1 エルフはマーメイドじゃありませんので
「海だー!」
ベヒィマが幌から顔を覗かせて叫んだ。
手をかざして目を細め、きらきら輝く波を見詰めている。
「レイヤ、すごいわ! 海よ」
「だなぁ」
反応が薄いように見えたらしく、ベヒィマが唇を尖らせてそっぽを向いた。
いや、別に感動がない訳じゃなくて、そんな無邪気な反応できるのは若いうちだけなんだって。……ベヒィマを若いと言っていいのかどうかは分からないけど。
実際、魔王の記憶にあるものを除けば、この世界の海を見るのはオレも初めてだ。何となく、オレの知る海よりも青さがくっきりして、波が穏やかな気がする。ちょっとばかり見とれてしまってたので、ベヒィマへの答えが適当になってしまった点は否めない。
瞳を輝かせるベヒィマを横目で眺め、アルセイスがぼやく。
「お前、海魔レヴィとは仲間だろう? 奴の棲処に来たこともなかったのか?」
まっとうではあるが、歯に衣着せない言いざまに、ベヒィマはぐっと息をつめた。
オレはひそかに腰を浮かせる。まさかこんなことで仲たがいされるのも困るし、喧嘩になったらアルセイスの方を叱り付けよう。
この人、あんま悪気はないんだけど、基本的に口調が喧嘩腰なんだよな。アルセイスに言わせれば「お前が無防備過ぎるんだ」ってことなんだろうけど。
けど、そんな覚悟とは無関係に、ベヒィマは軽く首を振って諦めたように息を吐いた。
「来たことがあったなら、レイヤに全部任せておかないで、あたしが【転移】を使うわ。さすがにドワーフの山から直接なんて距離は、あたしには無理だけど、途中からなら来れるでしょうし」
アルは微かに眉をしかめ、そのままふいとよそを向いた。
何か気にしてる様子だけど、そんなことには構わずベヒィマは話を続ける。
「確かにあいつも仲間だけど……昔から、魔王さまとはちょっと距離を置いてるのよ。本当は今の――ラインライアに魔王さまが戻って来られた時も、『わらわは知らぬ』とか言ってたもの」
「そう言えば」
そもそもオレ達の前に現れた海魔レヴィは、「魔王に従う」とは言っていなかった。
むしろ、魔王の再来を望む斎藤さんとは敵対していて、ただ斎藤さんから勇者の存在を知らされたから戦いに来た……って感じだった。
「あいつ――海魔レヴィは、まだオレのこと勇者だと思ってるのかな」
「そうね、思ってるでしょうね。レヴィはラインライアには来ないし、あたし達が最後に会ったのはシトーがこっちに戻ってきた直後だったから……聖槍リガルレイアをレヴィが奪ったって話だけはシトーから聞いたけど」
「そんだけ溝があるなら、むしろ説得すればこっち側についてくれたりしないかな? もともと魔王に忠誠を誓ってるってタイプでもないし……」
むしろ、魔王の記憶によると、レヴィもまた魔王と同じで、寂しかっただけだったはずなんだ。
魔王を封印した勇者のことは憎んでいるかもしれないけど、オレが本当は勇者じゃないと分かれば、味方してくれたり……は、しないかな?
