第一話 7.安全装置
上沢 緋女がその異変に気付いたのは拳を三十発ほど叩き込んだ時だった。殴っている相手、七篠 如人の顔から何かが剥がれ落ちたのである。
その何か分からないモノが七篠の隠された奥の手かと一瞬警戒したが、肝心の彼の意識が既に無いようで変わらず自分に殴られ続けている。得体の知れない未知の異変に少し焦りを感じた上沢は即座に七篠を地面に叩きつけた。
地面にうつ伏せになって倒れている七篠は全く動かず、それどころか生気すら感じられない。
どうやら思い過ごしだったかと、考えていた上沢だったが、そこでようやく異常な事が起こっていることに気が付いた。
七篠からは血が一滴も流れていないのだ。上沢の拳にも、周囲の壁や地面にも、どこにも彼の血の跡が付いていないのである。
(どういう事だ? いやそういえば……)
上沢はその現象に見覚えがあった。たまたま彼の事故現場を通りがかったあの時に自身の目でその事実を確かに確認したからだ。彼女がその事を思い出したその時、倒れている七篠の方から謎の音が鳴ったのである。
上沢は念のために能力は解除していない。
(今のコイツの体温は常人ならば耐えられるはずのない高熱が出ているはずだろ?)
改めてもう一度視線を七篠に戻した上沢はその光景を見て驚愕した。
七篠の顔に罅が入ったかと思うとその罅割れた皮膚がポロポロと剥がれ落ちていくのだ。さらに剥がれ落ちた皮膚の下からは血色の良い、傷一つない綺麗な肌が覗いている。
(何だ? コイツの能力、何かおかしいぞ……)
蜂を創りだす以外の別の隠された能力が、この男を修復している。このままでは不味いと感じた上沢は即座に距離を詰めて七篠に追撃の右拳を放った。
だがその拳が七篠に命中することはなかった。
倒れていた七篠の体が、上沢の拳が届くよりも早く立ち上がると、素早く彼女の攻撃範囲の外まで移動したからである。
それを見て上沢は一旦追撃を止め七篠の様子を窺うことにした。
「ユーカリって知ってる? コアラが食べる事で有名な植物なんだけど」
意識が無かったはずの七篠が、突然上沢に対し突然語りかけてきた。その内容のあまりの脈絡のなさに上沢は怪訝な表情を浮かべることしかできない。
「そのユーカリなんだけど、火事をきっかけに発芽する性質があるんだ」
上沢に一瞥もくれず七篠は淡々とユーカリの話を続けていく。
「だから種を蒔く前には種をフライパンで炒ってから蒔くと良いんだよ」
七篠が何を話しているのかわからないが、それでも今はその話を遮るのは良くなさそうだと判断した上沢は黙って七篠の話を聞く。
「わからない? 発芽するのに熱が必要だって話だよ。今回はその性質を利用して、君の発熱させるという能力を全て防御と回復の為に使わせてもらった」
七篠はそう言うと顔や腕から罅割れた皮膚をどんどん取り除いていく。
地面に落ちたそれを見た上沢はそれが人の皮膚だとはとても思えなかった。というよりはそれが何か樹木の樹皮が剥がれ落ちたもののようだと、そう連想したのである。
そしてその後に七篠の口から彼の能力について、その内容が語られた。
「ボクの能力は蜂を創り出す能力じゃない、自分の体を植物に変化させる能力だ」
七篠は真剣な眼差しで上沢の目を見つめながら上沢にそう宣言した。
上沢もまたその眼差しに答えるように七篠の目を見つめ返す。嘘をついているようには見えないが、それでも自分の目でみた蜂の件が片付かないことには納得はできない。
意を決して上沢は改めて七篠に質問する。
「お前の能力が植物化だというのはわかった。ならば消えた蜂についてはどう説明する?」
「蜂? ああそれなら見た方が早いね」
そう言うと七篠は握った状態の左拳を上沢に見えるように前に突き出し、ゆっくりとその手を開く。その手の中にあるモノを認識した上沢は思わず顔を顰めた。
七篠の掌の上にあったモノ、それは少し溶けかかっている蜂だったのだ。
上沢が蜂を確認したのをみて七篠は再び語りだす。
「この蜂はボクが気を失っている間に体内に侵入しようとしたから能力で捕まえた」
「能力で捕まえただって? なんで溶けかけてるんだ?」
「虫を栄養源にしている植物を知ってるかい? 食虫植物って呼ばれてる種類の植物なんだけど」
「食虫植物? まさかお前それを自分の中に取り込むつもりか?」
「そうだけど? 虫食なんて世界の国々じゃあ結構ポピュラーだよ?」
「いやそうじゃなくて……」
とそこまで言いかけて上沢は口を噤んだ。それを口にすることを無意識に拒絶したのである。
七篠は上沢の言葉の続きを待ったが、彼女が特にそれ以上何も言わなさそうだと判断し、続きを語り始めた。
