1.Hello World
その日は、とにかく疲れていた。
「その日は」は正確ではないな。3ヶ月近くもアパートに戻ってもシャワーと睡眠だけ、下手をすれば帰れない日も多かった。
しがないシステムエンジニア九年目である俺が携わっていたプロジェクトが見事なまでのデスマーチだったのだ。
だが、ようやく一区切りつき、一週間ぶりに帰宅するところだった。
……、そう過去形だ。「帰宅するところだった。」
いつも通りに改札をでた後、目の前の光景に少し感動してしまう。
「コンビニ以外の店が開いてる…!スーパーやってる…!」
しかし喜んでみたものの、駅前のスーパーは酒類を置いていないため、ビールを欲する俺はアパートまでの道にあるコンビニに寄ることにする。
「久しぶりの休みっ…!!こんなときはヤッパリ、プレミアムだな。ヱ○スもいいが、コンビニには珍しく売っているブラウマ○スターも捨てがたい…」
ビールにツマミ、明日の朝飯を買い込みコンビニを出る。
我慢出来ずに一本開けて、思い切り呷る。
「くっ…はあぁぁぁ!!五臓六腑に染み渡るわ~。あー、流石に空きっ腹には効くなぁ」
一気に飲み干した500ml缶をコンビニ備え付けのゴミ箱に放り込み、改めてアパートへの道を歩き始める。
人通りの絶えた夜道と言えど、街灯もあり五年以上も通って慣れた道、特につまづくこともなく歩いていると、「ソレ」は灯の消えたパン屋の看板の斜め下にあった。
「縦…線…??」
なんか揺らめいてはいるが、なんだこの線。
思わず呟きながら、近づき過ぎないよう警戒しながら回りこみ、観察する。
すると、どうやら厚みがほぼ無い、高さ1.7m程の銀色にゆらめく楕円であることがわかる。
「なんだこりゃ?不法投棄の鏡か?10cmくらい浮いてるしな…」
ふと自分の疲れた顔でも映るかと少しだけ近づいた時、急激に「ソレ」は様相を変える。
銀色だった表面は塗りつぶしたように黒色に、楕円でほぼ安定していた形状は不定形に蠢く。
慌ててのけぞり、後頭部に発生したズガンという衝撃と激痛に反射的にうずくまろうとする。
が、徹夜続きで弱り、久し振りにと帰りがけのコンビニで一本だけと開けた缶ビールが身体の制御を中途半端に手放させる。
前によろけ、気付いたときには謎の元楕円今不定形に突っ込んでいた。
次の瞬間、住み慣れた街から、俺の姿が消えたのだと思う。たぶん。
なんせ、その後気付いた場所は市内全域を知っているとは言い難い俺でさえ断言出来るほどに、別の場所だった。
見渡す限りの草原と森に、地平線まで続く石畳なんて関東どころか日本には無いだろう…。
黒い不定形に呑み込まれた直後から暢気に周りの景色を眺められた訳ではない。
それどころか俺はのたうちまわっていた。
「ぐっ…うぅぁああああっ!!」
手足の指先、頭頂、全身あらゆるところから何かが侵入してくる、そんなおぞましい感触があった。喰われるというより存在を塗り替えられる、そんな恐怖と全身を苛む感触に絶叫する。
数分とも数時間ともつかない苦しみの後、不意に嘘のように先程までの感触が消失する。
無意識に強く閉じていたまぶたを開けると、見渡す限りの草原と森、森に沿うように走る石畳の一本道が明るい太陽に照らされていた。
「……は?ここ…どこ?つか昼って何!!俺の貴重な休みと睡眠時間はどこ行ったああああ!」
ツッコミどころが違うと言うなかれ。三六協定を綺麗に無視した労働の前には多少の非現実的状況では太刀打ちできないのだ。
とは言え、ひとしきり喚いたあと、やはり我に返って状況を再確認すると「決定打」を見つけてしまう。
街道の西側ーー太陽の方角から類推してーー自分の位置から20mほど先に数匹のウサギを見つける。
ネザーランドドワーフのようなウサギには、体躯の三分の一程もある「角」が生えていた。