17 お前と共には歩けない
赤く腫れた頬を押さえて、シトーは絶句した。
けたけた笑うベヒィマの声が響くだけの時間がしばし続く。
私は視線を逸らさず、じっとシトーを睨み続けた。
ひゅるりと通り抜けた風の冷たさに、シトーも我を取り戻したらしい。頭を振って険しい表情を作り、私の傍に詰め寄ってきた。
「――嫉妬などとは言ってほしくないですね。いくら魔王さまとは言え、あまり私を愚弄するのは見逃せません。複製の分際で」
私が本物ではないと気付いて、タガが外れたのだろうか。容赦なく蔑む視線を向けてくる。
恐ろし気な声色をしているが、魔王たる私に、シトーに対する恐怖はない。
ただ、許せぬ怒りと、憐れみがあるだけだ。
「それ以外の何がある? レスティと私の間に入り込めぬのが寂しかったのだろう」
「いやいやいやいやいや……あなたこそ、何を見て来たのですか? ええ、まあ確かに一時、私は慣れぬ感情に身を任せ、失敗したかも知れません。それをもって魔王さまが私を排除すると言うならそれも仕方ないでしょう。ですが、あなたはそもそも本物ではないし、私の忠誠心はただ……」
「こふっ……ニセモノなのに、案外分かってるじゃない。そうよ、そいつは自分のジェラシーも抑えられない愚か者。不安と独占欲をごちゃ混ぜにして、最後の最後で魔王さまを敗北に導いた痴れ者よ」
割り入ったベヒィマの言葉は辛辣だったが、私の評価とはさして違いがない。
捻くれている癖に直截で、策謀する癖に純真なのがこの男だ。
「シトーよ……」
「はいはい、何ですか、魔王さま」
今のこの笑顔満面の愛想の良さも、私を何かに使おうとしてのものが半分だと、私には分かってしまう。
だが、もちろん残り半分は――複製にすら傅かねばいられぬ程に、魔王を求めているからなのではないか。その程度には、純粋な男なのだ。
私が、端末に記憶をインストールされただけの偽物の魔王と知っていてさえも。
「……お前も分かっているだろうが、先ほど私に見えたのはランジェリを離れるまでの出来事だけだ。レイヤの世界に移った後のことは全く分からぬ。だから、その後のことを知りたい。お前の断罪は、それをもって決めよう」
「実は、それこそ私が一番知りたかったところで……」
「何だと?」
「しかし、あなたは知らないときた。……と、なれば多分、あの時私が使った端末が、魔王さまやあの男、私と一緒に世界転移に巻き込まれたと考えて良いでしょう。だから、あなたの記憶にもそこまでの記憶は残っている。あなた、こちらに来るまで――いえ、来てからしばらくの間も、そのボディは生き物のように見せかけられていたのでは?」
尋ねられて、レイヤの過去を振り返ってみる。
確かに怪我を負って血が滲んだことは何度もあるし、こちらに来た当初、骨折したこともあった。
記憶の中では、こんな身体ではなかったはずだった。
私の表情から答えを勝手に読み取ったシトーが、にやりと笑う。
「魔術によって覆われていたのです。見た目だけでなく、私の走査まで誤魔化すのだから、かなりの腕の持ち主ですよ」
「……それは、つまり」
「そんなことが出来るのは、あの男しかいないでしょうね」
――莉亜、と、心のどこかで私が呟いた。
シトーの指が、断たれた私の腕を撫でる。
馴れ馴れしい仕草を払いのけ睨み付けてやると、シトーは微かに眉を寄せた。
「つまり、転移後のあの男は、少なくともあなた――複製とは一緒にいられた訳だ」
独白じみていたが、口調に恨みがましい色が滲んでいる。
ため息を返した私にむけ、シトーは眉を上げて見せた。
「向こうの世界に転移した時には、私は魔王さまともスィリアとも違う場所に、たった一人で転がっていたのです。探しても探しても、会うことはできなかった。ですから、これはただの推測なのですが」
