正月①
1月2日の朝。
匠は初詣のためにある神社に来ていた。とは言っても初詣が主の目的ではなかったが。
この神社には昔から来ているということも、毎年来ているということもない。
むしろ一度しか訪れたことはなかった。
鳥居のすぐ前で一礼をしてから中へ入る。
小さな神社なので匠以外に人がいない。
ひんやりとした空気を感じながら参道の端を歩く。
石畳の参道には汚れの一つもない。
前に来たときもそうだった。ここの宮司の細かさがうかがえる。
参道の脇にある手水舎で手と口を清める。
水はこおりそうなほど冷たかったが、緊張している自分を落ち着けるにはこのくらい冷たい方がいいと匠は思った。
賽銭を行い、二礼二拍手をして感謝の気持ちを伝える。
去年は匠の中で大きくことが動いた年だった。
過去から匠を解放して、新しい人生を歩むことができるようになった。
感謝を伝えたいのは神様だけではない。たくさんの人の顔が思い浮かぶ。
特に一人の人物の顔が刻銘に浮かぶ。
匠が立ち直るきっかけをくれたあの子の顔が。
(来年も、彼らの担任ができますように・・・・・・どうか、よろしくお願いします)
匠は神様にお願いした。
もっと彼らといたい。彼らの成長を見届けたい。できれば彼らが卒業するまでクラス替えがない方がいい。
そして、来夢と・・・・・・もっと過ごしたい・・・・・・
一礼をして体を直す。
ゆっくりと体を横に向けて待合室のような場所に向かって歩き出す。
遠くからでも人影が見える。
匠は少し安心した。
約束をすっぽかす人でないのはわかっているが、それでも自分が一方的に、しかも正月という神社では一番忙しいときに呼んだのだからドタキャンされても文句は言えない。
だがその人はしっかりと待っている。
(さすが、生徒想いの人だ・・・・・・)
自分の憧れた人に改めて畏敬を感じる。
待合室のドアをゆっくりと開ける。
古い建物なのでドアが大きな音を立てながら開く。
「すみません。お待たせしました、三嶋先生」
匠が中にいた人に呼びかけた。
その声に反応してロングヘアの女性が振り返った。
「松雪。先生はやめろ、先生は。今は松雪の先生ではない」
三嶋と呼ばれた女性は右手を振りながら「先生」という単語を拒否した。
匠が左手をい見るとビールの缶が握られていた。
三嶋 詩羽。匠の高校時代の数学の教師にして、匠が教師になりたいと強く思うきっかけをくれた教師である。
この神社は詩羽の家系がずっと続けている神社だ。
詩羽の兄が次の宮司になることが決まっていたので詩羽は教師になることができた。
ちなみに既婚者だが、婿入りという形だったので詩羽の名字は変わらなかった。
詩羽はストーブの前で足を組みながら座っていた。
匠よりも年上のはずだが年齢よりもずっと若く見える。
「俺にとっては、先生は先生ですよ」
「今の松雪にそう言われるとこそばゆくなる」
「じゃあ、三嶋さん」
「ここには三嶋が多いんだ。紛らわしいから、詩羽にしてくれ」
「わかりました。詩羽さん・・・・・・って、俺が照れますね」
二人は何でもない会話を繰り広げた。
部屋の温度が少し上がったような気がした。
「まぁ、座れ」
詩羽はストーブの周りに円形に並べられている椅子のうち、自分の目の前にある椅子を指して言った。
匠は「わかりました」と言いながら頭を下げた後その椅子へ歩いて行って座った。
匠が座るやいなや詩羽が自分の隣の椅子に置いていた予備のビールの缶を匠に差し出した。
「付き合え」
「まだ、朝ですよ」
「へぇ、恩師の誘いを断るのか」
「こういうときだけ先生を使いますよね・・・・・・じゃぁ、お言葉に甘えて」
詩羽が差し出していた缶を受け取るとプルタブを開けた。
プシュッという音を立てると飲み口から泡が少し出てきた。
匠はその泡をこぼさないように慌てて飲んだ。
ずっとストーブの前に置いてあったせいか少しぬるかった。
「松雪とこうやって会うのは久しぶりだな」
匠が一段落ついたのを確認すると詩羽が思い出すように言った。
匠は正直もう少し待ってほしかったが、こんな回答に待たせるのも申し訳ないと思った。
「そ、そうですね。俺が新任のときの正月に来た以来なんで、もう八年くらい前になりますか」
缶を自分の椅子の横にある椅子の上に置きながら言った。
「もうそんなに経つのか・・・・・・私も年をとったな・・・・・・」
「そんなことないですよ。まだまだお若いです」
「私を口説こうとしても意味ないぞ」
詩羽は自分の左手の薬指に輝く指輪を匠に見せた。
「俺にそんな趣味ありませんし、三嶋先・・・・・・詩羽さんを口説くなんて恐れ多くてできませんよ」
匠は肩をすくめながら言った。
詩羽もその解答を聞くと微笑して左手を下ろした。
「そうだな。松雪にはあの彼女が・・・・・・」
と言ったところで詩羽は口をつぐんで匠の方を見た。
言ってはならないことを言ってしまった。
匠の心の傷に塩を塗ってしまったと思った。




