22 【あなた】の物語
仮想の両腕を広げ、潜り込む。
零と一の世界に存在する揺らぎの彼方。
奥深く、その根源が眠る場所。
魂の在処――記憶の揺蕩う場所へと。
全身全霊をもって、その奥へと潜り込んでいく。
真っ暗な中にぽつんと明かりが灯るのが【世界の裏側】なら、ここは【誰かの内側】だ。
莉亜が今までに抱えていた記憶が、ひとつひとつ浮かぶ場所。
オレはここから莉亜を連れて出なければならない。
ここを抜けなければ、たぶん辿り着けない。
莉亜の根幹、魂のある場所。
だから、だから――
オレは、手近な光の一つに手を伸ばす。
莉亜の抱える記憶が、指先を辿って流れ込んでくる――
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「母、と呼ぶがいい」
まっすぐに見上げる私の視線を受け、その女はそう呟いた。
逆光で顔立ちは見えない。
女の長い黒髪が、カーテンのように周囲の景色を私から遮断している。
生まれたばかりの私に、操る言葉などあるはずがない。
そう思ったけれど、思ったこと自体が逆説的に自分の考えを否定していた。
「母、さん?」
形よく造られた唇が、過たず女をそう呼んだ。
自分の唇ながら、女に操られているように、正確に。
女は小さく頷き、そして傍らの少年を手招きで誘う。
「来い。お前の妹だ」
「妹? 生まれたの!?」
ばたばたと騒がしい足音が近づいてくる。
目を大きく見開いた少年が、黒髪の帳を開いてのぞき込んできた。
「うわあ、小さい! かわいいねぇ、母さん」
母と呼ばれた女はその言葉には応えず、ただ少年の背中をしばらく見つめていた。
少年は柔らかな私の頬を触ったり撫でたり、ひとしきり突き回して満足すると、唐突に母の膝に飛び込んだ。
「妹……かわいいね……」
むにゃむにゃと口にした言葉は、既に寝言じみている。
だが、これはいったいどういうことだろう。
少し動き回って疲れ、本能のままに眠るなど、まるで――ただの子どものようではないか。
年相応にしか見えないその挙動に、私は大いに驚愕した。
私が妹なら、あれは兄だろう。先に生まれたはずのあちらであるのに、どうやら私の知能には到底及ばない様子だ。
私は――私たちは、そうではないはずなのに。
表情から私の疑念を察したのか、母はため息混じりに呟いた。
「これを生む時には、操作も構築も間に合わなかった。まだこちらの世界の知識がなかったからな。物理法則には一つを除いて大きな差異はなかった。だが、なにせその一つが――魔力という要素が存在しないことは私にとって大いに悩ましい問題であったのだ」
母は膝の上の少年の頬に手を伸ばした。それは、壊れそうなものに触れるときのように、おそるおそるではあったけれど。
ただ、その仕草には確かな愛を感じた。
生まれたばかりの私には、まだ一度も触れてもいないというのに。
母は私に視線を戻すと、眦を裂いて睨みつけた。
「お前には私の持つすべてを注ぎ込んだ。お前はこれより、我が手足となって我を助けよ。私にはなすべきことがあるのだから」
「……仰せの通りに」
こう答えるべきだと、誰に教わらずとも知っていた。
こうして、私の中に欠片の如く存在していた子どもとしての自我は、永遠に封じられた。
「あなたに甘えたい」なんて口にすることは許されはしなかったのだ。
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痛々しい、生まれたばかりの赤ん坊の莉亜を片手に抱いて、オレは再び魂を探して歩く。
光に触れるたび、記憶の莉亜は増えていく。
少女の莉亜、青年期の莉亜、妙齢の莉亜、そして老齢の莉亜。
くるりと一周回ったはずなのに、再び莉亜の記憶は元の世界へ呼び戻される。
何度でも、母親の黒い瞳に晒されて生まれなおす。
その傍らにいる少年も、何度でも――
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研究室を歩く母は、いつになく緊張した面持ちだった。
いいえ、私が知らないだけで、今までもずっとそうだったのかも知れない。
これまでの私はいつも、兄の後に生まれていたものだから。
「……母さん。そんなに緊張しなくても、大丈夫よ。身体の再構築と魂の呼び戻しなんて何度も繰り返してることじゃない。母さんに失敗なんてある訳がないでしょう」
落ち着かせようと口にした言葉は、だけど、顔を覆う指の隙間から一瞥されただけだった。
一言も与えられないまま、私は口をつぐむしかなかった。
研究室の奥に、きらりと光が灯る。
駆け寄った母さんは、慌てて光の源を、宿った魂の器を見下ろした。
私は追うこともなく、抱き上げる母さんの肩越しにそれを眺めた。
ほんとうに。猿の子のよう。
耳をつんざくような鳴き声は不快だし、顔をくしゃくしゃにした仕草は不細工だし。
なのに、母さんはめったに浮かべない笑顔で、心底ほっとした表情で赤子を抱き上げている。
きっと今回も記憶は消去されているに違いない。
魂だって、前回と同じで――きっと、少しずつ異常が出てきてるんだわ。
変わってしまっている。変わってしまう。
だというのに、前とはやっぱり違う存在だというのに、なぜ母さんはそんなにも嬉しそうにソレを見るの――
