6 【ありし日】の距離
真っ赤な火の玉が迫ってくる。
引こうとした背中がヘルガの身体に当たって、考えるより先に足が止まった。
呪文は間に合わない。魔王は出てこない。避ければヘルガに危険がある。
混乱の中で自分でも何を血迷ったのか、咄嗟に掴んだのは――背後のヘルガが持っていた聖弓フロイグリントだった。
もちろん、最終奥義を発動する余裕はない。
ただぎゅっと目を閉じて、弓を振り上げて突き出しただけ。
なのに。
次の瞬間、目の前で、炎が2つに裂けた。
オレの両側を燃え盛る真紅が通り過ぎてく。
聖弓を避けるように左右に割れた炎の向こうで、ジーズが悔しげに顔をしかめた。
「だからそれ貸せって言っただろうが」
「こんなすげぇ力があるって分かって、貸す訳ないだろ!」
近寄って来るジーズから弓を遠ざけつつ、背後のヘルガに押し付けるように返した。
「逃げろ、ヘルガ! これ持って、ティルナノーグ王に知らせに行け!」
「やっ……でも」
「でもじゃない、早く行け!」
迷うヘルガの背中を押してから、ジーズに向き直る。
呆れた顔のジーズが首を振った。
「で、おれが大人しく逃がすと思ってるのか? そもそも、あんたにおれが止められるとでも?」
「止めるさ」
片手を突き出して、今にも呪文を唱えようと――
「せいっ!」
――するフリをしてる内に、真横からアルが剣を構えて突撃した。
逃げようとするヘルガ(と聖弓フロイグリント)ばかりに気を取られていたジーズは、さすがに驚いて一歩下がる。悔しげに、軽い舌打ちを一つ。
「アルシアちゃん、さすがにちょっとばかり鬱陶しいぜ。しつこい女は嫌われ――」
「――知るか!」
ジーズの言葉を遮って、アルが斬りかかる。ダンスを踊るような身軽さでその突きを避けたジーズに、今度こそオレは魔術を向ける。
「――セット、全詠唱破棄【氷柱の剣舞】……って、ヤベ!?」
微妙に狙いが逸れて一瞬どきりとする。
が、ズレた分はアルセイスがうまく合わせてくれた。軽く身体を捻って、背後から飛んできた氷の剣を避け、そのまま後ろへ下がる。
避け損ねたジーズを守るように、上空から降りて来たグリフォンの身体が肉の盾となって鋭い氷を防いだ。突き刺さる氷と飛び散る血しぶきの向こうで、ジーズの姿を一瞬見失う。
微かに、閉ざされる扉の軋む音が聞こえた。ジーズの【転移】だ。
「レイヤ!」
名を呼んだアルの意図は、はっきり分かっている。
ジーズが【転移】を使ったなら、狙いはオレ達じゃない。
「――セット、全詠唱破棄【転移】」
とぷん、と足元で闇が鳴った。
身体が【世界の裏側】へ沈む。
ジーズを追え、と――きっとそれを望んだはずなのに、ずれていく視線を絶望的な表情でアルは見詰めていた。
だから――思わず、手を差し出してしまったんだ。
何の考えもなく、自然に。
雨の日に、傘を差しかけるような気持ちで。
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抱えた腕の中で、柔らかい肌が身じろぎした。
汗は引いても、身体の芯にはまだ熱が残っている。
そのなだらかなカーブをなぞっていた私の手が、レスティ自身の手で止められた。
薄桃色の唇が、優しい弧を描いている。
「もうしばらく触れさせてくれ」
「そんな……そろそろ日も昇ります」
「良いではないか。ずっと、君に焦がれていたのだから」
掬い取った黄金の髪へ、口付けを落とす。
滑らかな頬が赤らんで、青い瞳が私から逸らされた。視線を逸らされたこと自体が、承諾の証だと分かっていた。
「君とこうなれて良かった、ずっとこうしたかったんだ、レスティキ・ファ」
「……私も」
今にも聞き逃しそうな程に微かな声で、だが、確かに彼女は愛を告げた。
喜びに震える胸を押し付けるように、私はその身体を強く抱き寄せる。
二度と離さぬと、誓いながら。
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「――っのは、オレじゃない!」
「……分かってる」
腕の中のレスティ――いや、アルセイスが小さな声で呟いた。
【世界の裏側】にいる間に、思わず抱き締めていたらしい。さっき見ていた何かの記憶がフラッシュバックして、オレは慌てて手を離した。
だけど、アルの方はオレに身体を寄せたままだ。
どうするべきかと悩みつつ右手をわきわきさせている内に、目の前で漆黒の扉が、ばたん、と音を立てて閉ざされた。
どうやら多少引っ張られはしたものの、うまくジーズの【転移】に潜り込めたらしい。
以前、王都で魔王がジーズと対峙した時、【転移】に干渉して、無理矢理そこから引き出すなんてことをしていた。それと同じようなものだ。まあ、オレはちゃんとしたやり方知らないから、見様見真似のめちゃくちゃだけど。
あと、大量のグリフォンと共に斎藤さんだけ向こうに置いてきちゃったけど。
いやまあ、それは別に良いや。むしろグリフォンを撒けて良かったってことで……ごめん、斎藤さん。
行商人風の上衣の背中が、気配に気付いてこちらを振り向く。
真後ろに立ってるオレとアルの姿を認めて、両目を見開いた。
「おいっ、どうやってついてきた――本気であんた、【転移】を使いこなしてんのか!? 今は魔王の意識もないのに」
「オレが魔王の生まれ変わりなら、これぐらいはやれるさ」
それはむしろ、オレ自身に言い聞かせるための言葉だった。
これぐらいやれる――やれなきゃいけない。
魔王の魂を継いでいるなら、絶対に。
隣に立つアルを、1人だけ戦場に行かせたりしない。
オレの答えに、ジーズは頭をがしがしと掻き毟って叫ぶ。
「だからさぁ――そういう芸当は純粋な魔族にだって難しいんだっつーの! 土地勘もないおれが決死の覚悟で飛んだ距離を、よくもまあ軽々と付いて来やがって、そういうところが――セット、全詠唱破棄【極限破壊】」
「――セット、全詠唱破棄【極限防壁】!」
言葉の途中でジーズの放った魔術を、事前に予想していたこちらもうまくかわした。
ぐにゃりと視界が曲がって、爆風を防ぐ透明な壁が正面に現れる。
大きな魔術の連発はキツい、息が切れそうだ。だけど、今はそんなこと言ってられない。
しがみついていたオレから、アルセイスが僅かに離れた。
温もりが失われて初めて、ずっと身体が触れ合っていたことに気付いた。
まともに考えれば顔から火が出そうな状況かもしれないけど、それを指摘する余裕もない。
アルセイスの青い目がオレを見上げる。この爆発が納まったら突撃だ、と告げている。
無言のまま、剣を構え直すアルに、オレは口を思い切り引き結んで黙ったまま、頷き返した。
正面だけを見詰めてタイミングを図っていたところへ――背後からひび割れた少女の声が響く。
「――から絶対に許さないんだから絶対に絶対に許さないんだから。あなたが幸せになるなんて絶対に許さないんだから!」
振り向いた先で、【転移】の闇から立ち上がってきたのは、ぼろぼろの黒いドレスの隙間から傷だらけの肌をのぞかせる少女――地魔ベヒィマの姿だった。




