13 さよならするために出会った訳じゃない
ぎちぎちと腕が鳴っている。
私が力を込めている訳じゃない。ただ、もう少し手を上げたいだけ。
手のひらをアルセイスに向け、そこで魔術を放つだけなのに。
あと5cm。その距離が上がらない。
「……何だ、この不具合は」
さっき目覚めた時にはスムーズに動いていたはずなのに。
耳鳴りじみた幻聴まで聞こえてくるような気がする。
――お前の、思う通りには、させない。
消しそこねたデータの軋むような悲鳴が、耳障りに頭を引っ掻いている。
消去、消去、消去――繰り返す作業を嘲笑うように、思いもよらぬところに現れてくる――ただの、表層プログラムの分際で。
「……? 勇者よ、どうした」
海魔レヴィの訝しげな声が微かに聞こえたけれど、私に答える余裕はなかった。
捻じ伏せた魔王の声までが、喉元を押し上げてくる。
「――べヒィ、マ」
物柔かな声を耳にして、戸惑っていたベヒィマが反射的に顔を上げた。
「魔王さまの、声?」
「ベヒィマ、近寄るな。あれはまだ――」
「違う。私は――私は、わ、わ、私は、ああ、私は――」
頭を抱えてのたうつ私は、体面を保つだけの余裕を失っていた。
勇者と魔王が、一つの身体を奪い合う間、身体は制御を失ってぐらりと揺れる。
その一瞬の隙を見て、オレは急いで中枢を支配した。
「頼む、アル――」
「レイヤか!?」
耳に入らないかもしれないような小さな声なのに、聞き届けてオレの名前を呼んでくれた。
身体に力が入らないはずなのに、タックルの勢いで向かってくる。
ほんとだ、イノシシみたいだって、ちょっとおかしくなった。
足元を崩して倒れかかってきたアルの肩を、震える手で抱きとめる。
「レイヤ、お前――」
たった今、オレを突き飛ばすほどの力で勇者の魔力を振り切ってきたのに、飛び込んできたアルはいかにも頼りなくて、目が合うと泣いてるみたいに顔が歪んだ。
「アル、時間がない。黙って聞いて」
身体を奪われたことに気付いた勇者が、魔王を再び全力で抑えこもうとしている。
抱きしめたアルの肩が震えてるのか、オレの身体が限界なのか、よく分からない。
涙をこらえて頷くアルの耳元に、囁きかける。
「ナイフ、しっかり持って」
「持ってる」
「合図したら、左手、切って」
「……分かった」
理由も聞かずに頷く信頼の深さと判断の早さが、笑えてくるほど頼もしい。
頼りなげで、壊れそうに繊細で、なのにこの叩いても叩いてもぶっ飛んでくる力強さが途方もなく愛おしい。
これが最後だって思ったら、我慢できなくなった。
「オレ達、さ」
「うん」
「……さよならするた、めに、出会った訳じゃない、から」
「分かってる」
まっすぐ見上げてくる瞳をぎりりまで見つめたまま、静かに顔を近づける。
もう感触の分からない唇で、だけど確かに触れ合うように、口づけた。
「レイ、ヤ――」
受け入れてくれた思い出が唇の最後の記憶なら、まあ――幸せな方だろう。
少なくとも、異世界に飛ばされた魔王の最後よりは、百万倍マシだ。
――言ってろ。
苦笑する気配と共に、魔王の意識が沈む。
邪魔者をどかしてまっすぐにオレに向かってきた勇者を、打ち倒すすべなんて今のオレにはなかった。
――消えろ。
「――と、言っているのに。本当にしつこいことだ」
腕の中のアルセイスが、びくりと身を固くする。
ついさっきまで表層プログラムが中枢にいたときとは真逆の反応が、何となく腹立たしい。
「あなたは、本当にレスティキ・ファの魂を持っているんだな」
あの頃、魔王以外に目もくれなかったエルフの娘を彷彿とする。
