正月②
詩羽は匠の顔が暗くなるのを見た。
だが、思ったほど深刻な顔はしていなさそうだ。
だからと言って自分が失態を犯したことがチャラにはならない。
「すまんな。軽率だった」
声のトーンをワントーン落として謝罪した。
匠は頭を横に細かく振った。
「いえ、平気です・・・・・・」
弱々しく微笑みながら言った。
新しい人生が始まったからと言って彩羽のことを忘れたわけではない。
新しい恋ができたからと言って彩羽のことを忘れたわけではない。
より正確に言うと愛した人の夢を奪い、人生を奪った自分を許したわけではない。
自分がもっとしっかりしていれば彩羽の夢は続いていた。そうすれば、もしかしたら彩羽は生きていたかもしれない。
たらればであり、結果論でしかないことはわかっている。
だが、人生の歯車を壊したのは・・・・・・
匠の頭の中にはそんな思いが繰り返されていた。
「松雪、考えすぎるな」
うつむきかけていた匠に声をかけた。
匠はそっと詩羽の方を見た。
「如月さんが教師を辞めたのは松雪のせいではなくあの教師のせいだ。如月さんが亡くなったのは信号無視をした運転手のせいだ。悲しむことをやめろとは言わん。ただ、自分を責めるな。もっと自由に生きろ。如月さんも松雪が楽しそうに生活をして、嬉しそうに教師をやってるのを空から見るのが好きだと思うぞ。彼女を幸せにしてやれ。それは松雪にしかできないことだ」
ゆっくりと、優しく、力強く、はっきりと、匠に伝えた。
今までなら匠の傷をさらに広げるかもしれなかったので言えなかった言葉が、今日はすんなりと言えた。
匠はその言葉を胸で受け止めた。
詩羽の言うとおりだと思った。もうこれ以上、誰かを苦しませるわけにはいかない。自分が悲しみの種になることだけは避けなければならない。
「ありがとうございます」
詩羽をまっすぐに見ながら感謝を伝えた。
詩羽はその返事を聞いて。その顔を見て、もう大丈夫だと思った。
その後二人はたわいもない話を続けた。
匠の最近の近況、詩羽の近況、学校でどんなことがあったのか、どんな生徒に出会ったのか、どんな体験をしたのか。
匠の話に詩羽は正直驚かされた。
匠が自分から過去のことを話したことにも驚かされたが、それを生徒が受け入れ、生徒とともに成長していることにも驚かされた。
匠が楽しそうにそのような話しをするのを、詩羽は教え子の成長を確認しながら見ていた。
高校入学から一貫して教師になりたいと言っていたあの頃の匠と同じ顔をしていた。
すべてを失ったあの頃の顔が嘘のようになくなっていた。
「そう言えば、恋人でもできたか?」
詩羽が新しい缶ビール(三本目)を開けながら匠に聞いた。
それよりも匠はまだ朝の八時にもかかかわらず、それだけ飲んでいる詩羽の方が心配だった。
どれだけお酒が強いのか、と思いながら匠はそれを言わないでおこうと思った。
そう言えば、高校のとき、他の教師から飲み会で全員ダウンするまで詩羽に飲まされたというのを授業で聞かされた気がするのを思い出した。
絶対に飲みの誘いにはのらないでおこうと思った。
「・・・・・・まぁ」
来夢の顔が目に浮かんだ。
「おっ、本当か!?」
詩羽が食い下がって聞いてきた。(別に酔っているわけではない)
匠はその勢いに一瞬押されたが、最近はこのようなのりにも慣れてきたので(主に来夢、莉子、穂高、努のせい)すぐに口を開くことができた。
「はい・・・・・・」
詩羽はずいぶん歯切れの悪い答えだと思った。
その理由が聞きたくて匠をずっと見ていた。
その意図が匠にも伝わったらしく小さくため息をついてから匠は口を開いた。
「・・・・・・そうですね。好きな人はできました。自分のことより他人を優先して、人のために頑張って、迷惑をかけないように一生懸命になる人です。たまにそれがいきすぎて自分を押し殺してまで頑張ろうとするときもあるんですけど。でも、俺のことを救ってくれて、俺のことを認めてくれた人なんです。ただ、かなわぬ恋なんですよ・・・・・・俺の力じゃどうしようもならない恋なんですよ・・・・・・だから、俺もどうすべきなのかを迷ってます」
