クラス
入学式が終わり新入生はそれぞれのクラスに移動した。
匠も二組の教室に配布物を持って行こうと廊下を歩いていた。
「あっ、松雪先生ですよね」
匠は少しビクッとなった。
「ごめんなさい。驚かせちゃいました?」
匠は声の方を見た。
そこには黒髪ロングの女子生徒が立っていた。
匠がこちらを見ていたので少し居心地が悪くなったのだろう。
「あ、あの先生・・・・・・そんなに見なくても・・・・・・」
本当は匠の死んだ魚のような目が怖かったのかもしれないが。
「ああ、すまん」
匠は目をそらしながらぼそりと言った。
「それプリントですか?持ちますよ」
と言うと匠の返事を待たずにプリントを半分持った。
「いや、いいぞ」
「大丈夫ですよ!さ、行きましょう」
女子高生はニコッと笑顔を見せたが匠は無反応だった。
「そう言えば、自己紹介がまだでしたよね」
話すことがないからだろうか、それとも常識的にお互いの名前は知っておくべきだと感じたのだろうか。どちらにしても女子生徒から自己紹介を始めた(と言っても女子生徒は匠の名前を知っているので当然と言えば当然だが)
「私の名前は朝比奈 来夢です。スダチでもレモンでもなくてライムです」
お決まりの自己紹介なのだろう。
「先生と同じ二組です」
と言い終わると来夢は匠をじっと見た。
「・・・・・・」
特段人見知りというわけでもないが心を閉ざしている人間には少々酷な瞳である。
「俺は松雪 匠。君たちの担任」
それだけ言うと匠は歩く速度を速めた。
「ちょっ、ちょっと待ってください。早いです」
来夢は少し息を切らしながら追いかけてきた。
さすがの匠も悪いと思ったのだろう速度を落とした。
「はぁ、はぁ。先生の紹介はそれだけですか」
「担当は化学」
「それは知ってます」
そうじゃなくて、と言いたげな瞳を匠に向ける。
「あっ、でもそうか。私も名前だけでしたもんね」
来夢は一人で何かを納得した。
もちろん匠は来夢が名前しか言わなかったから自分も名前だけ言ったのではなく、言う気がなかったから言わなかったのだ。
「えっと、私は中学ではソフトテニスをしてて、高校でもソフトテニスに入ろうと思ってます」
二人は歩きながらまた自己紹介に続きを始めた。
「得意科目は国語で、苦手科目は数学と化学。典型的な文系ですね」
来夢の自己紹介を匠はただ前を見ながら聞いている。
「高校ではたくさんの思い出を作りたいです」
(抽象的だな)
匠は心の中でぽつりと感想を言った。
「はい、次は先生の番ですよ」
来夢が匠の方を向いたのを匠は横目で確認した。
「もう教室だ」
匠は逃げる口実ができてよかったと思った。
一方の来夢は「えー」という表情を浮かべていた。
「ありがとう」
「いえいえ、どういたしまして」
来夢からプリントをもらった。
そして来夢は後ろから、匠は前から教室に入っていった。
匠が教室に入るとすでに席は埋まっていた。
残るは来夢だけだったのだろう。その来夢も今着席した。
「よし、ではホームルームを始める」
匠は依然やる気のなさそうな声で言った。
「とりあえず俺の自己紹介だ」
と言うと匠は黒板に自分の名前を書き始めた。
「俺の名前は松雪 匠。担任。よろしく」
それだけ言うと匠は礼をした。
クラスからまばらな拍手が起こっていたが次第にクラス全体の拍手になった。
「副担任の先生は後から来る。とりあえず配りものをする」
そう言うと匠は何枚かのプリントを配った。
「プリントを読んでおくように」
とだけ伝えると匠は教室から出て行った。
その様子をほとんどの生徒が訝しげに見ていた。
「はぁ、はぁ、はぁ・・・・・・」
教室を出た匠は職員室へと直行した。
職員室に入るとすぐに自分の椅子に座り、頭を抱えてうずくまった。
途中声をかけようとしていた生徒もいたが声をかけられないように早歩きをしたため声をかけられずにすんだ。
しかしこの息切れは早歩きのせいではない。
匠は胸の奥底が苦しくなるのを感じていた。
(俺にできるのか・・・・・・)
