私理私翼
ある夜、少女は覚醒した。突如背中に趨った痛みが、彼女を夢の世界から呼び戻したのだ。
まどろみは一気に焦りへと変わった。肩甲骨あたりの皮膚がつっぱるような感覚。次いで、何かが内側を食い破るような音。
しゃり、しゃり。
「何か」が自分の体内で食事をする音を、少女は遠く聞いていた。自ずと口から溢れる絶叫とそれに伴う唾液が、少女の顎を伝いシーツへと落ちていく。背中ににじむ脂汗と、そこを這う液体の正体を確認する余裕も、少女にはなかった。
少女は幾度も寝返りを打った。その度にシーツにしわが増え、白が赤く染まっていった。
シーツがしわで埋め尽くされた頃、「何か」の餌になっていただけの少女の体に異変が起きた。両の肩甲骨が、心臓でも埋まっているかのように脈打ち始めたのである。その鼓動は、痛みと共鳴しているようだった。
背中の鼓動は、次第に早鐘を打つようになった。周りに存在する酸素をすべて使い切ってしまったと錯覚してしまうほど、彼女の息は荒くなっていた。
ブチ、ブチ。
食事が攻撃に変わった。「何か」が出てこようとしている。それを感じ取ることができても、痛みに耐えるだけの彼女には何もできない。
少女の身体が大きく仰け反った。黒い瞳が、こぼれ落ちそうなほど見開かれる。一際大きな慟哭のあと、彼女の身体は力を失った。
赤く染まったシーツの上に、青い羽が散らばっていた・・・・・・。
◇
少女は、重いまぶたを上げた。そして、目に入ってきた景色に眉根を寄せた。
彼女の瞳に映ったのは、天へと高くそびえる樹木たちだった。樹木たちはどれも大きく枝葉を広げのびのびとしていて、生命力にあふれている。少女の周りにも、緑の三つ葉や雑草が生い茂っている。緑の世界を目の当たりにした彼女が、自分の今いる場所が「森の中」であることを悟るのに、そう時間はかからなかった。
指一本動かすのもやっとな身体を叱咤して、少女はゆっくりと身体を起こした。そこで改めて辺りを見回した。
雨が降った後なのか樹木たちの木の葉はしっとりとしていて、風に揺られる度に小さな雫が地面へと落ちていった。
どの樹木も立派であったが、そのなかでもいっそう立派でたくましい大樹が少女の目に留まった。大樹の根元に、人ひとりなら丸々映せるだろう大きな水たまりができていた。少女はゆっくり立ち上がると、おぼつかない足取りでそこへ歩み寄り、水たまりをのぞき込んだ。
水鏡に映った姿に、少女は愕然とした。そこに映ったのは、人ではなかった。そこに映ったのは、青い翼を持つ小さな鳥だったのである。
きっと我が目はおかしくなってしまったのだ。少女は目をこすった。しかし、目に触れる感覚はいつもよりふわふわとしていて、自分の今の姿は小鳥であるという事実を誇張するだけであった。
少女は両手で顔を覆った。羽同士が擦れる音と触れた顔の柔らかさが、よりいっそう彼女の心を暗くさせた。
そんな時である。
「どうかしたのかい?」
突如声が降ってきたのである。少女は勢いよく顔を上げた。
大樹のたくましい枝に、少年が座っていた。緑の葉を背に、少女を見下ろしていた。
助けを求められる相手の登場に、少女は歓喜した。しかし、今の姿ではなんと声をかけたら良いだろうかと少女が思案していると、それに焦れたのか少年が枝から飛び降りた。
少年は、少々変わった風貌をしていた。純白の着物に黒の袴、足袋に草履。着物の両胸には、赤い丸が描かれている。まるで弓でも嗜んでいるかのような、おおよそ森にいるには似つかわしくない格好であった。しかし、纏っているものの奇妙さなど、さして問題ではなかった。それ以上に少女を驚愕させるものを、彼は持っていた。少年はその背中に、雪のように白い翼を背負っていたのである。
「困っているのか?」
そう言って、少年は少女の傍にかがんだ。それと同時に、彼の翼から小さな羽が抜け落ちる。羽は風に揺られて宙返りし、水たまりの上へ浮かんだ。
少年の言葉に、自分の身に起こった変化をどう説明したら良いものかと、少女は首を傾げる。すると少年は、不機嫌そうに眉間にしわを寄せた。
「喋れるほどの頭がないのか、馬鹿にしているのか。どっちだ」
今の少女の姿は青い翼の小鳥でしかない。少年の目には、少女は「鳥」として映っているのだ。
少女は声を張り上げた
「違う。私は頭も悪くないし、馬鹿にもしていない」
発せられたその言葉は、まぎれもなく人間の言葉だった。少女の返答に、少年は嬉しそうに顔をほころばせる。
「なんだ。喋れるじゃないか」
少年は、少女に右手を差し出した。条件反射で少女が手を伸ばすと、少年はやんわりと優しくその翼を握った。すると少年は一瞬だけはっとして、楽しそうな声音で言った。
「君、少し違うね。こちらへおいで」
