interlude 成長/異化
手綱を揺らすと、馬は軽やかに馬車を引いていく。
じりじりと日の差す御者台は暑い。
まっすぐ南へ向かう馬車は、大きな問題もなく山道を南方へ下っていた。
ちらりと横を見る。すぐに視線に気付いたレイヤが、俺の顔を見てにこりと笑った。
馬車の動きに身を任せ、ぐらりぐらりと揺れている。その頼りないこと。笑顔の無防備なこと。
――とてもじゃないが、戦場に相応しいとは思えない。
やっぱり置いて行った方が良いんじゃないだろうか、と思いかけて、共に行くことを決意した瞬間の自分の心持ちを思い出した。
孤独を感じさせてはいけない。
そして――目を離してはならない。
周囲を見渡し誰も見ていないことを確認して、手綱を緩めないまま、軽くレイヤの肩に頬を寄せてみた。触れた箇所がひりひりと熱い。
途端、触れた肩に必要以上に力が入るのを、衣服越しの筋肉の動きで感じ取った。
「あっ……と、あ、アルセイス……」
「別に何もしない。そんなに怯えなくても」
「おっ怯えてる訳じゃ! ないけど!」
真っ赤な顔で言い張る姿がまた面白い。
手綱を片手にまとめて持ち替え、空いた手でその腰を抱き寄せた。ここまで近づくと、胸が苦しくてため息が出そうになる。
俺がおかしな反応をするより先に、レイヤの方が慌ててオレから距離を取ったけど。
「あっあんたなぁ!」
「これくらい良いだろう」
「後ろに子どもも乗ってるし……」
「子ども? ベヒィマのことじゃないよな」
言い返すと、くっと言葉に詰まった様子で押し黙った。
何度騙され、惑わされても、レイヤにとってはベヒィマは子どもに見えるらしい。
馬車の後ろ、幌の中に乗っている少女の形をした魔族のことを思い出すと、俺の方は背筋を汗が伝うくらいなのだが。
前から思っていたが、レイヤはどうも他人の魔力に無頓着だ。理由は大体想像がついているが。
「あー、ちょっと離れて。その辺で止めて」
「また道が途切れたか」
「みたいだね。じゃオレ、先を見てくるから。ここでちょっと待ってて」
軽く肩を押された。けして強くはないその手に、俺は黙って従う。
惚れた弱み――ではない。従わざるを得ないからだ。
何もしていないはずの身体から放たれる、強い魔力に気圧されて。
――つまり、これだ。
ベヒィマの魔力などレイヤにとっては大した圧力ではないらしい。
本人が認識しているかどうかは分からないが。いや、多分……自覚していないような気がする。
あのメイノですら仄かに感じ取っていたと言うのに。
もしもレイヤにこの圧がなければ、たとえ俺達が口裏を合わせて「ヘルガを救ったのはレイヤだ」と主張したところで、メイノは信じはしなかっただろう。あのドワーフ王は野蛮に見えて、そのくらいの判断力は持っている。
貴重な戦力と目していながら、俺達の人魚の海底行きを黙って許したのも、多分同じ理由だ。
一つには、レイヤならば出来るだろうと信じていること。
そしてもう一つには、もしも許さなかったとしても、レイヤが強行するならばそれを止める手立てがメイノにはないこと。
実際、ここまでの道のりも本来はこう楽ではないはずだ。レイヤ以外の者にとっては。
ドワーフの山と人魚の海底の間にはエヴェリーナ山脈という険しい障害がある。山道はあるが、人魚の海底へ真っすぐに向かうものではない。迂回し、山の周囲をぐるりと巡り、ところどころ獣道のような荒れた道を通り抜けて、そうしてようやくラインライアへと向かうような道だ。人の行き来などほとんどない。
そこをこうして馬車で通れるのは――レイヤの強大な魔力によるものだ。
止まりかけの御者台から、レイヤがぴょんと飛び降りた。
