入学式
いつもの時間に起き、いつもの時間に朝食をとる。
いつものようにネクタイを締め、いつものように家を出る。
松雪 匠は高校に向かっていた。
高校までは自転車で行く。
匠は別に車の免許を持っていないわけではない。
健康のためでもない。
匠はただなんとなく自転車で行っている。
今年は桜が入学式に間に合ったようだ。
日本の別れと出会いには桜は大切だ。
匠もそう感じているのだろう、もしくは自分の学生時代を思い出しているのかもしれない。
(きれいだ・・・・・・)
心の中で小さく、弱々しくつぶやいた。
少しでもそんな感想が持てるようになったのは匠の心が壊されてから5年が過ぎるからだろう。
少しは心を開けるようになった。
匠にとってあれは忘れたくても忘れられない出来事だ。
未だにあの日々を夢で見る。
口を閉ざし、心を閉ざし、何もかもをやめようとした日々。
表面上は治せても、深くまでは治すことのできない傷。
入学式はどこの学校も同じ日にやることが多い。
それはここ「山の丘高校」でも同じだ。
新入生とその保護者の車がグラウンドに続々と入ってきている。
新入生を迎えるために上級生たちが校門の前、裏門の前、下駄箱の前で待っている。
学力、部活、その両方が普通の中の中の高校。
よくそれだけ特徴がなくて私立なのにやっていけると言われることもあるがイベント事や地域に根ざしたカリキュラムなど一応特色はある。
匠は教師用の下駄箱で靴を履き替え、職員室に向かった。
1度は「学校」という単語を聞くだけで吐き気を催していたのが嘘のようだ。
ここまで匠が回復したのは1人の男性のおかげである。
「松雪先生、おはようございます」
匠の後ろから優しい初老の男性の声が聞こえてきた。
「潮先生、おはようございます」
匠はやる気のなさそうな声で言った。
匠が心を開けるようになったと言ってもそれはほんの少し。
自然を愛でることなどは最近になってできてきた。
しかし対人になるとまだ心を開くことはできない。
それでは教職の仕事ができないのではないかと思うが、それは匠を拾ってくれた潮 源藏げんぞうこと、この学園の理事長の配慮でクラスや部活動を持っていないため、生徒と関わるのは授業だけと最小限にしてもらっている。
この潮 源藏こそが匠に救いの手を差し伸べた人物である。
匠の祖母と源藏が知り合いだったため幼い頃から源藏とは知り合いである。
匠が教師になったことも、そこでどんな仕打ちを受けたかも源藏は知っていた。
だがそれ以上に匠の教師に対する思いが強いのも知っていた。
だからこそ源藏は匠に自分の学校を薦めた。
それが匠にとっていいと思って。
「ははは。今日はいつもより元気ですね」
無敵とはまさにこのことだろう。
優しい笑顔、優しい口調、嫌いになる人間はいないと断言できる。
匠も嫌っているわけではない。
どちらかというと周りの人の中で1番心を開ける存在である。
ただし開けるの度合いが小さいだけだ。
「そうですか。いつも通りですけど」
「なーに、それだけ話してくれるのであれば上々ですよ」
匠の愛想のない話し方にもきちんと答えている。
「あっ、そうです。今年度はすみません」
「いえ、俺もそろそろ生徒との交流を増やさないといけないですから」
匠は源藏と目線を合わせないように横を向きながら言った。
「そうですか。素晴らしい心がけです」
源藏は頷いた。
「ですが無理は禁物ですよ。何かあればすぐに頼ってください。ここにいるのはあなたの仲間ですから」
というと匠の横を通って行ってしまった。
横を通る途中なぜか腰をたたかれたのは源藏なりのスキンシップだろうと匠は思った。
(仲間か……)
入学式は淡々と進められた。
もとよりこの学校は意外と自由なので入学式もそれほど堅くなりすぎずないような構成になっている。
山の丘高校の自由の象徴といえば理事長の潮 源藏である。
まず理事長がいつも学校をうろついているのが珍しい上にたまに学食で昼食を食べている。
今日の入学式の挨拶も一見するとふざけているような挨拶だった。がよく聞くと、さすが理事長というべき内容だった。
式が終わりにさしかかり担任紹介が始まった。
担任、副担任は新入生の前に並んだ。
この学校は一学年二百四十人おり、一クラス四十人の六クラス制である。
そのうち一、二、三組が普通科コース、四、五組が特別進学コース、六組がスーパー特別進学コースになっている。
「では次に一年二組の担任、副担任の紹介を行います」
司会の声がスピーカーから聞こえる。
「担任、松雪 匠。科目は化学を担当します」
司会の紹介とともに匠は一歩前に出て礼をした。
新入生、保護者からは拍手が送られている。
源藏が朝に言っていたことはこのことだ。
匠はまだ(ほとんど)心を閉ざしたままだ。
なので今までは担任や部活の顧問はやっていなかった。
しかし今年度は教師が多く退職してしまい、補充が間に合わなかったため匠が2組の担任をすることになった。
(担任……)
そんなことを考えながら匠は他の先生の紹介をぼんやりと聞いていた。