7 間違ってるのに、正しい
言語がいかに大切なものかは、その時に分かった。
伝えようとしていることが、伝わらない。
言わんとしていることが、聞き取れない。
言葉が通じない存在など、虫けら以下だと認識した。
そして、次に把握したのは、虫けらは往々にして人の都合によって捻り潰されるということだ。
捻り潰され、追いやられ、利用され――私にできることは、暗闇に身を潜め、己よりも力あるものの目に留まらぬよう、どうにか息を殺してやり過ごすことだけだった。
闇の中は心地良い。
か弱い己の姿が見えぬから。
さて、それでは、なぜ私はこのような場所にいるのか。
思い返したとき、浮かんでくるのはいつも、一人の男の姿だった。
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誰かが正面でわめいている。
目を開けて答えようとしたけど、どうにも瞼が重い。
「――瀬さんっ! あなたね、何考えてるんですか! まさかあなたがここまで考えなしだとは思いませんでしたよ、ほんと」
どっかで聞いた声がする。
ゆらゆらと身体が揺れるのは、運ばれているからだろうか。
車輪が時々がたりと軋む感触は、荷車に乗せられているのかもしれない。
前方から、延々と垂れ流される勝手な苦情が耳を抜けていく。
「複製とは言え仮にも魔王さまを危地に追いやるなんて、本当に信じられません。あなたなら守れるだろうと、信じて託されたものを何だとお思いで?」
何だと尋ねられても、よく分からない。
そもそも、あんたオレを信じて託したのか、違うだろって言いたかったけど、残念ながら指一本動かなかった。
「はあ、がっかりですよ。あなたに賭けたベヒィマも、今頃後悔しているでしょうよ。いや、そりゃ確かにジーズはもともと私が仕込んでただけあって、それなりに使う方ではありますがね。それにしたって、こてんぱんにやられて終わりなんてちょっと情けないのでは?」
「お前には言われたくないぞ。それに私は一方的に守られるほどか弱くもない。ヘルガとベヒィマだって、それぞれにうまく逃げおおせたかも」
「そんな訳ないって、あなただって分かっている癖に」
「……では、分かっていて見捨てたのは私だ。玲也に罪だけを着せることは許さぬ」
唸るような声は、オレの隣から聞こえた。
ひび割れて掠れてはいるが、ひどく耳に馴染んだ声。
「そもそもがこの一番大事なときに、一人だけさっさと抜けたのはお前の方だろう。……そもそも、お前の方はどうなのだ。『本物の魔王さま』とやらには、首尾よく会えたのか?」
皮肉な問いかけを、だが前方の声はあっさりと聞き流した。
「あっはっは、あなたにそんなことを言われるとついつい己を顧みて、手を差し伸べればよかったと思いたくなりますね。いや、最終的にはこうして手を差し伸べた訳ですが。まあ、私を頼る前に、ご自分で道を切り開く努力をできるようになった方が、音瀬さんのためだと思いますよ。そもそも慎重さが足りないのです。危ないと分かってなお踏み込むなら、きちんと捻じ伏せる力を持たなければ。それができないなら――」
気配が近寄ってくる。
どうやら真上からオレを覗き込んでいるらしいその人物が、大きなため息をついたのが聞こえた。
「――できないなら、黙って引っ込んでろ。他人を危地に巻き込むな」
ひどく冷ややかで乱暴な、だけど、それこそがこの人の本性だとオレは知っている。
嫌な緊張感だ。隣からは、オレを守るように、苛立つ気配が高まっていく。
が、その怒りが爆発する一瞬前に、前方の気配がすっと掻き消えたのを知覚した。
いつだって、この人はこうだ。
言いたいことだけ言って、去っていく。
欲しいものだけ取って。
見たいものだけ見て。
「……そういうやり方だから、お前は変われぬのだ」
ぽつりと呟く声が、寂しげに響いた。
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ちゃんと目が覚めた時には、自分でも何があったかは理解していた。
――敗走、と呼ぶべきなのだろう。
無謀な計画で突っ込み、そして逃げ出した。
仲間を置いて。
自己嫌悪と後悔で頭がおかしくなりそうだ。
ヘルガもベヒィマも、オレを信じてついてきてくれたのに。
オレはその期待を裏切った。敵の罠に気付きもせずに。
二人は無事なのだろうか。
心配で、今すぐにも戻りたい。
だけど、考えなしに戻ったところでさっきの二の舞だ――
寝かされていたのは、木立の影だった。
夢うつつの記憶が正しければ、バアルがオレとアルを抱えて窓から飛び出したところで、魔王のためしか考えてない例の人が、真横からバアルの着地点に踊り出たのだった。
そしてあのダメな人は全員を連れ【転移】で跳び、気絶したオレを荷馬車の後ろにのっけてここまでまっすぐ逃げてきた。
……オレに説教するだけのことはしてると思う。
少なくとも、今回は。
距離からして、ラインライア郊外の森のほとりだろう。
自分の居場所がなんとなく分かって、安堵とも脱力とも言い難い身体の重さが背中からのしかかってくるようだった。
あの人のやり方はおかしいって思ってるのに、いつだって助けられてしまう。
絶対におかしい、絶対に間違ってるって、オレの反発を無視して。
「レイヤ、身体は大丈夫か?」
