第3話
彼女が店に入ったとき、誰もが目を疑った。
柔らかなハニー・ブロンド。透き通るような青い瞳。清楚な白いワンピースに、夜の冷え込みから身を守るための黒いコート。少なくとも、こんな場末の酒場に来るような人種ではない。まるでさる高貴な家のお嬢様が抜け出してきたようだった。
しかし彼女は躊躇することなく、店の空いているカウンター席に座った。
「エールを1杯、ジョッキで」
低めの、心地よいアルトの声。
「……御嬢さん、本当にいいのか?」
この酒場を経営している店主キールが思わず訊き直してしまったくらいだ。
もし、この女性が酔いつぶれてしまったら、あっという間にこの場にいる男たちの餌食となってしまうだろう。
「あら、私の注文が不満?」
紅を引いた唇が弧を描く。
「い、いや、そんなわけじゃ……」
「なら、出して頂戴」
にっこりとほほ笑まれ、店主はしぶしぶビールをジョッキに注いでいく。
それを楽しそうに女性が眺めていた。
「おい、誰が行く」
「お前がいけよ」
「しっかしなぁ……」
そんな囁きがちらほらと、店内のあちこちから聞こえてきた。
見目麗しい女性が1人でお酒を飲もうとしているのだ。
誰もが自分たちの輪に入れたいと考える。
周囲を視線で牽制つつし、誰が抜け駆けをするか様子を窺っている。
「何だとテメエ!」
そんなとき、怒声が店内に響き渡った。
「もう1度言ってみろ!」
「ああ言ってやる! テメエが余計なこと漏らそうとしたせいで、こっちの計画がもう少しでオジャンになるところだったんだよ!」
「別になんにもなかったからいいじゃねえかよ! それをいつまでもグチグチグチグチ、うるせえんだよ! っつかテメエだって同罪だろうが! 俺のこととやかく言えんのかよ!」
「なっ……あれは……! 仕方ねえだろ! 落としちまったんだから!」
「その落とすっつーのが間抜けなんだよ!」
「何だとこの馬鹿が!」
言い合いはどんどんヒートアップしていく。
「……騒がしいわね」
すぐ傍で発生した騒ぎにも女性はさして興味を示さず、出されたジョッキを嬉々として受け取った。
「そ、そうか?」
ジョッキを渡した店主だが、すぐ傍で喧嘩が起きているのにも動じない女性に呆れてしまう。
「ねえ、そこの2人は常連さん?」
「い、いや。見覚えのない顔だから……来たことがあっても3、4回程度だろうな」
「ふぅん……」
しかしそれ以上女性は喧嘩に興味を見せず、ジョッキを持ち上げた。
そして口をつける……ところで、突然女性の身体が傾いだ。
どうやら喧嘩をしていた男性の1人が、もう1人を突き飛ばしたらしい。
「あっ!」
ジョッキの中身が零れる。
「テメエ、何しやがる!」
突き飛ばされた方は、自分がぶつかった女性に気を配ることもなく、自分の連れの男に掴みかかった。
あっという間に掴み合いに発展し、拳も出る。
周囲の客は巻き込まれまいと避難していくのに対し、女性は動かない。
「あ……あ……」
ただ、床に広がっていくエールを茫然と眺めているのみ。
「お、御嬢さん……」
カウンターの向こうで身を伏せていた店主が恐る恐る顔を覗かせるも、すぐ傍で瓶が割れて顔をすぐ引っ込めた。
「まったく……ただの喧嘩か……」
たまたま店の隅で酒をちびりちびりと飲んでいた男性3人組のうち1人が天を仰いだ。
「せっかくのオフだってのにな~」
「かといって、見逃したのが後でバレると面倒なことになりそうですしねぇ。……このまま2人ともノックアウトすればいいのに」
「おーい後半本音出てるぞ。まあ確かに、割って入るのも面倒だしなぁ。……でも、あの彼女助けてお近づきっていうのもいいかも」
「不謹慎ですよ、シャーデン」
「全くだ」
「んなっ、アルトにクライス。お前らは美人にクラ~っていったことねえのかよ!」
「まあ……見目麗しい女性は愛でるべきだとは思いますけれど」
「私は弱い人間には興味ない」
「おい、アルトはともかくクライス。その価値観はどうかと思う」
