interlude うそつき
――落ちる。
身体を固くした途端に、足もとから落下した。
胃がひっくり返るような浮遊感。
思わず手を掻いたが、掴まるものなど何もない。
俺の上に覆いかぶさっていたベヒィマの身体は、ぐったりしている。
離れそうになった腕を掴んで引き寄せたが、どうやら意識を失っているらしい。
浮遊の魔術でも使ってくれないだろうかと、揺さぶってみたが、ぴくりとも動かない。
気を失った魔族。壊れたエンジェル達。
一緒に落ちていく、この下は海だ――気付いて、ひゅっと息を呑んだ。
海面にぶつかって潰れて死ぬか、波にのまれて溺れて死ぬか。
――嫌だ。まだ、俺にはやることがある。
思わず、胸元に抱えていたレイヤの腕を、ぎゅっと抱き締めた。
レイヤのことだ。きっと、ここにいる。
ぽやっとしているように見えて、案外タフなのが、レイヤの良いところだ。
勇者の身体を捨てて、きっとこの中に逃げ込んでいるはずだ。
この左手に新しい身体を与えてやるまでは――レイヤを取り戻すまでは、俺は死ねない。
瞬く間に近付いてくる海面。
レイヤのくれた上着を広げ、出来るだけ落下の勢いを殺す。
溺れて死ぬのは嫌だが、潰れて死ぬよりはまだ、波の下の方が生き残る可能性がある。
海を睨み付けるように目を見開いた途端、ふわりと一瞬、身体にかかった重力が消えた気がした。
作ってもらった水着を見下ろす。
ああ、きっとこの水着にかかった魔術がまだ、残って――
レイヤ――と、名を呼ぼうとした瞬間に、派手な水音と共に海中に突っ込んだ。
どうやら、残っていた魔術は、本当にほんの一瞬だけのものだったらしい。
口の中に塩水が流れ込んでくる。
反射的に息を吸おうとして、更に水を吸い込んでしまう。
気管が痛む。ますます混乱して、喉が海水に塞がれる。
藻掻く、藻掻く――真っ暗な海の中、目の前は泡と光で真っ白だ。
苦しい――ベヒィマはどこに――いや、さっきまで握っていたレイヤの腕はどこへいった!?
嫌だ! 俺は――レイヤを、ああ――嫌だ、死にたくない!
絶望と混乱、それでも何とか生きたいと願う苦痛に悶える中、どこからともなく凛とした女の声が響いた。
『――セット、全詠唱破棄【転移】!」
海底に、漆黒の闇の色した扉が生まれ、ゆっくりと開いていく。
ぐるりと渦を巻いて、大量の海水と一緒に扉の向こうへ吸い込まれ――
――がん、と固い床に膝から落ちた。
「――おわぁ!? 何じゃい、こりゃあ!」
ひょうきんな声が背後で上がる。聞き覚えのある声のようだったが、今の俺にはそれどころではない。
うずくまり、肺が裏返るほどの勢いで咳き込む。
口からも鼻からも、滝のように海水が落ちていく。腹の奥まで海水が溜まっていたようで、吐いても吐いても中々途切れなかった。
背後から、慌てた足音が乱暴に近付いてくる。
「お、おい!? 大丈夫かの? ど、どこから出て来たのじゃ……」
おろおろと背中を撫でる小さな手の感触。
普段なら払いのけていたかもしれないが、今は正直それどころではない。
とにかく吐き出せるだけ吐き出して、床に突っ伏した。
「そんなところで寝てはならんぞ! おい、こっちじゃ」
このまま眠ってしまいたいのだが、ぐいぐい手を引かれて無理矢理起こされる。ぐしょ濡れの身体を脇で支えてきたのは、見慣れたバンダナを巻いたドワーフだ。
ふと周りを見渡せば、いつの間にか、ドワーフの山でレイヤの腕を修理した工房だった。そうか、このドワーフはあの時の技術者だ。
何故俺はこんなところにいるのだろう。
さっきまで西海で溺れていたはずなのに。
「不思議そうな顔じゃの。いや、わしも不思議じゃ。さっき突然、黒い扉が天井に現れての、それが勢いよく開いたと思ったら、どばどば海水が流れてきたのじゃ。その上、水と一緒にぬしらが落ちて来てのう」
「ぬしら……?」
「ぬしと、このエンジェルの部品――それに、そこの娘じゃ。ありゃ、ぬしの連れじゃろ?」
指さす先に、ごろりと仰向けになっているのはベヒィマだった。
ちょうど目を開けた黒い瞳が、俺を認めてため息をつく。
「さすがに死ぬかと思ったわ」
「お前も生きてたのか」
「何よ、死んでた方が良かったって?」
「斜めに取るな。無事で良かったと言ってるんだ」
「うむ、ぬしもな。何じゃ、ぬしら何やら死線を潜り抜けてきたようじゃの」
良かったのう、と勝手に納得し始めたドワーフの姿に答えようとして、ふと自分の両手の中に、腕が一本しっかりと抱かれていることに気付いた。
見まがいようもない、レイヤの左手だ。
混乱の中で手を離してしまった気がしていたが、どうやらしっかり抱いていたらしい。
