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女の名はユウコと言った。
ユウコには結婚を誓った恋人がいた。
ユウコはその恋人と結婚するのが楽しみで、その人と一緒にいることがとても幸せだった。
けれど、そんな幸せは長くは続かなかった。
恋人だった男はユウコを裏切り、別の女と交際していた。
ユウコは男を許すことが出来なかった。それに、どうしても忘れることが出来なかった。
ユウコは男と話し合いをすべく、何度も男のアパートを訪問した。しかし、毎回門前払いをされ、まともに相手にもされなかった。
しかしあきらめずに男を訪問するユウコに折れたのか、ある日元恋人の男はユウコを部屋に招き入れた。そしてユウコの話を聞いた。
復縁を迫るユウコに曖昧な返事をする男だったが、それでも久しぶりに愛しい男が自分の話を聞いてくれたことにユウコはとても嬉しい気持ちになった。
納得できる回答は得られなかったものの、自分の話が聞いてもらえたことに満足したユウコは、男が出してくれた麦茶を飲み、その日は帰ることにした。
そしてユウコがとあるトンネルに車を走らせていたときのことだった。
唐突に猛烈な眠気に襲われたユウコは、車のハンドル操作を誤った。対向車線に飛び出したユウコの車は、迫り来る対向車を避けることが間に合わず、ぶつかった。
相手側の運転手の命は助かったものの、ユウコの車は大破して彼女は即死したのだった。
そのときの衝撃で、トンネル内の電灯がひとつ切れていた。
哀れだ。
僕は暗闇に浮かんでは消えていく悲しい記憶に、心を痛めた。
そうだよな。
信じていた男に裏切られ、そいつに飲まされたらしい睡眠薬で交通事故を起こして死んでしまったんだ。
そんなの、死んでも死にきれないよな。
ユウコの悲しみがわかるぶん、彼女の寂しさは痛いほどによくわかった。
こうして霊にとらわれの身になってしまったのは本意ではなかったが、彼女の悲しみがそれで和らぐのなら……と思う部分もある。
だって、どうせ助からないんだろ。
このまま、霊に取り憑かれて呪い殺されちまうんだろ。
それだったら、もうどうなったって構わない。
僕が犠牲になって、他の人が助かるのなら……。
「誠二くんから離れなさい!」
ミナミの声が聞こえる。
僕は朦朧とした意識の中、周辺で誰かが言い争っているような気配を感じていた。
「その人はあなたの恋人の代わりじゃない。こちらに返してもらうわ」
『返サナイ。彼ハスデニ私ノモノ。モウ誰ニモ取ラレルモノカ』
僕はそんな声を耳にしつつも、どうすることもできずにいた。体は言うことを聞かず、しゃべることすらできない。
「勝手に人のものを奪って自分のものにしようなんて、とんだ性悪女だわね。いい? 彼は私の下僕で、私以外の誰かの言うことを聞いていい権利なんてないの。彼をどうにかしたいなら、まず私に許可を得なければいけないのよ。そこのところ、ちゃんと覚えておいてよね!」
なんだか随分な言われようだな……。だけどミナミらしい言い分ではある。
そして、ちょっと嬉しくも感じた。
「それと、誠二くん! いい加減目を覚ましなさいよね! こんなところで幽霊にやられてる場合じゃないんだから。さっさと帰ってやらなきゃいけないことがいっぱいあるんだからね」
やらなきゃいけないこと?
「まず、映像の編集作業にメールの返信に、掲示板のチェック。次の調査の計画も立てなくっちゃ。あなたは私の助手として、のんびり休んでいる暇なんてないのよ!」
そ、そんなにいろいろ僕を働かせようとしてるんですか~!?
「だから、早く起きなさい! 今すぐ起きなかったら、どんなおしおきが待っているか、わかっているんでしょうね!!」
おしおき?
「そんじょそこらのおしおきとはわけが違うわよ。綿密に選りすぐったスペシャルハードなおしおきだから。さすがの誠二くんも、泣いて許しを乞うんじゃないかしら」
………………!!