シャーデンと呼ばれた藍色の髪の青年が小さく突っ込んだ。
「ん?」
3人がそんなやり取りをしている間に、事態が動いたらしい。
クライスが顔を上げ、カウンター席の方に視線をやった。
いつの間にか、店内も静かになっている。
アルトと、シャーデンも喧嘩があった方を見た。
するとそこには。
先ほどまで喧嘩していたはずの男たちが仲良く床に倒れていて。
代わりに立っているのは、先ほど店内に入ってきたばかりの、あの女性。
「……いいかしら? これからは、食べ物を大切にしなさいよ」
凄みのある笑顔で彼女は男2人を見下す。
それから、躊躇なく男たちの懐をまさぐった。
そして財布から銀貨を3枚程抜き取る。
「これで迷惑料、足りるかしら?」
「あ、ああ……」
「じゃあ、エールをもう1杯。飲みそこなっちゃったもの」
女性はまるで喧嘩をしていた男たちなどいなかったかのように、カウンター席に座り直した。
「……まさか、あの人が?」
アルトの問いかけに、クライスが頷いた。
「相手が素人の、酔っ払いだということを抜きにしても……見事だった」
そして、クライスが席を立つ。
「お、おい」
慌てて2人は後に続いた。
「おい」
声をかけられて、初めて女性は背後にやって来た3人に視線をやった。
先頭に立つのは赤毛をウルフカットにした25歳程の青年。髪と同色の瞳は強い意志を秘め、女性を睨んでいる。服装は派手さはないが小奇麗で、身なりがさっぱりしている。
その後ろには未だ10代の域を出ないような、小柄な少年だ。短くカットされた藍色の髪。黒の瞳は大きくくりくりとして、活発そうな印象とついでに幼さを相手に与える。
もう1人。肩まで伸びるストレートの金髪の青年。女性を虜にさせるような甘いマスク。碧眼はまるで宝石のよう。服飾も3人の中では1番華美だが、決して悪印象を与えない。華がある、とでも言えばいいのだろう。
そして3人共、腰に剣を佩いていた。
周囲の刺すような視線など気にせず、真っ直ぐ女性の元に歩み寄る。
「お前、名前は?」
「……ルナー・フィネライユと申しますわ」
ルナーと名乗る女性はジョッキをカウンターに置き、小首を傾げて赤毛の青年を見上げる。
「ルナー……ルナーというのか」
「え、ええ……それで、あなたは……」
「失礼した。私はクライス・ラハブ・プルーングという。ルナー・フィネライユ……」
「な……なんでしょうか」
クライスと名乗る青年は何故かルナーの手を掴んだ。
「私と、結婚してくれ」
直後、ルナーが石化した。
ルナーだけでない。背後の2人や店主、他の客たちまで。
「……はぁ!?」
思わずルナーが素っ頓狂な声を上げたのもしかたのも仕方ない。
「ルナー、先ほどの拳は見事だった。あの身のこなし、思わず見惚れてしまったよ」
「そ、そりゃあ……どうも……」
「私は常々考えている。女性も強くあるべきだと。だが未だ憲兵隊、そして我らがアルクス軍に女性は少ない」
「は、はあ……」
「君は強い。いや、誤魔化さなくてもいい。どうか私の伴侶となってくれ」
手を握られ、顔がぐっとルナーに近づいてくる。精悍な顔つきで見苦しくないのが幸いだ。
「……ああ、もしかして嫁入り道具の心配をしているのか? そんなこと気にしなくていい。君の家族も説得してみせる。だから、ルナーは気兼ねなく……」
「ちょ、ちょっとクライス!」
ようやく硬直が解けた背後の2人が、クライスを押さえにかかった。
「何をするアルト、シャーデン」
「何をする、じゃないから!」
藍色の髪の少年がまくしたてた。
「この人がクライスの好みなのは分かった。でも、いきなりプロポーズはないでしょ! しかもこんな場所で!」
「ええそうです。まずは婚約から始めるべきです。それから後に、しかるべき手段で婚姻を結ぶべきです。しかも強引に迫るなんて……スマートではありませんよ」
「そんなものなのか?」
「そうだろ!」
「そうです!」
「ふむ……」
首を傾げるクライス。
