16 【遥けき】日々 6
じわりと滲む血液が、シトーの手を汚していく。
食い入るように私を見詰める黒い瞳に、私もまた視線を合わせた。
「彼女は……レスティは無事なのか?」
シトーの表情に動揺が走る。
それがあまりにもいつも通りのシトーで、だから結局理解してしまった。
私の隣から奪われたレスティキ・ファと違い、シトーは操られてなどいないのだと。
「なるほど、お前たち2人が共謀した、ということか。レスティまで巻き込んで」
尋ねれば、一瞬だけ表情が歪んだ。
だが、すぐに我を取り戻し、私を貫く剣を握り直す。
「魔王さま。あなたは、この世界にいてはいけないのです……!」
絞り出すような声に、しかし私は応えるつもりはなかった。
ここで諦める訳にはいかない。
たとえ奴に――スィリアに何もかも奪われようとも。
かつて夢見た未来は、私だけのものではないのだから。
「こんなもので、私を倒したつもりか?」
貫かれた先から再生する胸元が、異物を押し出そうとしている。
そのうねりを指先に感じたのか、男の表情が曇った。
私は、裏切られた哀しみと敗北を知らぬ喜びを共に携え、刃に手を添える。
これが抜けてしまえば、次は私の攻撃の番だ。
そのことを知っているはずの男に、無駄と知りつつ何故このようなことをしたのか問い質そうとして――瞬間、羽根の――異常刈りの聖武具アダマンティンの大鎌の折れる音が城の中に響いた。
金属の折れる澄んだ音。
儚く散らばる刃の欠片。
アダマンティンの大鎌は、女神に与えられた証。
管理者の長たる私の地位を示すもの。
その聖武具が破損するとは、つまり私は――
「今のは――」
「ええ、魔王さま……これで、終わりです」
「お前――」
自らの傷を塞ごうと、集めていた力が霧散する。
何を失ったのかももう分からぬまま、膝から力が抜けた。
シトーの身体に縋るように、傾いだ身体を立て直そうとしたが――指先一つかけることもできない。逆にその両手に支えられ、ゆっくりと床へ落ちた。
己の身体とともに崩れていく天井を見上げ、ふと息を吐く。
そうか。
ここにシトーが来たのは、このためか。
つまり、アダマンティンの大鎌の元には奴が――スィリアがいるのだろう。
絶望の中、膝を突いた視界の先で、広間の扉が開いた。
瓦礫を踏み越え近付いてくるスィリアは、背後にそれぞれの種族の代表を従えていた。
シトーの腕の中、横たわる私と目が合った突端、スィリアの顔に屈託のない笑みが浮かぶ。
「うまくいったようだね、シトー。本当に君に出来るのか、少し心配したけれど」
「――私の名をお前が呼ぶな。馴れ馴れしい物言いも許さん。女神の走狗が」
憎しみすらこもった視線で、シトーが返す。
スィリアはただ笑って流した。
「私が女神の走狗なら、君は何だろうね。そもそも魔族たる君も女神の走狗だったはず。今はどうなの、魔王の走狗かい? いや、それも裏切って私についたからには、私の走狗かな? 女神の走狗の走狗で良いかい?」
「これは裏切りなどでは――」
咄嗟に言い返そうとしたシトーを私の手が止めた。
さして力も入ってはいないが、シトーに気付かせる程度は出来るらしい。
気付いたスィリアは、私へと視線を向け、促すように首を振って見せた。
「……満足か、スィリア。私の手足を、私の愛を己がものにして」
スィリアの背に隠れるように、華奢なレスティキ・ファの身体がのぞいている。
スィリアはその腕を引いてわざわざ歩み寄ってきた。
私の前に顔を見せたスィリアは、いつものように人懐こい微笑みを浮かべていた。
「本当のことを言えばね、全然不満だ。私は君を止めるために女神に作られた。それを果たせば私は停止する――だと言うのに、君ったらノーマークなんだもの。私にも、こっちの部下君にも。こんなに簡単に果たしてしまったんじゃ、何の盛り上がりもないじゃないか」
その背中を追って、レスティキ・ファがスィリアの肩越しに私を覗き込む。
青い双眼の虚ろさに、ぞくりと背が震えた。
私を見下ろすレスティキ・ファ達6種族、そしてスィリアとシトーの黒い瞳。
8対の瞳が、静かに私を見下ろしている。
「だけど仕方ない。もう私を止められる存在はいない。仲間達は洗脳済み、部下君も買収済み。ああ、ここで最後なんて悔しいなぁ、女神の力を侮り過ぎだよ」
「……レスティをどうするつもりだ」
「どうもしないさ。大人しく君が消えれば、それで終わりだ。女神は裁定を下した。管理者の役割――永劫の黄金は人族に任せることにしたそうだ。この世界に、もう君は不要だ」
じゃあね、と笑ったスィリアが、聖剣アドロイガルを両手で構えた。
真珠のような煌きが刃を走る。