「という訳で、この蜂を捕まえたのは食虫植物の中のハエトリグサの性質を利用したんだ。この植物はハエですら逃げられないほどの速度で葉が閉じて、捕まえた虫をそのまま養分にしてしまう」
そう言って左手を閉じ、再び開いたときにはその手の中に蜂の姿はなかった。おそらく体内に取り込んだのだろう。
「ひょっとしてアタシが見たのはそれか?」
「その通り、君が見たのはボクの能力で首筋をハエトリグサに変えて蜂を捕らえた瞬間だね。一度モウセンゴケに変化して捕まえたけど、逃がしちゃったからね」
「だったら何故さっきそう言わなかった?」
「そりゃ無理だよ。元の人格に能力を使っている自覚がないんだから」
七篠の言葉に上沢の表情が曇る。何を言っているのか理解できないからだ。
「元の人格? 自覚がない? ふざけてるのか?」
「ふざけてないよ、本当の話さ。いま君と話しているボクは〈神様〉の能力によって作られた擬似人格だ。元の人格はまだ気を失ったままなんだよ」
「はあ? なんだって?」
「ボクは〈神様〉になる事を望んでいない候補者が他の候補者に能力による危害を加えられた場合に、自動的に作動する安全装置なんだ」
「安全装置だと?」
「そう安全装置。君や蜂使いのように望んで能力を使ってる候補者には関係のない隠しギミックだよ」
俄かには信じがたい話をする七篠に上沢はますます混乱する。
「〈神〉からそんな話は聞いてない! いったい何故〈神〉はその事を黙ってたんだ?」
「人として生きたいと願う者を無理やり〈次の神様〉候補にしないための配慮だよ」
「配慮だって? じゃあ最初から能力なんか渡すなって話だろ」
「そんな事をボクに言われても困る。文句があるなら君が直接〈神様〉に会って言いなよ」
「……そうだな」
「とにかく能力で創った蜂を使ってボクに危害を加えようとしたから、それを能力で自動的に対処しただけだ。だから元の人格はその事を知らなかった」
「そういう事だったのか」
「なんとなく蜂使いに誘導されてたんじゃないかって気はするけどね」
「……冷静になって考えてみればそんな気がしてきた」
「誤解が解けたようでなによりだ。それじゃあこれを君に」
七篠は右手から草を生やすとそれを上沢に手渡した。
「なんだよこれは?」
「ん? チドメグサ、能力で作ったからそのまま使っても大丈夫だよ? ひょっとして既に血は止まってる? じゃあ切り傷に効果のあるやつ渡そうか? オトギリソウとかどう?」
「……お前、怒ってないのか?」
「ボクは別に。体も無傷だし、それに君の拳も特になんともないだろ? 痛みがあるなら打ち身に効く植物出すけど?」
「それはいらない……それと、アタシが悪かった。酷いことをした」
「それはボクに言う言葉じゃない、元の人格が目を覚ましたらそっちに言ってくれたらそれでいいよ」
「……そうだな。そうするよ」
そう言って上沢は俯いた。
「じゃあ、あそこに倒れてる人を保健室まで運ぼう」
倉庫前に倒れているままの深井を指差して七篠が言うと、その彼に上沢がゆっくりと顔を上げ語りかけた。
「その前に聞いておきたい事がある」
真剣な表情で七篠の擬似人格にそう聞いたのである。
上沢の真剣な表情をみた七篠の擬似人格は「ボクにわかることなら」と頷いたのだった。
◇◇◇
少し日が傾いて影が伸び始めた人気のない校舎裏では、上沢と七篠の擬似人格が二人向かい合って立っている。
既にお互いの間には何の蟠りも無いようで、ついさっきまでの剣呑な空気が嘘だったかのように穏やかな空間になっていた。
「安全装置ってのは能力を使ったことのない人間にだけ発動するのか?」
「全員に当てはまるかは知らない。ボクの場合はそうだっただけだよ」
「七篠に能力を使う意志がないから、他の能力者の攻撃をお前が自動で防ぎ続けるってことか?」
「そうだよ。場合によっては反撃するだろうね」
「なるほど。本当にわかってることは何でも教えてくれるんだな」
「ボクは作られた人格だけどベースは元の人格だからね。でも今の話は全部嘘かもしれないよ?」
「それはないだろ」
上沢は腕を組みながら七篠に向かって告げる。すると七篠が興味深そうな顔になって聞き返した。
「へぇ、何でそう思うの?」
「あれだけ殴られたのにお前、アタシに反撃しなかっただろ? 反撃する機能もあるって自分で言ったのにだぜ」
「それは嘘つきの反証にはならないよ」
「気を失う前のアイツは嘘を言ってなかっただろ」
「その割には君は容赦がなかったと思うけど?」
「嘘を言ってなかったのが今になって分かったって事さ」
「なるほどね」
「馬鹿が付くほどの正直者で、超が付くほどのお人好し。今はそう思ってる」
「そうなんだ。他に聞きたい事は?」
