12 【遥けき】日々 2
まるで、怯える獣の子のようだ。
唸り声を上げ、私達の足元から飛び退く黒髪の少年。四つ足で頭を下げ、地面から睨み付けてくる。
予想だにしない状況に、私は困惑した。背後では、シトーが苛立って髪を掻きまわし、ベヒィマが唖然とした表情を浮かべている。
ため息をついてから差し出した手は、怯えと怒りに満ちた視線にぶつかり、それ以上伸ばすことは出来なかった。
そもそも、私が知る魔族がシトーとベヒィマだけであるのに、この3人では七種族の監視を網羅できていないなどおかしいと分かってはいた。
私の管理区域はエルフの森と人族の王国。
シトーの管理区域はドワーフの山と天使の虚空。
そして、ベヒィマが妖精の草原。
――サラマンダーとマーメイドの管理者が、同胞察知上にいない。
まさか、存在しない訳はあるまい。完璧を旨とする創造主が、そんな片手落ちを許すはずがない。
シトーやベヒィマのみならいざ知らず、魔族の王たる私が察知出来ぬ管理者がいるのだろうか。
自らの中にその情報がないことを知った時、私が選んだのは外部記憶庫――つまりエルフ族の王宮にある図書館を探ることだった。
くすねた演算装置――天使の亡骸に情報を複製し、女神を欺く端末としてそれぞれの管理区域に置いた私達は、今やどこへ赴くのも自由だ。
【転移】さえ使えれば、アルフヘイムの王宮図書館へ忍び込むのも簡単なこと――のはずだった。
まあ、【転移】は己の情報に深く紐付いた場所にしか跳べないので、結局は私が単独でひっそり裏口から侵入した訳だが。
ひっそりなどと言いつつ、偶然にもアルフヘイムの王族レスティキ・ファに見つかってしまい、当然、アルフヘイムで一悶着起こったのだが――まあ、すったもんだの末に、管理者の存在とその大まかな居場所についてだけは確認出来た。
火竜の砂漠の管理者、鳥魔ジーズ。
人魚の海底の管理者、海魔レヴィ。
ということで、まずはこうして火竜の砂漠の端へ赴き、4人目の魔族を探すこととなった。
――が。
アルファディラを管理区域とする魔族ジーズは、シトーともベヒィマとも違う獣の如き有様だった。
無精髭に乱れた髪。逞しい手足は砂埃と垢で薄汚れ、人語すら危うい。
なるほど、同胞察知に繋がっていないのではなく、繋がっていても受信も発信も出来ぬ状況だったらしい。大柄な身体を矯め、今にも飛びかかって来そうだ。
「ぐるるるる……」
「おい、どうすんだよ、これ……」
呆れた顔のシトーが私に尋ねる。勿論、尋ねられたところで私にも答えようなどない。
「まさか会話すら出来ないとは」
「殺っちまうか」
「馬鹿じゃないの、あんたって本当、短絡的なんだから」
「なんだよ、じゃ、あんたはどうすりゃ良いと思うんだ」
「……餌付けする、とか」
悩んだ末のベヒィマの結論を、シトーはただ鼻で笑って無視した。泣きそうな顔でベヒィマが背中にしがみついてくる。
「その……あたしのお菓子、半分あげても良いかと思ったの。だって、こんなに甘くて美味しいから、一口食べたらきっと敵意なんてないって分かって貰えるわ」
「アルフヘイム土産を、ずいぶん気に入ったようだな」
提げたポシェットの中のお菓子は、アルフヘイムで出会ったエルフの少女レスティキ・ファ手製の焼き菓子だ。魔族などと言う見知らぬ存在を初めは警戒していたレスティキ・ファだったが、古今東西の知識を蓄えるエルフ族だけあって、私の抱える不安をすぐに理解してくれた。是非は未だ判断できないとしても、不用意な侵略行動はしない、情報提供は互いに惜しまない、女神を倒す以外の方法があればそれを優先する、との約によりひとまず休戦協定じみたものを結んだところだ。
