくなかったかといえば嘘になるが、試合にでれなくとも、チームとして全力で応援して自分のできることで試合に臨んだ。
目標に向かって努力し続けるのはロマナも好きだ。きっとそれが魂の資質なのだろう。自分の両親が結婚してから愛を育んだと知り、令嬢として嫁ぐなら幸せな家庭を築きたいと、相手を好きになる努力をしたいと。ずっとその目標のため、礼儀作法や刺繍など貴族の妻に必要な教養に励んできた。嫁いだ途端、その目標が消えるとは思わなかった。
努力しては駄目なのだ。彼が自分に求めるのは親友でしかない。
ぺちんと両頬を打つ。表情を引き締めるためのそれは、以前より弱々しいものだった。一人でいると最近落ち込みやすくなっていけない。エドゥアルトが食べれるキャロットケーキを作るため、ロマナは邸へ戻る。
そろそろ笑顔の練習も必要になりそうだ。
ノックで入室許可を求められ、書斎にいたエドゥアルトは許可をした。
誰かと顔を上げると、意外な人物だった。ロマナの侍女たちだ。
「なんだ、どうした?」
書類を机に置き、話を聞く姿勢をみせると、侍女たちはきっと決死の覚悟で声を揃えていった。
「「私たち、旦那様へ抗議に参りました!」」
緊迫した様子の彼女らに、エドゥアルトも真摯に受け止めるため、姿勢を正した。
「聞こう」
「どうしてあんなに可愛らしい奥様を放っておかれるのですか!?」
「お世継ぎを作られない意図は一体なんなのか、お聞かせください!」
「ぶっ」
思いがけない問題提議に、エドゥアルトは吹き出した。
「どどどうしてそれを……!?」
なぜ白い結婚と知られているのか、エドゥアルトは動揺する。ちゃんと毎晩同衾しているというのに。
そんな彼に侍女たちは冷静に指摘する。
「寝具の手入れの手間が少ないことで、わかります」
「初夜だって血すら付いていませんでしたから」
「そ、そうか……」
もっと偽装するべきだったと、エドゥアルトは今さら思い知る。
「奥様がお可哀そうです……っ」
「旦那様は奥様にドレスなどを贈ろうともされません……!」
侍女たちも最初の頃は、親しい二人の様子にそのうち機が熟すだろうと見守っていた。しかし、どうしてかロマナは着飾ることにひどく消極的で、彼女たちが奮起してドレスを選んだり髪型を整えても、感謝を口にしながらも申し訳なさそうにする。
そうして、少しずつロマナの微笑みが陰ってゆくのを彼女たちはみてきたのだ。
もう我慢の限界だった。職を失う覚悟をもって二人は、主人であるエドゥアルトの許にきたのだ。
二人の抗議、というより指摘に、自分がいかに夫としての配慮に欠けていたかエドゥアルトは思い知らされた。いわれてみれば、親友だからと思って、女性用の贈り物をしたことがなかった。
「旦那様は奥様に着てほしいドレスなどないのですか?」
「え。うぅーん……」
急に訊かれても咄嗟に回答はできない。考えてみるが、ロマナが着るドレスはどれも似合っていたように思う。スズランをひっくり返したような丸みを帯びたスカートのドレスのときは、三つ編みを後ろでまとめていて、小さなハットがよく合っていた。髪を下ろして、裾が拡がったAラインのスカートのドレスも彼女が歩くたびに揺れて動きがわかるのがよかった。ひとつに絞るのは難しい。
「ナイトドレスでも構いません」
「そうですっ、もし奥様が恥じらっても私たちが説得してお着せします」
「ナ……!!」
ナイトドレスは閨用のそれであり、下着も同然。自分好みの下着を妻に着せるということに他ならない。ロマナの下着姿を想像しそうになって、思いきり頭を横に振って追い払う。親友に対してそんな感情などあるはずもない。あってはならない。