一方ルナーもクライスから解放されて安堵の息を吐いた。
今まで迫ってくる男は数えきれないくらいいたが、いきなり結婚なんて言ってくる男はいなかった。
しかもこんな場所で、だ。
「……えっと、連れが失礼しました。私はアルト・ソフラ・セヴァ―ドと申します。こちらはシャーデン・ロイバー」
「よろしく!」
丁寧に一礼する金髪の青年……アルトと、元気よく片手を挙げるシャーデン。
「ルナー、悪いな! クライスは悪くない奴なんだけれど、天然でさあ……」
「……そのようね」
ルナーは苦笑し、改めてクライスを見た。
「悪いけれど、私あなたタイプじゃないの。ごめんなさいね」
そして、そう笑う。
だが、クライスの反応はルナーの想像とは違った。
「そうか……なら、君のタイプになるにはどうすればいい?」
「……私があなたと結婚することはないから、無駄な努力はやめなさい、ってことよ」
ルナーのその言葉に、シャーデンとアルトは目を丸くした。
この3人が3人共、タイプは違えど女性好みの容貌を持っている。少なくとも女性受けはいい。
だから、目の前の女性があっさりとクライスを振ったのに驚いたのだ。少なくとも、今まで言い寄って来た女性とはまったく違うタイプ。
「いや、そうとは限らない。私の言動によっては、君の態度が変わることもあるだろう」
「……そう、かもね。でも、私があなたを恋愛感情で見ることはないわ」
流石にルナーも苦笑し、エールを一気に飲み干す。
「何故そう断定できる。ルナーが心変わりしないという保証はない」
しつこく食い下がるクライス。
「……いい加減しつこいわね」
乱暴に、ルナーがジョッキをカウンターテーブルに置いた。
何故か静かな酒場の中で、その音がやけに大きく響いた。
「あなたもさっさと諦めなさい」
「諦めるわけにはいかない。君はやっと見つけた理想の女性なのだ」
アルコールが入ったせいだろうか。ルナーの堪忍袋の緒はすぐに切れた。
「いい加減、しつこいっつてんだよ!」
立ち上がったルナーがクライスと体を密着させた……かのように見えた。
「「おお~」」
アルトとシャーデンの声が重なる。
クライスの鳩尾に、ルナーの拳が食い込んでいた。
クライスが感心するのも分かる。見事な一撃。
その証拠というべきか、クライスは呻き声を出して昏倒する。
「ハッ、俺に結婚を申し込もうなんて100年早ぇ」
先程とは打って変わって乱暴な口調で吐き捨て、ルナーはそのまま酒場を出て行ってしまった。
それから数日後。
ルーノは欠伸を噛み殺しながら夕焼け色に染まる道を歩いていた。
手には赤やオレンジといった色鮮やかな花束。似合わないのは分かっているが、何故か買ってしまったのだ。
夕方を過ぎていたため値段が下がっていたのがよくなかった。始めは買う気がなかったのに、値段を見てすぐに財布を取り出してしまったのだ。お蔭でまた金欠に逆戻り。
それでなくとも、最近髪染めを買ったばかりだというのに。
何となく気になって買った金の髪染め。
何度か女装のときに使用はしているが、今は普段の黒に戻していた。
「……参ったな」
もちろん、渡す相手などいない。かといって捨てるわけにはいかない。あの汚い部屋に飾るしかない。
こんなところ見られたら、笑われるに決まっている。
渋い顔をしつつ、ルーノは家路へと急ぐことにした。
「……おい」
だから、最初そんな声がかけられたときルーノは無視した。
自分に声がかけられていると思わなかったし、反応するつもりもなかったからだ。
「おい」
何度目かの声がして、肩に手を置かれる。
「……んだよ」
そこでようやくルーノは立ち止まり、肩の手を払いのけて……目を見張った。
そこにいたのは、どこかで見たことのある同い年くらいの赤毛の青年。その後ろには金髪の青年と藍色の髪の少年が。
「……テメエらは?」
とっさに知らないフリが出来たルーノは、自分で自分を褒めたくなった。
