9 ここを壊して
「強がる娘は可愛いけどさ、適当なところで折れるのも賢い生き方だぜ、アルシアちゃん」
「賢さを言うなら、お前が手本を見せてくれ」
お前が逃げろ、とアルはわざとらしく顎をしゃくって見せる。
分かりやすい挑発に、ジーズは苛立った様子で眉をひそめた。
「おめおめ帰れやしないさ。おれ達はまだ目的を果たしてないんだ」
「なら、俺達のことなんか放っておいて、ティルナノーグへ向かえば良かったのに。聖弓フロイグリントが欲しいだけなら、ヘルガを追いかけた方が賢い。……なのに、放っておけなかった。何故だ?」
「何故って……」
「何故そんなに拘る。淫魔シトーに、魔王の存在に、千年前の裏切りとやらに。主の命を差し置いても、ぐちゃぐちゃに踏み付けてやらなきゃ気が済まない程に。今逃げれば許してやるって? 嘘をつけ。最初からそんな選択肢はないだろ。……俺がこれだけ言ってもふらふらしながらここに残ってるレイヤが、そんな選択肢選ぶ訳ないと知ってるんだろ」
ずいぶんと、こいつのことをよく知ってるじゃないか、と肩を竦めた。
アルには珍しいコミカルな仕草に、聞いてたオレも思わず笑ってしまう。ジーズが忌々しげに睨みつけてきた。
「あんたね、いつまでも笑ってられると思うなよ。本当にティルナノーグが無事だと思ってんのか?」
「グリフォンが向かったって? あんなもの所詮、獣だ。フェアリー達は何度もベヒィマの侵攻を受けてる、魔物対策くらいしているさ」
「……主は確かにレスティキ・ファを殺すなとは言ったがな、おれはシトーとは違う。ただの従順な下僕じゃない。ただ大人しく言うこと聞いてるつもりはないぜ。間違って当たっちまったとか、後から何とでも言えるしな。ベヒィマだってこの状況じゃ、他に方法がなかったって言えばそれで納得してもらえるだろうさ」
「堂々と命令違反の宣言か? 俺がお前らの主なら、任せるのは不安で仕方ないだろうな」
「そんなことはないさ、おれはいつだって主の為に動いてる。たとえそれが彼女の意にそぐわないことだったとしても……」
「そういう輩が一番信用ならないんだ」
会話を続けるアルセイスが、ジーズ達に見えない角度で背中をとんとんと叩いてきた。
合図だ。
何の合図かは分からないけど、この人が、前に出る以外でオレを呼ぶ訳がない。
ならば。
とん、と少し強めに突いた後、指先が離れた――その、瞬間に。
そのまま手を離したアルセイスが前方へ駆け出した。
ジーズもそれは読んでいる。
アルの突進を阻むように手を突き出した。
「――セット、全詠唱破棄【極限――」
「――【極限防壁】!」
重ねるように、唱えていた【極限防壁】をぶつける。
触れ合ったシールド同士が干渉して、ぽっかりと穴が空いた。
舌打ちしたジーズが身をひねる。その横を駆け抜けたアルセイスは、ふらふらと揺れるベヒィマに体当たりをかける。ひと塊で転がりながら、肩越しに叫んだ。
「――ヘルガ!」
ジーズがはっと背後に視線を向ける。
その時には、既に準備は整っていた。
草むらで片膝を立てたヘルガが、ジーズに向け聖弓フロイグリントを構えている。
「――【黄金の波に沈め! 最終奥義 聖雷針矢雨】!」
「――っがあっ!?」
避ける隙もなく降り注ぐ黄金の雨の下、ジーズが苦しみに身を捩る。
「……やっ……ジーズ……!」
アルセイスの下で力なく藻掻くベヒィマが、その姿を見て手を伸ばす。
ジーズはちらりとそちらを見たが、間断なく降る雨からは逃れようがなかった。
一瞬の沈黙の後、結局は一時撤退を選んだらしい。
「――【転移】」
地面からせり上がってきた扉が軋みながら開き、ジーズの姿をその中へと覆い隠す。
閉ざされた扉が地面へ沈んでいく様を、ベヒィマは黒い瞳を見開いて見ていた。
「……今度こそ逃げた、かしら?」
「だと思うよ。気配が消えたっぽい」
オレの探る限り、近くにジーズの気配はない。
答えると、ヘルガの後ろで茂みが揺れ、斎藤さんが姿をあらわした。
「斎藤さん……?」
声をかけたけれど、斎藤さんはオレと目を合わせたくないように、下を向いたままだ。
ヘルガが肩越しにちらりとそちらを見ながら、首を振った。
「私を迎えに来てくれたのは良いけれど……さっきからずっとこの調子。一体こっちで何が――」
その目がオレの脇腹に当てられ、そこで見開いたまま言葉を失った。
「……何それ?」
「オレも良く分かんないけど。斎藤さんや……多分そこの、ベヒィマには分かるんだよな、多分」