「それが嫌だったら、今すぐ目を覚ますのよ!」
え、え、え、ちょ、ちょっと待って。
「はい、5、4、3、2…」
えーっ! 10秒前からじゃないんですかーっ。
わー! わー! わー!
「1」
「う、わああああああ!! わかりましたわかりました! ごめんなさい! すぐに起きますから、おしおきだけは勘弁してくださいいいいい!!」
僕は恐怖のあまり飛び起き、叫び声を上げていた。
そして、今まで金縛りにあったように動かなかった体が自由を取り戻していることに気がついた。
「そう。それでいいのよ。誠二くん」
目の前に、傲岸不遜な笑みを湛えた美しい女王様が立っていた。
この人やっぱりトンデモない人だ。絶対に逆らったらいけない。
僕は霊とは違う意味で背筋を凍らせた。
『マ、マサカ。私ノチカラガ破ラレルトハ』
ミナミと対峙しているのは、セミロングの髪の女性。しかしそれが普通の人間ではないことは、すでにわかっていた。
「生者の力は死者の力になんか負けたりしないんだから」
そんなミナミの言葉は言霊となって僕の胸に響いた。
そして僕は覚悟を決めて、そこにいる幽霊と対峙した。
「ユウコさん、というんですね」
そう言うと、女の幽霊はこちらに目を向けた。
「あなたに取り憑かれたとき、あなたの記憶の一部が僕の中に流れ込んできました。あなたがこうなってしまった理由、あなたの悲しみと怒り、よくわかります」
僕の言葉に、ユウコはぴくりと反応を示す。
「今までさぞ、つらかったでしょう。そんなつらい目に遭ってしまったのなら、悪霊になってしまうのも無理はないと思います」
『オマエニナニガワカル。ワタシノ苦シミガオマエナンカニ』
「はい。本当の意味で理解したなんて思ってません。あなたと僕とは違う人間なのだから。でも、僕にもわかることだってあるんです。自分の想いが伝わらない悔しさ。憤り。そういうのって、誰にでもあるものだと思うんです」
ユウコが僕の話を聞いていた。それを感じ、僕はさらに話を続ける。
「あなたは生前、彼氏にたくさん尽くしてきたのでしょう。たくさんの愛情を注いできたのじゃないですか?」
『…………』
「それが最悪の形で裏切られたとしたら、それはきっととても悲しい。死んでも死にきれないくらいにつらいことだと思います」
『…………』
「きっと一生懸命になったらなっただけ、傷は大きく深くなる」
僕だって、彼女のような目に遭ったとしたら、そうならないとは言い切れない。
もしそんな目に遭ってしまったら、その鬱憤をどこかで晴らさずにはおれないだろう。
きっと彼女もそうなのだ。
彼女は誰かに己の境遇を知ってもらいたかった。そして、慰めて欲しかった。
「本当に大変でしたね。でももう、それは終わったことです」
ユウコはこちらを見ていた。先程まで感じていたような禍々しい気配はすでにそこにはない。
「死んだあとも、そんな男のことで苦しむ必要はない。あなたはもう、楽になっていいんです」
僕の隣にミナミが近づいてきた。横を見ると、ミナミがなにかを了解したような表情で僕の目を見つめてきた。そして彼女は正面を向き、そこにいた相手に伝えた。
「そう。あなたはもう、ここから旅立っていってもいいのよ。ユウコさん」
それを聞いた幽霊のユウコさんは、人間だったころの美しい姿になっていった。
『アリガトウ』
ユウコさんは呪縛から解き放たれたように、静かに姿を消していった。
あとには、何事もなかったかのように、なんの変哲もないトンネルの光景が残されていた。
「終わった……のか?」
「終わったみたいよ。あっち見て」
ミナミが示した方向に顔を向けると、僕は思わず眩しさに目を細めた。
「長いトンネルだったわね」
「本当に」
永遠に続くかと思われた、長い長いトンネルの終わりがそこに見えていた。