まだまだプロローグ
「楽しい村だった?」クロは、馬車の窓から俺を見下ろし、ニッコリと笑った。
「楽しくはない」俺は答えた。
「ブルジを確保できて偉いね。ただ、部屋に入る前に、水浴びを済ませて、服も洗濯してね。動物臭いのが染みついてるから」彼女は川の方を指さした。「着替えはこれ」
彼女は布の塊を投げたので、それを受け取った。
まだ、早朝なので、水は冷たいだろう。でも、馬車に乗るには従う他ない。服を脱いで、水の中にゆっくりと入った。プールの水なら、入っていれば慣れるが、この川はそんな水温じゃない。体温を奪い続けるだけなので、素早く済ませた方がいいだろう。川の中に頭まで潜って、自分を世界から隔離した。冷たい川の水が、皮膚にこびり付いていた汚れを洗い落してくれた気がした。水中で地面の丸い岩を掴んで、流されないように抵抗した。立ち上がって、服を洗う。洗ったシャツで体を擦り、その後さらにシャツを洗った。手足を振り回して、体の水気を切った後、髪をバサバサと何度もやってから、クロが用意した服に袖を通した。
馬車の方を見ると、メスのブルジと馬は並んで立っていた。夜中の出来事があったから、ブルジを少し怖いと感じる。足し算を理解しているサルに感じる恐怖と似ているだろう。賢い動物はいるが、それはその動物の習性の延長線上であって、人間のような知性は望んでいない。猟犬と意思の疎通ができるのはいいが、文字を書くゴリラは怖い。怖いというより、嫌悪に近い。人のパートナにはなれるが、人にはなって欲しくない。人間に近づきすぎることへの、根源的な恐怖だろう。リアリティのある人形が怖いのと同じだ。あれは生命がないのに怖い。
形でも知性でも、一定のラインを超えた人間に近い存在は、恐怖の対象となるだろう。神様が人のような形をしているのも、この習性を利用したのだろう。
馬車の扉が開いたので、その中に入った。服は洗濯挟みと同じ仕組みの、たぶん、この異世界でも洗濯挟みと呼ばれているであろうものに挟んで、馬車の外のロープに引っ掛けた。太陽と風で乾かすのだろう。刀は、椅子のすぐ横に立て掛けて、クロと対面するように座った。
「どうぞ」彼女は俺の分の温かい飲み物と、パンを用意してくれていた。お茶に近い飲み物は、冷えていた体温を温め直してくれた。久しぶりの味だ。チャチャの何倍も美味い。
「あのブルジは盗んだの?」クロはきいた。
「いや、貰った」
「へぇ。くれたんだ。そうとうケチじゃなかった?」
「そうでもない。というより、去年、あの村を訪れたイロハって女はお前か?」
「そう」彼女はあっさりと認めた。
「そっちが本名なのか?」
「イロハって名乗れば、あなたが、あの村で警戒されるから。気を使って偽名を名乗ってあげたの。優しいから」イロハは悪戯っぽく笑った。
彼女の顔はリズに似ているから、調子が狂う。なんでも簡単に許してしまいそうになる。
「俺と出会った時から、あの村に寄ることは決まっていたのか?」
「ブルジが必要って言わなかった?」
「ああ。そういえば言っていたな。でも、盗んでいいなら、もっと簡単だったんじゃないのか?」
「盗みは犯罪だからね。貰えるなら貰った方がいいと思って」
「それだけじゃないはずだ」俺は彼女を睨んだ。
「なにが?」
「他にも、なにかを確かめたかったんだろ?」
「なんで?」
「善人は、盗んだものかどうかを確認したりしない。初めから、俺が盗んで手に入れると思っていたんだろ?」
「まぁ。そう」彼女はそこで無邪気に笑った。「だって、あの男。名前なんだっけ?全然、ブルジをくれないから」
「フリーマンか?」
「違ったと思う。若めの」
「キムチか?」
「ああ。そんな名前だった。よく交渉できたね」
「いや、キムチは死んだ。村の長はゴーヤって、もっと若い男に変わった」
「ゴーヤ?ああ。あの子ども?……そっか。キムチは死んだか」彼女はカップを口に付けた。
「あの村はなんなんだ?」
「面白い村でしょ?」
「いや、まだ理解できていない。去年、イロハは、フリーマンのブルジを殺したときいた。それは本当か?」
「うん」彼女は頷いた。
「なんで殺したんだ?」
「そりゃ、あの老人が女の子に酷いことをしていたからね。殺してもよかったけど、キムチとその兄に説得されちゃって。それで、ブルジだけを殺したわけ」
「それで、祭りの後、キムチからブルジを貰ったのか?」