匠は自分の正直な気持ちを伝えた。
詩羽は匠がどういう人物に恋をしているのかがわかった。
だからこそ、自分も教師だからこそわかることがある。その恋は一般常識的に見ると、してはならない禁断の恋だ。
だから同じ教師として応援はしてはいけないことは重々承知している。
だが、どうしても言いたいことがあった。
「松雪」
詩羽の声が迷っていた匠の心に入ってきた。
匠が詩羽をまっすぐに見ると自分の心とは対照的な澄んだ目が匠を見据えていた。
「松雪、その気持ちは本物か?」
シンプルで深い問いだった。
「もちろんです」
匠は一瞬も逡巡することなく瞬時に答えた。
その答えを聞いて詩羽は微笑んだ。
「なら、もう答えは出てるんじゃないか。今は無理でもこの先がある。もしも松雪がその人を本当に好きなら時間をかけてでもその気持ちを伝えろ。もう二度と後悔したくないんだろ」
詩羽の言葉に匠は靄が晴れた感覚に陥った。
雲が晴れて、太陽が見えた。悩みが消えて、本心が見えた。
(そうだよな・・・・・・)
この気持ちを隠して伝えられないまま終わるのは嫌だ。
ならば伝えればいいじゃないか。たとえ時間がかかったとしても。
匠の人生は再び時を刻み始めたばかりだ。故にまだ未来はある。
来夢と、来夢たちともっと思い出を作って、もっと来夢のことを好きになればいい。
伝えるべきときに、この想いを伝えればいい。
それまではこの想いをゆっくりと温めていけばいい。
匠はそう思った。
匠は無言で頷いた。
詩羽も微笑みながらビールの缶を匠の方に出した。
匠も苦笑いをして自分の缶を差し出す。
二つの缶が軽い音を出した。
その澄んだ音が、匠の気持ちを、上手く表現していた。
「それでは詩羽さん、今日はありがとうございました」
匠は待合室の外で頭を下げながらお礼を言った。
外は寒かったが今の匠にはそんなことは気にならなかった。
「おう、また何かあったら来い」
ろれつがしっかり回っている。顔も赤くなってない。(結局あの後も話をしながら飲んだので合計で四本飲んだ)
詩羽が右手を出した。
それに合わせて匠も右手を出して握手をした。かたい、かたい握手を。
この時間を永遠に忘れないようなあつい絆が生まれていた。
「それでは、また」
匠が再びお辞儀をして、体を反転させて歩き始めた。
「あっ、ちょっと待て」
後ろから詩羽が声をかけた。
匠が振り返ると詩羽が何かを考えていた。
すると何か結論が出たような顔をした。
「いや、何でもない。気をつけてな」
それだけ言った。
匠は不思議に思ったが、言いたくないようなことをわざわざ聞くような野暮なことはしたくないと思ったので少し頭を下げた後、前を向いて歩き始めた。
後ろは振り返らなかった。なんとなく振り返らない方がいいような気がした。
詩羽も匠が見えなくなるまで静かに見送っていた。
匠の新年が一日遅れで始まった。
詩羽は自室にいた。
教え子と話す機会などなかなかないので嬉しくてつい飲んでしまったが、さすがに朝から少し飲み過ぎたような気がした。
だが意識には問題ないどころか上々だったので結果よしと思っていた。
自室にある机を開けた。
中には文房具などが散乱していたが一カ所だけ他から区切られて文房具がないところがあった。
その区画には小さな箱が納めてあった。
詩羽はそれを大事そうに取り出して優しく持った。
ゆっくりと蓋を開けるとそこには宝石のついたきれいな指輪が入っていた。
「如月さん、ごめんなさい。今日も渡せませんでした。でも、松雪はもう大丈夫そうですよ。だから、早く如月さんも楽になってください」
指輪に語りかけた。
彩羽が匠に送るはずだった指輪が闇から解放されたように輝きを放った。




