散歩
私は散歩が好きだ。
家の周囲をうろつくのが特に好きだ。
何故かって?
私が住んでる住宅団地のすぐ近くには、工業団地がある。
団地と団地に囲まれてるのが、私の住んでる地域なのだ。
私は、そこを散歩するのが大好きだ。
見える景色や、感じる世界。
それら全てが、まったく異なった世界。
私はその世界を散歩するのだ。
機械音と、トラックが荷を降ろす時のガタガタ音。
男たちの勇ましい声と、力強い笑顔。
それらに囲まれた、私の散歩コース。
私は散歩が好きだ。
好きだから、毎日のように散歩をする。
毎日散歩するから、回るコースもいつも一緒だ。
だけど、景色は同じでもそこを流れる時間はいつも違う。
だから、毎日一緒のものは無い。
無いはずなのである。
しかし、私は見つけた。
同じもの。
変わらぬもの。
そこにあり続けるもの。
それは、公園の一角にある。いや、いる。
近所の公園は、疲れ果て、「久々の」休みという心の安寧を目指して働いている男たちが、羽根を休める場所になっている。
私が散歩する時間帯には、色々な男たちが、汚れた作業着を着て、各々休んでいる。
話している人。
寝ている人。
本を読んでいる人もいる。
様々な人が、各々の時間を過ごしている。
毎日散歩していれば、そこで休んでいる人の顔も覚える。
この人は、昨日あれをしていた人だな、という具合に。
だけど、さっきも言った通り、同じ人はいない。
前日と同じく話している人がいても、それをまったく同じ光景だとは思わない。
その人に出会ったのは、そんな変化を楽しんでいた時。
私が公園前の通りをのんびり歩いて、心の中で「ご苦労様です」と呟いていた時、ベンチに座るおじさんを見つけたのだ。
その段階で、面白いなと感じた。
目。
目が、他の人とは違っていた。
公園にいる男たちは、みんな明るいけれど、目の中にかげりがあった。
表情に影が差したようになってる人もいた。
でもそのおじさんの目は、強い光を放っているように見えた。
ボーっとしているだけなのに、何故だか目だけはぎらぎらしていて、何だか疑問に思った。
その日は、そのまま通りすぎたのだけど、次の日も、その次の日も、さらにその次の日も、おじさんは変わらずにそこにいて、同じ目をしていた。
私は、なんだかそれが凄く気になって、無性におじさんに問いかけたくなった。
「どうしてそんなにぎらぎらしてるんですか?」
という具合に。
機会を見つけて、訊こう訊こうと思いながら、一週間が過ぎた。
流石に、一週間も過ぎれば変わるだろうと思ったけれど、おじさんは毎日変わらずベンチに座り、毎日同じ目をしていた。
私は覚悟を決めて、公園の中に足を踏み入れた。
男たちの視線が、私に向けられる。
嫌な視線ではない。
いやらしいわけでもない。
朝から昼まで、脂で顔をてからせ、汗で体を汚しながら働いている男たちが、心を休め、それぞれの時間を過ごせる場所になっているのである。
この時間帯の公園は、作業着の男たちの聖域なのだ。
そこに、知らない女子が足を踏み入れた。
彼らからしてみれば、私は村に紛れ込んだ旅人なのである。
視線を気にしつつも、それを表に出さないように気取って歩きながら、私はおじさんが座るベンチに向かい、その隣に座った。
「お隣いいですか?」
「もう座ってるじゃねえかよ」
口調は乱暴だか、悪意は感じない。
「そうですね、確かに」
私が立ちあがり、もう一度同じことを言おうとすると、おじさんはめんどくさそうに「いいよいいよ」と言った。
私はあらためておじさんの横に座り、じっと黙っていた。
「おい」
「はい?」
「なんだよ」
「なんでしょう?」
私はおじさんにけろりとした調子で応える。
「お嬢ちゃん変わってるな。それとも、今時の若い奴ってのはみんなそうなのか?」
おじさんは呆れたように顎をさすりながら言った。
「今時の若い子は、ここらを散歩しようなんて考えないと思いますよ。自分で言うのもアレですけど」
私は、素直に思っていることを口にしたのだけど、おじさんは何故だかおかしそうに笑った。
「珍しいな」
「珍しいですか?」
「ああ、珍しい。だって、今時っていうとみんながみんな一緒のものを求める時代だろ? 嬢ちゃんみたいに、違うってのを平気で言えるのは面白いさ」
おじさんの顔が厳しいものから穏やかなものに変わった。私は、訊くなら今だと思って、おじさんに質問をぶつけてみた。
「私、毎日この公園の前を通ってたんです」
「そうなのか。全然気付かなかったよ」
「それでですね、私、おじさんの目がずっと気になってたんです」
「目?」
おじさんは困ったような、疑うような顔をした。いきなり直球過ぎたただろうか。
「別に、目が気になるから目が欲しいとかいうサイコキラー的な意味では無くてですね」
「サイコ?」
おじさんはもっと困った顔になる。
「とにかくですね、私は、おじさんのぎらぎらした目が気になってたんです」
「ぎらぎら……」
