track:04 Yesと悩 [Syunn]
安維勲はホールの柱に寄りかかりながら手の中のキーを弄んだ。
部屋で時間を潰す気にもなれず、待ち合わせよりだいぶ早く来てしまった。
青葉から風上峰の印象は聞いていたが、あまりに複雑で上手くイメージできない。
やがてそれらしい人物がホール前の広場へ歩いてくるのが見えた。
あれが風上峰だろう。女学園の白いワンピースではなく、足首が覗くデニムにほっそりとした靴を履き、薄いピンク色のニットを合わせている。
こちらは特に迷うこともなく、ダンスの練習着にしているスエットで現れてしまった。
数歩先で足を止めた彼女は、学生証をスパイの偽IDのように掲げて微笑んだ。
「風上峰です。発音に自信ないけど、台湾も你好……、でいいのかしら」
声は明るいが、纏う空気が加矢間詺に似ている。不用意な立ち入りはしない方がよさそうだ。
「俺のことはシュンって呼んでください。你好は大丈夫ですよ」と片目を瞑り、指で円を作る。フレンドリーはお嫌いですかと訊ねるわけにもいかないので普段通りに振る舞ってみた。
からかうようにウインクを返してきた峰は、幼馴染が重体とは思えない朗らかさだ。
「今、詺さんは……」
「人間を卒業したくて頑張ってるみたい。全然起きないの」彼女は冗談ぽく渋い顔をする。
「そうですか……」
「詺が死ぬかもしれないのに、わたしが泣いてない理由を知りたい?」
頭の中を読まれていることにささやかな恐怖を感じて、「いいえ」とやわらかく首を振った。
峰に向き直り、手の平で生温くなった鍵を見せて背後のホールに視線を遣る。
「青葉から聞きました。俺でよければ案内しますよ。誰もいないので閑散としてますけど」
・
あの朝から奇妙なシナリオの上を歩かされている気分だ。
この虚無感と痛みが『off the lights』への戒告だとしたら、自分たちの何がいけなかったのかを教えてほしい。
「ねえ、チケットはどうしてるの?」
通路を先導している途中、投げかけられたQに振り返る。その内容から推測すると、彼女は『off the lights』のライブに一度も来ていない。
加矢間詺はなぜ峰を誘わなかったのだろう。
自殺企図の件も解決の糸口が見つからず、幼馴染だというふたりの関係も謎に包まれている。
「チケットの代わりに、登録してくださった順に入場ナンバーを送ってます」
受信したコードを翳すとゲートを通過できるシステムになっている。
「二谷の事件があった後、防犯面の設備が全面的にアップデートされました。このホールは現在もルーシィ先生が」
「待って。事件って何……?」
伝わっている前提で話を進めてしまったが、詺が黙っていたとしたら知らなくて当然だ。ヨエルが観客に口止めしたので、外部にはほとんど漏れていない。
「襲撃されたんです。客席から。いきなりボウガンで撃たれて、二谷を庇った詺さんが腕に怪我をしました」
風上峰は悲痛な面持ちで首元の髪に手を遣る。「最悪の展開ね。……でも、どうして無差別じゃなくて、メンバー二谷が狙われたってわかったの?」
「あいつが街で揉めて報復されたんです。本人がそう言ったので間違いありません」
負傷した詺の腕は数針縫う程度で済み、二谷は以前より問題を起こさなくなった。
そして事件の夜、L館で偶然聞こえてしまった意味深な台詞。『僕が悪かった』。
どの角度から考えても、謝罪するのは二谷の方だ。なのになぜ詺が二谷に謝っていたのか。
峰に意見を求めてみた。
「素行のことで彼を説得するつもりだったのに、反発されて口論になったのかしら。詺は乱暴な言葉は使わないけど、相手が傷つくような棘を含ませるのが得意なのよ。……感情の激しさ故の過ちだと思う。反省して謝ってたみたいだから」
しかし、そうだとしたら加矢間詺は、二谷に何を言ったのだろう。
ステージエリアに到着し、風上峰はスタンド席の1列めに座って場内を観察している。
「ほどよい広さね。ライトは誰が?」
「このホールを貸す代わりに他の学院の演劇部がやってくれてます。音響とアナウンスも」
彼女はステンドグラスを見上げる仕草で天井を仰いだ。
「ここ、地上より低く感じるけど……」
「よく気づきましたね。ビルでいうと地下2階くらいだと思います。一番上の席で、普通の建物の3階と並ぶ程度の高さです」
因みに中央配置のステージで、全方位からの視線に晒されるため、公演中は後ろ姿も油断できない設計になっている。
「上がってみますか? 客席が一望できますよ」
驚いた顔で、けれどどこか嬉しそうに峰が頷いた。
メンバー用のルートを通り、ステージ前の階段で手を差し出すと、彼女は羽を休めた蝶のように静かな指を載せてきた。
「ありがとう。やさしいのね」
風上峰の不可侵領域と、加矢間詺の気難しさは、鏡に映した藍色の楽譜のようだ。
・
まだ午前を漂っているつもりでいたが、街は昼食の時刻を回っている。
自転車で送ると申し出て、近くの駅でランチ代わりのクレープを調達した。
峰を荷台に座らせ、はみ出したクリームを舐めながら片手でハンドルを押している。
「シュンは詺のこと、どう思ってた?」
黒い霧に覆われたような寂しい声だ。
「ひとりが好きみたいで、何となく突き放された感じがするときもありますけど、情が深くて信頼できる人だと思います。……適当に生きてるように見せかけて、けっこう心配性ですよね」
「あなたの言い方、ストレートで好感が持てるわ」
峰はクリームのついた指先を唇で挟みながら、行儀の悪さを見咎められた子どもみたいに笑っている。
「ダンスは誰が考えてるの?」
「俺と青葉が……。ジャンルは違いますが趣味で習ってたので」
「動画で観たけど、勇ましくてかっこよかった」
至近距離から真っ直ぐに言われると照れたくなる。「多謝」
「公式サイトの写真は?」
「ウェブ関係の担当なので俺が選びました」
初ステージの記念に、フォト部に頼んで撮影して貰ったものだ。ライブ特有の汗っぽい笑顔が意外と好評だったので、プロフィール写真は更新せずそのままにしている。
中途半端な沈黙の後、ふと思い出したように峰が言った。
「あなたがバイオリンで弾いてた『devil to devil』っていう曲、いつか生で聴かせて」
・
懐かしい追い風だ。中等部2年の頃、ふたり乗りで事故に遭い、親友の妹を死なせた。
誰も自分を責めなかったけれど、あの坂道で減速していればトラックとの衝突は避けられた。
急に黙ったので、どうしたの、と後ろから峰にTシャツの裾を引っ張られている。そのほろ苦い感触に息が詰まり、泣き崩れるような脆さで感傷に溺れた。
ふたりで授業を抜け出し、楽器を抱えて知らない街を旅することはもう二度とない。
人との繋がりは永遠ではなく、別れはいつも音を立てずに影を潜めている。
明け方の夢と現実の挟間で、真新しいセーラー服を着た黄レイカに何度も叱られ、励まされてここまで辿り着いた。
残ったのは、遺品として託されたクラリネットだけだ。吹いてみても音が出ない。
失くしたものにばかり目を向けて迷いそうになるけれど、棺の中の彼女と最後の口づけを交わしたときに受け取った道標が、いろいろ、いくつも、あったと思う。
音楽を愛し、誰かに届けるための努力を惜しまず生きていけたら幸せだ。
track:04 end.