心の中でつぶやく。
(担任・・・・・・もしかしたらまた・・・・・・)
そう思うと急に吐き気がしてきた。
なんとかその吐き気を抑える。
(落ち着け。落ち着け)
肩で息をしながら自分に言い聞かせる。
「松雪先生、大丈夫ですか?」
不意に上から女性の声がしてきた。
匠が顔を上げるとそこには心配そうな顔をした若い女性の教師が立っていた。
「・・・・・・双葉先生、すみません、何でもないです・・・・・・」
そう言うと匠はゆっくりと立ち上がった。
双葉 紗椰。一年二組の副担任だ。
去年入ってきた、今年二年目の新人教師。
特に匠との面識はないが高校の先生内ではすでに「ドジっ娘」キャラで定着しているようだ。
「心配をおかけしました」
匠に悪気はない。だがその言い方がすべてを拒んでいる雰囲気をまとっている。
紗椰は自分が何かしてしまったのかと思った。
「あ、あはははは。そうですよね。担任ってやっぱり大変ですよね。私はまだ教員2年目なのでわからないですがきっと大変なんですね」
何が「そう」なのかはわからないが、紗椰は慌てて言った。
この高校のほとんどの教師が匠のことを知っている。
それは有名人という意味ではなく、匠の過去を、匠の状況を知っていると言うことだ。
だからほとんどの教師が匠を気にかけて行動する。
だが、紗椰にはそんなそぶりはない。普通に接している。
(もしかしたらこっちの方が気が楽かもな・・・・・・)
匠は自分が落ち着いているのを感じた。
その様子が紗椰にもわかったのだろう。
「よし。じゃあ、松雪先生。教室に行きましょうか」
と明るく言って歩き始めた。
そのときに匠の隣の机の上にあったプリントをばらまけた。
「あわわわわ。ど、どうしよう」
とすぐにプリントを回収する紗椰。
しかし匠は動けなかった。
拾おうとはした、だが体が動けなかった。
自分の行動が本当に合っているのか自信がなかった。
もしも拾うという行動が紗椰にとって邪魔だったらまた自分はいじめられるのか。
拾おうとして余計にややこしくしてしまったらどうしよう。
そんな思いに駆られて匠はただその場に立ち尽くしてしまった。
その後、匠と紗椰は教室に戻った。
「私の名前は朝比奈 来夢です。スダチでもレモンでもなくライムです」
教室から明るい声と笑い声が聞こえてきた。
どうやらクラスのメンバーが自己紹介をしていた。
来夢の自己紹介はやはりこれがテッパンのようだ。
その笑い声も匠と紗椰が教室に入ると徐々に収まった。
匠は教室の隅に行き、紗椰が教壇に立った。
紗椰は自分の名前を黒板に書いている。
「えーと、このクラスの副担任になりました、双葉 紗椰です。趣味は読書と買い物。おすすめの本があれば是非教えてください。担当科目は数学です。まだ新任なので皆さんに迷惑をかけるかもしれませんが一緒に歩いて行けたらいいなと思います。一年間よろしくお願いします」
紗椰は頭を下げた。
とほぼ同時にクラス中から大きな拍手が起こった。
匠の時とは大違いだ。
まぁ、自己紹介の丁寧さが全く異なる上に、まだ大学を出て2年目。初々しさの残る姿が生徒にとっては親しみやすいのだろう。
(俺もこんな時期が・・・・・・)
匠は紗椰の姿を見ながら昔を思い出していた。
その反動からかまた胸が苦しくなっていしまった。
「それでは、先ほど配ったプリントを出してください」
教壇には紗椰が残ったままだが、副担任のはずの紗椰が指示を出し始めた。
これは何も紗椰が一人歩きしているのではなく匠が教室に来るまでの間の廊下で紗椰の勉強という名目で頼んだのだ。
「プリントに書いてあると思いますが早速二週間後林間学校に行きます」
紗椰の言葉にクラスがザワッとする。
「この機会に友達をたくさん作ってくださいね」
するとクラス中の顔が「楽しみ」と言いたげな顔になった。
「それから・・・・・・」
紗椰の説明はその後も続いた。
その間、匠は窓に寄りかかって何を見るでも、何を考えるでもなくただ目を瞑って下を向いていた。