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track:05 深更報告 [mine]


 子どもの頃、夜の群青がどこから来るのかを知りたがっていた。

 風上ふうじょうみねは人の消えた街を走り抜け、めいのいるサナトリウムへ向かった。

 靴音が響くロビー。柱時計は深夜を指している。

 階段を上がり、息切れが治まるのを待って病室のドアを開いた。

「入っていい?」

 相変わらず加矢間かやま詺は、関心事が何ひとつなさそうな顔で眠っている。

 閉じられたカーテン越しに街灯が透けていて、窓の側だけがうっすらと明るい。

 少し軽くなった身体をベッドの端にずらして空いたスペースを借りた。

 この世界で、自分から死のうと思うくらい辛い目に遭う人は、たぶん最初から決まっている。

 逆の立場だったら詺は、歌に静かな花を添えて見送ってくれるだろう。険しい表情で頑なに口を噤み、誰に何を訊かれても『風上峰の死』について喋らない。


「絵本読んであげる。いくつか持って来たの」

 3冊の中から『炭鉱のカナリア』を選んだ。未開の坑道で作業員を救い、短い生を全うした小さな鳥の視点で語られている。6人と1羽の作業班を愛し、仲間のために命を捧げたカナリアは星にすらなれなかった。けれど採掘した石炭によって拓けた町に、星より綺麗な明かりが灯ったという古い童話だ。

 この絵本を詺に読んで貰ったことがある。歌うときとは違う、黒い布で包み込むような暗い声をもう一度聞きたかった。



 ふとアン維勲ウェイシュンの言っていた二谷にたに事件を思い出し、詺のパジャマを捲る。いつの間にか、本人のお気に入りからサナトリウムの貸出品に着せ替えられていた。しかし、患者クランケに癒しを与えるはずのソフトな色味が致命的に似合っていない。

 寝転がったままベッドサイドのランプを点けた。

 不意に浮かび上がる、切れ長の目元と伸びた前髪。

 力を抜いて微笑んだのに、唇の端が中途半端に固まって涙が零れ落ちた。

 動画の中で汗を拭っていた薄い手首がすぐ側にある。

 傷は右腕に見つかった。生々しかったはずの皮膚の裂け目はすでに、些細な凹凸を残して風化しようとしている。

 その痕を指でなぞりながら、詺の肌の上に、するはずのない血の味を探した。


 元から長身だったけれど、今は背伸びをしても届かないことが横たわっていてもわかる。

 いつも黒い服に光を遮られていたのに、詺の内側から生まれてくる音楽が色鮮やかで美しいのはなぜだろう。

 感情の高ぶりを絡み合わせた、擦り切れそうな歌詞の言葉は胸のどの辺りに隠れていたのか。

 生きている限り、歌とピアノは詺を放さない。五線譜と鉛筆も共犯だ。

「あなたの曲好きよ。……『いい子ね』って褒めてほしかった? やさしい笑顔で頬に手を遣って……。それならもっと早く言ってくれればよかったのに」

 出来心で詺の前髪を片方に寄せてみた。酷く閉鎖的な印象だけれど、不思議と悪い感じはしない。

「何を見せて何を守るかはあなたが決めて。自殺の理由も、話したくなければ黙ってていいから」


 詺は、どうして試験日と式典以外に通学しないのかを訊いてこなかった。

 群生の植物に似た人間の不気味さを、彼も警戒していたのだと思う。

 毒が滴る嘲笑。集団心理の檻。肌色の手錠。

 不真面目な生徒だと蔑まれても構わない。軽薄な笑みを浮かべて互いを監視し、優れた者を貶め、醜い本性を塗装しながら健気な学生を演じている奴らと交わるつもりはない。あいつらはそのうち、ひとつしかない脳で裏表を使い分けるのが面倒になって、ふたつめの頭をほしがりそうだ。

 敵を作るなと言うけれど、周りの人間が最初から敵の場合はどうすればよいのか。

 詺は嫌いな他人との間に真っ直ぐな線を引き、それを踏み越えた者には容赦がなかった。



 ランプの灯りを消してカーテンを開く。

 未だ改新の余地を秘めたシティ・トルドの夜景。

「わたし、あなたが通ってた音楽院に行ってみる。ロッカー無事だといいわね」

 ベッドに戻って詺の腕に額を押し当てた。その弾みに懐かしい記憶が蘇ってくる。

 中等部の頃、a.m.-1の授業を塗り潰して森の小川で遊んだ。

 素足に刺さる零下の水脈。あの清らかなせせらぎを詺の音に託したかった。

「ピアノ、やめないで。歌も……。他の人には任せられない」

 黒いフードつきのカーディガンを着て、ピアノの椅子に座っていた彼の残像を抱き締めたくなる。平たい背中も、疲れ果てた声も全部。

「ずっとここにいて。眠ったままでいいから」

 初めて涙を見せたとき、痛みのすべてを引き受けるように胸元の服を掴んだ詺の姿を傷痕に重ねて、誰より綺麗な夜を生きる。



                                 track:05 end.


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