私の方にはもう少し複雑な心境もあるのだが……いや、それは今は良いだろう。古い話を持ち出しても、レスティキ・ファは覚えていまい。同じ魂が循環する、この世界では。
ベヒィマは恥ずかしそうにポシェットに手を添えた。
「だってあたし、こんな美味しいもの初めて食べたから……」
ただ孤独に妖精の草原を見張っていた彼女は、ともすれば調理の概念すらあやふやだった。こうして折に触れて私に抱きつくのも、今までに重ねた孤独の深さによるものだろう。
毎朝梳るようになり、艷やかさを増した黒い髪をそっと撫でる。ふと、彼女はこの獣のような同族の姿に己の姿を重ねているのかもしれない、と思い至った。
……私にとっても同じだ。
過去、幾度も私に手を差し伸べてくれた何人ものレスティキ・ファがいたからこそ、今こうしていられるというだけで。
目の前の彼は、愛する者を知らぬまま永久を過ごしてきたもう一人の私だ。
「――おい、ぼんやりすんな。危ねぇだろ!」
ぐっと後ろに身体を引かれた。
たたらを踏む私と入れ替わりに前に出たシトーが、魔術を展開する。
「――セット、全詠唱破棄【極限防壁】」
「……るぐあぁっ!」
飛びかかってきた勢いそのまま【極限防壁】にぶつかったジーズが、苛立たしげに吠えた。
拒絶された悲しみが孤独をいや増す。
私は、それを知っていた。その苦しさを。手の届かぬ団らんを。
レスティキ・ファのいない間の世界を。
「――下がれ、魔王! 話し合いとやらは後だ。獣なら、一発打ち込んでやれば大人しくなる!」
「止めろ」
言い返そうと振り向いたシトーの肩を掴み、軽く押した。
「退けろ。それは我が同胞、刃を向ける相手ではない」
「だが――」
「退けろ、シトー」
三度は言わぬと目で示し、渋々手を下ろしたシトーの前に出た。
背を引くベヒィマの手が無言で外される。
「同胞よ」
「ぐるるるる……」
「お前が生まれた初めには、女神より言葉を与えられたはず。異常のみと向き合う内に、忘れ果てたか」
「ぅるる……」
「廃棄処理たるサラマンダー達は、寡黙で獰猛。語りかける言葉よりも、薙ぎ倒す爪の方が女神の意思を伝えるに有効であったか」
「…………」
「共に来い、ジーズ。己が意思を持つ者が獣に堕ち、同胞と言葉を交わすもままならぬ。――それが、お前の幸福の訳はあるまい」
徐々に小さくなる唸りの後、名を呼んだことで動きが止まった。
ゆっくりと伏せた瞼の向こうへ、我々を睨み付けていた黒い瞳が隠れた。
ジーズの乾いた唇が不器用に動く。
「……くれ」
「何だ?」
「もうイチド……呼んで、くれ」
辿々しくも懸命な望みを受け、私は微笑みを浮かべてその名を呼んだ。
●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●
「ほら、魔王さま。ちょっと休憩したら」
かけられた声で、はっとする。
ベヒィマが温かい湯気のたつカップを持って、立っていた。
差し出されるままに受け取って、それからようやく何か答えを返すべきだと思いついた。
「ああ……ありがとう」
「今あんたが倒れたら、あたしが妖精の草原にいないのバレちゃうからね。シトーにはあんな細かいこと出来ないだろうし、あたしにも全然無理。ジーズは論外」
「論外とはヒドイな。言わんとすることは分からんでもないが」
開いたままの書物を重ねて閉じ、テーブルの上にスペースを作る。
ベヒィマは当然のようにそこへ腰掛け、それでようやく椅子に座ったままの私と彼女の視線の位置が対等になった。
「どうした、ベヒィマ。ジーズは遊んでくれなかったか」
「あいつ、あたしよりもシトーに懐いてるみたい。今もシトーと何かお勉強してるわ。『ぶん殴って教えりゃ良い』なんて言ってた癖に、結局シトーは手なんて上げたりしないし」