咳払いをし、どうにか平静を装う。
「俺の態度が誤解をさせていたようで、悪かった。その、夜の件は事情があって、だな」
「旦那様、まさか不能なのですか……?」
「どうしましょう。それなら仕方ありません。あんなに健気で可愛らしい奥様と夜を過ごして何もせずにいられるのですから」
「勝手に結論付けるな!」
不能説が濃厚になりそうで、エドゥアルトは慌てて否定した。
「では、奥様をどう思っていらっしゃるのですか?」
「それは、大事に……」
「奥様が可愛いと思わないんですか?」
「そりゃ、可愛いに決まって」
初対面から可愛いのは判っていた。しかし、口にのせてはじめて、ずっとそう思っていたことに気付いた。
ロマナは、愛らしい。可笑しそうに笑うときも鉄男のように大口を開けて笑うのではなく、口元に手をあてて堪えるようにする上品さがある。それに、髪を耳にかけたり、ふとした仕草に艶がある。なにより、自分のために腐心してくれるのが堪らなく嬉しい。
先日作ってくれたキャロットケーキも美味しかった。正直に美味しいといったときの、嬉しそうな笑顔が愛しい。彼女は自分のことでいつでも喜ぶ。
自覚しないよう意識するのを避けていただけで、心はどうしたって愛しいと思わずにいられなかった。
侍女たちの指摘に、否応なしに塞ぎ押し込めていた意識がふき出した。異性だと認識したらお仕舞だと解っていたのに。もう隠せないほどに顔が熱かった。
「……どうするんだ!? お前たちのせいで、今夜から大変じゃないか!」
「まぁ、励まれるのですか!?」
「では、やはりナイトドレスを」
「やめてくれ!!」
エドゥアルトの好感触にはしゃぐ侍女たち。あながち誤解じゃない誤解を解くのに、彼は大変苦労した。
その日の夜、いつも通り夫婦の寝室で寝支度を整え、ロマナは首を傾げた。
「……なぁ、なんか遠くないか?」
「そんなことないです」
横にはなっているのだが、エドゥアルトはベッドの端に沿って横たわっていた。それでは、一度寝返りを打っただけで落ちてしまう。
「その手何?」
「見たら想像しそうで」
エドゥアルトは、ロマナから背を向け、両手で顔を覆っていた。何も見ないように努める彼の様子が、ロマナには不可思議でならない。何を想像するというのか。
というか、視界を塞ぐことで聴覚だけになったため、エドゥアルトはとんでもないことに気付いてしまう。声が全然違う。少女の声だ。口調が男言葉だろうが、声音が可愛らしすぎる。ロマナが声すら愛らしい事実に、彼は怯える。
彼の様子がおかしいものの、訊いても要領を得ないので、ロマナは諦めることにした。
「じゃあ、寝るか」
「あ、ああ」
明かりを消して、ロマナもベッドに横になる。彼女が動くことで、伝わる振動にエドゥアルトはいちいちびくついた。
いくらか時間が経過して、エドゥアルトは眠れずに困った。彼女が同じベッドにいるという一点に意識がいってしまい、睡魔が逃げてゆく。彼女は親友だと何度も心のうちで念じるも、鎮静効果を得られない。
夜の静けさのなかで、自分の心音だけが煩かった。
「……もう、寝たか?」
不意に訊かれ、エドゥアルトは硬直した。起きているのがバレてしまったのかと焦る。ぎゅっと目を閉じて、寝たフリを決め込む。
どれだけ経ったか、数分だったのか、数十分だったのかエドゥアルトには定かではない。一度の声かけがあっただけで、それ以上さらなる問いかけがなかったので、彼女が寝たのだろうと安堵した。
が、それは思い違いだった。
少しばかりベッドが揺れ、エドゥアルトの背後に別の熱が近付く。そしてそれは、額をぴたりと彼の背中につけた。寝巻が少し引かれた感触もあったので、寝巻の背面を掴まれているのかもしれない。