少年が、翼を握った手を開いて、少女の足下へ差し出した。その仕草から「乗れ」と言っていることを察し、少女は小さな足を手のひらへ乗せた。人であった時の感覚とは少々異なっていて、二歩目を踏み出すと同時に転んでしまった。
手のひらで転んだ小鳥に、少年はくすくすと笑う。しかし次には、壊れ物でも扱うかのようにしっかりと少女を包み込んだ。小さな小さな彼女の体は、少年の手にすっぽり収まってしまった。
「このままここにいては危ない。少し我慢しておくれ」
どうしてと少女が問う前に、少年は大きく翼を広げていた。少年の翼は、呼吸をするように小さく上下して、そして、風を打った。
少年は、力強く大地を蹴った。
ふたりが飛び立ったあと、雪色の羽と空色の羽が、水たまりに揺れていた・・・・・・。
◇
目的地への道中、少年は少女に幾度となく語りかけた。最初こそ不機嫌だった少年だが、案外気さくでおしゃべりな性格だったらしく、空の移動中も会話が途切れることはなかった。もともと口べたで聞き役に回ることの方が多い少女としては、そのほうが何かと都合も良く少年の話も面白かったが、彼があまりにもマシンガントークなものだから、目的地へ近づいた頃には少女もすっかり相槌を打つことに疲れてしまっていた。
「着いたよ」
そんな台詞とともに、少年は地へと降り立った。少女を包んでいた両手を解き、その景色を彼女に見せた。
少女は、つぶらな瞳を輝かせた。
少年が少女を運んだのは、大きな湖の畔だった。水は青く澄んでいて、湖の底までのぞくことができる。太陽の光が水面に反射して、宝石のようにキラキラと光っていた。
「綺麗だろう? でもね、これを見せるためだけに、ここに連れてきたわけではないよ」
そう言うと、少年は少女の背中を軽くたたいた。すると、彼女の背中から小さな綿菓子のようなものが飛び出した。
綿菓子はふわふわとひとりでに浮かび上がり、湖の方へと流れていく。少女は呆然としてその様子を眺めていた。
「あの子と知り合って百年近いけど、いつもこうなんだ。あの子はね、この湖に住んでいるんだ。君みたいに気に入った子を連れてくるんだよ」
綿菓子は好意を伝えてもらいたかったのか、少年の言葉が終わるとチカチカと瞬いて湖へとゆっくり潜っていった。
「ほら、君も、もう大丈夫だろう」
少年が少女を地へと下ろした。
次の瞬間、少女の身体が閃光を放った。まばゆい光に、彼女自身も瞳を閉じる。閃光が止んだとき、そこに『青い小鳥』の姿はなかった。そこに立っているのは、まさしく人間の少女であった。
少女は瞳を開き、ゆっくりと腕を上げた。羽音も立たない、静かな動作だ。次に頬に触れた、ふわふわとした感触はない。しっとりとして張りのある、若い人間の肌だ。次に足踏みをした。しっかりと地についている感覚のある、なじみのある足だ。
――人間の、自分の身体だ。
しっくりくる自分の身体に、少女は思わずその場で飛び跳ねた。その無邪気な様子に、少年がふっと微笑む。
「よかったね。でも、これでお別れだ」
「え?」と少女が疑問符を吐き出すと同時に、少年の手が力強く彼女の肩を押した。
少女の身体は、突然のことに大きく傾いだ。まるで、見えない糸に引かれているかのように、湖へと引き込まれる。わらにもすがる思いで伸ばした手も、少年の羽を一枚掴んだだけだった。
「まって、君の名前――」
言葉も待たず、湖は彼女の身体を包み込む。刺すような冷たい水に、少女の胸は騒いだ。透明な水が、少年の影を鮮明に映してくれる。その影を、少女は湖から見ていた。
「あの子は、君に教えに来たんだよ」
少年の言葉は届いていた。しかし、口を開けば流れ込んでくる水に邪魔され、少女は気泡しか吐き出すことができなかった。
「君の翼は、きれいな青だった。どこまでも広がる空の色、自由の色。君は胸を張っていいんだ。君は、もっと正直でいいんだよ」
それが、彼女が聞いた、少年の最後の言葉だった。
「またね。 ちゃん」
◇
ある夜、彼女は覚醒した。頬を撫でる風に促されたためであった。
――とても長い夢を見ていた気がする。
そう思った少女であったが、その内容を思い出すことは叶わなかった。そうしてぼんやりとしているうちに、睡魔が再び彼女を迎えにきた。開け放たれた窓を閉めなくてはと思う一方で、身体を動かすのが非常に億劫で窓を閉めるためだけに起きるのは面倒だった。
知らず知らずのうちに、彼女は再び夢の住人となった。
寝息を立てる彼女の枕元で、白い羽が風に揺られていた……。
ほわほわしたものをと考えていたのですが、最初の翼が生える描写の段階からすでにほわほわしていませんでした。これは精進です。
実はこの子、とある授業の課題で提出する予定だった作品です。長すぎたということもありボツになってしまいましたが、書いていて楽しかったので加筆修正し今に至ります。
女の子の名前は一応決まっていますが、そこは読む方の好きな名前をお入れください。