お菓子で釣れば懐くと思ったのにね、とぼやいている。
それはベヒィマには非常に有効な手なのだが、ジーズの場合はどちらかと言えば知的好奇心の方が勝っているように思える。長い間言葉を失っていた為に欠けていた知識への欲求を満たしているのだろう。シトーはそういう意味でジーズと相性が良い。彼は知らぬことに対して、容赦なく『物知らず』だの『愚か者』だのと罵るが、同じ知識を幾度も繰り返し伝えることを嫌がらない。シトーにとっての罵倒とは挨拶のようなものだと割り切りさえ出来れば、彼から学べることは幾らでもあるだろう。
「最近じゃ何だか口調まで似てきて。並んでるとまるで親子みたいよ」
「そうか」
この長い時間を共に歩ける者を見付けたのならば、それは幸いなのだろう。どちらにとっても。
手の中の飲み物に口を付ける。
どろりと濃く恐ろしく苦いそれは、どうやら焙煎した何かの実を湯に溶かしたような何からしい。
一口で慌てて止め、カップの中を覗き込むと、我らの髪のような真っ黒い液体がぐるりと渦を巻いていた。
「……何だ、これは」
「さあ。ジーズがサラマンダーから貰ってきたらしいわ。何でも、南の方で取れるらしいけど」
「お前も飲んでいるのか?」
「ううん、これはミルク。一応ね、それすごく高価だって言ってたから。王に飲ませとけってシトーが」
ベヒィマは完全なる善意だろうが、シトーの入れ知恵とすると善意なのか分かっていて勧めたのか難しいところだ。どちらかと言うと悪意を感じる。きっと、分かっていてベヒィマを煽ったのに違いあるまい。
私はさり気なくカップを唇から離して、ベヒィマに視線を戻した。
ベヒィマはちらりと私を見て、それから自分のカップに目を落とす。
「何だかさ、不安で」
「不安? 何がだ」
「あたしの仕事。あんたと一緒に来てからこっち、管理者として何もしてないの」
私は頷いた。彼女が元の生活に戻りたいと言うならば、それは聞き入れてやらねばならない言葉だった。
「ティルナノーグでお前の代わりを演じてる演算装置はいつでも停止可能だ。女神と戦うのが怖いなら、お前はいつだって誰にも知られずに元の生活に戻れる。……勿論、相応の口止めはさせて貰うが」
「馬鹿、そんなんじゃないわ。今の方が楽しいもの。一人に戻るなんてもう絶対無理……嫌よ」
「ならば」
「ただ不安なだけよ。今まであたし、いるべき場所もやるべき仕事も何もかも決められてたから……それが、突然何だって好きなようにして良いって言われて」
こくん、とベヒィマは首を傾げる。
少女じみた外観そのままに。
「あたし、これから何すりゃ良いの?」
私はその戸惑いに微笑みを返す。
私も身に覚えがある、束縛から突然自由になることの不安。
だが、それを補って余りある幸福が、我らの未来には待っている。
目の前の綺麗に結い上げた髪を撫で、私は囁いた。
「私も同じだよ、ベヒィマ。今はまだ女神の目を欺きながらだが、いずれ我らは何一つ定まっていない自由を己がものとするのだ。その自由は不安も伴う、しかしそこに孤独を定められることはないのだ。定められた役割から解き放たれた時、我らは自らがどこにいて、何を目的とするかの自由を得る。勿論、誰と共に過ごすのかも」
ベヒィマは、目を細め黙って頷く。
その赤らんだ頬を指先でなぞって、私もまた頷き返した。
定められた永久を、一人きりで生きるなど、もうたくさんだ。
その想いだけは、私も――そしてベヒィマも、同じはずだった。
シトーもジーズもそうだ。
孤独と定めに耐えかね、我らは身を寄せ合い、同じ未来を目指している。
少なくとも、私はそう思っていた。
この時は、まだ。