真っすぐに下ろされた聖剣が、胸元を貫こうとした瞬間――影が一つ、私の前に滑り出た。
「――お前は……っ!?」
シャン、と澄んだ音を立てて散らばる部品。
薇、螺旋、発条――刃を受けて割れた頬の向こうから、黒曜石で出来た瞳が煌いた。
「エンジェルの死骸? どうして突然――」
「私の、複製か? 何故ここに――」
スィリアが不思議そうな顔で、エンジェルに突き立った聖剣を眺めている。
思わず後退る私の身体を、シトーが片手で支えた。
振り向く間もなく、ひび割れ崩れ落ちたエンジェルの死骸から、ぞわりと黒い靄が流れ出す。
「……これは」
「囮です。こんなこともあろうかとね」
私の背を抱くシトーが、低い声で囁いた。
差し出した手のひらをスィリアに向け、宣言する。
「――【極限足枷】!」
スィリアが目を見開いた。蠢く靄に足を引かれ、思う様に動けないらしい。
靄に先端を取られた聖剣で杖がわりに身体を支えている。もがきながらシトーを睨み付けた。
「……今更、またバアルの元に戻る気かい、シトー? そんなことが許されるとでも?」
「――貴様が、俺の名を呼ぶなと言ったはずだ。私は貴様とは違う、最初から最後まで魔王さまの味方だ」
「ついさっき、彼女に決定的な一撃を与えたのは君だよ? どの面下げてそんなことを――」
「私なりに魔王さまを守るためだ!」
私を抱く手に力がこもる。
乱暴に引き起こされ、シトーの身体にすがりつくしかない。
スィリアが、【極限足枷】からようやく抜いた聖剣を振って、苦笑する。
「随分あっさり私の言うことを聞くと思えば。これが目当てってことか。まさか、バアルと2人で逃げるつもりかな?」
「……おい、シトー」
「この世界に魔王さまがいる場所がないと言うなら――別の世界へ行けば良い、そうでしょう?」
「シトー!」
シトーの目は、ただ正面に立つスィリアだけを見据えていた。
私の声に応えもせず、唇から呪文を吐き出す。
「【虚空の門の守り手よ 八つの鍵持つ獣の名を並べ】」
始まりは【転移】の呪文に似ている。だが――
「【記憶統べる獣 歌い伝える獣】」
操られたままのレスティキ・ファとクリュティエの抱えた聖武具が、突如光を帯びた。
聖槍リガルレイア、聖弓フロイグリント。
更に他の仲間たちが携えた聖武具へと光が移っていく。
つまり、これは――
「――止めろ、シトー! これは、転移の――世界転移の呪文だろう!」
女神を顕現させ、斃すために私とレスティキ・ファが生み出した呪文。
女神をこの世界に転移させるための。
その呪文を使って、シトーは私を外へ転移させようとしている――!?
暴れようにも力が入らない。
どんなに身を捩ろうとしても、シトーの腕に止められている。
呪文の狭間に、耳元で熱く囁かれる声。
「スィリアが現れた時から分かってました。女神を斃すなんて無理だ、あんたのためだけに新しい魂を作れるような、そんな存在を殺すなんて不可能だって。それよりも、俺達が逃れた方がよほど早い。だから……」
「馬鹿! 私はそんなことを求めているんじゃない! この世界での我々魔族は――そうだ、ベヒィマやジーズ、レヴィはどうするつもりだ!」
せめて腕を引っ掻いてやろうとしたが、力の入らない手では、爪をたてることも出来ない。
シトーも、それ以上は余計な口を挟まなかった。
淡々と組み上がっていく呪文によって、徐々に眩しさを増していく。
「――世界司る獣 汝らの鍵合わせ ここに道を開け】」
スィリアの手にした聖剣アドロイガルが鈍く光り始めた。
ここにある7つの聖武具から放たれた光が、私達とスィリア達の間に集まり、円環を形作る。
シトーは黙って私の身体を引き、輪の中へ近づく。
「シトー、お前……!」
「魔王さま、どうか今は黙って……こうするしかないのです」
胎の子に障らぬようにと配慮しながらも、私の身体を引く力は強い。
とても抗えない。女神の羽根を――アダマンティンの大鎌を失った今の私では。
だが、大人しく従うことなど出来ない。
嫌だ。私は、逃げるために魔族達を誘ったのではないのだ。
揉み合いながらも力及ばず、少しずつ光の塊に近付いていく。
眩い輪に足を踏み入れようとした瞬間、向こう側から駆けこんでくる影があった。
「――大人しく逃がしたりはしないよ、私は君を殺すために作られたのだから」
スィリアだ。いっそ幸せそうに見える程の笑顔を浮かべている。
輪の中に足を踏み込んだスィリアの手が、聖剣アドロイガルを降り下ろす。
咄嗟にシトーが私の前に腕を掲げた。迫って来た刃が、シトーの腕を薙ぐ。
止まらない。
振りぬかれた聖剣はそのままの軌跡でシトーの首を落とそうとしていた。
止められない。
だが――このままシトーを見捨てることなど出来ようものか。