「工房はぐっちゃぐちゃじゃが、まあぬしらが生きとって良かったの。弁償はそのうち考えるにして、まずは休むのが良いぞ。だいぶ水を吸っておったようじゃしの」
「迷惑かけてすまない」
「何じゃ、エルフの癖に殊勝じゃの。とにかく、こっちに寝台があるから――」
「――すまないが、もう一つ頼みがあるんだ」
ドワーフの目の前に、半ばで断たれた左手を突き出す。
もとをただせばこのドワーフ自身の部品だ――だが、今の俺にはそうは思えない。
「この中にいるはずのレイヤを……何とか戻せないだろうか?」
ドワーフは小さく息を吐くと、俺の手から左手を取り上げた。
「データが残っとるなら、外は何とでもしてやるわい。海水に浸かっちまったのが少うし不安なところじゃが……まあ、出来るだけのことはする。じゃから、ぬしは休んどれ」
「頼む……」
抱えていた重みが掻き消えたようだった。
この手の技術で、ドワーフの右に出る種族はない。その中でも、王が腕利きと認めるこの男ならば、きっと――
「――レイヤ、を」
気を抜いた途端に、足元がふらついた。
支えようと踏み出したはずの足が、膝から崩れて床が近付いてくる。
「アル!? ちょっと――」
ベヒィマの甲高い悲鳴が、妙に遠く聞こえる。
そこで、俺の意識は一旦途切れた。
●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●
どうやらそのまま、一昼夜ほど寝付いていたらしい。
次に目を覚ました時には、寝台の上にいた。きっとあのドワーフが運んでくれたのだろう。
横向きになっていた姿勢から寝返りを打って、仰向けになる。途端に、覗き込んでくるベヒィマの心配そうな瞳が目の前に出てきて、非常に驚いた。
あと一瞬遅ければ、反射でぶん殴っているところだ。寝付いたおかげで少しばかり動きが鈍くなっていたことが、逆に良かったとも言える。
危ういところで俺の拳を避けたベヒィマが、目を吊り上げて怒鳴る。
「――いきなり何すんのよ!? 危ないでしょうが!」
「こっちの台詞だ。寝起きに俺の目の前にいても良いのは、レイヤだけだ」
反射的に言い返したが、名前を口にした途端にはっと気付いた。
「――そうだ、それだ。レイヤは――ドワーフに預けた……あの、腕はどうなった?」
ベヒィマが一瞬、何とも言えない表情を浮かべる。
それは喜びとも悲しみともつかない微妙さで、俺はその感情をどう認識すれば良いのか、判断しかねる。
「どうなったんだ……?」
「あー、うん……あんたが寝てる間に色々分かったのよね。それで、バンダナのひとが言うには、とにかく、身体はもうすぐ復元完了するだろうって」
「身体は? 含みのある言い方だな。おいまさか、心が欠けているとかそんな……?」
「あー、そういうことじゃないのよ。大丈夫、人格データはちゃんとサルベージできたって。ただね、うーんと……」
ベヒィマは小さな手を額に当ててしばらく悩んでいたが、結局はため息ですべてを諦めたようだった。
「もういい。とにかく見れば分かるわ。こっち来て」
引き起こされたが、まだ目覚めたばかりで、頭の芯がぼんやりしている。
だが、もうすぐレイヤの身体が戻ると言うのに、いつまでも寝ている訳にもいかない。
おかえり、と両手を広げて迎えてやらなくては。
何て危ないことをしたんだ、と叱り付けるのはそれからだ。
ベヒィマの手を支えに立ち上がると、ずいぶん丈の短い上着1枚しか着ていないことに気が付いた。
あのドワーフのものだろうか。歩くとレイヤに作って貰ったぱんつが見えそうになる。
裾を直しながら歩いていると、前を行くベヒィマが俺の仕草に目を留めた。
「それ、着替えさせたのはあたしだから、心配しなくていいわよ」
見れば、ベヒィマ自身も簡素な上着と下穿を着ていた。
俺と違って丈が足りているのは、ベヒィマが少女の姿をしているからだろう。
「そういう心配はしていないが」
「それにしちゃ落ち着かない様子だから」
「下着は他人に見せるものじゃないんだ。レイヤがそう言ってた」
「……水着とは違うの?」
「さあ……」
違いを俺に聞かれても困る。レイヤの意識が戻ったら、本人に聞いてくれ。
そう言い返そうとしたところで、ちょうど工房に戻ってきた。
「さ、入って」
扉を支えるベヒィマの脇を抜け、中に入る。
さっきは工房中、海水と壊れたエンジェルの四肢でぐちゃぐちゃになっていたが、不要なものは脇にのけられ、海水はきれいに拭き取られていた。
中央に立つのはバンダナのドワーフと、その向こうに黒髪の義体が椅子に腰かけている。
目を閉じうなだれた義体の顔は見えない。
だが、ここまで守り切った左手が義体に接続されているのが見て取れた。
「――レイヤ!?」
心臓の鼓動が跳ねあがる。