アルセイスはいつも通りの顔で、オレの背を支えようと寄ってきた。
一瞬、無意識にその手を振り払おうとして、それから慌てて顔を上げる。
アルは気付かぬふりで、なんでもない顔を保っていた。オレの肩を叩き、そして自分から離れていく。
あまりにもあからさまな思いやりに、ますます苦しくなった。
どうにもできない自分を労わられていることが、はっきりと分かったから。
「――アルセイス」
考えるよりも先にその背中を呼び止める。立ち止まったアルが肩越しにこちらを振り向いた。
「……オレ、やっぱり……オレはただ、自分のわがままにあんたたちを巻き込んでるだけじゃないか……。これじゃ、やっぱり……」
「だからなんだ?」
何でもない顔で答えられたけれど、それは全然何でもないことじゃない。
「オレのわがままにこれ以上付き合わせられない。こんな、ヘルガもベヒィマも今頃どうなってるのか……こんなことになっても、オレには助ける手段も思いつかないんだ」
泣き言じみた――いや、もう完全にただの泣き言だ。
だって、もうヘルガもベヒィマも巻き込んでしまった後なのに。
情けなくて、でも言葉は止まらない。
目を伏せたオレの視界の中に、近付いてくる靴の先が見えている。
ぼんやりにじむ、泥に汚れた革製品を見ていると、突然ぐいっと首元を吊り上げられた。
「――それで? お前のわがままだから何だ。お前は、俺たちがただ自分を殺してお前のわがままに付き合ってるとでも思ってるのか?」
「そ、それは……いや、他にあんたたちには何の理由もないじゃないか……だから」
もうここで別れよう、と口にしようとした瞬間、まるで言葉を封じるように襟首を締め上げられた。
身をよじっても、アルセイスの手は離れそうにない。力任せに引き上げられ、半分腰が浮いている。
「みなまで言うな。どうせお前のことだ。『ボクのわがままに付き合ってくれてありがとう、やっぱりここからは一人で行くよ』――と、でも言うつもりだろう。ん?」
「いや、違……わないけど」
確かに言いたいことは違わないけど、オレの一人称はボクじゃない。あと、そんな気障ったらしい口調で喋った覚えはない。いや、大意はまああってるんだけど。
そもそも、それで何が悪いのか。
ここからはバラバラに動いた方がよほど効率がいい。だって、命を賭けても莉亜に会いたいなんてのは、オレだけなんだから。
会えばうまくいくなんて保証もないのに。
そんな思いを込めたオレのあがきを、アルセイスは軽々といなす。片足を使って器用にオレの身体を蹴倒すと、ぐっと口元を寄せてきた。
「……俺も言ってやろうか? お前といること自体が、俺の人生における最大のわがままなんだってことを」
その声が妙に寂しそうで、それでようやくアルの顔をまともに見上げた。
表情は変わらない。いつも通りの涼しげな顔立ちだ。
けど、その目が。
「全部捨ててお前を追ってる。お前を支えるためだけに、この両手を空けてあるんだ」
空けてあると言ったその手を回し、ぎゅっと抱きついてきた。
「これが俺のわがままだ。俺のすべての命を賭けて、お前のことを信じてやる。この世界の誰が――女神でも父王でも、いわんやお前自身がボクから離れろと言ったところで、俺は絶対にお前から離れない。これが俺の選択だ。他の選択肢をお前が提示することは許さない」
胸元で、あまりにも力強く宣言するその人は、だけどこんなにも細い肩をしてか弱く見える。
オレは彼女を引きはがすかどうか迷って――そして結局は、抱きしめ返した。
顔をうずめたまま、くくっと笑ってアルは呟いた。
「これからお前が、何を言うか当ててやろうか」
「……何て言うんだよ?」
「『ボクはやっぱりヘルガたちを助けなきゃいけない、あんたもついてきてくれ』――って言うんだ」
顔を上げたアルセイスの目を見たとき、他に言えることなんてないんだって気が付いた。
オレに期待することがアルのわがままなのなら、きっとここで頷くことが、今必要なんだろう。
頷くことが出来なければ、本当にここでお別れするしかない。だって、そんなのはアルセイスの好きなオレじゃないから。
幸いにして、オレはやっぱりアルが思った通りのオレだった。
だから、ぎゅっと抱いた両手をそのままに囁いた。
「そう……ヘルガとベヒィマを助けるんだ。だから、あんたも一緒に来てくれ。死ぬまで――いや、死んでも絶対離さないから」
「お前は死なない。そのために戻るんだよ」
視線を上げたアルセイスは、咲きほころぶ花のような笑みを浮かべていた。
引き寄せられるように顔を近づけると、花弁のように開いた唇に静かに迎え入れられた。
一度受け入れたからには、この期待を裏切ることなど絶対にできる訳がない。
ヘルガたちを助ける方法は、これから考えるんだけど――ああ、もう構わない。口から先に生まれた、なんて不名誉な評価も受け入れてやる。
だって、助けなきゃいけなくて、それはもう決定事項なんだ。
義務じゃない。二人が無事かどうかも分からなくても、オレがそうしたいから。
彼女たちと一緒にいる明日を取り戻したいから。
わがままなら最後まで貫き通せ。頭を使って、どうやって打ち倒すのか考えろ。
それ以外に、オレの力なんてどこにもないのだから。
間違ってる、こんなのできないって、諦めるだけなら簡単なことだ。
切り崩した先にしか、オレの欲しいものは――あの男を上回る正しさはないのだから。