この3人組は、数日前初めていった酒場で絡まれた3人組。ルナーとして出会ったので、ルーノでは初対面だ。
それだけでも驚いたというのに、3人の服装を見てルーノは内心で呻く。
憲兵の制服を3人は着込んでいたのだ。
憲兵といえば、軍隊から独立した町の治安維持部隊。彼らが目を光らせていることにより、治安維持向上にもつながっているのだ。
「あ、ほらクライス。やっぱ別人だよ」
シャーデンがクライスを小突いた。
「ふむ……確かにルナーだと思ったのだが」
「でも、彼は間違いなく男性ですよ。……ルナーに似てはいますが」
アルトがクライスに追随する。
「……すまなかったな。知人に似ていたので、思わず声をかけてしまった」
「……あ、っそうかよ」
クライスに謝られ、ルーノも強く出れなくなってしまった。
「なら、俺にもう用はないな。行かせてもらうぜ」
「いや、待ってくれ」
しかし、クライスに呼び止められてしまう。
「言っただろう。知人に似ていた、と。……君に、女性の家族はいないか?」
ストレートに聞かれ、思わずルーノは言葉を詰まらせた。
嘘をついてもいい。
俯いてしまったルーノの視界に、買ったばかりの花が入る。
「……妹が。だけどもう、5年も会ってない」
クライスがルーノの言葉に目を輝かせたのにも気づかない。
「妹? ……名前は?」
「……もう、いいだろ!」
声を荒げてしまってから、ルーノははっとした。
らしくもなく、動揺している。
「テメエらに妹のことを話す必要なんてねえんだよ。……もういいだろ、行かせてもらうぜ」
「待ってくれ、せめて君の名前を……」
「ルーノ! ルーノ・ファクティスだ!」
早くこの場を立ち去りたく、ルーノは吐き捨ててからクライスたちに背を向けた。
ルーノがまるで逃げるように去っていくのを見て、クライスは小首を傾げた。
「……ルーノ・ファクティスか。……ルナーは彼の妹だろうか」
ルナー・フィネライユと名乗った女性が今まであの酒場に来たことはなかったらしく、彼女のことを知る者は誰もいなかった。
数日酒場に通い詰めても進展なし。仕事の傍ら探すのにも限界がある。
だが、思いがけぬところで手がかりかもしれない人物と出会うことが出来た。
「確かに、兄妹と言われると納得できますね。……ファミリーネームが違いますけれど」
「でも、家族でファミリーネームが違うことなんて結構あるだろ?」
無邪気なシャーデンの質問に、アルトは額を押さえた。
「……確かに仲間内で家族を名乗ったり、夫婦で別姓を使うということもありますが……そこまで多い事例ではないかと」
「……いや。先の内乱で家族が離散し、別姓を使うようになっていてもおかしくはない」
アルトの言葉をクライスが否定する。
「現に、私の義妹は未だに旧姓で名乗っているではないか」
それはクライスが原因だということを、本人は知らない。
「……ともかく、アルト。彼について調べてくれないか? きっと、彼女に繋がる」
「……まあ、私も彼女のことは気になりますから、いいですけど」
渋面で、アルトは頷いた。
自宅に駆けこんだルーノは、乱暴に扉を閉めた。
「……ケッ、情けねぇ」
もう5年も前のことだというのに。
乱暴に扱ったせいか、手の中の花たちは心なしか元気をなくしているように見えた。
『行ってらっしゃい』
最期にそう微笑み、ルーノを見送った妹。
次に、ルーノが彼女に会ったとき……辺りは彼女自身の血で染まっていた。
未だに忘れることが出来ない。
忘れるつもりも、ない。
らしくもなく花を買ったからだろう。普段なら平然と流せる家族の話題に、動揺してしまったのは。
「……な、そう思うだろ?」
そう花に語りかけ、ルーノは花瓶の発掘に取り掛かった。
『私、この花が大好きなの』
妹が笑い、花を兄に差し出してきた光景が目に浮かんだ。
その花は、ルーノが今日買ったものと同じ……ガーベラだった。
花言葉は、「神秘」。
『だって、私たちが家族として生まれたのって、とっても不思議で素敵なことじゃない』