「ない。保健室まであいつを運ぼう。蜂毒にきく薬草とかあるか?」
そう言うと上沢は体の向きを変え倉庫に向かって歩き出した。
「創られた蜂だからどうだろうね、毒を解析してそれに合わせた薬草を作るなんて知識もないしね。まあ将来的にはどうかわからないけど」
上沢の質問に答えながら七篠の擬似人格も後に続く。
「思ったよりも万能じゃないんだな。それくらい作れるかと思ったよ」
「そりゃ無理だ。多分だけど万能で無敵な能力なんてないよ。そんな能力が欲しければ、それこそ〈神様〉にでもならないと」
「……そうか、そうだな」
歩きながら深井の元へとたどり着いた二人は、地面に倒れたままの彼の様子を観察する。既に上沢の能力は解除されており、蜂に強引に操られた際に現れた痣も少し薄くなってきていた。
深井を七篠の擬似人格が背負って保健室へ向かうことにして、二人で歩き始める。昇降口で上履きに履き替えゆっくりと廊下を歩いていると突然七篠の擬似人格の方から上沢に話しかけてきた。
「本当はもう一つくらい聞きたいことがあるんじゃない?」
確かに上沢には気になることが一つあった。なので向こうの言葉に甘え、聞きたいことを聞いてみることにする。
「……アタシに話して良かったのか?」
「どういう意味?」
少しずり落ちそうになった深井を背負いなおしながら、七篠の擬似人格は質問の意図が掴めず上沢に質問で返した。
「アタシが今の話をお前の元人格に喋ったら、お前は消えるんじゃないのか?」
「あぁ、そういう意味か。喋っただけじゃ消えないよ。その話を知った元人格が能力を実際に使わないと」
「ならアタシは喋らないぞ」
「なんで? 別に喋ってもペナルティとかないよ?」
「お前言ったよな? 安全装置は神になることを望まない人のための物だって」
「言ったよ。それがどうかしたの?」
七篠の問いかけに少し先を歩いていた上沢が足を止め、彼の方へと向き直る。
「お前の元人格は〈神〉になる事を望んでいないんだろ? だったら今の話はするべきじゃない」
「そう。それなら良かった。」
「良かった?」
「今のは元人格を思っての言葉でしょ? まさかボクに同情したとかじゃないよね?」
「……そんな訳ないだろ」
「それなら良いんだ。多分、元人格は近いうちに自分の能力に気付くよ。君が喋ろうが喋るまいが、ね」
「そうなのか?」
「元人格は〈神様〉になるつもりがない、だから他の候補者と戦う理由も意志も覚悟もない」
「だろうな」
「でもね目の前に困ってる人がいたら絶対に助けようとする。それが能力を使うことになってもね。そういう性格なんだ、ボク達は」
上沢にそう告げ、七篠がまた歩き始めた。
「……確かに蜂野郎が、絶対になんか企んでるのは間違いないからな」
「それ以外の能力者もそうだよ。〈神様〉になるために能力を使うのか、自分の私利私欲の為に使うのか分からないけど、色々と動き始めてるはずなんだ」
「だから近いうちにか」
「そういうこと。ボクとしては元人格が覚悟を決めて能力を使ってくれた方が良いと思ってるよ」
「なんで?」
「ボクは本人の意志じゃなく無理やりに作られた偽の人格だよ? 能力者の攻撃に対抗するために自動で発動するんだから、意外と本体への負担が大きいんだ」
いつの間にか七篠の擬似人格はフラフラと左右に揺れており真っ直ぐ歩けなくなっている。それでもなんとか深井をおんぶしながら保健室が見える場所までやってきたのだった。
「おい、大丈夫なんだろうな?」
「まあ保健室までは何とか頑張るよ。だから後は任せても良いかな?」
「わかった、保健室に先生がいるか確認してくる」
そう言うと上沢は早足で先に保健室まで移動すると室内へと入っていった。
やがて保険室内から教諭と共に上沢が現れ、深井をすぐに病院まで連れて行くことになった。車を運転する教師と保険教諭が深井を車まで運ぶと、そのまますぐに病院へと出発していったのである。
保健室に残された二人はまず最初に上沢の怪我の手当てを優先的に行なった。すると手当てが終わったと同時に、まるでゼンマイが切れかけたおもちゃのように七篠の動きがみるみるうちに緩慢になっていく。
慌てた上沢がベッドまで誘導したところで、完全に七篠の動きが停止し、そのまま彼は寝息を立て始めたのである。
七篠が眠ったのを確認した上沢は、泥だらけになった制服姿の自分が保健室に置いてある鏡に映っている事に気がつき、制服を着替えるために一時的に保健室を後にする事にした。
ベッドの上で静かに寝息を立てる七篠を保健室に残したまま。
次回で第一話終了です。
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