「そう」
「キムチは、善人だったのか?」
「善人?さぁ。老人よりはマシだと思うけど。なんで?」
「新しい長に殺されたんだ」
「そう。殺されるくらいの悪さはしたんじゃない?」
「だったら、村は、今後、よくなっていくのか?」
「あんなシステムでよくなるわけないじゃん」彼女はあっさりと答えた。
「……まぁ、そうか。昔、あの村に立ち寄ったのは、ブルジの肉が必要だからか?」
「そう」
「他の大型の動物の肉でもよかったんじゃないのか?」俺は彼女を睨んだ。
「………ホントの目的は、ブルジの再生能力を確かめる為だった。あの村を訪れるちょっと前に、旅人からブルジの話をきいたの。その旅人は、ブルジがいる不思議な村について話してくれた。その村に自分の子どもがいるかもしれないとも言っていたから、それなりに滞在していたのかもね。私は再生能力が、動物本来の自己治癒力によるものなのか、それとも、治癒能力者がその村にいるのか、確かめる必要があった。それで、しばらく滞在して、ブルジに興味が沸いたから、貰う為に色々と交渉したわけ。キムチは、神様がどうとか面倒な話ばっかで、ケチ臭いったらなかったけど、長にしてあげたら、納得してくれた。滞在中にブルジの病気も治してあげたのに、くれないっていうし」
「なんで治癒について確かめる必要があったんだ?怪我でもしていたのか?」
イロハは、こちらをジッと睨んだ。一秒の沈黙の後、彼女は笑った。
「勘がいいね。私が怪我をしたわけじゃなく、怪我を治して欲しくないやつがいた。そいつに能力を悪用されるのを阻止する為に訪れたわけ」
「それは誰なんだ?」
「あなたには関係ない」
「そうだな。それで、ブルジの治癒力の秘密はわかったのか?」
「わかった」
「それはなんだ?」
「あの話はきいた?ブルジが生まれた起源。神様が愛の言葉を囁いて、朝になったら牛がブルジになっていたってやつ」彼女は質問には答えず、話題を変えた。
「ああ。ブルブル様の話だろ?きいた」
「あれをどう解釈した?」
「解釈?別に。宗教の起源としてはよくありそうな、ありふれたあり得ない話だ」
「あれはあながち嘘じゃないと思うんだ」
「そうなのか?」
「この地域に生息する牛と、ブルジの見た目は似ている。でも、この辺の牛にあんな治癒力はない。あの村の牛だけが、特別だった。これは大きな力によって、無理やり得た能力と断言してもいい」
「ブルブル様が、牛をブルジに変えたのか?そういう能力者だったのか?」
「それなら、その個体や周りの個体を変えるのが精一杯。子孫にも治癒力が遺伝するなんて考えられない」
「子どもに遺伝させるギア能力もあったんじゃないのか?」
「違うと思う。あれは、ブルジが願った能力」
「ブルジが?」
「そう。腹を空かせている飼い主が、今にも倒れそうだったから、自分の肉を差し出した。何度も何度も、食べられるように、再生する力を望んだ。ギア能力は、その願望を叶えた」
………。
思いもしない答えだった。
全身に鳥肌が立った。
「えっ?それじゃ…」俺は呟いた。
「ブルジは、ブルブル様を愛していたんだろうね。遺伝するくらい」彼女の綺麗な瞳を俺を捉えたまま言った。
「動物でも、能力が開花するのか?」
「オーラは全ての生物が纏っている。それを操れるかどうかは、個体次第だけど。だから、動物がギア能力を使えても、不思議じゃない」
「ブルジってなんだ?それ以外にも、人を操って喋らせていたような仕草をしていた。もしかして、あれもギア能力か?」
「ブルブル様のブルジは、彼の言葉が通じただろうね。だから、ブルジはその身を捧げた。でも、ブルブル様がいなくなって困ってしまった。ブルブル様ならコミュニケーションも取れただろうけど、その子どもはそうじゃなかった。だから、人を操り、言葉を伝える必要があった。ブルブル様の子孫に、その代弁者の役割をさせていた。ブルジが代弁者を使い、言葉を伝える。それを聴くのが長の役目。二人は、夜の間にブルジの元に訪れていたわけ。それがあの村の秘密」
夜の間。
なら、日が沈んでから外に出てはいけないのは、ブルブル様の代弁者が、長じゃないとバレないようにする為なのか。代弁者は、チェコだった。
「子孫……。もしかして、チェコの前は、彼女の母親がその代弁者だったのか?」俺はきいた。