噛み付きそうな目で見上げてくる青い瞳。
「まあ、良いか。左腕だっけ? 確かにこの部品だけずいぶん新しいね。ここに継ぎ目があって」
今や、完全に支配を取り戻した右手で、上腕の継ぎ目をたどる。
指先を食い入るように、青い目が睨みつけている。
「ドワーフの山で修理したんだっけ? だけど、隠し武器を仕込んだとか、そんな話は聞かないし……」
左腕を落とせだなんて、あの表層プログラムは何を考えてるんだろう。
それに、あの数秒しかない説明で、私と同じ疑問を抱いたはずなのに、全く考え込む様子もないアルセイスも度し難い。
分からないことばかりだ。
なぜ莉亜が自分を呼び寄せたか、とか。
分からないのは、気持ちが悪い。どちらも。
やはりここで消しておくべきか、と思った瞬間、ぴくりと左手の指先が動いた。
途端に、電光石火で振り下ろされたアルセイスの刃が、腕の継ぎ目をこじ開く。
がたん、と重いものが――左腕の先が地表へ落ちた。
一瞬愕然としたけれど、目を見張っていたのは一瞬だった。落ちた左手を拾い上げ、逃げ出そうとするアルセイスの髪を掴んで引きずり倒す。
地魔ベヒィマが、甲高い悲鳴をあげる。
「アル!」
「あなたは、主の味方なのか、それともこのエルフの味方なのか、どちらなんだ。そんな中途半端な立ち位置を、いつまでも私が許すと思っているのかな」
「どっちの味方なんて……」
「おっと、それどころじゃないか」
ここに至っても、気を抜くと私の手を振りほどいて逃げようとするのだから、さすがアルセイス。
髪を掴んだ手に力を入れ直し、ついでに肩を踏みつけてやると、エルフの娘は小さく唸った。だが、それでも私の左手を離そうとはしない。
「もう良いや。私とともに王都へ行く気がないなら、全部消えてしまえ――セット、」
「待て、わらわは共に行くぞ。そなたを連れゆくことが、主の望みじゃ。ダフネ、お前は海へ戻っておれ」
「で、ですが、レヴィさま……」
マーメイドは慌ててレヴィに近寄ろうとしたが、彼女は長い蛇身の尾を振ってそれを退けた。
ダフネが怯んで立ち止まると、レヴィの尾の先がぐるりと周囲を覆うように円を描く。
「【天空ゆく雲の如く 吹きすさぶ嵐の如く 汝大地に囚わるることなし 飛翔】」
詠唱を聞いて思い出した。そう言えば、レヴィは魔族の中ではあまり魔力の強い方ではなかったと。
魔術が完成し、レヴィの魔術がマーメイドの身体を浮かせている。
しかし、不足した魔力では、飛翔というよりただ浮遊しているようにしか見えない。マーメイドはじりじりと尾を引きずってもがきながら遠ざかっていく。
天使の虚空の地表を端へと飛んでいくマーメイドは、風船のようにも見えて、少しばかり面白かった。
「ふーん、良いね、なかなか面白いこと考えるじゃない。今の面白かったから、あなたは許すことにしよう。
「……笑いをとるためではないぞ」
ひどい渋面で睨まれたが、その顔がますます面白い。
そもそも、狙ってやっているのじゃないってところが一番笑えるんだ。
一気に上昇した気分のまま、私は足元を見下ろした。
「さて、あなたはどうする? ここに残るのが嫌なら、あの子と一緒に海へ戻るかい?」
踏んでいた足をどけ、力任せに髪を引いて身体を引き起こす。
胸の中に私の左手をしっかりと抱いたまま、エルフは危なげに膝を立てた。
ベヒィマが足音を立てて駆け寄ってくる。
「やめなさいよ、この馬鹿! もう嫌! こういう弱いものいじめはあたしの趣味じゃないのよ! あんたなんかね、あんたなんか……」