着地に惑ってよろけたが、すぐに体勢を立て直してその場で何度か足踏みして見せる。
「よっし。じゃあ、オレちょっと行ってくるから――セット、全詠唱破棄【飛翔】」」
ふわりとレイヤの身体が宙に浮かぶ。
馬車に軽く手を振って、そのまま木々の間へ突っ込んでいく。羽毛のように軽い身のこなしは、フェアリー達にしか使えないはずの【飛翔】を、軽々と使いこなしている。
いつの間に、と尋ねれば、すぐに「ヘルガに教えて貰ったんだ」と返ってきた。教えて貰えば使えるものなら、何故他の種族に広まっていかないのかなんて、さして考えもしていないのだろう。
黙ってしばらく待つ。そう長くはかからぬうちに、再びぞくりと背筋に悪寒が走った。馬車の向こうの地面、ぽつんと黒い点が生まれている。みるみるうちに点は円になり、面になり、更に広がって馬車を囲んだ。
これからどうなるかは知っている。心臓がぎゅっと縮んで叫び出しそうになるのを、理性で押さえる。覚悟を決め、息を詰めた途端に、水面に落ちるように馬車ごと身体が真下に沈んだ。
「――【転移】」
レイヤの詠唱が、どこかで響く。
闇の中、何一つ掴めずにどこまでも落ちていくような気がして、思わず目を閉じた。次の瞬間、2本の腕に身体を支えられて、すぐに目を開ける。先ほどとは違う――だが、静かな森の山道だ。どうやら、無事に先へ移動できたらしい。
俺の肩を支えていたレイヤと正面から目が合う。恐怖を押し隠して真っすぐに見つめれば、照れたように笑い返された。
「こんなもんかな。結構進んだ。山一つ越えたよ」
「本当にこんな……レイヤが目的地に足を着いただけで、【転移】が使えるようになるんだな」
「みたいだね。魔王もそう言ってるし、実際ドワーフの山までならいつでも戻れるし」
レイヤ曰く、ドワーフの山の王城にシトーがやってきた時、言っていたのだそうだ。
――行ったことのない場所に【転移】は使えない、と。
魔王の記憶もまた、その言葉を真と告げた。
自らの足で踏んだ地面だけが、【転移】の対象になる。
転移できる距離は魔力に比例するということだが、転移する場所の選択肢は、こうしてレイヤがあちこちを歩き回ることで増やせる訳だ。
「ま、だからさ、何か忘れ物とかあったらいつでも言って良いよ」
「特にはないが……」
「ああ、妖精の川辺には直接は戻れないから気をつけて。あの近くの森に転移することは出来るけどさ」
それは俺達が魔族の仲間だと思われてるからだろう、と咄嗟に思った。
少し考えてから、別の理由だと気付いたが。
「……ああ、妖精の川辺は川の上だからか」
「そうそう。地面を踏んでないからね。ベヒィマの侵攻から逃げて川の上に流水糸をかけて町を作ったって、そういうことなんだと思うよ」
少なくとも町の真ん中に魔族が出てくることはない。
ベヒィマの操る炎に対抗しているだけでなく、【転移】対策ということだった訳だ。
「――ま、そうね。おかげで直接攻め込むことは出来なかったのは確かだわ。更に言えば、あたしにとっては距離的に難易度が高いわね」
会話に割り込んだ甲高い声に、俺は首を曲げて振り返る。
幌を持ち上げ顔を覗かせたベヒィマが、地上のレイヤを呆れた顔で見下ろしていた。
「そうかな。ラインライアと妖精の川辺って、距離だけで言えばそう遠くもないだろ?」
「遠くない? へー……さすが魔王さまの複製よね、言うことが違うわ」
「なんだよ」
「多分、魔力量が桁違いなんでしょうね。腐っても何とか、ってヤツかしら。あたしなら、1日かけて3分の1進めるかどうかってとこよ。近すぎる距離と遠すぎる距離は移動が辛いから」
