2 迎える手
気付けば、真っ暗な闇の中にぷかりと浮かんでいた。
上もなく、下もない。
動いてみても、足も手も何に触れることもない。
普通なら少し怖く感じたりするものかも知れない。
でも、何度もここを通った記憶が、オレの心から恐れを消した。
オレは知っている。
ここは――
「――まさか、戻ってくるとはな」
背後から、苦笑いの声が聞こえてくる。振り向けば、オレによく似た――そして、莉亜によく似た――だけどぜんぜん別人の、女の子が立っている。
ふわりと宙を泳ぐような動きで、オレの方へ近づいて来た。
「バアルか。迎えに来てくれるなんて、優しいな」
「私以上に、お前を迎えに来たがっている者もいるのだがな。残念ながら、ここに入れるのは魔族か――さもなくば、勇者だけだ」
「そうなのか? それ、オレはどっちになるの」
「さあな。どちらと言えば良いのか……私と勇者、どちらの力もがお前の中にはある。同じ存在でいたうちに、混ざってしまった部分があるのだろう」
オレの胸元をつつく仕草は、見た目相応の女の子のようだ。
もちろん、見た目の年齢は何の参考にもならないって、よく分かってるけど。
ちょっとばかり気を取られている間に、バアルがため息をついて、オレの肩を叩いてきた。
「今ならまだ帰れる……と言っても、元の世界で大人しくしているつもりはないのだろうな」
「あったら、わざわざこっちに戻ってきたりしないって」
「なぜ、そこまでするのだ。向こうにいれば、幸福に一生を終えられるものを」
なぜ――本当だ。何故なんだろうな。
約束された平穏な暮らしに背を向けて、親を泣かせてまで、わざわざ戻ってくる理由。
アルセイスのため。
莉亜のため。
それに、こっちの世界のため――?
多分、どれもあってて、どれも違ってる。
誰かのためかも知れないけれど、でもそのどれよりも――自分のために。
「オレには、みんな忘れて生きるなんて、出来ないんだ。そんなに器用じゃないんだよ」
「ああ、そうだろうな……。まあ、私も同じようなものだ」
にこりと笑ったバアルが、背後を指した。
眩しい光が、向こうから差し込んできている。
「さあ、行こうか。お前の帰還を歓迎する――」
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目を開けると、目の前がきらきらしていた。
眩しくてかざそうとした手が動く前に、何かが絡みついてくる。
「……?」
「レイヤ」
名前を呼ばれた。
身体を起こそうとしてみたけど、絡め取られた手が動かない。
周りの光景が目に入って来た。覚えのある場所――以前、整備をして貰ったドワーフの工房だ。中央の整備台の上に転がってるのが俺で、台の脇にしゃがみ込んでいるのが、当然のように俺を待ってたアルセイスだった。
良く見れば、白い長い指が俺の手を掴んでた。
ぎゅっと手の甲が引き寄せられ、形の良い唇が静かに触れる。慌てて目を見開いたオレに構わず、いつからそこにいたのか、アルセイスは冷え切った指でオレの手を握り続けている。
「……二度と会えないかと思った」
声が震えてた。
怖い者知らずの、無敵の王子さまが。
「まさか、あれが最後なんて……お前、が、いると思って……から、俺は」
途切れ途切れの声の狭間に、何度となく息をついてる。
顔を上げた。一瞬、言葉を失った。
アルがこんな……顔中びしょびしょにして喚く姿なんて、初めて見た。
「……俺を置いて、1人で行かないでくれ!」
「ご、ごめん」
謝る以外の選択肢なんてない。
魔王がいればあんたは無事にいられると思ったとか、方法は分からなくても戻ってくるつもりだったとか、そもそもそんなこと伝える余裕もなかったとか、そんな言い訳は何一つ口に出来なかった。
強く繋がれた手を握り返す。
「ごめん……もう、どこにも行かないから。あんたのために戻ってきたんだ。もう置いて行かない」
「当たり前だ、バカぁ!」
がばっと音がするほど激しく抱き締められて、感極まってオレも抱き返そうとして――腕が動かないことにようやく気付いた。
「……あれ?」
「もう絶対離すもんか……」
落ち着いて身体を見下ろせば、どうやら整備台の上に、ぐるぐる巻きに縛られているらしいのが見えた。
見上げると、何か目が据わってるアルセイス。
「あの……アルセイスさん、この拘束は?」
「絶対離さない。どこにも行かせない。お前は俺のものだ。そうだな?」
「そ、そうです……いや、待って。離れないのは良いけど、1人でトイレくらい行ける程度の自由は欲しいかなって」
「いいぜ。用が済んだらな」
「用っていったい――きゃあ!?」
真っ赤に潤んだ目で、伸ばされた手が、オレのシャツを引き千切る。
「ちょちょちょっと、アルセイスさん! 何を!?」
「何を? こういうのを身体に言い聞かせると言うんだろ、お前の世界では。そんなことでお前が手に入るなら、もっと早くにしておくべきだったな」
ひどく凶悪な微笑も、アルが浮かべるとセクシーでどきどきしてしま……いや、そうじゃなくて、待って! だめ、ぱんつ脱がさないで!? そういうのはあの……大人になってからだから! いや、正直このままでも良いかなって思う気持ちがちょっとあるけど、いやいやいややっぱマズいし、そもそも身体に言い聞かせるとかどこで知ったの? 誰がそんなこと教えたんだ!?
焦るべきか喜ぶべきか悩むオレの視線の端に、スーツ姿の人影がちらりと過ぎ去った。
「――斎藤さん!?」
思わずその名を呼ぶと、きれいに脱がされて8割裸のオレを置いて、アルが勢い良く振り向く。
「淫魔シトー! 邪魔はするなと言ったはずだが」
「いえ、邪魔をしようなんてそんなつもりは。ただ、色々お教えしたことが上手くいってるかと心配になっただけですよ。首尾を確認したらすぐ出て行きますので」
「出て行くなら今すぐに――」
「待って出て行かないで斎藤さんどうせあんたのせいだろ責任持ってこの人止めてぇ!」
オレ史上最高の早口でまくし立てる。
斎藤さんは不思議そうな表情で、アルの顔色をうかがいつつ歩み寄ってくる。
「……止めて良いのですか? むしろ私としては、あなたをこっちの世界に引き留めるにはこれくらいした方が良いのかと思っていたのですけども。いえほら、魔王さまももうあなたの中にはいない訳ですし、正直あなたの貞操がどうなろうと私は別に」
「あんたの頭そればっかか魔王にしたことと言い千年前から発想が変わってねぇんだよいいから早くほどけ!」
「まあ、おかげさまで淫魔なんて二つ名を頂くくらいですからねぇ」
「それ種族名じゃなかったのか――いや待って何でも良いからこれほどいてぇ!」
アルは斎藤さんを追い出そうとするし、オレは何とか引き留めようと必死だしで、ガタガタ騒いだのが幸いしたらしい。偶然廊下を通りがかった様子で、ヘルガが扉の向こうからちらりと顔を覗かせる。
「目が覚めたの、レイ――」
ヤ、とオレの名前を最後まで呼びきることなく、すうっと扉が閉まっていく。
そこで見てみぬふりはひどいんじゃないだろうか!
オレは泣きそうな思いで声を上げた。
「行かないでヘルガ! 助けて、見捨てないで!」
ほぼ全裸で台に縛り付けられてる身としては、割と当然の台詞だと思う。男の癖に情けないとか、据え膳食わぬは何とかとか、そういうことについては、また余裕のある時にでも考えることにしよう。