愚かで哀れな、あまりにも忠実な私の腹心を。
切先が彼の首に食い込む前に、判断を迫られた私は――最後に残った力を振り絞って叫ぶ。
「――【世界転移】!」
不足していた呪文が満ちて、足元から立ち上った光が私達を取り囲んだ。
存在が不確かになる。
世界から消去される。
解けた実存が意識を揺らがせる。
絡み付いていたはずのシトーの腕は、いつの間にか私の傍から消えていた。
いや――多分、私も。
私自身の身体も、既に。
はらはらと散る花びらのように、光って、飛んで、そのまま宙へ――
●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●
「……ヤ、レイヤっ――レイヤ!」
はっとして、身体に力が戻った。
途端に感じた重力が、オレの手足を引いてくる。
手……ある。足、ある。頭も、身体も全部ある。
何もかもなくなったような気がしていたけれど、ないのは、失った左手だけだった。
ふと気づけば、アルセイスがオレの身体をぎゅうぎゅう抱き締めている。
ちょっと鈍い感じはするけれど、触感がゼロになってるワケじゃないから、やらかい良い匂いのする両手に挟まれて、何となくこう……ドキドキした。
「あの、アル……その、も、大丈夫だから」
さり気なく押し返すと、ばっと顔を上げたアルがオレの目を覗き込んでくる。
その青さが、いつかオレが――いや、私が見たレスティキ・ファの瞳と重なって、懐かしいような得難いようなおかしな感覚で泣きそうになった。
ヤバい。
私とオレが混ざっている。
過去の出来事を共有したからだろうか。
それとも、私が強く望み過ぎたからか。
頭を振りながら、とりあえずオレと私を分割させることにした。
私にとっては造作もない。千年前から何度も行ったことのある旧知の方法だ。女神に作られた身体はこういうことに長けている。
私がオレを丁寧に切り離した後、どちらを眠らせるかで一瞬迷った。
その様子を、離れたところで黙って見てた斎藤さんが、つまらなそうに呟く。
「切り離す必要はないのでは? 混ざって喰われてしまったとしても、誰も困りませんよ」
「オレが困るんだよ」
オレは、ただの高校生だ。音瀬玲也という名のどこにでもいる男子。
その自覚を失えば、立つべきところがなくなってしまう。
オレだけじゃない、混乱した私すらも。
だと言うのに、斎藤さんは、そんなオレの不安とは無関心に肩を竦める。
「ですが……さっき見たでしょう。あなたは所詮、壊れたエンジェルの再利用。多分、魔王さまをあの野郎の手からお助けした時のエンジェルが、そのまま魔王さまや私と一緒に向こうの世界へ転移してしまったんでしょうね。だから、多分『音瀬玲也』というのは、魔王さまの前からプリインストールされてたエンジェルの人格に過ぎない――」
「――止めろ!」
斎藤さんの襟首に掴みかかったのは、オレじゃなくて、アルセイスの方だった。
「エンジェル達もお前も俺も、この世界の存在が誰も彼も女神に作られた存在なら、このレイヤとお前の大好きな魔王さまとやらにどんな優劣があると言うんだ!」
斎藤さんは、憎しみの籠った目でアルを睨み付ける。
黒い瞳に怒りが灯った。
「貴様がそれを語るか。私から魔王さまを奪わんとしたレスティキ・ファの末裔が――」
もちろん、アルセイスがこんな視線に押される訳がない。
同じ強さで睨み返し、斎藤さんのシャツの襟を放そうともしない。
アルの怒りは、オレを粗略にされたことへの怒りだ。
じゃあ、斎藤さんの怒りは?
全部見たオレには、当然分かってる。
彼はただ、魔王の傍にいたかっただけだ。
オレは、ため息を一つついて、火花を散らす2人の傍へと歩み寄った。
分かってる――斎藤さんの考えたこと。
あれは、裏切りなんかじゃない。
「斎――シトー。ちょっとこっち向け」
結局、今この瞬間の人格は魔王に切り替えることにした。
気配だけでそれが伝わったのか、シトーが笑顔で視線を向けてくる。
「はい、我が主。どうかされました――」
その満面の笑みを、平手で思い切りぶん殴った。
すぱーん、と小気味よい音が夕空に響く。
木の根に腰かけこちらをぼうっと眺めていたベヒィマの唇から、くす、と笑い声が漏れた。
「あ、わ、我が主よ……?」
「よく分かったぞ、シトー。お前のあれは裏切りなどではなかった」
「は、はい、そう――そうなのですよ! あれは魔王さまのことを心から思う為に、何とかあなたを無事に救えないかと試行錯誤の末に――」
「――お前のあれは、嫉妬だ。ただの」
「……へ?」
間抜けた声を最後に、勢い込んでいたシトーの言葉が途切れた。
静けさの戻った森に、ベヒィマの甲高い笑い声が響き始めた。