「そんなにキツいかなぁ」
「……あんた、自分の基準で他の魔族を図らないようにね」
皮肉っぽい口調だが、本心でもあるのだろう。
そういうベヒィマの魔力でさえ、結構凄まじいものがあるんだが――と、指摘するかどうか迷って、結局は口を噤んだ。
【転移】が使える時点で、魔族の魔力はやはり、他の種族から抜きんでている。魔王の記憶の言う、管理者という役割によるものかも知れないが。
レイヤの態度は相変わらずだ。
出会った時のまま、イマイチ緊張感のない顔でほにゃほにゃと笑っている。
だが――もしも今、あの最初に会った時と同じように正面から戦おうとしたら、捻じ伏せられるのは間違いなく俺の方だろう。
こうしてただ立っているだけで、レイヤの方から、肌をぴりぴりと刺す魔力の放出を感じる。
あの正面に敵として立ち、その魔力を一身に受けたとしたら――想像するだけで恐ろしい。
手綱を握る手を交互に変えつつ、チュニックの裾で汗を拭いた。
いつからこうだっただろう。
エルフの森にいた頃は勿論のこと、ラインライアで魔王の記憶に目覚めたばかりの時だって、こんなことはなかった。
魔王が表に出ている時に少し圧迫感を覚えることはあったが、それを除けば、レイヤ自身は至って普通の若い人族の男にしか思えなかったから。
だが――そう、妖精の川辺を離れる時には既に、冷やりとする瞬間が幾つかあったような気がする。
そうだ、あれからだ。
その身体を覆っていたものが剥がれて、中身が見えてから――
「どうした、アル」
屈託のない笑顔でのぞき込まれて、俺は目を瞬かせた。
レイヤは特に気にした様子もなく、御者台の俺の隣に戻って来る。
真横に座った途端、触れた肌がちりちりと魔力に灼かれて震えた。
「お腹空いた? さっきもあんまり食べてなかったような……我慢なんてしなくて良いんだよ。足りなくなったらいつでも、ドワーフの山まで戻って何か買ってくるんだから」
「いや、良い。それより日が出ている内に、もう少し先まで進もう」
手綱を緩めて促すと、繋がれた馬がゆっくりと歩き出した。
しばらく揺られたところで、レイヤが俺の手に触れた。
「疲れてない? オレが替わろうか」
すぐに返事が出来なかった。手が触れただけで、心臓が止まるかと思った。
流れ込む魔力に押し上げられて、息が苦しくなる。窒息寸前のように。
「大丈夫、だけ、ど」
「でも、何かぐったりしてるよ、あんた。少し休んだ方が良いんじゃないか?」
伸ばされた指が頬に触れるまで、永遠の時間がかかったかのように思えた。
その指の温かさよりもずっと熱い俺の身体から、魂が溶け出してしまうんじゃないかと。
指の辿った跡が、火傷のようにいつまでも感触を残す。
「……大丈夫。良いから、ずっとそうしててくれ」
――残れば良い。ずっと。
もっと触れたい。触れて欲しい。
真綿でくるまれるようにレイヤの魔力が、俺を包んでいる。
その魔力の濃さにうっとりしながら、俺は再びレイヤの肩に頬を預けた。
行く先が人魚の海底、ということにそこはかとなく嫌な予感はするが、まあ妖精の川辺も何とかなったしな、と自分を納得させる。
レイヤに触れていると、嫌な予感なんてものじゃない、もっと大きくて曖昧な――幸福と不安の入り混じったような思いでぼんやりしてしまう。
離れられない。けして目を離せない。
失うことがこんなに怖いのに。
この感情の名を、何と呼ぶのだろう。
恐怖か畏怖か――それとも、これが千年前の祖レスティキ・ファが手記に残した『恋』という感情か。
こんなにも変わっているのに何一つ変わらない、その笑顔に目を奪われながら、俺は黙って馬車を走らせた。