どうしてそんな行動をされるのか解らず、エドゥアルトは困惑する。背中の感触と熱に冷静でいられない。
「エド」
なぜ起きていないと確認してから、名を呼ぶのか。
彼女の行動の理由は判らないが、心臓に悪い。エドゥアルトは鼓動を抑えるため胸部を強く掴む。このままでは、心音の騒がしさで彼女に起きていることがバレかねない。
なにより背中にくっつかないでもらいたい。愛しさに堪らなくなって、思わず振り返って抱き締めてしまいそうだ。それは絶対恐がらせる。彼女は令嬢なのだ。そんなことをした日には、嫌われてしまう。
愛らしすぎる仕草に、エドゥアルトは必死に衝動を抑える。
勃たないなんて、どの口がいえたのか。前世の親友の姿を重ねようと共通点を探すのに、かえって違うところに気付くばかりだ。
その夜はエドゥアルトにはあまりにも辛いものだった。
朝方にはロマナは離れ、起床時間になってから、いつも通り起きた。それに合わせて、エドゥアルトも身を起こす。
「おはよう」
「おは、よう……」
エドゥアルトの朝の挨拶は重かった。一睡もできなかった。これまでなぜ平気だったのかが解らない。
一夜にしてエドゥアルトは限界を迎えた。
「……あのさ、明日から別々で寝ないか」
「え」
寝不足ゆえに漏れた懇願に、ロマナは言葉を失った。想定していた事態が訪れたのでは、と震える。
なんで、と理由を訊くのも、想定が合っているか確認するのも恐い。
沈黙が下りる。エドゥアルトは寝不足で頭が回らないために。ロマナは問いかけを飲み込んだために。
エドゥアルトが、睡魔が沈殿する頭を持ち上げると、ぎょっとする。
「なんだ。どうした!?」
ぱたり、ぱたり、とシーツに水滴の染みができてゆく。ロマナの瞳からは、あとからあとから涙が伝い、落ちてゆく。
「え……?」
エドゥアルトが反応してはじめて、彼女は自分が泣いていることを知った。ロマナがこの家にきて初めて泣いた。
動揺して涙する彼女に近付くも、エドゥアルトはどうするのが正解か迷い、あげた腕が止まる。抱き締めていいものか。頭を撫でたり、涙を拭うのは、親友でもしていいのだろうか。そもそも、彼女は親友ではなく令嬢だ。第一前提が違う。
おろおろと弱り切るエドゥアルトをみて、彼が自分の扱いに困っていることを悟る。
涙が止まらない状態で、ロマナは笑った。
「わた、私、は……、もうエドの親友にもなれない……?」
好きな人ができたのか、と問うことすらできない。ただ、この家に、彼の傍に居場所がなくなったのなら、とても悲しい。
このときになって、彼女が自分のために口調を装ってくれていたことにエドゥアルトは気付く。いつだって、自分のために動いてくれた彼女。そんな最初から、とは。己の鈍感さに、衝撃が隠せない。
もう間違えてはならないと、エドゥアルトは妻をかき抱いた。
「ごめんっ、親友じゃなかった! ロマナだった!」
ずっと偽らせていた。そして、自分も偽っていた。
初めて彼に名前を呼ばれ、涙で滲む視界でロマナは肯く。
「うん、うん……、私、ロマナ・ルベシュといいます。あなたの妻、でいい、の……?」
訊ねられ、確信をもたせることができなかった事実にエドゥアルトの胸は痛んだ。そうさせたのは自分だ。
「ああ。俺、エドゥアルト・ルベシュの妻になってほしい」
エドゥアルトが懇願すると、彼女はこれまでで一番嬉しそうに笑った。
「これで、やっとエドに好きになってもらえるよう、頑張れる」
ロマナの心底嬉しそうな様子に見惚れ、エドゥアルトは伝えるのが遅れてしまう。
これ以上、好きになっては身が持たない、と。
fin.