「……どうかしら。あたしもイマイチ分かんないわ」
「説得するにせよ、戦うにせよ、直接赴くしかないということか。……いくら薄い関係性でも、海魔レヴィの居場所くらいは知っているだろう?」
肩越しに睨み付けるアルセイスの視線に、ベヒィマは何とも言えない微妙な表情を浮かべ、指を伸ばした。
「……あそこ」
「どこだ?」
「待って、それってまさか……海?」
オレの言葉に、アルが目を見開く。
ベヒィマは悟りを得た仏像のような表情で、黙って頷き返したのだった。
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「そういえば、魔王の記憶でも海魔レヴィは海底に住んでたような」
「あたしも来たことはないけど、マーメイド達は海の住人のはずよ。レヴィ自身も海に住んでるって言ってたし、海の魔物はどれもレヴィの配下だって言ってたわ」
「海の中ってどうやって入れば良いのかな。魔王の記憶だと【転移】で入ったらしいし……あ、そうだ。普通に呼吸したり、会話したり出来てたみたいなんだけど」
「実際にレヴィがいるところは呼吸できるようになってるんじゃない? 海魔って言ったって、レヴィも魔族なんだから、魔族のあたし達と呼吸の仕方は一緒でしょうし。一度そこまで入ってしまえさえすれば、次からは【転移】が使えるんだと思うわ。だけど、最初は普通に泳いで入るしかないんじゃないの?」
沈黙したアルセイスの横で、オレとベヒィマはどうやってレヴィに会うかを考えている。
眩い砂浜を横目に、海沿いの道をぽくぽく進みながら。
「一度入るったって、そもそもどこにあるんだ。海の中は広すぎて、漠然と探す訳にはいかないぞ」
「そもそも、あんた潜れるの? その身体って、耐水加工してあったんだったかしら」
千年前のことはよく分からないけど、例えその頃耐水性だったとしても、さすがにあちこちガタもきてるだろうし、そもそも左腕はドワーフの山総とっかえしたものだ。腹の傷に至っては塞がり切ってない。
そんな状態じゃ塩水に浸かれるはずはない――ん、だけど。
「多分そこは、魔術で何とかなると思うんだ。身体全部空気の膜で包むとか」
「ふーん、そんなこと出来るの。じゃあ、後はどこにいるのか探るだけね。マーメイドがいるはずだから、出会えれば話は早いんだけど」
「それだって海の中だろ? じゃあ、やっぱ潜って探すしかないのか……?」
びくり、と隣でアルセイスの肩が動いた気がした。
けど、どうしたと尋ねる前に、道の向こうから呼びかけられて、オレとベヒィマはそちらに目を向けた。
「おーい!」
「あれ……何だろう?」
「何かしら――おーい!」
ベヒィマが応えて手を振る。アルセイスが黙ったままマントのフードを被り、目立つ金髪と尖った耳を布の下に隠した。どうやらアルにはもう、手を振ってる相手が見えているようだ。
エルフであることを隠さなきゃいけない相手――ということは、人族だろうか。
一瞬迷ったけど、ベヒィマとオレはこのままで問題ないな、とお互いに頷き合った。魔族の外見は、人族とほぼ同じだ。
それに、人族はラインライア王国以外にも小さな集落があちこちにあるので、あんまり一枚岩じゃないことも多いらしい。これは、前にアルセイスから聞いたことだけど。
まあ、魔族は大体どこの人族にもその他の種族にも嫌われてるらしいんだけどさ。千年前の伝説は、勇者が魔王を討ち果たして世界に平和が戻った、って内容だから、仕方ないことなんだろう。世界の敵だ。
馬車が道を進むごとに、呼びかけてきてる人の姿がはっきりとしてくる。黒い髪と日に焼けた肌の、それはやっぱり人族のおじさんだった。
「おーい、旅人さんか?」
「そうだけど、あんたは……人族? 地元の人かな」
「そうさ。近くにおれ達の集落がある。ちょうど漁で出て来たところだったが、あんたらを見かけたからな。あんたらはどっから来たんだ。この道はラインライア王国の王都まで続いてるが途中で山側を周る道だから、旅人が通るのは珍しい」
まさかドワーフの山からちょいちょい空を飛んで、道をショートカットして来ました、とは言えない。オレは少し悩んでから、適当な嘘をでっちあげることにした。
「王都からここまでくる途中、エヴェリーナ山脈のふもとにオレ達の村があるんだ。まだできたばっかで、あんまり知られてないけど」
「ほう、エヴェリーナ山脈のふもとかぁ。今までは通る者もいない道だったが、途中に村が出来たなら多少は行き来がしやすくなるかもな」
おじさんはにこりと笑って行く先の道を指す。