「ほら、これだ。あなたはね、ベヒィマ、少し衝動的に動くのをやめた方がいい。どちらにつくともしっかりとした判断をせずに、ただ目の前のことにばかり反応するから、そうやって何もかもなくすことになるんだ――セット、全詠唱破棄」
「――セット、全詠唱破棄――【地殻盾】!」
「【神の国は終わることなし】!」
同時に放たれた魔術だったが、運良くベヒィマの読みは当たっていた。
地表とアルセイスの間に築かれた岩壁が、私の放った地表から吹き上がる光の奔流を遮っている。
だが、威力の差が大きい分、エルフの身体も無傷とはいかない。
跳ね上がるように吹っ飛んで、義体の残骸の中へ落ちていく。
「アルセイス!」
「ベヒィマ、行くな! そなたもわらわと同じ、主の再来を待っておったはずじゃ!」
引き止めたレヴィをちらりと振り返ったが、ベヒィマはすぐに首を振ってアルセイスを追った。
どうやら、最終的に彼女はそちらを選んだらしい。
「ふーん。この様子だと、ジーズと袂を分かったのは、見せかけじゃなくて事実だったのかな。まあ、良いか。道案内は一人いればいいし」
「待て、勇者よ。ベヒィマはただ、目の前の弱者を見過ごせないだけ――」
「そっちの方が勇者みたいだけどさ、でも実際はそういうのじゃないじゃない。ただ優柔不断なだけだよ、あの子は。私はそういうの、嫌いだなぁ――セット、全詠唱破棄」
魔力の動きを感じている癖に、ベヒィマはもう振り返らなかった。
その小さな身体をいっぱいに広げて、アルセイスに覆いかぶさろうとしている。
子どもが一生懸命に大人を守ろうとしているようにも見えて、どこか感動的で――滑稽だ。
私は残った右手を振り上げる。
「――【天上の神なる栄光】」」
真上から落ちてきた光の滝が、エンジェルの残骸に埋もれたエルフと魔族を飲み込んだ。
「ベヒィマ!」
レヴィが名を呼ぶが、もちろん私はそこで手を抜くつもりはない。
「――付加効果【主なる神のみいと高し】」
「やめろ、勇者!」
レヴィの声に応えるつもりはない。
流れ落ちる光の滝はますます強さを増し、ついに天使の虚空の地表に穴が空く。
穴の中へ、エンジェルの残骸が落ちていくのが、煌きの隙間に見えた。
「――付加効果」
「やめろと言っておる!」
三度振り上げた右手に、レヴィがしがみつく。
簡単に振り払って、手を振り下ろす。
「――【主なる神のみいと高し】」
轟音が響いて、地表が揺れる。
天使の虚空の底が――ボオルの尻が抜けたのを足裏の感触で認識して、私はようやく右手をおろした。
「……ふう。これでよし。さあ、行こうか」
海魔レヴィはぎろりと私を睨みつけたが、結局は何も言わなかった。
私に背中を向けたまま、低く、詠唱を始める。
「【虚空の門の守り手よ 鍵持つ獣の名を問い】」
光の差し込む扉が、レヴィの正面に現れた。
ゆっくりと、その扉が開いていく。
私はそれを尻目に、天使の虚空の中央に空いた大穴の縁に立った。
天使の虚空の底まで貫いて、真下にある真っ黒な海が覗いている。
夜だから何も見えないが、先程の私の魔術で何もかも消し飛んだか、少なくとも破片になって海に落ちただろう。
「……粉々になれば、泳げるかどうかなんて関係ないしね」
「――【ここに扉を開け 転移】」
完成した【転移】の扉が、音を立てて開いた。
ちらりとこちらを振り向くと、レヴィは私に声もかけず扉の向こうへ巨大な蛇身をくねらせていく。
私はもう一度、地表の穴を見下ろしてから、肩を竦めてレヴィの後を追った。
これで今世のレスティキ・ファともさよならかと思えば、少しばかり名残惜しくはあったから。