18 守りたいもの
そして、約束の一週間後。
人魚の海底の最下部、オレ達は再びレヴィの前に立っていた。
彼女の背後には、無造作に岩に刺さったままの聖銛トリクロティオ。そして、レヴィの横、床からまっすぐに突き立っているのが聖槍リガルレイア。
緊張の走る中、先に口を開いたのは海魔レヴィだった。
「さて、女神を斃す方法は思いついたか? 千年前の魔王が仕損じ、今再びラインライアにいる真の魔王が果たそうとしている、その方法は」
「思いついた――ってより、まあ、うん……」
オレの言葉に、レヴィが鼻を鳴らした。
ラインライアにいる真の魔王とは、莉亜のことだろう。ちょうどオレも、莉亜について話そうとしていたところだ。向こうから話題を出してくれるなら良いタイミングと言える。
ただ……今、この場にいるのはレヴィにバアル、そして斎藤さんだけ。
本当は、この場にもう一人呼んであった。残念ながら、来てはくれなかったようだが。さして仲が良い訳でもないオレの言葉に応じるほど、暇じゃないってことかもしれない。
オレは軽く頷いて、レヴィの瞳を見上げる。
「斎藤さんから話聞いてて思ったんだけど……そもそもさ、千年前の話をすると、女神はあんまりにも慎重過ぎるんだよな」
「なんだと?」
「時系列順に追うとこういうことだろ? 女神はまずあんたにバアルの――魔王の動向を報告するように言った。その上で、自分の手で造り上げた義体を勇者スィリアとして魔王のもとに送り込んで、最後に腹心である斎藤さ――シトーに裏切らせてる。世界を造ってあんたの身体を変えたのが女神なら、全能に近い存在のはずだ。それなのに、ここの件については、あんまりにも警戒し過ぎだろ?」
「……つまり、それが女神の弱点に触れるものではないか、と言うのだな」
「ああ。だって、実際に女神と戦った斎藤さん曰く、女神の強さはオレたちとは段違いなんだろう。どんな力も効力を及ぼさず、呪文なしに魔術を使う――それなのに、そんなに圧倒的なのに、千年前の魔王については、彼女がやってることに逐一注意を払ってるなんて、『そんなことされちゃ困る』って全力で言ってるようなもんじゃないか」
レヴィが微かに頬を緩ませた。
どうやらここまで、ご期待に沿えているらしい。
「確かに、女神の指示のもと、ラインライアの魔王も千年前と同じく聖武具を集めようとしている。鳥魔ジーズなどはその使い走りであちこち駆け回っているようだからな。それが、自分の弱点を潰すことにも繋がっているとすれば……そなたの推測はある程度正しいかもしれん」
「だろ。エルフの森の王宮図書館の文献もちゃんと調べた。あんたの貸してくれた部屋から呼び出しただけだけど……八つの聖武具を集めると、女神が降臨するって伝承がある。女神や莉亜の出方を見るに、その伝承は本当なんだろう。それも、相手の警戒しようを考えれば、女神自身に選択肢のある『降臨』なんてことじゃなくて、強制的に召喚されるんだ、多分」
「ふん、なるほどな。少しは見どころもあるらしい」
ほっと肩の力を抜こうとしたところで、ぴしりとレヴィの尻尾の先が鳴った。
思わず姿勢を正すと、にんまりと笑った真っ赤な唇が、真上から近付いてくる。
「それで、つまりはどうすれば女神を斃せるのだ?」
「……え? いや、だからさ」
「聖武具を集める、女神を召喚する――良かろう。それが女神にとって『望ましくない行為』ではあるのかもしれん。それで、その後はどうするのだ。召喚すればそれで終わり、という訳ではなかろう。終わりかもしれんが、その結論まではくだせんぞ」
「あの……ここからは何の証拠もない、完全に推測でしかないんだけどさ」
「ふむ?」
ちょいちょい、と手招きすると、レヴィは身をかがめ、オレの口元に耳を近付けてきた。
意外にも女性らしい優美な形の耳の、横に手を立て、ひっそりと囁く。
「……多分、あんたもオレと同じで、薄々予測してる。だけど、確信がないから手を出せないんだろ」
弾かれたように身を引き、オレを睨み付ける。その様子はまさに獲物を狙う蛇のようだった。
だけど、もうそんな態度を恐れたりしない。
レヴィだって怖がってるんだってことが、分かったから。
姿勢を正し、今度ははっきりと聞き取れるように、正面から声を上げる。
「聖武具は女神の羽だって、そんな伝承があるんだ。あんたも知ってるだろ」
「そ、それがなんじゃ」
「女神にはどんな攻撃も効かないってのは、どういうことか考えるんだ。そうするとさ、それがもしも『他者からの攻撃を受け付けない』ってことだとしたら――女神自身から分かたれた聖武具でなら、女神にも攻撃できるんじゃないか?」