「そうです。ここにいる人たちは、みんな明るくて活発なおじさんばかりですけど、おじさんは違ってました」
「違う? そんな風に考えたこたぁないけどな」
私は、周囲を見渡す。
私への興味は薄れたのか、みんなそれぞれ思い思いのことをしている。
「おじさんの目は、ここにないものを見ているように思えたんです。もっと遠くを見ているような、そんな目」
おじさんは、困った顔のまま私の話を聞いている。
「私、この周辺の景色が好きなんです。そこにあるもの、そこに流れる時間、他にない面白さがここにはある」
私は立ちあがり、公園から見える工場を見つめた。おじさんも、私と一緒にその景色を見つめた。
「当たり前に工場があって、公園にいけば同じ時間に同じ人たちがいて。だけど、そこにあるものはちょっとずつ違って。それが凄く面白いんです」
「お嬢ちゃんは、そんな風にこの景色を見てたんだな」
「おじさんは、どんな風に見ているんですか?」
私の問いに、おじさんは少しだけ沈黙した。
砂浜の所に座っているおじさんの笑い声が響く。
ここにはおじさんがいっぱい。
なんだか、言葉にしてみると、ややこしい。
「変わらない」
私がぼんやりと考えていると、おじさんは静かにそう言った。
「変わらねぇなぁと思いながら、見てるよ」
「変わらない……ですか」
「悪い意味じゃねえよ」
おじさんは少し肩を落として、笑う。
「俺は、もう死ぬだけだ。ここまで生ききった感じはあるし、未練はない。散々やんちゃしてきたから、学歴は散々だし、ムショに入ったことまである。何度も俺は終わっちまったと思った。だけど、こうして働いてる」
ムショ。
刑務所。
犯罪者が入る所。
でも、その話を聞いても、私はおじさんを恐いとは思わなかった。
何故だか分からないけど。
「結局、自分がどう思うかだ。俺は、傷持ちだが、こうして働かせてもらってる。ただ、世の中から見れば終わってるんだ」
「そんなことは……」
「ある」
私の言葉を否定するおじさんの声は力強かった。
悲しい位に。
「お嬢ちゃんも、時々自分のいる所を確認したほうがいい。完全に堕ちちまわなければ、始めようはあるんだからな」
おじさんは、明るくそう言った。
だけど、どうしてそんなに明るくしゃべれるのか、私には分からない。
重い話なのに。
おじさんにとって辛いことのはずなのに。
「お嬢ちゃんは、俺の目が、ぎらぎらしてるって言ってたな」
「はい」
「そりゃあ多分、後は死ぬだけだって俺が思ってるからだな。何かに期待してないし、何かを欲しいとも思わない。ただ、今を生きて、死ぬだけ。そう思ってるから」
死。
私が感じた力強さとは正反対に思える感情。
おじさんは、それが目の中にある力強さの源だと言う。
何故?
「俺の場合は、死ってだけだ」
おじさんは私の疑問に答えるかのように、言った。
「お嬢ちゃんにとって、多分違うもんだろう。さっき言ったが、落ちちまえば、そこから再スタートしなくちゃいけない。そりゃあ損だ。俺はその損をした。だから、一生のうちに走れる距離ってのは他の人にくらべりゃあ短い」
「でも、再スタートしようって気持ちがあれば」
「世の中そんなに甘くないんだよ、嬢ちゃん」
私は、言い返せなかった。
生きている時間も、人生の密度も、おじさんは私とは比べ物にならないくらい経験しているのだから。
「俺は、死に向かって全力で走ってる。死にたいわけじゃないがね」
おじさんは、私を見つめた。
あの、ぎらぎらと力強い目で。
「ゴールってたどり着いたら終いだろ。俺らが終いになるのは死ぬ時だ。じゃあ、死ぬのがゴールだろ? それなら、死にそうになるくらい走ったほうがいい。で、疲れちまったら、後はゴールまでゆっくり歩くだけだ」
「なるほど」
納得できたかもしれない。
つまり、おじさんはもうゴールまで歩くだけなのだ。
この先進む上での不安もない。
現状への不満もない。
ただ、ゆっくりおじさんが定めているゴールまで歩くだけ。
私が感じた力強さは、色々ある面倒なことから解放されたおじさんの、命の力強さだったのかもしれない。
「納得できたか?」
「ええ。自己解釈なので、あってるかどうかは分かりませんが」
「どんな解釈だ?」
「教えません。だって、都合のいい解釈したのに、それを覆されたら面白くないですから」
私は、おじさんにけろりとした調子で言う。
おじさんはそんな私の言葉を聞いて、笑った。
今日も私は散歩する。
私は散歩が好きだ。
家の周囲をうろつくのが特に好きだ。
何故かって?
私が住んでる住宅団地のすぐ近くには、工業団地がある。
団地と団地に囲まれてるのが、私の住んでる地域なのだ。
私は、そこを散歩するのが大好きだ。
見える景色や、感じる世界。
それら全てが、まったく異なった世界。
私はその世界を散歩するのだ。
機械音と、トラックが荷を降ろす時のガタガタ音。
男たちの勇ましい声と、力強い笑顔。
そして、おじさんのぎらぎらとした目。
私は、散歩が大好きだ。