第二章 20
ゴーヤの部屋を使っている。
ここには、俺以外誰もいない。ゴーヤはキムチが使っていた広い家に引っ越したそうだ。そちらが長の住まいらしい。キムチの家族は、別の家にお世話になっているという。彼には子どもがいた。あの光景を見ただろうか?あの子どもが大きくなった時に、この村はどうなるのか?
夕食は祭りの残ったブルジの肉だった。それを大量に食べて、全身に力が漲ったような気がした。やっぱり、人間は肉を食べないと力が出ない。サボテンモドキなんて、人の食べるものじゃない。
一度眠りについたが、夜中の内に目が覚めた。ベッドから降りて、静かに身支度を済ませた。刀を腰に差しただけだが。そのまま外に出た。
月が出ているので、足元の凹凸は見える。住人に気付かれないように集落から東に向かって、川を上って北エリアに向かった。ブルジは眠っている。どれが自分のブルジなのか、さっぱりわからない。こんな状況では、間違えたってしょうがないだろう。
首元に丸い傷跡の残ったブルジを発見した。そちらに寄って、背中を撫でた。ブルジは全く起きない。
「おい。起きて歩いてくれ」俺はブルジの耳元で話しかけて、何度か叩いたが、起きる気配がなかった。
「まだ動けないよ」突然、背後から声がした。
心臓が脈打ち、振り向きざまに、刀の柄を握る。
そこにはチェコが立っていた。月明かりに照らされた彼女は、両足を揃えて立っていた。戦闘の意思はなさそうだ。
「その子、怪我が治っていないの。治るまで眠ったまま休んでいるから」彼女は俺の隣にいる首に怪我をしたブルジを指さした。
「なんでここにいる?」俺はきいた。
「夜の内に出て行くのかなって。お礼を言ってなかったし」彼女の声は、落ち着いている。でも、どこか冷たく、どこか妖しい。今まできいた、あどけない少女の声ではない。
「お礼?」
「キムを殺してくれたお礼」
「そんな必要はない」
「うん。でも、ありがと。キムの代わりに言うね」
「……キムの代わり?ゴーヤじゃなくて?」
「うん。彼の願いだったから」
「なにが?」
「自分が死ぬこと」
「……は?なんで?」
「自分の好きな人と大切な兄を死なせてしまったんだから、不思議じゃないでしょ?」彼女は首を傾げた。それが当然だ、という表情だ。
「えっ?」
「あれは本当に事故だった。でも、キムは自分を責め続けていたし、自分が長の期間に死ぬなんて無責任なこともできなかった。だから、今日で彼は救われたの。ありがと」彼女は寂しそうな目をしたまま、口だけ笑った。
事故?
殺されたんじゃなかったのか?
「それが本当だとしても、お前はキムチを許せたのか?」俺はきいた。
「許す?ああ。あれ?」彼女はフッと息を吹き出した。「私が酷い目に合っているって、誰からきいた?この村の誰かがそんなことを言っていた?私しか言ってないよ。あんなセリフを信じてくれたの?」
「……ゴーヤは言っていた」
「そりゃ、お兄ちゃんには、長として一人前になって貰わないと。元々、怠け者で自分勝手な性格だったけど、私の為に精一杯頑張ってくれたし、キムを嫌いにならないと、キムが救われないから」
「もしかして、キムチのブルジを殺したのは、キムチの命令だったのか?」
「そう。お兄ちゃんが勝っても不思議じゃないように。仕組まれていたなんて知ったら、自信を無くしちゃうから」
「綱引きの時にロープが切れて怪我をしたのは?」
「フリーマンの仕業ね。あの人、キムのことが大っ嫌いだから。死んで終わりにしたくなかったんだよ」
………。
月に照らされた彼女は、微笑んでいる。
風が吹いて、地面の草と彼女の髪を揺らした。まるで、巨大な生物のように、夜の風は踊った。
「なんで、外に出ているんだ?」俺はきいた。
「ブルブル様の声を聴いたから」彼女は答えた。
「ブルブル様の声?」
「長になった人は、ブルブル様の声が聴こえると思う?キムは、負けた瞬間に聴こえなくなって、ゴーヤは勝った瞬間から聴こえるようになったと思う?」
「思わない。そんな声はどこにもない。人を支配するのに便利なだけだ」
「そう。便利なの。人を支配するには、ブルブル様の声が便利だったの。その為には、言葉を扱う者を操る必要があった。我々は全ての言葉を理解しているわけではない。だが、少しなら知っている。命令も下せる。全てが意のままに操れる」途中から、チェコの表情は消えた。目を開けたまま意識を失ったように見える。突然、人形に変わったような。声も口調も変わった。こっちを見ているのに、目の焦点がどこにも合っていない。
「誰?」
俺は刀の柄を握り、体勢を低くし、そのまま摺り足で距離を取った。
「構えるな。争いなど望んではいない。お前の望みは、同胞だったな。こやつをやろう。好きにすればいい」チェコの口から発せられた言葉だった。
でも、彼女の意思が介入しているとは思えない。
気が付くと、何十頭ものブルジが起き上がって、彼女の後ろに立っていた。ブルジの目が月光を反射して、緑色に輝いている。
その中の一頭のブルジが、ゆっくりと俺の元に歩いてきた。
「どういうことだ?チェコは?」俺は呟いた。
「お前には関係ない」チェコは答えた。口調も抑揚も、いつものチェコじゃない。
「全部、お前らがやったのか?」
「そうだ」
「キムチが死んだのも計画の内か?」
「そんな小さなものは、計画に含まれてはいない。人間が一人死のうが、些末な問題じゃないか?種としての方向が、時の流れが、我々の望む全てだ」
「なにを言っている?」
「去れ。別れの挨拶は済ませたはずだろ?」
「なんの為にこんなことをやっている?」
「親友との約束の為だ」
こちらに歩み寄ってきたブルジが、俺の体を優しく押した。
その力に押されて、歩くしかない。北へ。あまりにも密着していて歩きづらいので、早歩きをして距離を取った。一頭のブルジは、俺の隣をついてくる。
振り返って、確認すると、ブルジたちは動物のように、自由に動き回っていた。そして、適度な間隔を開けて、地面にしゃがみ込んで眠りについた。
こちらを見ているチェコが、俺の知っている彼女なのかどうかはわからない。
そもそも、俺が理解したのは、彼女のほんの一部で、さらに、嘘で塗り固めらえていたのだろう。その嘘がどこから嘘なのかも、今となってはわからない。
何十年にも渡り、肉を削り続けて地面に付着した血のグラデーションのような嘘なのだろう。明確な境界のない、曖昧で、長い年月を掛けた嘘だったのだ。
しばらく歩いて、もう一度振り返った時には、彼女の顔の表情は、小さくて、暗くて、見えなかった。ブルジたちは、夜の中で岩のように眠っている。
その奥に見える集落が、この大自然の中、人間を閉じ込めておく檻にも見えた。