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兄だけじゃない。たぶん、あたしの魂もちょっとずつ変化してる。
自覚はできないけど。
それに、兄ほどじゃないけど。
母さんだけが、ちっとも変わらずにあたしたちを迎え入れ、そして最期は送り出すだけだ。
もちろん、変化はあたしたちばかりじゃない。
時を経るにつれ、こちらの世界の文化も変化している。
繰り返すごとに、少しずつ。
戦争や飢饉、災害を乗り越えて。新しいものが広まって。
突然、男が寝室に忍び込んでくるようなことが減ってきたのはありがたいけど、幼い子どもと一緒に教室に押し込められる文化が始まったことには困ってしまった。
このあたしを見た目で割り振ろうなんて恐ろしい話だ。
たとえこの身体は十年に満たない年月しか運用されていなかったとしても、この魂には千年近い知識と記憶が刻み込まれているというのに。
母さんがあたしを美少女に造ったのは、単に自分に似せただけなんだろうと思う。
最も手近にあった造形を参考にしたってだけの話。
だけど、残念なことに孤独な美少女は子どもたちの楽しい玩具になりやすい。
ほら、今日も男の子があたしのリボンを引っ張って盗っていった。
赤いリボンを風にひらひらとなびかせながら、男の子は嬉しそうに走っていく――
「返してほしかったら追っかけてこい――わわっ!?」
「お前な。今度うちの妹をいじめたら年下だろうが手加減しないぞって、オレ、言ったよな」
ぱん、と少年は乱暴に男の子の手からリボンをもぎ取った。
それきり男の子には目を向けず、あたしの方へリボンを持って歩いてくる。
「莉亜!」
とびきりの笑顔で、あたしに手を振りながら。
あたしはなぜか――なんだか泣きたいような気持ちになって、ぷいと乱暴に横を向いた。
「……お兄ってばさ、暇なワケ? わざわざ妹の喧嘩に兄が出てこなくてもさぁ」
「喧嘩なら口出ししないけどな。後ろからこっそり物を盗ってくってのはスリって言うんだぞ。妹が被害者になるのは黙って見過ごせない」
「なによ、最近刑事ドラマにハマってるからって」
「いいじゃん。ほら……リボンはお前がつけてる時が一番似合うんだから」
隣に立った兄が、あたしの髪にリボンを結びなおす。
へたくそな結び方。蝶の羽は左右大きさが違うし、最初から緩んでるし。
「お兄、蝶結びくらいちゃんと練習した方がいいよ。あたしが自分でやる方が全然うまいじゃん」
「あー、お前は器用だもんなぁ。オレのクラスの女子も、髪は母さんがやってくれるって言ってる子多いけど、お前は自分でできちゃうし」
「あたしは、その辺の子とは違うんだから。なにせ千年の積み重ねがあるんだもん」
母さんが研究を続けているおかげで、義体も生れなおす度に強化されている。
劣化する魂についてだけは少し気になるけれど……でも、知識が蓄積されていることは間違いない。きっといつかはこの劣化を止めることが出来るはずだ。
母を追って、異界に足を踏み入れる力さえついたのだ。
しばらく前からは、母と共に異界の異常を止める方法を探っているところだ。
そんなあたしたちと違い、知識すら内側にとどめられない兄は、きょとんとした顔であたしを見て、そして困ったように笑った。
「お前が千歳だったら、オレは千と三歳になるのかな」
「なんでよ」
「だって、オレがお兄ちゃんだからさ。お前のこと守るために、先に生まれてきたんだ。テレビでそう言ってた」
テレビでそう言ってた、なんて。
なんて軽いお話。
もしもあたしが本当のことを教えたら、この幼い少年はどうするのだろう。
あんたはかつて異界で出来た子どもで、母さんと一緒にこの世界に封じられたのよって。
あたしは母さんがあんたを生んだ後、困っていた母さんに付け込んで手籠めにした男の子で、だからあんたとは半分しか血が繋がってなくて。だから、母さんはあたしのこと――
黙り込んだあたしの手を、兄が握った。
必要以上に力がこもってて、痛いほどで。そして、バカみたいに熱い。
まるで初めて触れたような人肌の感触に、あたしは思わず口を閉じた。
タイミングが良すぎて。こんなにぎゅっと握られてるのにやさしくて。
なんにも持たない癖に、そういうところがひどくムカつくのよ。
あたしの手を勝手に引いて歩きだした兄が、前方に人影を認めて手を振る。
「あっ、母さんだ! 迎えに来てくれたのかな?」
手を繋いだまま駆けだされて、仕方なくあたしも走る。
「ただいま!」
「おかえり、玲也」
母さんはあたしたちに向かって、両手を広げて笑顔を浮かべる。
あたし一人に対しては、絶対に浮かべない微笑みを。
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オレが玲也になってからの記憶は、もちろんオレだって持っている。
何度も再生されたなんて言われても、信じられないけど。
だから、オレだっておぼえてる。
莉亜と二人、手を繋いで帰ったこと。
庭先で母さんが出迎えてくれたこと。
今なら分かる。
薄れた記憶でなく、老いた姿でなく、その人を確かに知った今なら。
莉亜の記憶で見たその女性は、どこか莉亜に似た美しい女は――魔王バアルの顔をしていた。