レヴィの目が宙を彷徨う。やっぱりだ。レヴィだって可能性自体には気付いてたんだ。
そうじゃなければ、それを判定基準にして、オレを試そうなんて思うワケがない。だって、答えを持たないテストなんて、意味がないじゃないか。
だから……分かっているのに踏み切れないのは、きっと何もかも賭けるには重すぎるからだ。
今、彼女が両手で守っている存在が、レヴィにとって重すぎて。
こうなると思ってたんだ。
ああ、やっぱり、来て欲しかったな。もう一人。
ため息を口の中で噛み殺し、オレはレヴィの目をしっかりと見上げる。
「莉亜が言ってたこと、覚えてるか? あいつはオレの前で、世界を壊したいって言ったんだぞ」
「もちろん覚えておる。魔王の言葉は、わらわの望みとも一部で重なっている。今の世界を――運命を破棄して、我が一族が今と違う形になれるものなら、と」
「その点については重なるかもしれない。だけど、あいつのその望みは、女神の意に適うものだって言ってた。世界をやり直したところで、あんた達の意思は結局また女神の支配下だ。女神の娘だっていうあいつの言葉に従うなら」
「……女神に造られたものを女神の娘と呼ぶなら、この世界の生き物はすべて女神の子と言えよう。誰の意思の元であろうが同じ――」
「――ああ。この世界に元から存在してたあんたと、他所から来たオレ以外はな!」
何に怯えたものか、レヴィがにわかに身を引きかけた。
オレはその隙を逃さず、足を踏み込む。真上には豊かな胸元が盛り上がり、その谷間の向こうから黒い瞳が困惑を浮かべて見下ろしてくる。
「魔王の意図に女神の意思が関わっておったとて、それがなんだと……」
「あんたはそれでいいのか? いつまでも女神に頭押さえられて、自分の身体すら思い通りにされたままで」
「貴様如きが、わらわの苦しみの何を知る――?」
レヴィの手が聖槍リガルレイアに伸びた。
だけど、十分な間合いがあればいざ知らず、この距離からならオレの手だって届く。
先に柄を掴んだ冷ややかな手に、オレの左手が重った。尖った爪先が手のひらをちくりと刺したけれど、とっくの昔に覚悟は済んでる。ひるまず、手に力を込めた。
「勝者に抗うのは怖いか? 捻じ伏せられた記憶は痛いか? 今ここで守りたいものを守るために、いつまでも先に繋がらない今を続けるつもりかよ!?」
「それは……」
握り込んだ手のひらの中で、細い指がぴくりと動いた。
肉体強度で言えば、今のオレなんか紙みたいなもんだ。レヴィはその手を振り払うだけでいい。それだけで、オレの手は引き裂かれ、リガルレイアは彼女の腕に従ってオレを真っ二つにするだろう。
バアルと斎藤さんは、オレの背中を見ているはずだ。
だけど、事前にお願いした通り、けっして手を出そうとはしなかった。
オレだって、できれば安全に、無事にアルセイスの元へ戻りたい。
オレが戻らなきゃ、絶対にあいつ泣くんだから。
だけど、だけど――試されているのはオレで、そしてレヴィだ。
ここは、一歩も退けない。
睨み合っていた背中――部屋の入り口で、エレベーターの扉が開く不規則な機械音が響いた。
「……レヴィさま」
「――ダフネ?」
レヴィがオレの頭越しにそちらを見、不思議そうな声で名前を呼ぶ。
オレは、レヴィから目を離さなかった。
どうやら、ダフネは来てくれたらしい。予定の時間に少しばかり遅れたのは、彼女も迷ったからなのかもしれないが。
振り返りはしないから、オレにダフネの姿は見えない。
だけど、ぺたりぺたりと鳴る足音で、ダフネが魚型下半身――もとい、ドラゴンドレスを脱いでいることが分かった。
「……ダフネ、いかん。その姿を、己が夫以外の外の者に見せてはいかんのだ。どこで女神にそなたらの行為が洩れるか分からんぞ。本来は、夫を持てるのはわらわのみ。そなたの行為は、知られれば女神の怒りをかう――第三層の運命を破棄することになるのだぞ」
「レヴィさま……そこの男から聞きました。私たちが自分自身でマーメイドを再生産できず、レヴィさまの卵にのみ種族保持を頼っているのは、すべて女神のなしたことだというのは本当ですか? 私たちが他の種族のように、自らの子を持てないのは、女神の指図だというのは。レヴィさまご自身も望むとかかわらず、それを強いられているというのは」
「レイヤ、貴様――ダフネを巻き込むつもりだな!」
ぎり、と噛みしめられた牙が、頭上で鳴っている。
だけどオレは掴んだままの手を放さない。