「言ってみろ」
「魔王さまはあの日、女神から与えられた羽根――聖武具アダマンティンの大鎌を破壊されています。もしかしたらそれが原因で、管理者としての能力を全て失ってしまったのではないかと……そう考えれば、魔王さまは――本物の魔王さまは記憶を失い、ただの向こうの人間として転生しているのではないかと思うのです」
「それで、魔王がいつか記憶を取り戻せるように、この世界を思い返すようなゲームを作ったのか」
「はい、まさかこんなことになるとは思いませんでしたが、千年の内には色々試してみたのですよ。小説、講談、演劇に見世物――」
シトーは微笑みながら指折り数えていく。
その姿を黙って見ていたレスティ――アルセイスが、視界の端で微かに眉を寄せるのが見えた。
責任感の強い彼女のことだ。言いたいことは分かるような気がする。
「……つまり、お前は異世界に転移すれば離れ離れになるかも知れぬ、とその程度のことも調べもせぬまま、私を巻き込んだ訳だ」
シトーが、ぐっと言葉に詰まった。
私はその姿を横目で睨み付けておいて、今の話の真偽を考える。
シトー自身は千年の間、こちらにいた頃と同じように永遠の生を持って生きていたと言う。
シトーの言う通り、飛ばされた魔王――私に私たる記憶があったのなら、やはりシトーと接触しようとするのではないだろうか。
もちろん、彼に頼るためではない。
あの時点での私はシトーの子を孕んでいた。
だから――少なくとも、その子がどうなったのかは、伝えようと思うのではないか。
私なら、多分そうする。
私は頭脳に残った記憶を漁りながら、シトーに尋ねた。
「お前、私の胎の子のことは……知っていたな?」
「ええ、もちろん知っていましたとも。調査不足とあなたは言いますがね、そのことさえなければ、あんな無茶な方法は取りませんでした」
「ほう……」
冷えた私の視線に気付かず、シトーの口は滑らかに回る。
「あなたを守りたかったんですよ。あなただけじゃない、あなたの身体も。そこまで口で言わなきゃ分かりませんかね?」
「……お前の思いは、知っている」
「いーえ、分かってなんていないでしょう。私は何度も進言したのに。聖武具もまた女神の作ったもの、それを集めて女神を呼び出したところで、必ず倒せるとは限らない、と。無茶だ無謀だと言うならあなたの方だ。あなたの魂を失って私が生きていけるとでも思うのですか? どうしてこんなにも自分を大切にしてくださらないのですか」
私を見ながら、私を見ていない。
視線はあっているようで、言葉は私に向けられたものではない。
それでも、一つだけ分かることがある。
私が魔王の複製であるのなら、間違いなくこの言に心動かされることはないだろう。
何故ならば――彼の言葉はすべて、彼だけの理想だからだ。
私の意志は、そこにはない。
私が口を開くより先に、耐えかねたベヒィマが声を上げた。
「――裏切り者の理論なんて、聞きたくもないわ」
「そう言いますがね、私から見れば裏切り者はあなた方ですよ。勝てもせぬ負け戦に魔王さまを引き込んでおいて」
「あたし達が引き込んだんじゃない。魔王さまは戦いたかったのよ、それが分からないからあんたは裏切り者――っごほっ」
立ち上がったベヒィマの身体が、ぐらりと傾ぐ。
背を丸めて咳き込む唇から、血の泡が漏れた。
「げほっ、げ、ごほっ……魔王さまは確かに、あたし達のために戦ってたわ。だけど、それが魔王さまの望みでもあったの。あたし達みんながこれから先も孤独じゃなく生きていけるように、誰かと子を生しても女神に取り上げられたりすることのないように――それなのに、あんたときたら……あんたはただ、あんた自身が怖かったってだけじゃないの!」