「チェコ?懐かしい名前。そう。彼女の母親がその役割を果たしていたけど、チェコに変わった。でも、母親はそれに反対した。たぶん、相当疲れるんだと思う。まだ小さい自分の娘にその役目を押し付けたくなかった。でも、それがブルジからしたら、反乱だった。だから、異分子を消す為に、ブルジは、母親を消すように代弁者を使い、キムチに伝えた。キムチは、それを兄に相談したら、兄も抵抗を示してしまった。それで、ブルジは、チェコを代弁者として、彼女の両親を殺す命令を下した。キムチは、長として、それに従うしかなかった。でも、それをチェコに伝えられなかったから、彼女には事故と伝えた」
「そんなことが……」
もしかしたら、ゴーヤは、キムチが両親を殺す場面を見たのかもしれない。だから、憎しみを抱いていたのかもしれない。
でも、キムチは、殺したくはなかったのだろう。ずっと責任を感じていた。だが、長の自分が死ぬなんて無責任な真似はできなかった。ブルブル様の命令に逆らうこともできなかた。だから、ゴーヤを勝たせたのか。
「なんで、ブルジは人を殺すんだ?村人は、ブルブル様の子孫なんじゃないのか?大切だったんじゃないのか?」俺はきいた。
「種としての存続を願っているんじゃない?病気の個体がいたら、感染する前に、それを素早く排除する。癌細胞を除去するのと同じ方法。選択としては、間違っていない」
「それじゃ、ブルジがあの村を支配していたのか?」
「言わなかったっけ?ブルジが中心の村だって」
「動物が人間を支配するなんて、考えられないから」
「ブルジにとっては、贅沢な生活だと思うよ。ご飯は毎日あるし、自分たちの糞の処理も、体の汚れを洗い落とすのも、人がやってくれたんだから。さらに、人間から鞭を伝ってオーラを貰うこともできる。これは特異な関係性だからだと思う。普通は、他人のオーラを受け取っても、それを自分の中で溜めておくことなんてできない。なのに、ブルジにはそれが可能だった。オーラはエネルギィそのものだから、人間からオーラを貰う行為は、何事にも代えがたいものだったと思う。ブルジの治癒力の高さも、このオーラに関係している。ブルジ自身のオーラと、人間からのオーラを貰って回復に当てている。人が手綱を握ることでも、オーラをブルジに分け与えていた。そうやって、ちょっとずつ、搾取していた。肝心なのは、人間がブルジを飼っていると思い込んでいるところ。ここが重要になる。ブルジに支配されているけど、そのことに気付いていない。自分たちは自由だと思っている。でも、それはあの村に限ったことじゃない。殆ど全ての人間は、支配されている。相手が人間だったり、天候だったり、人間関係だったり、社会だったり、自分だったり。支配されずに生きている人なんて、ごく僅かしかいない。だから、あの村の人間を笑うことなんてできない」
「……その通りかもな」
溜息が出た。
村を囲う壁も、家を守る塀も、玄関の扉もない村だった。どこから村で、どこから村の外なのかわからない。広い草原の中にある、自由な村なのに、自分たちの行動を制限している。男女で分けて、仕事を課して、目標を立てて、役割を与えて、家の中に閉じ込めて、人間を支配していた。
でも、それは、神様の使いのブルジが支配していたのだろうか?
人が自分で自分を閉じ込めていただけじゃないのか?
ブルジの声が聴こえなくなったって、彼らは同じ生活を続けるだろう。自由になるには、村の外に出るしかない。誰も、なにも囲っていないのに、たぶん、どこにも出て行かないだろう。チェコは、外の世界に興味を持っていたが、あの村で一生を過ごすだろう。自分には外の世界で生きられないと、勝手に思い込んで、あの村に自分を閉じこめたまま、生きるのだろう。
悪くはない。それでも、幸せにはなれるかもしれない。
でも、やっぱり……。
彼女に対して、どこか一歩引いていた理由がわかった気がした。
諦めて欲しくなかったのだろう。
「それより、なんで、あの村に一週間も俺を閉じ込めたんだ?ブルジを手に入れるなら、他にも方法があった。その質問に答えていない」俺はきいた。
「簡単だよ。同居人がどんな人間なのか、見定めたいと思っただけ」彼女はあっさりと答えた。
「結果は?」
「これからもよろしく。乾杯」イロハはカップを持ち上げて、微笑んだ。
「…そう。不満はあるけど、乾杯。こちらこそ、よろしく」
俺はカップを持ち上げた後、中の液体を飲み干した。