ダフネの濡れた足音が近付いてくる。
「レヴィさま、どうか……私たちを信じてください。すべてをお一人で背負わないでください」
「……信じる、だと?」
足音が、オレの隣で止まった。
ラインライアを握ったままのレヴィとオレの手の上に、ダフネの手が被さってくる。
「私は、あなたの娘です。もう一人前のマーメイドです。あなたがすることは私だってしてみたい……母になる、とはどんなお気持ちなのですか?」
「それは――」
「人もエルフもフェアリーも、皆、子を作ります。私たちだって、自分の子を持つことをしてみたい。愛しいひとと自分と、両方の血を継いだ生き物とはどんなに愛しいのですか? 私たちのためだけに、愛もない相手に自らの卵を明け渡すことはどんなに苦しいのですか?」
「ダフネ……」
ふらりとレヴィの足元が崩れる。
座り込むように腰が下がり、黒い瞳がオレの正面に下りてきた。脱皮したばかりの爬虫類のような剥き出しの感情がその目に宿っている。
真摯で切実で、どこか頼りなげで――そして、愛情と悲哀を含んだ目だ。
「ふふ、わらわとて、自らの命は惜しい……女神の言葉に従えば、わらわの命は安泰じゃと言われれば、そなたらの人生などいくら切り売りしても――」
「――この期に及んで嘘をつくなよ!」
心にもないことを言おうとするレヴィを、オレは正面から睨み付けた。
隣のダフネでさえ、少しも動揺していない。
レヴィの言ったことが嘘だなんて、分かり切ってるからだ。
レヴィが本当に恐れているのは、マーメイドたちを――娘たちを、共に危険に晒すことだ。
「レヴィさま――」
レヴィとダフネ。母と娘。
黒と金の拮抗する視線の間に割り入るように、オレは声を上げる。
「庇護されるだけの存在なら、鳥籠の中の鳥と同じ――今のあんたと、あんたの娘たちはおなじ形で支配されてるだけじゃないか。あんたは女神に、マーメイドたちはあんたに。あんたのやってることは、結局、女神とおんなじだ」
至近距離で見つめ合うレヴィの表情が激しく歪んだ。
オレは絶対に目を逸らさず、そして手を引かぬまま彼女を見詰める。
「レヴィ、一緒に行こう。女神の意の元にやり直すんじゃない、誰かの引いた線の上じゃない。自分の選択で明日を決めよう。あんたの娘たちにも、あんたと同じ喜びと悲しみをあげよう。選ぶ余地すらない世界じゃない、誰もが自分で決める世界だ!」
強く握った手の内側で、冷たかった指先が徐々に温まっていく。
突き刺さる爪先の痛みが、どくどくと心臓の音に合わせて鳴った。
危険を冒しても先へ進む意志があるなら――今、この手こそが生きているという証だ。
無言のまま、レヴィの視線が逸らされる。
オレの肩越しに、背後にいたバアルの方を見やっている。
「千と百年前、そなたがわらわを誘うたときに言うたことを覚えておるか?」
「先に散々馬鹿にされたばかりだが――『お前の孤独を知っている』だったかな」
「そうさ、そなたはよりによって、『共に生きる者が欲しい』と言ったのだ。そなたの横には、シトーもベヒィマもジーズも立っておった癖に。わらわとそなたは立場が違う。わらわは……そんな者を求めてはおらぬ。今も、昔も」
レヴィは立ち上がり、ダフネとオレの手を、優しく振りほどく。
そうして、握り直したリガルレイアの柄を、改めてこちらに向けて突き出した。
既に瞳は冷ややかさを取り戻し、唇は皮肉に歪んでいる。
「わらわが己の――娘たちの自由を求めて抗うとするならば、そなたは何を欲しておる? 自身の言う通り異界の存在であるそなたが、わらわと共に女神に弓引いて何の得があるのじゃ」
「莉亜をこのままにしておけない。あいつは……我儘で素直さの欠片もないツンの大きすぎるツンデレな妹だけど、世界を壊すなんて後先ないこと神様に言われた通りやっちゃうほどバカじゃないんだ」
「リアは、己が意に反することをさせられている、と?」
「だって、世界を壊すんだぞ。世界が壊れちゃったら、今この世界で生きてるアルたちはどうなるんだ。生死どころか、魂さえ作り直されちゃうんじゃないのか――そんな大罪、妹が犯そうとしてるのを止めない兄がいるか?」
少なくとも、オレは止めたい。
莉亜のためにも、アルのためにも。
「そなたにも守りたいものがあるということじゃな……ただ共に生きるではなく、共に抗うと言うなら、理解できるぞ」
レヴィが、くくっとくぐもった笑い声を漏らす。
薄く開いた唇の端に牙がのぞいているけれど――なぜか、意外にも愛らしい笑顔に見えた。
次回、Interludeの後、次章に入ります。