「道なりに行けば、集落はすぐだ。大陸のこんな端まで来る旅人は珍しいから、いつだって歓迎だ。わざわざここまで来るってことは交易か? 面白い品があれば、飛ぶように売れるぞ」
「いや、オレ達は」
「えっと……マーメイドに会いに来たのよ。この辺りに住んでるって聞いたけど」
「マーメイドだと!? おいおい、何てこった。あんたら、何者だ? この距離で物見遊山でもあるまいし、吟遊詩人か何かか? あんな魔物どもに会おうなんて……あっもしかして、そっちのフードの人が実はマーメイドだ、なんて話だったりして」
「フードを取れ」なんて言われたらどうしようと一瞬どきりとしたが、どうやら冗談の一種らしい。この辺りで流行ってる笑い話なのか、おじさんは一人でわっはっはと笑っている。
うーん、奴隷扱いじゃないから、ラインライアの王都の人とは反応が違うのは確かだけど、ここじゃマーメイドは魔物ってことになってるのか。他の種族に対して、人族は友好的ではないにしても、一応魔族や魔物とは別の種族って扱いをされてたんだけど。これはちょっと答え損ねたかも。
オレはベヒィマと顔を見合わせてから、小さく首を振った。
「オレ達の村じゃ、マーメイドは伝説の生き物みたいに言われてるんだ。ほら、千年前の勇者の伝説では、勇者に力を貸した7つの種族の1つだろう? フェアリーやエルフと一緒で」
「何言ってんだ、そりゃ千年前の話だろう。あんたらの村はどんだけ田舎なんだ」
「あっうん……」
「勇者の伝説を知ってるなら、あの時に生き残った魔族三将軍の一人、海魔レヴィは海にいるって、あんたらも知ってるんだろ」
「そりゃ知ってるけど」
「マーメイドはレヴィの手先なのさ。嵐の夜にぎゃあぎゃあ喚いて人族を海辺に誘い、海底に引き摺り込んじまう」
聞いてる内に、何だか怪談みたいになってきた。確かに、海魔レヴィの指示のもと、人族に対して悪行を働いててもまあ、おかしくはないんだけど……それにしては、どうも何のために海底に連れて行くのかはっきりしない。
「えっと……それは、最近もそうなの? 誰か引き摺り込まれたとか」
「そりゃあもう。おれの爺さんの弟の嫁さんの親父の従弟が連れていかれたって」
だいぶ嘘くさいぞ、それは。
いや、嘘をつくつもりじゃないかも知れないけど、信憑性のない噂のように聞こえる。
「あのさ、マーメイドはいるんだよな? 間違いなく実在するんだろ?」
「ああ、もちろんマーメイドの姿は時々浜で見かけるぞ。おれ達は誰も近付かないようにしてる。大抵が月のない夜だしな」
なるほど。マーメイド達もそんなにこっちには近付いてこないし、人族もマーメイドを避けている。
どうやら、この周辺に住む人族とマーメイド達に交流はないようだ。
「月のない夜……なら、明後日じゃない」
ベヒィマの言葉に、オレもまた頷いた。
おじさんが、顔を顰める。
「おいおい、本気か? 引きずり込まれるぞ?」
「まあ、危なそうなら遠くから見るだけにするけどさ。えっと……海に入るってことは、あっそうだ、水着とかそういうの用意しなきゃいけないんじゃないか?」
全然まったく脈絡ないけど、自分で口にした単語に引きずられて、脳裏に水着姿のアルセイスが浮かんだ。
白い腹を惜しげもなくさらけ出し、長い脚の付け根に小さなリボンのついた三角ビキニ。意味もなくビーチボールとか持っちゃったりして、ちょっと前かがみにオレを呼ぶと、胸の谷間がささやかに浮いた布地の間に……
「……何を考えてるか知らないが」
真横から流れた冷たい声で、はっと現実に意識が戻る。
フードの下、表情の見えないアルセイスの声が、ひんやりとオレの耳を凍らせる。
「海に潜るつもりなら、俺を戦力から外しておけ」
「えっ!? いや、あのごめん! 別にその……いやらしいこと考えてる訳じゃなくて、こういうのはほら、反射的に浮かんでくるし、いやそもそも必要でしょ? 水着ってかあの、何かこう……」
「何であんた一人で慌ててるのよ。そうじゃなくて……アルセイス、さっきから何でそんなぷるぷる震えてるの?」
一人だけ冷静なベヒィマが幌から身体を伸ばして、アルのフードの中を覗き込む。
言われてみれば、確かに何だかマントが震えてるような。
オレとおじさんが黙って眺める先で、アルは顔を背けながら、ぼそりと呟いた。
「……泳げない」
「は?」
「俺、よく考えたら泳げないんだ」
「えっ」
「海に住んでるってことは、そう言えば海に入らなきゃ会えないってことなのか……想定外だった」
「――ちょっと! じゃあ、あんたここまで何しに来たのよ!?」
ベヒィマの怒声を聞きながら、オレはさっき夢想した水着姿に、頭の中で思い切りバッテンを付けた。どうやら、そんな優雅な場面はこの先には待ってないらしい。