駆け寄った先で、義体の姿が徐々にクリアになる。
――違和感。
レイヤの面影は確かにある。
柔らかそうな黒い髪、目元も口元も、レイヤに似ている。
起動前なのだろう。今はまだ、固まったままの人形のようだ。
だが、違和感はそこではない。そんなことより、これは――
「それ以上近付くでない、エルフ。今、まさに起動中なのじゃ」
行く手をドワーフに阻まれた。
邪魔者を押しのけようとしたが、小柄な癖に案外頑丈なドワーフは退きはしない。
押し合いするうち、ドワーフの頭越しに、目の前の義体がふうと息を吐くのが見えた。
みるみる、頬に血が上り、唇が薔薇色に染まる。長い睫毛が震えて、ゆっくりと開かれる。その奥からのぞく黒い瞳が、俺の顔を映してふと微笑んだ。
「レスティキ・ファ」
凛とした声――だが、これは。この声は。
「――貴様、魔王か」
声が震えるのを、隠し通すことは出来なかった。
俺の言葉を耳にして、魔王は一瞬、傷付いたように眉を寄せる。そんな仕草もレイヤに似ている――似ているが、別物だ。
こうして動き出したのを見て、はっきりした。この義体は、女の身体をしている。
「おい、ドワーフ。これはどういうことだ」
「止めなさい、アルセイス。バンダナの人のせいじゃないのよ」
言い募ろうとした脇から、ベヒィマが庇うように俺とドワーフの間に割り込んだ。
ちらりと横を向く、視線の先には魔王がいる。
その瞳に押さえきれない喜びが滲んでいる。目が合うと、魔王の方もまた視線をやわらげた。
「ベヒィマか、息災な様子で何よりだ」
「ええ、魔王さま。あなたもね……あのね、アルセイス。あの腕の中に入ってた情報が、この方なの。左腕の中に退避されてたのは、レイヤじゃなくて……魔王さまのものだけだったの」
一瞬、何を言っているのか、理解できなかった。
だって……レイヤが、こうしろと言ったのに。
「多分、レイヤはあたし達を守ろうとしたのよ。ほら、海に落ちたところから、この工房へ転移したでしょう? レイヤも転移を使ってたけれど、そもそもあれはレイヤの力じゃないわ。魔王さまの力と、勇者の力。それを表層プログラムが利用してただけ。だから、勇者の力に、レイヤじゃ抗えない――それが分かってたから、レイヤは魔王さまにあんたを守ってもらおうとしたのよ」
「嘘だ」
何の根拠もなく、ただ断言した。
口が動いてから、それを嘘だということにするだけの理由が、頭の中に湧き上がってくる。
「嘘だ、それは。だってスィリアは本物で、そこにいる魔王はただの複製だ。あのときだって、魔王はスィリアに対抗できていなかった」
「……そうだな、私だけでは難しかったに違いない」
答えたのは、ベヒィマではなく魔王だった。
魔王は静かに首を傾け、穏やかな表情で俺を見ている。
「どういうことだ」
「転移の魔術を手伝った者がおるということだよ。奴め、どこかで見ておったのだろう。全く、しつこい男だ……」
滲んだ苦笑は、だが、俺を苛立たせるだけだ。
「そんなことはどうでも良い! どういうことだと聞いている。何故お前がここに――レイヤはどこにいるんだ!?」
「お前なら分かるだろう、レスティ――」
「俺はアルセイスだ」
「……すまない、アルセイス。だが、私に聞かずとも、分かっているのは確かだろう?」
こんなにも冷たく跳ねのけても、魔王の微笑は消えない。
分かる訳がない。レイヤがどこにいるかなんて。
分かりたくもない。俺よりも、妹と会うことを優先したなんて。
「お前が思っているよりも、私をここに残すことは、レイヤにとって有意義だったのだ。自分はスィリアと共に妹の元へ行け、そして何より――お前たちの無事を確信できるという意味で。レイヤは、シトーが私の意味を理解し、そして私たちを手助けすることまで見抜いていたよ。おかげで、シトーはあまりにも思い通りに運ぶのが嫌で、今まさに不機嫌の極みにいるのだろう。手を貸しはしたが、姿すら見せやしない」
「嘘だ! だって、だって――」
――だって、あのとき、レイヤは言ったのに!
こみ上げてくる嗚咽で、もうそれ以上は言葉にならなかった。
魔王の手が静かに伸びてきて、俺の肩を抱く。
その手が見慣れたレイヤの左手だということに気付いて、思わず握りしめた。
多分、俺が勘違いするだろうってことも、レイヤは見抜いていたんだろう。
最初から、魔王の情報をもって逃げろなんて言われてたら、俺は絶対に退かなかっただろうから。
だから、あいつは、本当にろくでもない嘘つきだ。
なのにそれが分かった今だって、俺は、最後に交わした言葉を信じたくて仕方ない。
さよならするために出会った訳じゃないって――そんな、何の保証にもなってない、夢物語のような優しい言葉を。