ふらつきながら、怒りに瞳を燃やしたベヒィマが、シトーの胸元に掴みかかる。だが、その傷付いた小さな体を、シトーはやすやすと取り押さえ、何の感慨もなく地面に捻じ伏せた。
「なるほど、みんなのためにね……私、実はそういう甘ったるい魔王さまも好きなんですよね。でも、だからと言って――いや、だからこそ、ただあの方だけが助かればそれで良いと思ったのです。だから……魔王さまではなく、魔族達を裏切ったのだとあなたが言うなら、それはまあ正しいのでしょうね」
「は、離しなさいよ……ごほっ、この裏切り者!」
「ええ、分かりますよ。あなたは、みなで特攻して死にたいのですね。私は、あなたまで止めるつもりはありませんから、どうぞお好きなだけ女神に挑戦して、一人で勝手に死んでください」
地面から睨み上げるベヒィマの目が、悔しげに歪んだ。
その憎しみの裏に――微かな失望の色を見て、私の心は決まった。
配下の暴走を止められず、分裂を招いたのは、私の失策。
ならば、責任を取るべきは私であるはずだ。
「シトー」
ベヒィマの肩を地面に押さえつけたまま、シトーが振り向く。
その黒い瞳に向かって、私は真っ直ぐに宣言した。
「もう、貴様と共に行くことは考えられぬ。ここで別れよう、お前はお前の目的を探すが良い。偽物など捨て置いて先を行け」
「あ、はい。もちろ――ん? いや、えっとこれから一緒に……ええっ?」
やはり、偽物と呼んでいるにも関わらず、私と私を切り分けられていないのだろう。答えに詰まって混乱した様子で、慌てて立ち上がった。
ベヒィマから手を放し、こちらに寄って来ようとするのを、片手で制する。
途端に、捨てられた子犬のような瞳を向けられて、少しばかり胸が痛んだ。
彼にとって私は偽物だとしても、その記憶を持つ私にとって、彼は偽物ではないのだ。
千年の隙間を知らぬ私にとっては、目の前の男は、いつか腹心と呼んだ男のまま。
たとえ、その男に手酷く裏切られていたとしても。
「……いや、ま、待ってください、魔王さま。私、ここまでの道中でも役に立っておりましたよね? そもそもあなたをこの世界にお戻しできたのは私がいたからこそ――」
「お前自身が私の力を利用して、戻ってきたいと思っただけだろう」
「いや、もちろんそうですが、でもそれは全てあなたのためを思ってのことで――」
「最初の世界転移の時と同じだ。お前のやっていることは、愛情という名前を付けて私を縛り、己の都合の良いように物事を運んでいるだけのことだよ」
目を見開いて沈黙したシトーを押しのけ、私はベヒィマを助け起こした。
「……こほっ、ニセモノに、お礼なんか言わないわよ」
「構わぬよ。礼を言われたい訳ではない」
ただ、私にとっては誰も偽物ではない、というだけのこと。
かつては共に戦う仲間であったのだと、その良きも悪しきも全て知っているという、それだけのこと。
片腕では、どうもベヒィマの身体を支えるのは難しい。
悩んでいたら、難しい表情で歩み寄ってきたレスティ――アルセイスが、ふらつく私の背を支えてくれた。
「アルセイス、すまんな。助かる」
「お前の甘さは知ってる。……千年前からそうだったってこともな」
「おや、千年前のことを思い出したか、レスティキ・ファ。私と君が一体どんな関係だったか……」
「いや、別に思い出してはいない。俺はレスティじゃないと言っているだろう」
「ほう?」
「それに、その……かつての、その……ようなことを、今のお前と繰り返すつもりはないぞ」
青い瞳が逸らされた。
微かに照れをはらんだ仕草の愛らしさに、つい笑みを浮かべ――気付いて振り返ったとき、そこにはすでにシトーの姿はなかった。
――馬鹿なやつめ。
だから、お前のそれは、ただの嫉妬だと言っているのに。