どっちでも良いから説明してくれ、という気持ちを込めて両方を交互に見つめたけれど、どっちもオレとは視線を合わせてくれなかった。
ベヒィマは肩で息をしながら、上に乗るアルセイスを見上げている。
「……ねぇ、レスティキ・ファ」
「それは俺の名前じゃない」
「誰でも良いわ、お願いよ……」
血まみれの頬を歪めて、唇を開いた。
「あたしを止めるなら、殺してちょうだい。もうずっと……一人ぼっちで、こんなのはもう、いや……」
思わず息を飲んだオレには目もくれず、アルセイスはただ首を振る。
「魔族は死なないんだろ」
「核があるの。女神の作った……この、お腹の真ん中、ここを」
小さな手がアルセイスの手を取り、自分の腹へと導く。
アルセイスは感情の浮かばない瞳でその動きを見下ろしていた。
「ここを、壊せば。もう動けないわ……」
「……馬鹿なことを」
苦々しく呟いたのは、斎藤さんだった。
視線を上げないまま、ベヒィマを見もしないで吐き捨てる。
「千年の間、孤独だと言うなら私だってそうでしたとも。それをあなたは、こんなに簡単に投げ捨てて。私など突然異世界ですよ? ですが、それでも挫けず魔王さまを追い続けて――」
「――追い続けて、結局、あんたが見つけたのは偽物だったじゃない」
ベヒィマの言葉が、くっ、と詰まったのは笑ったのか、それとも。
斎藤さんが、ぎしり、と動きを止めた。
ベヒィマはそんなことどうでも良さそうに、再びアルセイスに視線を戻した。
「あたし、こんなことしたかった訳じゃないの……ただ、いつかみたいに、好きな人と一緒にいたかっただけなの……だから」
殺してちょうだい、と囁いた。
そんな風に思うしかなくなるようなきっかけを作ったのは、多分、魔王で――だけどどうやら、今のベヒィマの言葉で分かってしまった。
「ベヒィマ。今の話……レイヤの中にいるのは――」
「――オレは魔王じゃない、んだな?」
ようやく、ベヒィマの目がオレを見た。
何の感情もない――いや、怒りと憎しみの籠もった黒い瞳が。
「そうよ、あんたなんて……」
「じゃあ、私とは一体何者――いや」
それを尋ねるより先に、言っておかなければいけないことがあった。
「アル、呪文を止めろ。あんたね、頼まれたからって、ノー躊躇でぶっ潰そうとするんじゃない」
「敵に情けをかける必要があるか?」
「あんたのそういうとこ、嫌いじゃないけどさぁ……」
本腰入れて説得しようと思い直した途端、アルセイスは両手で顔を覆ってベヒィマの上からどけた。
しばらくそのまま黙っていたけれど、決意した表情で手をおろし、オレを睨みつけてくる。
「き……嫌いじゃない、んだな?」
「え、うん……」
むしろ多分、オレあんたのこと好き――とはさすがに言えなかった。
ノリでそういうこと言えるような人間だったらどんなに良いか。
……いや、そこで恨めしそうにこっち見てるあんた、あんたさっきオレのこと捨てて逃げただろ。
かつ、さっきまでオレと目も合わせなかった癖に、こういう時だけそういう顔するし。
「……はっ、この魔王さまは偽物だって分かってるのに、魔王さまがあんまり魔王さまらしいんでつい」
「魔王さまって言葉が供給多すぎて、訳分かんなくなるからやめろ」
じろりと睨みつけると、「ああ、なのにこの冷たい視線はやっぱり魔王さまっぽい……あっでも違うんだしヤバいまずいです、こっち見ないで……」とか気持ちの悪いことを呟いている。
どうやらアレ程の動揺もさっきの一瞬だけで、はやばやと立て直しにかかっているらしい。さすがに千年の年月に挫けたベヒィマを叱りつけるだけある。本当に挫けない人だ。
ベヒィマは呆れた顔で身を起こし、ため息をついた。
「本当に変わらないわね、あの変態……」
「昔からああなのか?」
うっかり普通に尋ねてしまったオレを、ベヒィマは僅かに険の取れた表情でじっと見上げてくる。
「……あんただって知ってるはず。偽物の方も、それに……あんた自身も」
「――ちょっと。あなた、また逃げるつもり、シトー?」
見つからない程度に少しずつ、じりじりと後ろに下っていた斎藤さんのスーツを、ヘルガがぎゅっと掴んでいる。
掴まれた斎藤さんはまさか、とか言いながら微妙な笑顔を浮かべているけれど、あれは確実に逃げるつもりだったに違いない。
「わざわざヘルガを連れて戻って来たからには、目的があるんだろう、シトー」
アルセイスに睨まれて、斎藤さんは微妙な笑顔を深める。
暮れ始めた森の中、木立がその顔に影を落としている。
暗い影の底から覗き見上げるような瞳で、その男はただじっとオレを見つめていた。